第十一話 リトル・オルター・ボーイ

[ Little Alter Boy ]


 凩が窓硝子を強打する。その音に気を取られて窓を見た光樹は、揺れる樹々の葉擦れや吹き荒ぶ風音(かざね)の中に、他の音が混じっているのに気が付いた。これは…、車の排気音か。
(帰ってきたのか)
 視線を戻し、読みかけの本の(ページ)栞紐(スピン)を挟んで閉じる。寝椅子(カウチ)から立ち上がり、部屋を出て階下に行けば、丁度玄関(エントランス)の扉が開いたところだった。
「ただいま、光樹。一人でちゃんと留守番はできたかい?」
 外気の冷たさを纏って、いの一番に入ってきたのは征だった。買い物に出かけたはずなのに、その手には何もない。そんな征のに呆れながら、光樹は唇を尖らせて返す。
「お帰り。って言うか、子ども扱いすんな」
 言い捨てて、征の代わりに頑張っているだろう他の子ども達の手伝いをと、征の脇を通り抜けて外に出ようとした時、征が赤みの差した両手を伸ばして光樹の頬に触れてきた。その指先の温度に、驚く。
「うわ、冷たいな」
 窓越しに聞いた秋風の厳しさを頬に直接感じて、光樹は琥珀の瞳を瞬かせた。まだ暦上は秋口なのに、季節は予想以上に冬に近付いていたらしい。
「そう、外は寒いんだ。だから出るのは止めた方がいい。今の君の格好は適さないよ」
 征に指摘され、光樹はむぐと詰まる。確かに薄手のカーディガンを羽織っただけの格好では、風邪の餌食になりかねない。
「君の気持ちは立派だけどね、光樹、彼等に任せて大人しくしておいで。ね?」
 重ねて言われ、少しの間、むー、と唸って迷う仕草を見せた光樹も、征の折れない視線に、とうとう「分かった…」と降参した。征がそう言うのは自分を心配してのことだと、よくよく知っているからだ。
 征は光樹が渋々ながらも頷いたのを見て微笑し、頬に触れていた指を今度は光樹の短い髪に滑らせた。素直な子でよかったと思う。だからこそ、機嫌の取り方も楽なのだが。
「それじゃあ光樹、テツヤ達が頑張る間に、一緒にお茶の準備をしようか」
「え、ほんとっ?」
 征の提案に、一転、光樹は声を弾ませて喜んだ。以前、光樹のうっかりを知らない大輝達と朝食の準備中に大皿を割って以来、立入だった厨房(キッチン)に入れるのが相当嬉しいらしい。征の気が変わる前にと、早速厨房(キッチン)に向かう光樹の足取りは軽やかだった。
 征はその背中が消えるまでを見届けて、消えた後、冷たいまでの無表情を取り戻した。正直、食器や家具程度なら、何を壊されようと、手間が掛かるだけで征の懐が痛むことはない。その上、征は光樹の「家の手伝いをしたい」という願いを痛いほど理解していた。それでも征が光樹から家事をする権利を根刮(ねこそ)ぎ取り上げているのは、光樹が独り立ちなどしないようにと、その覚悟を持たないようにと、ただそれだけのためだった。
 征には分かっていた。その手段が見付かれば、自活していく自信さえ付けば、光樹は征から離れていくだろう。それを些かも躊躇わないことを、哀しいほど、知っていた。
「…何故君は、僕と一緒に生きようとしてくれないのかな」
 守っていく覚悟はあるのに。大事にする自信はあるのに。光樹はただ享受する道を頑なに拒んで、飛び立とうと藻掻いている。空に焦がれる、鳥のように。
「一緒にいるだけでいい、好きなだけで、いい…。そう言ったのは、君なのにね、光樹…」
「征ー? …どこ行った…?」
 独白を遮って、どこからか届く光樹の声。朗らかで無垢で、春の如く温かな。耳にして、ほろりと征の冷えた無表情が溶け消える。雪解けのように、柔らかく。
「…今行くよ」
 声を張って返し、征は独りの世界を捨てて足早に光樹の許へと向かった。顔は綻んで、もう深刻な雰囲気は少しもない。だが心の奥に蟠る影は依然としてそこにあった。
 それは、光樹と出会うより、ずっと前から。


 テツヤ達が荷物を運び終えたのは、冬特有の、落陽の色濃い八つ時だった。征はまだ仕事があると言い、光樹も菜園の世話があるからと断って、結局、テツヤ達五人だけが客間(ラウンジ)に集まり、敦が選んだ吉備団子を摘みながら銘々に光樹と征が淹れた珈琲を啜る。
 涼太も無作為に選んだ珈琲を飲もうとして、ふと酪漿(ミルク)を加えて飴色に移ろうカップの表面をまんじりと見た。彼の、光樹の色だとぼんやりと思い、次いで。
『…――俺の方こそ、ごめんな』
 いつかの朝を、思い出した。
 はじめは聞き間違いかと疑った。だが目の前で揺れる双眸や、震える微笑を見間違えるはずはなく、だからこそ、真実(ほんとう)なのだと分かってしまった。
(…聞いちゃ、いけなかったんだ)
 あの言葉はただ彼の中でのみ、消化されるべきものだった。…あぁ、それは。
(あの涙も、そうだったろうに…――)
 最初の邂逅。感情の赴くまま、征が自分達の許に帰ってこないのはお前の所為だと罵った。光樹は涼太の言葉に反論などせず、その代わりにたった一粒、流れた涙。
 その意味を涼太は知らない。怒声に耐えられなかったのか、或いは他に何か、思うところがあったのか。
(分からない…。寧ろ、分かっていることなんか殆どない)
 光樹と出会って数週間あまり。ぽつぽつと個人的な話をすることもあったが、根掘り葉掘りと言うわけではなかった。光樹よりも征が、それを嫌ったのだ。
『光樹は記憶を失くしている。理由は分からないが、失くすほどの衝撃(ショック)を受けたのは現状から明らかだ。過去を詮索して、徒に傷付いた心を刺激するな』
 その物言いは鋭く、眇められた目は怖かった。だが、征の言葉も尤もだった。
 涼太はもう、光樹が静かに泣く姿も、薄氷(うすらい)のような脆い笑顔を浮かべる姿も、見たくはなかった。何故かと問われればよく分からない。そう願う気持ちが、何と言うのかなんて。
 ただ、光樹に好意を寄せている自覚はあった。それは涼太だけではなく、他の四人もそうらしい。言葉には滅多に表れないが、光樹を見る目付きは往々にして優しかった。光樹には他人に愛着を抱かせる魅力(ちから)がある。それは、征の持つカリスマ性に、どこか似て。
(――…それでも、だ)
 涼太は深く、息を吐く。臓腑から何か塊を、呼気に混ぜて吐き出すように。
(しこ)りが…、違和感が、なくならない…――)
 警戒心、猜疑心、不透明感。ふとした瞬間、そう言ったものが心の奥底から(あぶく)のように浮かび上がる。そして、誰に問うでもなく、思うのだ。
光樹(かれ)は、何者(だれ)だ)
 涼太は不思議だった。ずっと不思議に思っていた。同胞に無関心な征が光樹を助けるばかりか、養っていること、そして国に帰ろうとしないことが、不思議でならなかった。
(他の仲間とどう違う? 何故国に帰らない。嘗て、俺達の時は一緒に海を渡ったのに。そうして、あの館に落ち着いたのに)
 光樹を連れ帰ることが何故できない。そうすれば、自分達が日本(ここ)まで来ることはなかった。「約束」を、破ってまで―――。
「―――黄瀬」
「…ん?」
 呼ばれたことに気付き、一拍遅れて顔を上げた。声を掛けた大輝に顔を固定しながらも視線で周りを見渡せば、四人の顔が一様に自分を向いていた。
「何? どうしたんスか?」
「それはこっちの台詞なのだよ」
「ボーッとしたり、怖い顔したり。大丈夫ー?」
「どこか躰の調子でも悪いんですか?」
「あはは、大丈夫っス。なんもないっスよ」
 涼太はいつものように笑って誤魔化した。四人に胸に渦巻く疑問を語る気はさらさらなかった。言ってギクシャクするのは嫌だったし、何より、結局涼太は光樹が好きだった。
(だからいい。…これで、いい)
 会話が元通りに流れ始めたのを見届けて、すっかり微温った珈琲を呷る。味は分からなかった。ただ苦味が喉を通り抜けて。
(―――光樹(かれ)は、何者(だれ)だ)
 心に強く残るその疑惑(ことば)の残滓も共に、涼太はごくりと飲み干した。


 征に言われるまま着込んで、外に出た。最初は寒冷に縮み上がっていた躰も菜園の世話をすれば解れ、今では却って暑い。少し躊躇った後、光樹は上着を脱ぎ捨てた。
 冷えきった風が、心地いい。汗ばんだ肌が冷やされて、体温が徐々に落ち着いていく。細く息を吐き出しながら、光樹は橙から紺に移り変わる空を見た。
 綺麗だった。自分の視界を額縁に、少しの色の濃淡で織り成される自然の絵画。風が強いから雲の流れも早く、一瞬後にも、同じ景色は望めない。
 それは少し残念で、でも、それでいいと思った。
(ずっと同じである必要はない。変わっていい。変わらなきゃ…)
 征と自分の、関係のように―――そう強く思ったのは、涼太と出会った時だった。
『アンタがいるからッ…――!』
 言われて、気付いた。気付いてしまえば、こんな滑稽なことはないと笑いそうになった。
 あの頃の光樹は征に甘えていた。正確に言うと、征のに甘えていたのだ。
 光樹は自惚れではなく、確かに、正しく、征の望みを理解していた。征は光樹を手放さないという自信があったのだ。
(何故そこまで征が行き倒れの自分を求めてくれたのかは分からない。けれど、それほど望まれていると信じられるのは倖せで、…そして、嬉しかった)
 真っ直ぐな愛情を向けられるのは心地よかった。それを許される存在であることが、誇らしかった。…だから。
(それもいいかと…、今のままでいいかもしれないと、思って、しまった)
 征の囲う腕の中で生き続ける人生(みち)も、あるのかもしれないと。
(馬鹿な。そんなの、だって、有り得ないのに!)
 征の愛情に気付いていたように、征には既に光樹のような存在がいることも気付いていた。年下への手慣れた扱い。手の掛かる子どものような誰かが、傍にいたはずと。
(垣間見る度に覚えた胸の(つか)え…。あれは嫉妬だ。間違いなく、俺は涼太達に嫉妬してた)
 自覚はなかった。自覚なんてしたくなかった。涼太達に出会いたくなんてなかった。
(―――自分の罪に、気付きたくなかった)
 彼等から家族を、笑顔を、団欒を奪ったんだと、知りたくなんて。
(俺が、俺が…!!
 家族のいない寂しさを、誰より、自分が、分かってたのに――…。
「―――何してる、光樹!」
「……せい?」
 緩慢に、声のした方を向く。上着も着ず、室内着だけの征が、足早に、ほぼ走っているのと変わらない速度で光樹に近付いてきていた。
 それを光樹は、潤む世界に、見ていた。
(なんで、滲んでるんだろう…。なんか、くらくら、する…。寒い…、…さむ…)
 あぁ、上着を着なければ。
 ようやっとそこに思い至って、けれど、現実にそれをすることはできなかった。


 光樹、と征の焦った声を、どこか遠く、それでいて近く、耳にした。夢の淵に揺蕩いながら、現の声を聞くように。
(あぁ、けれど…)
 微温湯の夢はもう終わり。もう二度と見られない。見ることを、諦めたから。
「征…、せい…」
 譫言のように征を呼び。
「ごめんなぁ」
 そう言って。
「おれだけ、しあわせになるわけにはいかないんだ」
 光樹は静かに啜り泣いた。
 子どものように、泣き続けた。


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