第十二話 絲々の記憶

[ Memory Of The Rain ]


 雨が、(さなが)らトランポリンで遊ぶ子どものように、濃藍(ネイビー)の傘に当たって飛び跳ねる。だが肌に触れれば刺すような冷たさが襲ってくるのは想像に難くなかった。冬の雨は凶器だ。態々、濡れたくはない。
 十二月(しわす)も中旬に差し掛かっていた。夜半を過ぎた刻限ともなれば、寒気は一層厳しい。本当ならベッドに入り、布団に包まって夢を見るのが正解なのだろうに。
 ――…一人の少年が、雨の中、遮るものもなく、野晒しにされて倒れていた。
 佇んで、それを見る。躰の周りがどす黒いのは、どこかにある傷から溢れる血が雨に流されている所為だろう。頬が紫色に腫れているのは、誰かに激しく殴打されたからだろう。
 呻きもしない。身動ぐこともない。表情は抜け落ちたようになく、ただその蒼褪めた顔色と地面に滲む血が、彼の最悪の体調と状況を表していた。
 不意に、傘を取り落とした。瞬間、雨がそれまでの無邪気さを捨てて躰を打つ。髪に、服に、染み込み、体温を奪って冷える。
 寒い。思って、でも、手を伸ばしたのは傘ではなく。
『…と、…やっと…――』
 血と泥で汚れた少年に触れ、掻き抱く。
『――……!』
 声と表情に滲むのは、確かに、歓喜だった。


 薄汚れた白と雑多な薬品の臭いが、其処彼処に溢れていた。目に付く、鼻を突く。好かないそれらに囲まれて、それでも征はそこにいた。
 点滴に繋がれ、昏々と眠り続ける光樹の傍に。
「………」
 項垂れている風にも見える征の背中を、壁に凭れかかって大輝は見ていた。じっと見続けてかれこれ十分ほども経っただろうか。なのに、視線の先の征は石像のようにぴくりとも動かない。光樹の手を握り、奇跡を願う敬虔な信者のごとく、目を瞑って世界を遮断し続けている。
「………」
 声を掛けるのは躊躇われた。この静寂の十分間で何度目かの口を開いては閉じるという動作をまた繰り返し、諦めて、ひそりと息を吐く。
 別に、伝える言葉を持つわけではなかった。征の代役として大輝が医者から聞いたのは、兎に角今は安静にしておくこと。要は静かに眠らせておけというだけのことだった。それを言わずとも、薬を投与されて眠りに着いた光樹には関係のないことだ。翌朝にならねば、光樹は目を覚まさない。
「………」
 ふと、時計を見た。分針はまだ午後六時を中程もいかない。その時間を目視して、次に征の向こう側の光樹を見た。覚えた違和感は、ずばり光樹の寝姿だ。こんな時間に、彼が寝ているなんて。
(……なんだってんだ)
 苦く心に吐き捨てて、大輝はすっと光樹から目を逸らし、所々黒ずむリノリウムの床の上に視線を放って事の発端を思い返す。…そう、確か。
『―――何してる、光樹!』
 一服している時に、そんな征の声を聞いたのだ。悲鳴に似て、絶叫のような。反射的に躰が動いていた。カップを投げ出すようにして部屋を出て、声のする方へ走った。
『光樹、光樹!!
 声を辿ると、仕事をするからと二階に行ったはずの征が何故か外にいて、そこは確か、光樹が家庭菜園を作っているという場所だった。
 そう言えば見たことがなかったな、と思って、何故、光樹は征の腕の中でぐったりしているのだろうと思って。
(そして…――)
 そして。
『―――なにぼうっとしてるんです、車を回してください!』
 最後に到着したテツヤの叱咤がなければ、きっと誰も動けなかった。征が常になく心を乱している姿に呆気にとられ、動かない光樹に何があったのかと知りたいような、知りたくないような、そんな両極端(あやふや)な気持ちに左右されて近付けないまま、固まったままでいただろう。
(…倒れていただけなら、そうはならなかった)
 そうして思い出したあの場面(ワンシーン)に、視線がまた光樹へと移動しかけた、その時。
  ―――…トン
 軽く、窓を叩く音がした。それは大輝が窓を見るより早く、不規則に、そして量と音を増して、ザアザアと世界を包んだ。
(…雨か)
 見ている間にも、雨粒は大きくなり、硝子の表面に張り付いては重力に従って落ちる。窓の外の夜が、硝子に映る室内が、どろどろに混じって溶ける様を漠然と見ていると。
「雨…」
 それまでどの音にも反応しなかった征が、ふらりと顔を上げて、大輝と同じ窓を見た。微かに見える横顔は元々の白さを考えても血の気が失せたように蒼白で、いつもは鋭い眼光も、今は霞んだように色がない。
「赤司…?」
 怖怖と、呼んだ。征はそれに気付かなかったように、いや、そこに大輝がいることさえ分かっているのかどうかも不安な様子で、睫毛を震わせ、影を顔に落としながら。
「……この子を拾ったのも、雨の日だった…」
 滴る雨音に似た声が、辛苦を裏に潜ませて吐き出される。その様子は、まるで、言うことすら罪悪のよう。大輝は怪訝に思いながら、誰かから聞いた情報を漏らす。
「…傷だらけだったってな」
 そろりと視線を動かせば、征が握る方の、光樹の左手に巻かれた包帯が目を引く。真新しいはずのそれは、しかし既に一部が赤黒く変色していた。思わず眉根を寄せる。自然と意識があの一瞬を思い返そうとして。
「―――だがこんな傷じゃなかった! こんな、傷では…!」
 突如荒げられた声に驚き、顔を上げて征を見た。絶望を滲ませた表情で、震える指先が光樹の手の甲を頼りなげに擦り、そっと額が押し当てられる。縋るような、許しを請うようなその姿。記憶のどこにもない征のそんな姿に大輝は問う言葉すら失って、寄り添うこともできず、ただそこに立ち竦んだ。なんだってんだ、と、また苦く思った時。
「可哀想に、可哀想に…っ」
 征の押し殺した哭き声が病室に響く。そして。
…――」
 続いたその言葉に、大輝は耳を疑った。僅かに強くなった雨音が、煩わしいと、思った。


『……誰?』
 か細い、掠れた声が誰何したのは、拾って一週間以上経った日の、午前八時だった。
 それまで傷と風邪による発熱で意識もなく寝込んでいたのが嘘のように、固く閉ざされていた瞼から琥珀の双眸が覗き、朝陽に照らされてとろりと光る。
 彼が征を見ていた。征は固唾を呑んで、彼を、見ていた。
 生きていたのも、いつか目を覚ますのも、分かっていたのに。
『アンタは…。ここ、は…』
 覚悟が、できていなかったのだろう。前触れもなく目覚めた彼に、心臓が不自然なほど高鳴っていた。唇が戦慄いて、上手く笑えない。だがなんとか表情を作って。
『…僕はセ…、…征十郎。赤司、征十郎だ。ここは僕の借りているマンションの一室。…君は公園で倒れてたんだ。何か、覚えてる?』
『俺が…? 俺…、おれ、は…――』
 ―――記憶がないのだと、直ぐに、知れた。
 家族も、家の場所も、年齢も、誕生日も、出身地も、それまでの生活も、友達も、名前すら、彼の中から消え失せていた。
(彼の中に辛うじて残っていたのは、吸血鬼としての自覚と性質のみだった)
 まさかの事態に驚いて、愕然として――…あぁ、けれど。
『…じゃあ、名前を…、…僕が君に、名前をあげる』
 ふと、思ってしまった。ならば、だとしたら。
『君は…』
 自分が全てを与えようと。
『―――君の名は、光樹だ』
 自分が、彼の全てになろうと。
 記憶喪失は好都合(ラッキー)だった。予期せぬ天の配剤(ギフト)だと、思った。


「馬鹿なことを、馬鹿なことを、馬鹿なことを…――!!
 慟哭する征は、先ほどまでの弱さを捨てて手繰り寄せた光樹の手を力の限り握り締めていた。ともすれば光樹の肌を傷付けてしまいかねないほどの力に、大輝は咄嗟に征の指を引き剥がして庇う。代わりに、大輝の手に征の爪が食い込んだ。加減を忘れた遠慮ない痛みが走る。肌を破り、血が流れる。征がそれに、耐える大輝に気付いた風はなく、絶叫になりきれない声が雨音を掻き消して床に吐き捨てられた。
「思ってはいけなかった、実行してはいけなかった…っ、正直に、最初から彼を彼として認識させ、扱えばよかったんだ!」
「赤司…ッ」
「記憶喪失を絶好の機会(チャンス)だと勘違いしてはいけなかった、ましてそれを利用するなんて、あってはならなかったのに…!」
 大輝の呼び声を無視して食い縛る唇から漏れた声は酷く掠れて、その所為で一層増した悲惨さが耳に心に突き刺さって痛い。それ以上聞いていたくないと思って、だから。
「赤司! もういい、もう…!」
 言わせまいと、声を張り上げたのに。
「よくない!!
 征が大輝に翳った紅玉髄(カーネリアン)虹彩(アイリス)を向け、言葉を掻っ攫って言い縋る。
「僕はこの子を拾った時に誓ったんだ!」
 二度と傷付けない。絶対に笑顔を取り戻す。失った時間以上の倖せを、与えてやれればいいと。
「なのに何故…!」
 何故それが成し得ない―――。
『―――何してる、光樹!』
 あの時、そう叫ぶ直前、征は二階の私室で電話を掛けていた。以前、そこの窓から菜園が見えると知ってから、窓際が電話を掛ける定位置になっていた。光樹がいるかもしれないと、いつも何気なく見ていた。
 それが幸いだった。そして、二階の窓から飛び降りても怪我をしない躰であったことが、何よりの幸運だった。
『光樹!!
 引き攣った、無様な悲鳴。自分のその声がまだ耳にこびり付いて離れない。駆け寄って見た光景を思い出し、遣り切れない後悔に胸が千々に裂けそうだった。
 分かっていた。危惧していた。だがここ最近は安定していて、家を空けても無事だった。そんな素振りはなかった。だから気を抜いていた。もう、大丈夫だと。
「治ったと思ったのに…ッ」
 光樹は園芸用(ガーデニング)の鋏で自分の腕を深く切り付けていた。いつかの、盈月(えいげつ)の夜のように。
「僕の所為だ、僕が壊したんだ! 僕が、光樹を…!」
「―――落ち着け赤司!!
「っ…、だい、き…」
 雷鳴のような叱責に、やっと征の瞳に正気の色が戻る。それを見て、微かに安堵しながらも、大輝は厳しい表情を崩さなかった。
 大輝には征の独白の大部分を理解することができなかった。半分も、分からなかった。しかし、大まかに征が過去における何かに追い詰められていることは飲み込めた。それで苦しんでいるのだと。それが今回の事態を招いたのだと思い込んでいることも。
 例えそれが正しいのだとして、そうだとしても。
「お前の所為じゃねぇ。お前が、悪いんじゃねぇよ」
「でも…ッ」
 言い聞かせて、反論しようとする征を強く、頭も抱え込んで抱き竦める。そうして征の反駁を封じれば、征が躰を固くして息を呑んだ気配があった。それに少し、笑いながら。
「…取り敢えず今は、光樹を静かに寝かせてやろうぜ」
 な?、と諭すと、やっと眠る光樹の存在に思い至ったようで、少しの後、腕の中でこくりと子どものように頷く感触。それにまた笑みを深めた大輝は。
「お前は一回帰れ。その間に俺が病院に泊まれるよう、話つけとくから」
 そっと征の躰を離し、絹糸(シルク)に似た手触りの赤髪を梳く。それはいつか、宥める時、慰める時に、彼がしてくれたこと。その時の自分のように子ども扱いしすぎだと怒るだろうかと懸念したが、そんなことはなく。
「…うん…、…ごめん…」
 ありがとう…――。
 微かに聞こえた声と零された微笑に、大輝は一瞬固まった後のち、困ったように笑って、梳いていた手をそっと下ろした。指の震えは、握り締めることで殺された。


 車の鍵を渡して征を見送った大輝は、院内に戻ってナースステーションに寄り、宿泊の許可を得た。取り付けるまでに征に付けられた傷を目敏く見付けられ、説明を要求された上に手当を受けるという出来事(アクシデント)で時間を食ったのは、予想外だったが。
(しっかし、レンタカー借りててよかったぜ…)
 流石に買うまでには至らなかったものの、人数が増え、しかも過半数が百八十センチを超えるために、今までのようにタクシーでは色々と足りないと考えた征が先日月極で借りてきたところだった。タクシーを待っていたのでは、光樹の手当は遅れたかもしれない。
 まったく運がよかったと嘆息し、光樹の病室に辿り着いてドアノブに手を掛けた大輝は、不意に耳を澄ませて顔を顰めた。
(音が大きい…。雨脚が強くなったのか。スリップなんかしなきゃいいけど)
 その心配が甚だ方向違いだと知るのは、ドアを開けて直ぐのことだった。
「な…――」
 寝ている光樹のために最小限に押さえていた照明でも、窓硝子に身をぶつけて散っていたはずの雨粒が、室内の床に潴溜(みずたまり)を作っているのがよく見えた。…それもそのはずだ。
 閉まっていたはずの窓が、夜を迎え入れるように大きく開いていた。さっと視線を走らせて見た先のベッドは、蛻の殻になっていた。


 荒れた廃屋。崩れ落ちそうな壁に、剥き出しの地面。隙間から風や雨が吹き込む中。
「…捕まえた…? …そうか、それで……」
 カサリとした秋風のような、身を切る鎌鼬にも似た声が、それらの音に混じる。
「記憶、が…?」
 夜は時の歩みと共に深まっていく。
「……なら、ここよりあそこへ連れて行け…」
 雨はまだ、降り続いていた。


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