第七話 虹の在り処

[ Iris's Hiding Place ]


 昔から犬が好きだった。犬種に好悪の別はなく、ただ犬という存在が好きで、偏にその忠義心を買っていた。主人に従順なその姿が、好ましかった。―――だからこそ。
「征は、あの人達が嫌いだったの?」
 距離を置いて窓際に立つ光樹の、責めるでもなく糺すのでもなく、優しさに綾なされて(にこ)やかに耳朶に響いたその問いに、征は首を横に振ることを厭わない。その流れで寝椅子(カウチ)の肘掛けに頬杖を付いたまま目を閉じた。そっとそっと、柔らかく。
「…そんなわけ、ないよ」
 言って、瞼の裏に思い出す。…そう、自分は犬が好きだった。大好きで、それは愛と言って差し支えない好意だっただろう。でもみんな死んでしまった。何度別の犬を飼っても病に勝てず、老いに勝てず、順当に時の濁流に飲み込まれ、そうして最後は死に辿る。いつだって、自分一人を遺して。
 でも、彼等は――…。
(……そうか)
 僕は、寂しかったのか。
 気付いて、目を細く開けて笑った。笑うしかない。だが今度は「だから」などとは言うまい。言ってしまえば、彼等を貶めてしまう気がした。
(テツヤ、大輝、涼太、真太郎、敦…)
 彼等を望んだのは征で、その根底には確かに時間(とき)という、本来なら抗い難い絶対の奔流に隔離された自分自身への憐憫と、そしてそこから生まれる、身も軋むほどの寂寞があったとして、けれどそれで彼等の価値そのものが左右されるわけではない。
(それだけで望んだわけではないように、…ね)
 五人を拾ったのは、戦後の日本、灰燼と化した都市でだった。その都市を狙い、彼等を選ったのは、役所が焼けて戸籍も焼失しただろうと見越してのことだ。どこの誰が亡くなったのか、または行方不明なのか生きてるのか、知りたくても知り得ない時代が、確かにこの日本にもあったのだ。乱暴に、それでも真実ありのままを言葉にするなら、その混乱に乗じて勾引(かどわか)したとも言える。例えそれが、彼等の同意のもとであっても。
 当時、彼等はまだ幼かった。十にも届かないくらいだったのではなかったか。身の丈も大分と低かった。見下ろした色とりどりの髪の、その旋毛の向きすらまだ覚えている。百五十年ほど昔のことだというのに、未だにその思い出(かこ)白黒(モノクロ)になりきらない。手を伸ばせばそこにある宝石のように、とろりと燦めいて懐かしい。…愛惜しくさえ、あった。
(そんなあの子等に、随分と身勝手を押し付けたものだ)
 久方ぶりに再会した彼等への仕打ちを思い返して苦笑が口元を彩った。くつりと喉奥が鳴る。まったく、―――つくづく思い通りにいかない。
(…こうなるはずじゃなかった)
 つと影が落ちる。思考に、心に、そして、現実にも。
「光樹…」
 降ってきた人影(シルエット)に気付いて(おとがい)を反らす。その視線の先に心配を露わにした光樹を見付けて、いつもなら安心させるように深めて返す笑みを、その時、征は静かに掻き消した。そして、縋る。目の前の光樹の痩躯に腕を回し、腹に額を押し付けて瞼を閉じた。
「――…光樹」
 そんな滅多にない征の甘えた仕草に、光樹は少なからず驚いた。だがそれくらい、征が彼等に心を預けていたのだとも理解できたから。
「…あの人達も、きっと征が大好きだったんだろうな…」
 触り心地のいい髪をさわりと撫でて囁いた。光樹の声、端からやんわりと空気に解けて溶けるそれが、征の心にするりと入る。
 それと時を同じくして、窓の外が明るくなった。疎ましげに目を開ける。外を見る。雲間から陽光が差していた。夜通しの雨が上がったのだ。
 時刻は午前十時。やっと、朝が始まる。


 衣擦れの音がして、ふわりと意識が浮上する。とくり。胸の鼓動を聞き、感じて、身を起こそうと暫し藻掻いて諦めた。酷く起きるのが億劫だ。気怠い。寝込んだ後、ようやっと起き上がる時の気鬱さに似ている。そんなもの、疾うの昔、それこそ人間(ひと)であった頃にまで、遡らねばならないけど…――。
(……え…?)
 自分が思ったことに驚いて目を剥いた。光明(ひかり)が目に入って眩しいと、咄嗟にまた瞼を下ろす。しかし視界は強く白を残して、黒には程遠い。いや、そんなことよりも。
(なんで…)
 再度目を開けることを、一瞬恐怖した。そう思うことさえ、自分の記憶が正しいのならば有り得ないことなのだと恐れの上塗りがなされる。だがドクドクと胸を打つ拍動はあまりにも生々しく、動かし辛い手をやっとの思いで当てても、消えることはなかった。
 意を決して瞼を押し上げる。白が視界を覆っていた。ちらつく焦点が時間を掛けて定まり、漸くそれが何であるかを知る。天井と、外から這入る陽の光だ。分かったのはそれだけで、それ以上の手掛かりは、明るいものを見続けるのが辛いとまた目を閉じた所為で分からなかった。だがそれで、それだけで、驚愕するには十分だった。
「なん、で…」
 喉に痛みを伴いながら、掠れた声が出た。何故? そう、何故だ。
(なんで、俺、生きてんの?)
 夜に似た昼。冷たい驟雨と、腹の奥底まで轟く雷鳴。どことなく懐かしさを感じる(シャトー)に、それを背にした、彼の姿――…。鮮烈に記憶に残るそれらは、真実、自分が目にした光景のはずで、ならば今、自分が生きているのはおかしいのだ。だって覚えている。血が穢される恐怖も苦痛も、彼から敵意を向けられた哀しみも。
(そして、自分の命が潰える、感覚も…――)
 指先から血管が凍りついていく寒さを思い出してぞっとした。だが、最悪、そうなる覚悟はしていたのだ。いや、正しく言うのなら、させられた。常に慎重な黒の彼や緑の彼ばかりか、普段、自分と同じくらい楽観的な青の彼にさえ、何度も脅されるように言い含められた。
『期待は、するな』
 それに頷きながら、けれど心の片隅にあった甘い望みを捨て切れないでいた。会えばまた昔のように接してくれるのではないかと。「相変わらずだな」と呆れた顔で、でも最後には笑って、優しく名前を呼んでくれるのではないだろうかと。
(そう、願うように想ってたのに)
 切望した再会は、結果、想像とどれほども違っていた。今まで後手に回っていたのが嘘のように新居の情報を手に入れて、今度こそはと玄関(エントランス)の扉に触れた瞬間、弾かれた。罠だと叫んだのは誰だったか。分からないまま、危機感に急かされてその場を逃げようとした。できなかった。そして、…あぁ、雨に打たれ、地に伏して聞いた、あの、言葉。
『態々殺されに来たの?』
 暗くても、そう言った彼が笑っているのが見えた。でもそれは欲しかった笑顔じゃなくて、聞きたかった彼の声で、聞きたくなかった言葉が現実(ほんとう)になった。…哀しかった。苦しくて、痛くて、でも、そんな言葉でも、また彼の声が聞けたことがどうしようもなく嬉しかった。最期に彼を一目見て死ねるのなら、それもいいとさえ、本気で思った。
(そして―――そうして…)
 自分達は、死んだのではなかったか―――と、続くはずだった思考の中の言葉は、突如降ってきた声と激痛に阻まれた。
「いい加減起きやがれ、黄瀬!」
「いったぁ!」
 些か加減の間違った手刀を頭に受けて、声を荒らげて跳ね起きる。その直後に躰に喉に鋭い痛みが駆け抜けて、思わず掛けてあった真白の毛布(ブランケット)を握り締めて苦悶した。呻きながら恨みがましく犯人を見上げて、けれどそんな表情も、長くは続かなかった。
「青峰っち…」
「…なんて顔してんだよ」
 いつからそこにいたのか、先ほどの怒号と暴挙に似合わず優しく苦笑するのは、もう随分と見慣れた、浅黒い肌に青髪の少年。…訊ねたいことはたくさんあった。ここはどこで、何があったのか。他のみんなはどうしたのか。色々、いっぱい、あったけれど。
「――…青峰っちぃ…っ」
 質問よりも先に、涙が、出た。何も聞かずとも、あの状況では使命を全うできなかっただろうことは明確で、それはつまり、彼が自分達の敵のままであるということを意味した。
(ほんとは、敵とか味方とか、そんなの全然思ってないけど、でも、あの人はそう思ってる。俺達を、―――敵だって)
 それがどれだけ哀しくて辛いことかなんて、きっと彼には分からない。敵意を剥き出しにした表情で睨まれた時、雨に涙を紛れさせた心情(こころ)だって、言葉をいくら尽くしても理解してはもらえないだろう。
(好きで、好きで、ただ、好きなだけなのに)
 報われない想いに涙が溢れて仕方なかった。年甲斐もなく(しゃく)り上げて、青の彼を困らせる。
「あーもー、泣くなって」
「だって、んっ、赤司っち、がっ、鬼、みたいな顔でぇ…っ」
 幼い頃、誰かからの横暴を告げ口した時のように、舌足らずな口調で訴える。それに、「あ、バカっ」と、どこか青の彼の焦った声を聞いたかと思えば。
「へぇ。鬼のような形相とは、また随分と御挨拶だね」
「ひぃッ、ごっごめんなさ…――」
 冷えた声に、肩を跳ねさせて咄嗟に謝ろうとした。それは反射の行為で、にとっては身に染み込んだ遣り取りだった。だから少しの間気付かなくて、理解は後から追い付いた。
 会話に紛れた声が、記憶の中のと一致する。絵地図(ジグソーパズル)小片(ピース)が、かちりと噛み合ったように。
 途端、意識も声も掻っ攫われた。言葉が最後まで行き着くことなく事切れる。頭の中が真っ白になって、何を考えていいのかも、何を言えばいいのかも分からない。ただ引き寄せられるように、見開いた目を青の彼から離してそろりとスライドさせる。その視線の先、涙に潤む視界に、赤を、見て。
「―――…」
 震える唇が、その名を小さく象った。また一粒の涙がぽこりと生まれて頬を伝い、握る白浪に沈む。それを知ってか、それとも、他の何かのためか、一瞬、彼の口端が滲む視野にも持ち上がったのがはっきり見えた。
「おいで、涼太」
 そうして無造作に、放るように言うだけ言って躊躇いもなく背を向けた彼の後を、宥めるようにくしゃりと髪を撫でてくれた青の彼が続く。呆然と見送って、数瞬後、顔をそっと俯けた。口元が緩む。あぁ、駄目だ、まったく―――彼は。
「――…ッ!」
 ベッドから勢いよく飛び出した。痛みなんて忘れた。何がどうなっているのかも、どうでもいい。今はただ我武者羅に彼の背を追う。昔の、ように。
(そうだ)
 雨上がり、灰かぶりの空。差し出された白い手と、風に靡く赤髪。そして――…。
「…なんだ、俺達、百五十年前(むかし)と全然変わんないっスね」
 思い出して、泣き笑う。だって、ねぇ、赤司っち。
『おいで』
 貴方にそう言われて、ついて行かないわけが、ないのに。


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