エピソードⅣ ハルシオンの葬列

[ Funeral Parade Of Halcyon ]


 潮騒(しおざい)の音が、今朝は嫌に煩く感じる。陽に照り輝く波折りの白を疎ましげに打ち見た少年は、暫くそうしていたかと思うと、唐突に来た道を引き返しはじめた。
 その足取りは酷く重かった。彼の表情も暗く、いつもは正面に固定された視線も、やや下がりがちに見えた。影を孕んだ赤の瞳が、濃紅(クラレット)を真似て鈍く光る。
 気も漫ろに歩いていた少年が漸く立ち止まったのは、石と木とで造られた朽ちかけの建物の前で、外観は礼拝堂(チャペル)に似ていた。見上げて一つ、長く重い溜息を吐く。
 少年は疲れていた。種類で言えば気疲れの部類で、滅多にないことに戸惑いつつ、晴れぬ心を持て余していた。だがそれも仕方ないと、自分で自分を慰める。それが滑稽極まりないことは重々承知だったが、そうでもしないとやっていられなかった。
《この一件の処理はお前に任せる》
 その沙汰を遂行するのに都合五十年を費やした。逃走劇が四十年あまり。そして獄中劇がまた十年。長かった、と懐古するのは、やっと終わりが見えてきたからだ。だがそれを喜んでいいのか、少年には分からなかった。
(…この任務は、虜囚の死をもって完了する)
 命じられた「処理」というのは、つまりそういうことだ。そして終了を見越したということは、近々虜囚に死が訪れるということを意味する。「だから気が(ふさ)ぐのだ」などと、常の少年ならば認めなかっただろう。人の死に直面することが少ないとはいえ、これまで全くなかったわけではないし、その時心を痛めたかと言えば、答えは否だ。そして偽善的な悲哀を外聞云々で晒す趣味もない少年が、今回ばかりはいくら自虐に走ろうと自棄になろうと、表面に現れる内の翳りを隠せないでいた。
(らしくない…)
 紺碧の海と空とに囲まれた離島に、自分を入れても二人しか人間がいないと言うのに、少年は誰かに言い訳するように自嘲してみせた。まるで道化(ピエロ)だ。分かっていながら、それでも、―――彼は、嘲笑(わら)う他なかったのだ。


 ギィ…、と金具の軋む音を立てて木製の扉が開く。中を見渡せばいつものごとく埃っぽく、ステンドグラス擬きの色付き硝子も薄汚れて曇っていた。もう慣れたものだと表情を僅かも動かさないまま、作り付けの長椅子(ベンチ)に挟まれた石の身廊を進んで交差部(クロッシング)に差しかかった時、少年は足を止めた。立ち尽くして、〈それ〉を見る。
 祭壇に凭れかかって、一人の女が力なく床に座していた。
 柔らかい陽光に愛でられた長い黒髪は艶を失くし、痩せ細った肌は病的に白かったが、それでもなお女は美しかった。日本人離れした見栄えというわけでもないのにどことなく異国風(エキゾチック)で幽艶。面差す影さえ、花の(かんばせ)に彩りを添えるものでしかない。その意味で吸血鬼の花嫁という役どころは彼女のはまり役だったと、少年は皮肉でもなく思う。ただ、それが彼女の幸せに直結していたと思ったことは、一度もない。
 じっと見詰めるばかりだった少年の視線を感じてか、不意に女がひそりと瞼を押し上げた。曇った黒瑪瑙(オニキス)の双眸が覗き、ふわりと彷徨ったかと思うと、数十秒を掛けてやっと少年に定まった。そして彼の表情か様子に、何か思うところがあったのだろう。(ひび)割れた唇が薄く開き、そこから思いの外しゃんとした、(たお)やかな声が出た。
「…ちゃんと、血を飲んでいますか」
 だが声の張りを裏切って、口調はどこか幼子に言い聞かせるよう。外見に現れない衰えの所為か、それとも死を間近にして意識が混濁しているのか、女は少年の実年齢を百も二百も下げて喋りかけることが多くなっていた。それを嘆けばいいのか腹立たしく思えばいいのか分からなくて、彼は気付けばいつも後者を選んでしまっていた。
「子ども扱いはよしてください、太母(ミストレス)。ご存知でしょう。僕は生粋の吸血鬼(サラブレッド)だ。混血(ダンピール)と違って必要な血の生成は身体に造血機能として組み込まれているし、正常に行われている。向こう十年吸血しなくとも、まったく問題はありません」
 苛立ちが滲む反論に、女はほんのり目を伏せて応えた。
「えぇ…、えぇ、そうでしたね…。貴方のように、あの方のように…、血の紅蓮(あか)に染まった瞳と髪を持つ、始まりの一族の者だけが…、徒人(ただびと)のように、そのまま、生きていける…」
 ところどころ詰まりながらも述懐した女は、あぁけれど、と困ったような顔をし、こん、と頭を祭壇に預けてぼんやりと天井(そら)を見た。そして。
混血(ダンピール)が、始祖によって、人間から吸血鬼になった者を、指すのなら…、あの子は一体…、何者に、なれるのでしょうねぇ…」
 それを聞き、問い質すまでもなく、少年はその意味を、そして女が今この時にそれを伝えた意図を正確に、全て、理解した。理解して、―――ただ、それだけだった。
 少年は声を失くして立ち竦んでいた。言うべき言葉はなかった。最早、…何も。だから聞いていた。だから見ていた。静かに、厳かに、耳を、目を、心を、全てを、傾けていた。
 聖女のように脆く、少女のように(わら)い、無垢に少年を深く愛してくれた、彼女へ。
「セリオン…、…いえ…、征」
 ――…貴方が、思うように…。
 それが、その声が、礼拝堂(チャペル)に響いた最後の音になった。
 時を同じくして陽光を遮って飛ぶ鳥の姿が二つ、窓から少年の赤髪に、石畳に、そして女の白い頬に、一瞬だけ影を落とし、空の彼方、海の向こうへと去っていった。


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