第九話 ハニー・トラップ

[ Honey Trap ]


 あ、昼だ、と光樹がふと顔を上げたのは、居間(リビング)振り子時計(ホールクロック)鐘音(ベル)の低音が、心地よく風に乗って耳に届いたからだ。その時、光樹は外で菜園の世話をしていた。
 菜園はここに越して来てから始めたもので、規模は小さくまだ然程植わってないが、時間を忘れて没頭するほど、今や土弄りは光樹の日課となり、主な暇潰しとなっていた。
 それまでの光樹の暇潰しと言えば、読書かテレビの視聴かの二択だった。パソコンならどちらも兼ねていると征に勧められたが、いくら習っても操作方法に慣れず、また頭痛や目の霞みやら体質に馴染まずと、結局有耶無耶のうちに止めてしまった。そうなると、自然、二つの選択肢に立ち返ることになる。暫くはそれでよかった。が、この城に引っ越してから、本の入手について問題が出てきた。今二人は山中に居を構えているということで、単純な話、前ほど容易に本が手に入らないのだ。
(街に行くのに時間掛かるし、持って帰れる量も高が知れてるし、通販っていう手も考えたんだけど…、無理な話だよなぁ)
 と言うのも、彼等が棲む、異国情緒溢れる城館(いえ)が理由だった。ここに引っ越して来た際、タクシーを城門(ゲート)よりかなり前で返した征の心が、今の光樹には理解できる。
(絶対、目立つ。…しかも、悪い意味で)
 見た目はただ厳かでド派手という印象はこれっぽっちもないが、それでも日本では珍しい物件に違いない。通販などして配達に来られて、噂になっても困るのだ。
 そんなこんなで、この際何か別のことがしたいと光樹は征に相談を持ちかけ、話し合った結果出た案が、家庭菜園だった。
 光樹としては、家事とかバイトとかの方面に話を持って行きたかったのだが、それとなく切り出す前に「因みに」と半眼の征に切り込まれ、家事は鰾膠(にべ)もなく却下された上に、バイトは「こんな山から麓まで通うとか、本気で言ってるの?」との言葉に負けて諦めた。
 概ね予想していた通りとは言え、それにしてもと、光樹は沁々と溜息を吐く。
(どうも最近、前より自立心が欠けていけない)
 征の所に居候として厄介になってからそろそろ年が一巡するというのに、光樹は征のために何かした覚えもなければ、独り立ちできそうな技術もまだ習得していなかった。していることは暇潰しの数々(オンパレード)で、一体自分はどれだけ征に甘えているのだろうと、嫌になる。
「この野菜作りだって、上手くいくか分かんないし…」
 なんだかなぁ、と唇を尖らせて指先でちょんと葉を突付いた光樹は、また一つ溜息を零して立ち上がった。兎に角今は昼食だと、気持ちを切り替えて玄関(エントランス)へと足を向ける。
 菜園は日当たりのよさを第一に考えて、本館を回り込んだ、周りが背の低い植木ばかりの所に作ってあった。玄関(エントランス)から徒歩で五分と少々遠いが、散歩だと思えばそう苦ではないし、自然に恵まれた環境の所為か、空気もよく、また溢れんばかりの樹々や見たこともない花、木の枝で休む様々な鳥に草叢を駆ける虫など、毎日見ても飽きなかった。
 まったく問題がないとも言えないが、それでもいい場所に来たと思う。いつもなら引っ越した後は寝込みがちな光樹も、今回はそんな様子もなく、征も驚いていた。もしかすると、今までは都会の空気が合わなかったのかもしれない。
 しかし、光樹には一つ、気になっていることがあった。
(なんとなく、この雰囲気、こんな場所を、知ってる気がするんだよな…)
 それを光樹は征に黙ったままでいたが、越して来た時から、何かにつけて懐かしさのようなものを感じていた。思い出す昔など自分にはないのに、その想いは嫌に強い。
(ここにいれば、いつか自分の素性を思い出すんだろうか)
 それを嘗ては切に望んだ。だけど、今の光樹は。
(俺は…、俺は、征と出会ってから今までの思い出を、大事にしたらいい)
 忘れてしまったものは、忘れられるほどのものだったのだろう。覆水は盆に返らない。昨日を求めたところで与えられるのは明日なのだ。だから――…だから。
「…未来を見なきゃな」
 言って小さく笑えば、胃がしくりと切なく縮む。うん、何はともあれ今は昼だなと、再認識した光樹は速度(スピード)を上げて、玄関(エントランス)を目指した。


 急いだお陰で、光樹が逍遥の終着点である玄関口に辿り着いたのは、いつもより少しばかり早かった。胃の切なさ具合からして、四分を切るくらいだろうか。今度から走ってみるのもいいかもしれない、と機嫌よく鼻歌交じりに光樹が階段(ステップ)に足を掛けた、その時、扉が内側から乱暴に開かれたかと思うと、そこから人が勢いよく飛び出してきた。気を抜いていた上に距離が近かったこともあって、光樹は咄嗟に避けられず。
「う、わっ!」
「ッ…!」
 二人折り重なって、地面に転んでしまった。
「いってぇ…」
 下敷きとなった光樹は身動ぐことさえできず、特に強く打ったらしい左肩の痛みに眉を顰めて、原因となる、上に覆い被さる人を見た。
 昼のギラギラした太陽を遮っているために逆光を受ける状況(かたち)となって、まさに人影と形容するしかない影の塊がもぞりと動く。躰がゆっくりと起こされて腕の分だけ遠離り、影の黒が光に薄まっていく。そうして徐々にその人本来の色が見えてきて。
(わぁ…)
 目にした瞬間、光樹は息をするのを忘れた。皺の寄っていた眉間から力が抜け、目が大きく見開かれる。痛みも彼方へ消えて、意識は全て、見上げる世界に奪われた。
 金に似た蜂蜜色の髪が陽に照らされてキラキラと美しく、雨上がりの昊天(あお)に映える。
(……綺麗…――)
 陽射しの熱で溶けて甘く滴ってくるのではと、そんな想像が簡単にできてしまうほどに、艷やかで眩い。恐る恐る開かれていく黄玉(トパーズ)の双眸もまた、太陽の欠片を分け与えられたよう。とろりと燦めいて美しかった。
 行動も思考も停止するほど魅了されていた光樹は、けれどふと、その瞳の輝きが涙を湛えているからなのだと気が付いた。そこに悲愴の色を見て、理由も事情も何も知らないのに、胸がきゅうと痛くなる。…笑えばいいのに。(いた)く、思った。多分、この人に似合うのは向日葵のような笑顔なのだと。そう、心底思うのに。
「……アンタは…」
 その思いとは反対に、彼の表情が痛みを堪える顔から驚愕に、驚愕から怒りへと早変わる。睨む双眸から哀しみが掻き消えた代わりに、どす黒く翳って。
「アンタがいるからッ…――!」
 毒々しい怨嗟を孕んだ言葉が、光樹に向かって吐かれた。


 室内に、沈黙が重く満ちていた。待ち望んだ咫尺(さいかい)だと言うのに、そんな雰囲気は(はつ)かもない。そりゃそうだ、と大輝は苦く思う。征が提示したのは不自由な二択ですらない。後者は論外で、前者も論外だ。また待ち続けろと言うのか。あの、時を忘れた箱庭で。
「待っ、て、待ってよっ…、わけ、分かんないっスよ…っ」
 凍った帳を裂いたのは涼太だった。ガタリと椅子から立ち上がって征に訴える。ほんの少し前までほろほろと溢していた笑顔はもう消え失せて、顔はいっそ青白い。
「なんで…、なんでみんな一緒じゃ駄目なんスか…? 俺達だけ館に帰れ、なんて…。そんなの、だって、それじゃあ俺達がここまでやってきた意味がないじゃないっスか…!」
 対照的に、征は冷静そのものだった。立つ涼太を見上げる表情(かお)は能面のようで、滔々と述べる声も揺るがない。紡ぐ言葉も双眸も、(つるぎ)(きっさき)に似て鋭かった。
「お前達を拾った時、いの一番に言い聞かせたはずだ。僕の命令なしに動かないこと、自由行動は館の中に留めると」
「それはッ…」
「それが一番の「約束」だと」
 涼太の声を遮って畳み掛ける。「約束」―――それは当時、まだ子どもだった大輝達と征が交わした制約のこと。破ることなど考えられなかった。破る必要がなかったからだ。征がいなくなった、あの日までは。
 噛み付かんばかりに反論しようとした涼太も、征の主張の非の打ち所がない正しさに、次の言葉を探しあぐねて押し黙る。それを見て、征は再度口を開いた。
「その「約束」が守られなかった。つまり、お前達に僕の命令を遵守する気はない。そんなお前達を身近に置いておく理由はない」
 違う?、とそう最後に付け足すのは、征が子どもにも分かるようにと、言葉を噛み砕いて何かを諭す時の口癖で、そして、いつも違わないから厄介だった。
(…ったく、一から百までで、嫌になる)
 彼等だってその言葉を忘れていたわけではなかった。涼太に「期待するな」と言い含めたのもその所為だ。「約束」は絶対だ。だから悩んだ。迷った。考えた。十年、待った。その上で出した結論が、あの館を出ることだった。
「と、突然何も言わないで消えちゃったの、赤司っちじゃないっスか! それで、何年も何年も帰ってこないし! 心配すんの、当たり前でしょ!?
「だから僕との「約束」を破ったことをなかったことにしろとでも?」
「違うっスよッ…、なんで、そう、赤司っちは…!」
 とうとう、涼太が声を詰まらせて顔を俯けた。隣に座るテツヤが震えるその手をそっと握る。それでも、征は言葉を緩めなかった。
「しかもお前達は、よりによって敵と―――ハンターと手を結んだな」
 目を眇めて冷たく全員を一瞥する。その目線をまともに受けた数人が、椅子の中で小さくたじろいだ。相変わらず怖い奴だな、と大輝は浅く息を吐いた。変わらない。変わってない。笑えるほど、…何もかも。
「信用はしてねぇ。こっちの情報も流してねぇ。利用し(つかっ)ただけだ。本当に…、そんだけだ」
「僕にそれを信じろと?」
 言えば更に目が細められて、それはもう殆ど睨んでいるのと大差ない。余計冱さえる空気。息が苦しい。首筋が粟立つ。あぁ、こりゃ、―――駄目かもしれない。
(言えば言うほど、赤司の心が遠くなって行きやがる)
 大輝は心の中で嗤笑した。征は正しい。間違っていたのは自分達だ。征が望まないことをしていると知りながら、征の好意と厚意に期待した。征のためにしたのだと、そう言えば許されると思っていた。それが、免罪符だと。…征の「約束」を信じて待てなかった時点で本当はもう駄目だった。甘えが許される年齢は、疾うに過ぎたのに。
(それでも、なぁ、俺達にはお前のいない日々は長すぎたんだ)
 自分達にとって、館を出る理由なんてそれで十分だった。
「だって、赤ちん、どんだけいなかったと思う…?」
「…百年だぞ」
 泣きそうな敦と難しい顔をした真太郎が、大輝の主張に言葉を添える。援護射撃になることを期待した。少しでも分かってくれればと。でも、征は。
「たかが百年じゃないか」
 表情はやはり変わらなかった。声も、それまで通りだった。…分かっていた。人じゃない純血(ヴァンパイア)に人だった混血(ダンピール)の気持ちは分からない。それは彼の所為じゃない。純血種(サラブレッド)なのだ。頭では分かっていても、感情は抑え切れなかったのだろう。
「……赤司っちの、ばか」
 小さく言って部屋を飛び出したのは、最初に動いたのと同じ、涼太だった。


 蜂蜜色の彼は、掠れた声で()いていた。想いが溢れすぎて制御できないというような引き攣れた声は、酷く酷く痛々しくて、侘びしくて、光樹は耳を塞いでしまいたかった。でも、できなかった。彼の迫力に、声に含まれ瞳に潜む毒に、躰が固まって動かない。無様に地面に寝転がって、ただ降ってくる彼の悲痛な声を聞く。
「アンタより俺達の方が早かったのに! ずっとずっと、ずっと一緒にいた、五十年も! 赤司っちが俺達の手を引いてくれたんスよ! 傍にいさせてくれた! 選んでくれた、生かしてくれた、生きてくれた! 赤司っちが、俺達を!!
 お日様の目で睨まれるのは苦しかった。彼の表情を曇らせているのが自分と、そして征なのだと分かって辛かった。何より、彼をにしてしまったことに、胸が押し潰されそうだった。
「俺達にとってこの百年がどれだけ長かったか、辛かったか、苦しかったか…!」
 少しずつ、溢す声が錆びていく。叫びすぎたのだろうか。…いや、それ以上に彼の心が軋みを上げているのだろう。分かって、分かるだけに、光樹はもういいよと言ってあげたかった。全部自分が悪いのだと言って楽にしてあげたかった。彼が哀しむ必要はどこにもない。多分、征だって本当は悪くない。悪いのは、征と出会ってしまった自分なのだと。
「なんで分かんないの、なんでアンタなの、なんで、俺達を選んでくれないの――…」
 終に叫び声が泣き声に代わり、限界を超えてぽたぽたと雨が降り始めた。大粒の雨。彼から生まれたばかりのそれは温かく、冷えた光樹の肌には寧ろ熱いほどだった。なのに彼の双眸は冷えきって、哀しい。そこに宿るのが憎悪に似た嫉妬だと、気付いてしまったことも哀しかった。
(…違うのに。そうじゃない。何を嫉妬(ねた)むの。そんな必要、まるでないのに)
 自分はそんな大それた存在じゃない。それだけの価値もない。
(だから、泣かないで…。笑ってよ…。俺は、笑顔の方が好きだよ)
 ―――ね、  。
 一つ、ぱちりと瞬く。まだ止まない雨、重力に逆らえない雫に、そろりと混ざる。え、と小さく声を上げたのは黄色の彼の方で、それに被さるように。
「―――そこまでにしておけ、涼太」
 場を制圧する、声が通る。見るまでもない。聞くだけで十分だった。
「せ、い…」
 ほっとする。憑きものが落ちたよう。四肢の力が抜けていき、一瞬より長く、瞼の裏の黒を見る。
「…赤司っち」
 涼太と呼ばれた彼は、ぎこちなく征を呼び、その強い視線に負けて光樹から離れていく。
 もう涼太は光樹をちらりとも見なかった。征しか目に入らないのだろう。けれど征の方は些かも気に掛けず、真っ直ぐ光樹の傍に寄ると、屈んで光樹を助け起こした。
「大丈夫?」
 その征はいつもの征で、さっきとは違う柔らかい声と表情、そして濡れる頬を拭う手付きも優しかった。それはとてもとても、嬉しかったのだけど。
「ん…」
 応えながら、光樹は涼太をそっと見た。涼太は顔を下向けて、征の仕打ちに震えていた。前髪で顔が隠されていたって分かる。血の気の失せた唇は噛み締められて、その歪む唇の横を、新たに一筋の涙がほろりと伝う。…見て、いられない。顔を背けそうになって、光樹はそれを押し留めた。彼の哀しみは見るべきものだと、強く思って視線を戻せば。
「黄瀬君…」
 …いつから、いたのだろう。涼太の手を優しく握る人がいた。視線を逸らしたのは一瞬で、その一瞬で近付けるほどの距離には誰もいなかったはずなのに。意識から除外されていた存在が、声を発したのを皮切りに認識できるようになったかのような、不自然極まりない登場。けれどちらりと征を見ても驚いた風はないから、きっとそういう人なのだろう。
 無表情を初期設定(デフォルト)にしているような空色の彼は、涼太に小さく声を掛けて、それから征を真っ直ぐ見た。物怖じしない視線は、征にちゃんと届いただろうに。
「光樹」
 またしても、征が選んだのは光樹だった。
「泥で髪が汚れてる。つい数時間前まで雨が降ってたからね。早く風呂で洗っておいで」
 その優しさが、今は胸を痛くする。空色の彼の無表情が脆く剥がれて、淋しげに曇らせたのが、見えたから。
「光樹?」
 促す征に逆らって、光樹はその場に留まった。立ち尽くす二人を見る。…彼等のためじゃない、と、光樹は思った。偏に自分の中に澱のように降り積もる哀切を取り除きたいだけなのだと言い訳して。
「……征は、さ、みんなのこと、心配してたよ」
 やっとの思いで、そう、口にした。それに対する彼等二人の反応を見る前に。
「光樹」
 即座に、咎めるように征が名を呼び、光樹の手首を強く掴む。見れば征は表情を消してしまっていて、ひくりと喉が引き攣った。それでもなんとか、声に出す。
「で、でも、駄目だ、このままじゃ…」
「君が気にする必要はない」
 硬質な声が、光樹を部外者だと切り捨てる。…怖かった。哀しかった。だがそれ以上に、ふつふつと熱いものが込み上げて。
「―――だってお前、この人達が目を覚ますのずっとずっと待ってたじゃん!」
 光樹は、征の手と言葉とを強く鋭く振り払う。
「ベッド五つ買って、毛布も枕も揃えてさ、客なんか来ないのに六人ちゃんと座れる応接セット買ったのもお前じゃないか。いつもはそんなこと、絶対しやしないのに!」
 無駄を嫌う征。だから不思議だった。なんで余計な(そんな)物があるんだろうって。聞いても答えてくれなくて、征はただ、必要になるかもしれないから、と言っただけだった。…今なら分かる。この馬鹿でかいが、誰のために選ばれたのかも。
「待ってたんだろ? この人達、助けたかったんだろ? この三日、暇さえあれば様子見に行ってたの誰だよ。嫌いだったのかって聞いた時、そうじゃないって、征、お前言ったよな? なのになんで、そんな冷たくするんだよ…っ」
 自分が怒るのは筋違いだと分かっていた。でも今自分が口を挟まなければ、きっと彼等はこのままだ。征がそう言うならと諦めて、傷付いた心は癒やされることがない。そんな哀しいことがあるものか。
(血を分けるのは心を分けることだ。自分の子どもと同じことだ。子が親を慕うのは当然だろう。それに愛情を返すのは当たり前じゃないか。だってそうじゃなきゃ)
 ―――俺はきっと、耐えられなかった。
「なぁ言葉にしろよ、伝えろよ。黙ってたって、それがお前にとってその人達のためだって思ってても、伝わんなきゃ傷付けるだけで意味ねぇだろ!!
 怒鳴り声は、昼日向の穏やかさを壊して波及した。それにどれだけの効果があったのかは分からない。征は一貫して驚きも戸惑いも隠した無表情だった。視線を寄越すばかりで、固く閉ざした唇は何も紡がない。代わりに無音を破いたのは、涼太で。
「…赤司っち…。…その人の言ったこと、本当…?」
「赤司君…」
 空色の彼も、問いを混ぜた視線を投げかける。征は光樹から目を離してそれを見て、長く長く目を伏せた。最後に一つ、溜息を吐く。
「………光樹は、嘘を吐かないよ」
 沈黙の果て、そうして小さく返されたのは、そんな不器用な言葉だったけれど。
「…ん、…それだけでいいっス…。…それだけで、十分っスよ」
 涼太はそう言ってまた泣いた。ほろほろと、笑顔を溢しながら。


 温かい昼の陽射しの下に、色が集う。どうやら二人以外も彼等を追って玄関(エントランス)まで来ていたようで、合計六色が揃ったそこは、まるで虹の調色板(パレット)みたいで目に賑やかだった。それは優しく美しい光景で、そしてそのまま、征の過去そのものなのだろう。
(綺麗だな、征。…凄く、綺麗だ)
 思って、深くゆっくり呼吸した。そんなことをしなくても、心は酷く穏やかだった。濁りも、(つか)えるものも何もない。ただ、覚悟だけがある。
(…俺は、(そこ)に混じれない)
 光樹はそっと瞼を閉じて、静かに笑った。
 胃の切なさは、どこかへ引っ越したようだった。


戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system