第六話 ホルスの審判

[ Horus's Last Judgment ]


 大海原を背にして歩き出す。船の中で他の四人との面通しは終えており、まだぎこちなくも、既にまとまりのようなものができつつあった。
 青の彼は活発で夏の空のようだった。黄の彼はそんな彼に追随する太陽だったし、緑の彼は森を体現する鷹揚さがあって、紫の彼は蝶のようにふわふわとして掴み所がなかった。
 そんな彼等と自分を拾ってくれた彼は、先頭を悠々と歩いている。陽射しを見るように、目を細めた。
(風に揺れる髪は赤…)
 眩しくはない。だがそれでも直視することは憚られて、だから窺うように見てしまう。彼は、自分達にはない輝きを持っていた。
(そんな彼が、他の彼等は別にしても、何故、自分なんかを拾ってくれたのだろう)
 国境を越えた今を持って分からず、じわじわと不安に苛まれてぎゅっと手を握り俯いた。
 ―――と。
『テツヤ』
 呼ばれたことに気付いて、つと顔を上げる。眼前に彼が立っていた。前を歩いていたのではなかったかと驚いて、何かしてしまっただろうかと内心で慌てた。
 そんな自分はあまり感情が表情に出ず、それが元で疎まれていたこともあった。今も傍からは無表情で突っ立っているだけに見えるだろうし、ここは何か言った方がいいのだろうかと幼いながらに思っても、喉が固まって声が出ない。ぴくりとも動けず、ただ見上げていると。
『なぁに固まってんだよ』
 パンッ、と肩を叩かれた。見れば青の彼が「しょうがねぇな」と笑っていて。
『別に取って食いやしねぇって。な! 赤司』
 明るく、彼に同意を求めた。その彼の答えを待たない内に。
『黒子っち、なんかあったんスか…?』
 黄の彼は自分の不安が感染ったように泣きそうな顔をしているし、緑の彼は。
『船酔いでもしたのか?』
 と、背を擦りながら聞いてくる。
『あ、もしかしてお腹空いたの? 俺もー』
 そう言ったのは紫の彼で、その時に初めて笑った顔を見た。
『こらこら、質問攻めにするんじゃない。テツヤが困っているだろう?』
 彼が他の四人をそう言って窘める。その言葉を聞いて、驚いた。自分は今、困っているような顔をしただろうか。考えても表情を動かした覚えはなく、だからきっと無表情を貫いていただろうに。ならば何故彼は「困っている」と思ったのだろう。状況的にそう判断しただけなのか…。ぐだぐだ考えていると、彼が自分の顔を覗き込んで。
『今度はぐるぐる考え込んでいるね』
 と言う。
『え…』
『やっぱり急に船に乗せられて外国に来たら、不安にもなるか。そうだよね、他の四人が脳天気そうだから、あまり深く考えてなかった。ごめん』
 言って、くしゃりと髪を撫でたかと思うと、その自分より大きな手が今度は頬をするりと擦る。肌と肌が触れ合って温かい。それを感じた途端、ひくり、と喉が鳴った。
『…ふ、…ッ』
 涙が、後から後から流れて止まらない。何故だろう。彼が自分の心情を汲んでくれたのが嬉しかったのか。久々に感じた人肌に心が緩んだのか。分からない、どうして。
 思う間も、頬に触れたままの彼の手がしとどに濡れていく。なのに、彼は決して手を離そうとはしなかった。
『な、泣くなよっ』
『黒子っち、泣いちゃ、嫌っス…!』
『お前も泣くな、なのだよ』
 慌てる青と、一緒に泣く黄と、呆れる緑と、そして。
『いいじゃん。泣いて、すっきりしよ』
 笑う、紫。
『安心、したんだよね』
 きっと、そうだ。
 そう思いながらも、言う言葉を持たないまま彼の手に自分の手を添えて頬を擦り寄せた。
(温かい。人の温もり。離したくない。離さないで。もう、一人は、嫌だ)
 ―――そんな想いを込めて、縋るように。
 小さな子どもとは言え、全力で握られた手は痛かっただろうに。
『大丈夫だよ』
 彼はただ、優しくそう言った。そして「約束」と、額にキスまでしてくれたのに。
『テツ――…!』
 五十年後。
 その約束は破られた。


 束の間、閉じていた目を開ける。痺れた躰が痛い。雨が追い風となって躰の消耗を煽る。痛いと寒いを交互に感じながら、見上げる先は天ではない。天にも等しい、赤の彼だ。
「…赤司君」
 思わず零れた呼び声に、懐かしさが滲む。地に伏せて痛みを堪え、雨に打たれているのは正に彼の所為であるにも関わらず、声からその思慕の念を拭い去ることはできなかった。
 求めていた。だから探して、だからここまで来た。ある日姿を眩ませた彼との再会を夢見て。―――歓迎されないことは、承知の上だった。
「ぐ、ぁ…っ」
 誰かの苦痛に塗れた呻きが聞こえた。自分の苦しみも増した気がして、胸の上から心臓を押さえる。血が毒されていた。心臓が脈打つ度に、穢れた血が全身に送り出される。血で生きている者にしてみれば、最悪の状態と言っていい。
 だがこれはまだいい方だ。最期まで時間がある。彼が本気で殺しにかかっていれば、既に自分達に命はないはずだ。彼の微かな猶予(いざよ)いが、そこに表れていた。
(まったく…。相変わらず優しいですね…)
 そうだ、彼は優しい。睥睨の尖晶石の双眸(スピネル・アイズ)にいくら冷たさを宿そうと、言葉に幾千幾万の棘を生やそうとも、彼の心根は残酷に徹し切れない。優しい、人なのだ。それを信じて疑ったことはない。裏切りのように、ある日突然、自分達の前から姿を消した彼であっても、そのことに絶望したって、それだけは否定できなかった。
 自然、笑みが零れ落ちる。見られれば面倒だと、顔を下向けて綻んだ口元を隠した。まだ彼の優渥を向けられる存在であることが、誇らしくて堪らなかった。
「…余裕だね、テツヤ。その状態で笑っていられるなんて」
 敏く、気付かれたらしい。ならば隠すのも馬鹿らしいと、俯けていた顔を上げる。視線が搗ち合った。心胆を寒からしめる瞳に、それでもやはり覚えたのは懐かしさ。嘗ては自分達に仇なす者に向けられ、自分も数度貰っただけのそれが、恐怖ではなく歓喜を呼び起こす。
(自分は、今、彼に相対している)
 心が震えた。会うことも罷り通らなかったこの百年の孤独が、一息に風化する心地がした。
「お久しぶりです…」
 久しい、本当に。百年、―――百年だ。出会い、傍にいた期間が五十年。その倍も会っていなかったなんて。遅々として進まない一日が三六五回あり、それを百回繰り返したと考えれば、よくもまぁ気が狂わずに生きていたものだと感嘆する。
 だがそれも、目的があったからだ。
「さぁ、帰りましょう、赤司君」
 雨の中、雷の音を縫って、静かな声が波及するように征に届く。怪訝に、と言うよりも、その動作自体を疎むような緩慢さで、征が目を眇めてテツヤを見た。底冷えのする瞳に、笑みを消した顔。陶磁器人形(ビスク・ドール)のような完璧な美貌が、雷に照らされて映える。
「帰る?」
 そうして返された声は、怪訝よりも軽侮を孕んだ。普段なら耳に痛いそれも、今は全く気にならない。目的を果たすことを思えば、それは酷く瑣末なことだった。
「えぇ…。僕等の家に…、館に、帰るんです」
 館―――征が所有し、征の一族が別邸として持つ屋敷。そこは彼等六人が、五十年という歳月を共有した場所だった。彼に連れられて海を渡り、落ち着いた棲家。生活は征を中心として全てが回っていた。自分達は征の衛星で、だから彼がいなくては成り立たない。
 六人揃わなければ、虹には到底成り得ないように。
「また、一緒に暮らしましょう? …そのために、僕等は」
「―――馬鹿なことを」
 遮ったのは、苛立った声だった。
「僕とあの館に帰る? 全くもって度し難いよ。お前達はそんなことのためにと手を組んだのか」
 憤怒に騒めいた征の血が、五人の血の穢れをより一層促した。ドクン、と一際大きく心臓が鳴って、途端襲ってきた激痛に、五人は声も出せずに身悶えた。爪が土塊(つちくれ)を抉り、肌に赤い跡を残す。
 征はもう、些かも躊躇わなかった。それまでの恩情を捨て去り、怒りに身を任せて血が滾るままに彼等の血を汚濁した。
 馬鹿なことを、と、再度胸の内で零す。
「赤司、く――…」
 助けを求めるように零された声にさえ反応を返さず、征が彼等に近付いたのは、微かも動かなくなってからのことだった。首に手首に指を当て、脈がないことを全員確かめて立ち上がる。空を眺め、雷が遠離りつつあるのを見て取って、足元に転がる(むくろ)を見た。
 …馬鹿なことを。口の中で呟いた。
「何故、僕の帰りを待てなかったんだ」
 そうすれば、こんな日は来なかったのに。


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