エピソードⅠ 翡翠の夢

[ Kingfisher's Dream ]


『    』
 …遠く、声が聞こえる。慟哭のような悲痛な叫び(かなしいこえ)。けれどそれは反響に反響を重ねて、声は言葉として届かない。意味のない音。音が連なっただけの、赤子の泣き声のような。
『    』
 自分は〈その人〉が哀しんでいることを知っていた。とても辛いと泣いていたのを知っている。闇に埋もれ、光を奪われ、自由さえなかったけれど、自分は〈その人〉の全てを愛してた。愛されていると、思ってた。
『    』
 …叫びが哄笑に変わる。いや、最初から笑っていたのかも。…分からない。耳を劈くほどの声が、思考を徐々に奪っていく。谺して増した音量が耳に痛い。頭に響く。
 痛い、痛い、痛い、辛い。
 体を丸める。耳を塞ぎたい。何もかもを置いて、何も知らなかったあの頃に帰りたい。願って、祈った。こんな哀しい笑い声を、とても聞いてはいられない。
『    』
 声は続く。喉が潰れそうなほど長く叫んでる。もういいよと言ってあげたかった。俺がいるよと抱き締めてあげたかった。好きだと言ってくれた〈その人〉が、大好きだった。
『     キ 』
 ……絶叫が止んだ。声が途絶え、気配が自分に近付いてくる。ゆっくりと、ゆったりと。そろりと触れられる頬。耳を擽る震えた息遣い。
 そして。
『 コ ウ キ 』
 呼ばれた名と、塩辛く(なまぐさ)い、涙と血に塗れた口付け。初めてと同じくらいの優しいキスに、――…何故だろう。
 これが最後なのだと分かってしまった俺は、とてもとても哀しかった。


 ……鳥の囀りが、遠く聞こえる。緞帳(カーテン)を擦り抜けて部屋に侵入した朝陽が、瞼をも通り抜けて双眸に辿り着く。眩しい。黒に慣れた瞳が白を拒絶する。
 明るいのは駄目だ。駄目だ。でも、暗闇に戻りたくはない。あれはとても哀しい。駄目だ。あれは、もう…。
(―――何の、ことだ?)
 心に溢れた言葉に、眠りの淵を揺蕩って朦朧としていた意識が急に醒める。閉じていた瞼を押し上げる。
 今、何を思っただろう。何の夢を見ていただろう。今、自分は、何を。
(……思い出せない)
 陽の明るさに呑まれて、意識の片隅にある影が消えていく。逃してはいけないのに。思い出さなくては、いけないのに…。
 落胆と焦燥に力なく目を閉じる。瞼の裏にまで届いた光が段々と弱まり、闇を見る。夢の続きを、見るように。
 夜に塗り潰された自我(セカイ)、そこに、何かの音が不意に届いた。
「光樹…?」
 …あぁ、これは、征の、声だ。起きたばかりの、掠れた声。
 征がいる。だから、そう、大丈夫。怖い夢はもう見ない。心配いらない。〈あの人〉は、いないんだ。
「また、泣いてるの…?」
 ……そうだ。俺は何度、こうして涙に濡れた朝を迎えただろう。
(―――数えるのも、もう飽きてしまった)


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