第二話 ルベウスの憂鬱

[ The Melancholy Of Rubeus ]


 彼等の朝食は、基本的に和食と決まっていた。それは、征の、
「日本人たるもの、三食の始めである朝に和食を食べなくてどうするの」
 という、よく分からない持論に基づいている。
 半分日本人の血が流れているとは言え、元々異郷で生きてきた征にとっては洋食の方が馴染みもあるだろうに、と光樹は思ってしまうのだが、出されたものを食べない不躾さは持ち合わせていないし、どちらかと言うと食に拘りのない光樹は何が出ようと大人しく食す。
 今朝もほかほかと炊きたての白米は光樹の胃を満たし、焼き魚や香の物、鰹で出汁をとった味噌汁も、自然な味そのままで光樹の舌を楽しませた。それら全ては征の手作りで、本当になんでもできる奴だな、と光樹は驚嘆半分、呆れ半分で征を見る。気付いた征が、にこりと光樹に笑いかけた。
「美味しい?」
「うん。このお新香も自分で漬けてんだっけ?」
「そうだよ。漬物は奥が深いね」
 寧ろ奥が深いのはお前だと思うけど…、と、3K(高収入・高知能・紅顔の美少年)を持ち合わせる征が糠床を持っている事実に対し抱いた感想はそっと胸に仕舞い、そう言えば、と光樹は話題を変えた。
「最近留守が多いけど、なんで?」
「あぁ、ちょっと引越しを考えていてね」
「また引っ越すのか?」
 共に暮らし始めてから約一年が経つが、その間に征は何度も引越しを繰り返している。一度は家を壊滅に追いやった自分の所為とは言え、回数だけ見れば引越しが趣味と言われても仕方ないだけ、彼等は住居を変えてきた。最短で半月、最長でも三ヶ月(みつき)程度だったろうか。無駄を嫌う征にしては、金も時間も割さかねばならない引越しは、最小に抑えたいだろうに。
「嫌?」
「い、嫌って言うか…」
 言葉を濁して光樹は顔を俯ける。別に、光樹が困ることは何もない。引っ越し先はいつだって高級マンションの最上階、しかも一階層(ワンフロア)貸し切りであるため、近所付き合いなどは気にしなくていいし、そもそもインターホンにさえ出ることを禁止されている自分は、どこであろうと部屋に閉じ篭っているだけでよかった。外に出る時は絶対に征が付いているから、地理を覚える必要も、不測の事態に構えることもない。
 だから今、光樹が戸惑っているのは、征が何故引越しを繰り返すか分からないということに尽きる。
(家に不満もない、不備があるわけでもない。なのになんで、引っ越すんだ?)
 回数が増えていく毎に、懸念も釣られて増していく。征がその理由をはっきりと口にしないことも、拍車を掛けた。
(まるで、誰かから逃げてるみたいで…)
 確証もないのに、漠然とそう思えて光樹は心許なく不安だった。
「…征が危ない橋を渡るような仕事してるのは知ってるけど、俺を養うためにそうしてるなら、俺、ちゃんと働くぞ? 大体、征に全部頼りっきりな今の状況が、本当は普通じゃないんだし…」
「ちょっと待って。まさか光樹、僕が仕事の揉め事(トラブル)から逃げるために何度も引越ししてるって思ってるの?」
「…かな、って」
 正直に肯定すれば、征は「馬鹿だね」と容赦なく言い捨てた。その表情はどこか拗ねたようなもので、常のすましている征と比べて外見年齢相応に見えた。
「僕がそんなヘマをするわけないじゃないか。僕の仕事ぶりは、この漬物のように完璧だよ?」
「…そう」
 引き合いに出す対象が明らかにおかしいな、とは思ったが、光樹は賢明にも口にせず、じゃあ気の所為なのかなと征絶賛の漬物を口に放り込んだ。うん、美味しい。
「まぁ、俺の気の回しすぎならそれでいいんだ。引越しに反対する理由はないよ」
 ごちそうさま、と手を合わせて食事を終えた光樹は、食器を台所(キッチン)に運んでいく。その後ろ姿を見送って、征は控えめに溜息を吐いた。
「…ほんとに、自分が吸血鬼だって自覚が足りない子だな」
 征にしても、本音を言えば度重なる引越しは避けたいところなのだ。時間は食うし金は掛かるし、その度に不動産屋を探さなくてはならないしと面倒が多すぎる。だが、一所(ひとところ)に留まれない理由が自身にあるのでは、文句も言っていられない。
「僕等は時間の迷子(ロストボーイ)なんだよ、光樹――…」
 吸血鬼は年を取らない、と言うのはよく聞く話だが、厳密に言うと、完全な不老体ではない。基本的に吸血鬼の成長は、生まれてから、それは人間から吸血鬼になった場合も同様だが、ある程度の時間、凡そ五六年は人間と同じ速度で老い、その後、だんだんと肉体の成長が緩やかになって最終的に停止する、というものだ。生粋の吸血鬼ともなれば、大体二十歳(はたち)前後から三十歳までの振り幅で成長を終え、一生涯その姿で生きることになる。
(その中でも、僕は十七歳くらいで成長が止まってしまったからね)
 だからこそ、長居しては不味いのだ。成人した姿なら、一年やそこら居ても不自然ではないだろう。しかし、征と光樹はどう見積もっても精々十代の子どもにしか見えなかった。そんな未成年者風情の、まして成育の余地が多分にある年齢の彼等が、一年も同じ姿で同じ場所に棲むのは、非常に危うい賭けだった。
(日本人が童顔に見えるということが周知の事実とは言え、用心に越したことはない)
 面倒なことだよと、征は母に似てしまった自分の顔を撫でて、また溜息を吐く。せめて父に似たのなら、十代であろうともっと大人びて見えただろうに。父から譲り受けたのは、日本人にしては度が過ぎる肌の白さと、パンキッシュな髪色だけ。いずれにせよ、自身の容姿が他人の目を引くだけの代物であることを、征は正しく理解していた。―――だが、まぁ。
『ちょっと待って。まさか光樹、僕が仕事の揉め事から逃げるために何度も引越ししてるって思ってるの?』
『…かな、って』
 口端で、苦笑う。
「その考えも、強ち間違いってわけじゃ、ないけどね」
 まったくもって変な所で鋭いな、と自分にも聞こえないくらい小さく呟いて笑みを消し、征は窓の外を物憂げに見た。外は気持ちいいくらいの晴天(はれ)だ。洗濯物がよく乾くだろう、とぼんやり考えながらも、征の心は晴れないままで。
「……逃げなきゃ」
 無意識に、私語(ささめ)いた。構ってはいられない。今、これ以上の面倒事を抱え込む気はない。それが無理なら―――。
「どうする…?」
 自らの問いに酷薄に笑う。分かりきっている。だから今度の住居は今までとは違うのだ。征が手ずから下見し、用意し、準備した。人にとってはただの住宅でも、征や光樹のような者からしてみれば砦にも等しいものを。
 敵は迎え撃つ。そして光樹は。
「―――守り抜く」
 それだけのことだ。ただ、それだけの。
「…本当、子どもの相手も楽じゃない」
 奴等は本気でやってくる。何事にも全力で、無垢なだけに厄介だ。ほとほと面倒なことだよと、征は空になった食器を持って立ち上がり、台所(キッチン)へと向かう。
 そこで家事能力皆無(ゼロ)の光樹が起こした悲惨なに目を覆うのは、それから数秒後のことだった。


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