第三話 黄昏のスーベニア

[ Souvenir In The Twilight ]


 ガタゴトと、奇妙な揺れに目が覚める。ん、と顔を上げて周りを見れば、左には窓が、右には征が見えた。しかも窓の外の風景は動いている。…いつの間にか、タクシーに乗せられていたらしい。
「あ、起きた? 光樹は本当に時間に正確だね。丁度、八時になったところだよ」
「…征。…何、どういうこと…?」
 ぱちぱちと眠気を払うように瞬いて、窓の外を見て、征を見て、また窓の外を見た。どうやら都心を離れて山間部を走っているようだ。萌える緑が、起きたばかりの目に優しい。
「昨日言ったでしょ? 引越しだよ、引越し」
「引越し…」
 あぁ…、と数瞬遅れて合点がいく。引越しをするとは前もって聞いていたものの、いつするかという具体的な話は毎度直前になってからで、今回もそれに漏れず前日に言われたのだった。しかも夜になって言われたものだから、昨日は遅くに数日分の着替えと、そして日用品を慌てて掻き集めたのだっけ。
 ただそれだけで済んだのは、征が引っ越す度に家具を買い替えているからだ。だから余程気に入ったものでないと、同じものは次の住居で見られない。例外は光樹のベッドくらいだ。
「まったく大変だったよ。朝六時に家を出るって言ったのに、光樹はいつまで経っても起きてこないんだから。結局、朝食を辛うじて食べたところでまた寝ちゃって、僕が洗顔と、あと服まで着せたんだからね」
 あぁなんとなくそんな記憶があるような…、と今朝の記憶を浚いながら、ごめん、と一言、征に詫びる。
 どうも光樹は時計がなくても時間が分かるという特技を持っていたが、起きる時間や寝る時間、三食食べる時間などはその時間でなければならないという、困った習慣がついていた。食事時は多少前後しても構わないが、起床は八時、就寝は十一時という、その二つの時間はどうやっても直せなかった。だからいくら六時に起きなければと思っても八時まで寝るし、十二時まで起きていたいと思っていても、十一時には必ず眠ってしまう。勿論寝るのは兎も角、起きる方は征に強く揺さぶられでもしたらさすがに起きるので、吸血する金曜日はそれでなんとかやってきた。
 今まではそんな光樹の習慣を考慮して引っ越しをしていたから、問題はなかったのだが。
「今回はちょっと遠いからね、移動に時間が掛かるんだ」
「ふーん…。どんなとこ?」
「綺麗な所だよ」
 きっと気に入ると思うな、と笑う征に、光樹は外方(そっぽ)を向いて首を竦めた。これまでの経験から言ってどうせまたマンションで、最上階で、一階層(ワンフロア)貸し切りなのだろう。記憶がなくともそれが普通でないことは分かっていて、けれどそれが普通になりつつあることが恐ろしい。
 窓の外の若竹色(みどり)を見るともなしに視界に入れた光樹は、窓に頭を預けて目を閉じた。
(…慣れちゃいけない)
 言い聞かせるように、思う。この生活に、征の普通(レベル)に、慣れてしまっては駄目だと。
 光樹はいつかを考えていた。いつかいつか、征と離れる日のことを思っていた。哀しいだろう。寂しいだろう。けれどそれはやがて来る。その時のために、光樹はいつだって自身を戒めるように呟いていた。
 慣れちゃいけない。ずっと一緒にいられると思うのは、―――間違ってる。
「…  」
 唇から小さく零れた声に、征が気付く。光樹?、と呼びかけても返事はない。顔を覗き込めば幼い寝顔。光樹が二度寝するのは珍しく、征は少し驚いた。荷物選びに昨夜はそんなに時間を掛けただろうか。顔に掛かるほどもない短い髪を梳くように優しく撫でる傍ら、征は表情を曇らせた。今回の引越しが些か急で突拍子もないことだと認めているだけに、光樹に負担を掛けているのかもしれないと不安が募る。
 光樹は環境が変わると体調を崩しやすい体質で、引越しをする度に寝込んだ。躰がその環境に馴染むまで少し時間が掛かるらしい。繊細というよりかは弱いのかもしれない。それは例の如く光樹の過去が深く絡んでいるのだろうが、光樹が覚えていない以上、治しようもなかった。
「困った子だね…」
 征はいつもするように榛の髪に口付けると、肩を抱いて光樹を自分の肩に寄りかからせた。自然、首筋に吐息が掛かる。擽ったいと笑って、征もまた目を閉じた。まだまだ道程は遠い。それに昨夜は遅くまで起きていて、今朝は早く起きた。いつもより光樹の温もりに身を寄せていられた時間は短く、今それを取り戻すように求めたって誰も咎めやしないだろう。咎める奴は、誰であっても許さないけれど。
「…おやすみ、光樹」
 小さく言う。返されることはない。ただ目を閉じた分だけ敏感になった耳が、光樹の寝息を具に拾う。まるで子守唄のような効力を持ったそれに、征は徐々に微睡んでいった。
 身を寄せ合った彼等は、まるで本当の、仲の良い兄弟のようだった。


 ―――夢は、いつもあの日から始まる。
 小さな〈彼〉と、小さな俺と。登場人物は、その二人。年号が変わったとか、都会は政治のことでめちゃくちゃだとか、色々新しいものが生まれただとか、外の国は忙しないだとか。そういった噂話とは反対に、生活する村は長閑で、何もなくて、成長とか改革とか、そんなものとはまるきり無縁だった。山に囲まれていて、田圃や畑があるのは当たり前で、空の気分(てんき)で一日の予定が左右されるような。
 そんな、日常(セカイ)
 昨日と今日は地続きで、今日と明日は変わらない。ずっと今日の繰り返し。俺の隣には〈彼〉がいて、〈彼〉の隣には俺がいる。それと同じくらい、当然のこと。
 あの日も、そんな今日(いつも)を繰り返すはずだった。
『   』
 …何が、あったのだっけ。いや…覚えてる。
『   』
 ……そう。学校帰りだ。夕方、山の上にある学校からの帰り道。いつものように〈彼〉と隠れんぼをしていたのだ。場所は日によって変わった。森の中や寺の境内、神社、草の茂った丘とか、様々で。
 あの日は、どこだっただろう。どこに隠れただろう。〈彼〉の呼ぶ声が聞こえるから、俺が隠れたのだろうに。
 …俺は、どこに隠れたのだったか。
『   』
 〈彼〉の声が遠離っては近くなる。俺は息を潜めて、楽しさに跳ねる心臓近くの胸をぎゅっと押さえていた。どきどきした。それ以上にわくわくした。そして少し、不安だった。〈彼〉はちゃんと俺を見付けてくれるだろうか。それとも、通り過ぎてしまうだろうか。
 そんな心配は、いつだって杞憂に終わった。
『   』
 ―――あぁ、そうだ。あの日、俺は。
『   』
 俺、は――…。
『みぃつけた』
 …それでも、ただ、俺は〈彼〉が好きだった。


 肩を揺さぶられて起きた光樹は、タクシーから降り立って目を擦った。金茶(だいだい)の斜陽が容赦なく降り注いで目が痛い。征が言った通り、随分と遠い場所まで来たようだ。そう考えながら、変に何度も寝た所為でふらふらする頭を押さえて周りを見渡した光樹は、数瞬、ぴたりと固まった。かと思えば、またぎゅっと目を閉じる。目の前の光景に違和感を覚えたからだ。
 心の中で五秒を数え、また開けた。おかしいな、まだ緑が見える。首を捻って緑の終わりを見ようといくら視線を動かしても木は延々と続いていて、しかもずっと先には石造りの城門(ゲート)のようなものさえ見えた。…夢の続きを見ているのだろうか。
「なに百面相してるの、光樹。行くよ」
 トランクから荷物を引っ張り出してタクシーを帰した征が、光樹を追い抜かして歩いて行く。慌てて後を追い、半歩後ろを陣取って征に矢継ぎ早に問いかけた。
「え、何、ここ、どこ? 引越し先、マンションじゃないのっ?」
「ここは某県内の山の中。それに僕は次もマンションに引っ越すだなんて、一言も言ってないよ」
「そりゃ、確かにそうだけどさっ。…てか、ごめん」
 近付くごとに見えてきた〈家〉の全景に、とうとう光樹は堪らなくなって征の袖を掴んで立ち止まった。何?、と肩越しに振り返った征に、恐る恐る口を開く。
「気の所為かな…。俺にはあれが、城、に、見えるんだけど…」
 二人が向かおうとしている先には、光樹の気の所為や幻覚でなければ、どう見てもどこかの観光施設(テーマパーク)にあるものをそのまま移したかのような城、それも城館(シャトー)と呼ぶべき建物が聳え立っていた。…まさかな、と思いたい。思いたいが、しかし。
「正真正銘、城だよ。他に何に見える? 日本家屋にはどうしたって見えないだろう。誰かが移築したのを、そのまま買ったんだ」
 まぁ僕の実家よりかは遥かに小さいけどね、と、光樹の心情も知らずのうのうと言ってのけた征に、光樹は。
「お前何買ってんだよ!」
 思わず、そう叫ばずにはいられなかった。


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