第八話 円卓の騎士

[ The Knight Of Round Table ]


 客間(ラウンジ)の丸いローテーブルを六人が揃って囲んだのを見た時、純粋に、嬉しかったのだと思う。
 長らく見ていない光景だった。切望という言葉では到底片付けられないほどの情熱を傾けて、百年という重畳の時間をこの瞬間のために費やしてきたと言っていい。五人では足りない。そして不足分、補充すればいいという話でもなかった。彼でなければいけない、許されない。それは滅多に意見が合うことのなかった五人の、唯一合致した結論だった。
 だからこれを、夢にしてはいけない。泡沫に還してはいけないのだと――…。
「真太郎?」
 呼ばれて、ふと我に返る。あぁ、感傷に浸り込んでいたらしい。赤の彼の、征の声に真太郎は橄欖石(ペリドット)の瞳を緩く瞬かせた。すまない、と眼鏡のブリッジを上げるお決まりの仕草とともに謝辞して意識を全体に向ける。同じくぼうっとしていたらしい涼太も注意を受けて、決まり悪そうに、しかしどこか嬉しさを隠しきれない様子で笑っていた。
 事実、嬉しくて仕方ないのだろう。昔と同じ雰囲気に酔っているのだ。その気持ちは真太郎にも痛いほど理解できた。自分も無防備にこの状況を歓迎できたらどんなにいいか。しかし、これまでの経緯を思うとそんな楽観は許されなかった。真太郎だけでなく、涼太を除く他の三人ともが同じ考えを持っていることは厳しさを刻んだままの表情を見れば明瞭で、そうと気付けば、いっそこの光景は綺麗な夢のままそっとしておいた方がよかったのではとも思ってしまう。
(だがそれも、もう遅い…)
 透鏡(レンズ)の向こう、取り戻した色鮮やかな世界は、無垢に王の裁きを待っていた。


 あの再会の日の嵐はその後も小雨になって降り続き、三日経ってやっと上がった。それと五人が目覚めたのはほぼ同時で、つまり彼等は丸三日、眠り続けていたことになる。
 最初に目覚めた緑の彼は、もし周りに誰もいなければ、恐らく自分が死んだことを疑わなかった。
 絶望的な状況だった。救いなどなく、勝ち目も、まして勝とうという意志さえ奪われた。その敗北感から、白を基調とした部屋を死後の世界だと思い込み、自分達は失敗したのだと一人悔やんだだろう。参謀役を買って出たのにこの醜態(ざま)かと、嘆きさえしたはずだ。
 それを阻んだのは、枕元の影だった。ぼやけた視界にそれを見付け、よくよく見ようと習慣的に枕の左脇を手で探れば、眼鏡はちゃんとあるべき場所を弁えたようにそこにあった。疑問にも思わず、探し当てた眼鏡を掛けた彼は、その自分の傍にある影の、見下ろす影の正体を見て愕然とした。眠気なぞどこかに吹き飛んだ。を触媒にして脳裏にまざまざと浮かんでは消えていく狂飆(きょうひょう)の記憶にも、関心を払わなかった。
 そこには赤の彼が―――征が、いた。壁に背を預け、窓からの陽光を遮って立つ。ただそれだけで、彼にとって見ている世界はどれほど信じられなくとも現実だった。
「赤司…」
 呆然とした表情と口調で征を見詰めて呼ぶ彼に、征は熟れた仕草で肩を竦め、やっぱりね、と言った。なんのことだ?、と肘を付いて上半身を浮かせながら怪訝に見ると。
「やっぱり真太郎が一番に起きたね。お前はいつも、誰よりも早く目を覚ましたから」
 今もそうじゃないかなって思ったんだ、と言った征に笑顔はなかったが、真太郎と呼んだ声の片端に、嘗てと同じ親しさを見付けずにはいられなかった。懐かしさに胸が締め付けられる。嬉しいと思う気持ちが、その締め付けを弥増した。
「赤司…――」
 聞きたいことがたくさんあった。「何故」が心に溢れて、まるで決壊した川のよう。濁流が思考を押し流して、上手く言葉に纏められない。
 何故突然消えたんだ。何故連絡を寄越さなかった。何故俺達を拒むんだ。何故、何故、何故――…!
 そんな真太郎の心音(こころね)を知るだろうに。
「今は何も言わない」
 征は露ほども斟酌しなかった。無表情を貫き、冴え冴えしい紅電気石(ルベライト)の瞳で真っ直ぐ真太郎を見下ろした。声には先ほど僅かに覗かせた昵懇(じっこん)の片鱗さえない。その言葉通りの意志を覆すことは不可能だと悟り、真太郎は力なくまたベッドに身を投げて瞼を閉じた。
 まったく、征はどこまでも征だ。それを嬉しくも思い、物足りなくも思った。自分は、自分達は、征以外要らないのに、征は違う。何度も実感したことだ。絶望の味にももう慣れた。なのに時々犬に骨をやるように、気紛れに優しさを寄せてくるから厄介だった。嫌えない。それを、困ったことに、征もちゃんと知っていて。
「全員が目覚めた時に、改めて場を設けよう」
 そう言って、真太郎、とまた計算高く声にだけ心安さを含んで呼んだ征。細やかな意趣返しにと、真太郎は頑なに目を閉じていることにした。返事もしてやらない。そんなあまりにも子ども染みた仕返しに、気付いたのだろう、征が仕様がないなと小さく笑った気配があった。敏感にその笑気を感じて真太郎は思わず目を剥いて躰を起こし、そして後悔した。見えたのは、ドアが閉まる瞬間だけだった。
 掌で踊らされたのだと知った真太郎は、しかし嘆息を漏らすどころか、小さく苦笑してみせた。確かに落胆はした。だがそれ以上に喜びが勝ったのだ。
(…半ば以上、諦めていた未来(ゆめ)だった)
 再会すること、会話すること、笑い掛けてもらうこと。全て些細なことだ。それでも、それさえ望めなかった年月が長すぎたから。
 とは言え…、と、考え込もうとした真太郎の意識を邪魔する音が、不意に耳に飛び込んだ。
「ミドチン、だっさー」
 その声は、すぐ隣のベッドから聞こえてきた。
「…起きてたのか、紫原」
「起きてたよ。いつものことでしょ?」
 もうボケたの?、と笑うでもなく言う紫の彼は真太郎の方に横向いて寝そべっていて、しかも日頃は眠たげな紫水晶(アメジスト)の双眸が今は炯々と光っている。そんな目で見られる理由が分からず、疑問を浮かべて見返せば。
「赤ちんは気付いてたよ。気付いてて、俺のこと、「敦」って呼ばなかったんだよ。酷いよねー?」
「……それで俺に当たるな」
 言いながら、そういうことかと腑に落ちる。敦は「征の声で必ず起きる」という、妙な特技を持っていた。真太郎の習慣(くせ)を覚えていて、それを征が忘れているとは思えない。だとすれば征が故意に敦を無視したのだと推察するのが妥当で、それで敦の機嫌が悪いのだと理解した。また、五人の中でも特に征に懐いていた敦は、真太郎ばかりが征と喋っていたことも、面白くなかったのだろう。
 しかし、と真太郎は再度、先ほど敦に遮られた思考の先に思いを馳せようとして、またも敦の声に妨げられた。だが今度のそれは、酷く真剣なものだった。
「嬉しいままで、終わらないよ」
 予言のような言葉に鋭く敦に視線を向ければ、表情を消したままの顔が花洎夫藍(クロッカス)の髪に斑に隠されて影を帯びていた。その所為か、瞳も暗がりに迷い込んだよう。ひっそりとして、紫紺の夜を思わせた。
 ただ奔放な子どものようでいて、敦にはどこか大人びたところがあった。頭の回転も早かった。そんな彼の言葉には耳を傾けるだけの値打ちがあると、真太郎は密かに、誰にも言ったことはなかったけれど、認めていた。それが自分と同じ考えなら、なおのこと。
「…そうだな」
 あぁ、きっとそうだろう。このままでは終わるまい。ひしひしと肌に感じる危険信号。その色は、―――赤。
 常時ならば既に逃げている。それが征の教えだった。生き残ることが最善(ベスト)だと。だからあの嵐の夜も手を伸ばせば届く距離に征がいると知っていて迷わず退却しようとしたのだ。急いては事を仕損じる。目先のことに囚われるなと教えてくれたのも、征だ。
 だが今は迷っていた。教えを授けた征の存在が、却って真太郎の心を揺さぶっていた。今の状況を思えば彼が自分達を助けてくれたのだとも考えられて、決断を鈍らせる。
 罠か、情か、それとも、取引か。何はともあれ、相手が征でなければここまで悩むことはなかった。敵だろうが味方だろうが、逡巡もせず見限り、逃げていただろうに。
「実に厄介なのだよ、…赤司は」
 思わず零れた愚痴のような弱音を、敦は聞き逃さなかった。朧げに表情を緩めて返す。
「でも赤ちんは優しいよ」
 それは敦や黒の彼の専らの持論で、だがその後に必ず、そっと付け足すのだった。困ったように、そしてほんの少し、哀しそうに。
「優しくて、…狡いけど」
 そう、―――いつも。


「さて――…」
 と足を組み直して口火を切った征の声に、視線を下に遣っていた真太郎が目を上げる。征は一人ひとりを見遣って微笑んで、それは一見無邪気なものに見えたが、四人はそれを信じなかった。征の笑顔はまるで凍った湖面に映り込んだ空のようで、綺麗ではあったが、それ故にどことなくうそ寒さが漂っていた。だからだろう、起きた時には決して見せなかった笑顔を振り撒いていることに、この差はなんだと真太郎が不満に思うことは許されるだろうに、頓とそんな気持ちは沸かなかった。ただ涼太だけがにこにこと笑ってこの状況を喜んでいて、「テツヤ、大輝、涼太、真太郎、敦」という征の各々への呼びかけにも、応えたのは彼だけだった。
 そんな涼太の様子に、敦の呟きを思い出して哀しくなる。
『嬉しいままで、終わらないよ』
 …そう、このままで終わるはずがない。終われば奇跡だ。そして、自分達は奇跡を信じない。覚えている限り、奇跡はいつも自分達を素通りしていった。振り返る価値もないと言いたげに、無辜(むこ)なまでの無慈悲さで。…だからきっと、今回も。
(そう覚悟しながら、それでも多分、まだどこかで期待してたのだ)
 話せば分かってもらえると。再会をどれほど待ち望み、どれだけ待ち侘びたかを切々と語れば、温情を傾けてもらえると。奇跡に託す望みはない。だが自分達の嘘偽りない言葉は届くのではないかと、思っていた。
(共に帰ることがままならないのならば、せめて共にいることを許してもらえればと)
 甘かった。痛切に思い知る未来は、直ぐそこに迫っていた。
「お前達には、二つの選択肢(みち)がある」
 征は言う。(から)く笑んだまま、淡白な優しさを見せたまま言い、そしてその言葉が終わった途端。
「――――ッ…!」
 服を脱ぐような気軽さで、それまでの笑みを掻き消した。
 たったそれだけのことで、瞬間、部屋の空気が凍て付いた。時を忘れ去ったよう。窓から這入る陽光は色褪せて、ただ、赤だけが目に痛いほど鮮やかだ。目を逸らせない。見開いた目は閉じられない。脳裏に響く警鐘。危険信号は、赤――…!
 征は、瞬時に緊張を漲らせた五人の様子などに気を払わなかった。僅かも、微かさえ。その傲然さを隠そうともせず、寧ろ表情に口調に露骨なまでに滲ませて。
「僕の味方としてお前達だけで館いえに帰るか、僕のとして死ぬか。…二つに一つだ」
 突き付ける。それは提案ではなく、決定であり命令だった。弁論の余地などなく、主張を聞かれることもないまま、王の裁きは始まる前に終わっていたことを知る。
 だがそれを知ったところで、真太郎は足掻こうとは思えなかった。王が非と言うならそれは非なのだ。…是非もない。
 長い年月の中で希望を持つことは容易かった。支えでもあった。だが本人を前にして、その当人に拒絶されてなお希望を持ち得るほどの気力は、疾うに尽き果てていた。
 彼にとって、百年はあまりに長すぎたのだ。
「―――さぁ、選べ」
 征の声が凛と響いた後には、誰も彼も、空間さえ、尠少(せんしょう)ほども動かない。まるで壁に掛けられた絵画のような、見かけばかりは美しい彩りと静けさの中、どこかの部屋で、遠く正午(まひる)を知らせる鐘が鳴る。
 夢の醒める、音がした。


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