第一話 星屑オペレッタ

[ Stardust Operetta ]


 日本の首都、東京。ビルが剣山のように立ち並ぶそこは、夜天そら)がとても遠い。眼下に広がる街並みに、平行に見える風景に、見上げた空にさえ、それは感じられた。
(嘗てはこうではなかったと、そう思うのは老いらくの身であるからだろうか)
 赤髪を夜風に揺らし、にふぶに笑んで征は思う。その内心の言葉とは裏腹に、彼の容姿は十代の後半と、まだ幼い。現代ならば親の保護下に置かれてなんの不思議もない年齢で、算出されている日本人の平均寿命を鑑みても、半分どころか四分の一にも満たない。だが征はその(がいけん)に逆らって、思いの外長く生きていた。どれほど、と問われれば、童顔という言葉では到底済まないと、笑い飛ばせるくらいには。
「準備できたかい?」
 背後に気配を感じ取り、征は振り返らずそう問いかける。言葉を向けた先には、ぬばたまの夜と同化した光樹が立っていた。そこらにいる人間なら、十人が十人、見逃してしまいそうなほどひっそりとした佇まい。普段も騒がしさとは無縁の光樹だが、こういう時は一際その性質が色濃く出る。何かに紛れるのが極端に巧いのだ。闇なら闇に。人混みなら人混みに。
(隠れんぼや鬼ごっことか、凄く得意そうだな)
 無論、それは無個性云々の話ではないし、また、今の光樹が上手く闇に紛れているのは息を潜めているからというだけではない。黒を基調としたパーカーにジーンズと、相応の格好をしているためだった。それと対照的に、征はいつも通り、良家の子息といった(なり)である。だが、これからすることを知っていればどちらの格好が正しいのかは瞭然で、光樹もそれを思ってか、征の服装を呆れた目で見た。
「…汚れても知らないぞ」
 ぽつりと闇に落とされた声を拾って、征は微笑して応える。
「僕が汚すはずはないし、万が一汚したって君が洗濯するわけじゃない」
 違う?、と光樹を振り返れば、怒ったようにぷいと顔を逸らされた。外見年齢はほぼ同じで、身長は少し光樹の方が低いだけなのに、妙に子どもっぽい仕草が似合う子だ、と征は感嘆して笑みを深める。恐らく自分より(わか)いのだろうとは思うが、如何せん、記憶が全くない所為で光樹は年齢が不詳だ。斯く言う自分も五百を超えた辺りから年齢(とし)を数えなくなって久しいな、と都会の歓楽街(ネオン)を見下ろして思う。
 最後に人工物に塗れた街を無感動に一瞥して光樹に向き直り、優雅に手を差し伸べた。
「手を貸そうか? お嬢さん(マドモアゼル)
「…馬鹿」
 心底そう思っている顔で言われたことに征は満足気な表情(かお)で笑うと、高層マンションの屋上から飛び降りた。光樹もそれを追って、夜の都会(まち)に沈む。


 毎週金曜日の午前零時―――それは狩りが始まる時間だった。
 ビルの合間合間にある闇に身を潜めながら、征と光樹は揃って獲物を探し出す。そうして啜る血に、老若男女差別なく、美味い不味いの区別はない。人が食に求めるものを、吸血鬼は血に求めない。ただ必要だから摂取する。それだけの話だ。
「今夜も無事に飲めてよかったね」
 気絶させて少々血を貰った女性を壁に寄りかからせて、征は光樹に振り返る。家から持参していた鉱泉水(ミネラルウォーター)で口を濯いでいた光樹はそれにこくりと頷いたが、その顔色の悪さはなにも夜の所為ばかりとは言えなかった。血を飲んだというのに、貧血にでもなったかのようだ。
「いつものことながら、大丈夫?」
 訊ねる征に、ん、と光樹は健気に頷くが、言葉少ななその様子が不調を如実に表していたし、事実、その直後、ふらついて壁に凭れかかってしまった。
「君も難儀な子だね」
 吸血鬼らしく飲む動作は迷いないものだというのに、反面、光樹はその行為を受け入れ難く思っている節があり、血を口に含んだ後はかなりの割合で体調不良を訴える。血は吸血鬼にとってなくてはならないものだけに、毎回そうなってしまう光樹が征にしてみれば不憫でならなかった。そんな気持ちから、そう呟いたのだが。
「うる、せ…っ」
 日頃の言動の所為か、光樹には皮肉にしか聞こえなかったらしい。そうして言い返そうと開かれた口は、しかし数瞬もしない内に戦慄く手で覆われ、仕舞いには下を向いて沈黙した。
(あぁ、今日はらしい)
 まるで悪阻(つわり)のことのようにそう思った征は、しょうがないな、と今度は口に出して独りごちると、仔羊のように震える光樹の首筋に手を回して自分の方に向かせ。
「―――…っ…!」
 有無を言わせず、口付けた。
 冷えた白い唇を食はみ、咄嗟に熱い口腔の奥に引き篭もろうとする舌を絡め取って引き留める。ひくりと怯えるそれを、舌先で、時には全体を使って宥めるように、しかし全力で愛撫する。
「せ、ぃッ…ん、ふ…っ」
 徐々に甘さを増していく潤んだ音が、光樹の淡く気怠い息遣いが、都会の喧騒から離れたこのビルの狭間に蔓延し、互いの耳をじわりじわりと侵していく。時折悪戯に上顎を擦れば、光樹は一層頬を紅くし、身を震わせて弱く啼いた。遅れて光樹の指が征の服を強く握って、抗議に脆く藻掻く。
 それでも、離してはやらない。
 恋人も斯くやとばかりの口吻(フレンチ・キス)。だがそもそもこれは、光樹に対し恋慕の情があるとか、(ものう)い様子に欲情したとか、そういったことではない。
 吸血鬼同士の舌を絡めるほどの口付けは、鉄臭い血の味を甘い蜜のように変化させる効果がある。本来は吸血鬼になったばかりの、血に免疫のない者達への救済措置で、光樹もこれにより気分の悪さが大分と解消されるのだ。―――が、しかし。
「ッ、は、ぁ…このっ、変態…!」
 光樹はこれを、血を飲む以上に嫌う。異国を故郷とし、吸血鬼社会に骨の髄まで浸かった征にとっては理解し難いが、光樹に言わせれば「とても変」なことらしい。額や頬に口付けるのも最初は苦労したな、と回顧する。それでも諦めず続けていたら、最後には光樹が折れて今ではそこそこ受け入れてもらっているものの、これだけはいつまで経っても怖い顔をされる。
「光樹が苦しむのを見ていられないんだよ」
「楽しんでるくせに…ッ」
「まぁね」
 軽く肯定し、でも、と今度は触れるだけのキスをする。
「君を助けたいと言うのも、本当」
 それが真実だということは、光樹も心の底では理解していた。征は光樹が体調を崩す度に、光樹が申し訳なく思うほど周章(あわ)てた。やれ病院だやれ入院だと、医者に調べられれば不味いだろうに救急車を呼ぼうとする。出会って間もない頃は揶揄っているのかと勘繰ったが、不眠不休で自分を看病する征に、光樹はとうとうその認識を改めた。
 だが、こればかりは話が別だ。
「…本当に困った時は、言うから…」
 だからそれ以外の時は勘弁してくれと懇願する光樹に、征は渋々頷いて。
「光樹がそう言うなら…。でも素直に言わないと、以後は聞いてあげられないからね」
 真剣な表情で釘を刺す。一度言えば実行する征だけに、光樹は神妙に頷いた。できればそんな日は来てほしくないと思うが、来てしまった時は腹を括ろう、と覚悟していた矢先。
「まぁ、キスを強請る光樹もだね。楽しみにしてるよ」
 にこりと無垢に笑った征に、光樹は万感の思いを込めて一言、「死ね」と返した。


 家に帰り、軽くシャワーを浴びてベッドにくたりと身を沈める。昼夜を問わず空調の効いた部屋では、特に綿布(タオルケット)などを掛けなくてもクッションを抱き締める程度で事足りるため、光樹はいつものようにお気に入りの抱き枕を胸元に手繰り寄せて、抱え込むように丸まった。一つ吐息を零して、目を瞑る。
(疲れたー…)
 二週間ぶりの狩りに、躰のあちこちが心地いい疲労に満たされていた。指先がじんじんとして、足の裏はじわりと温かい。動いた所為か、それとも血を飲んだためか、常よりも活発に血が躰を行き通う感覚に、頬を撫ぜた夜風を、耳を通り過ぎた朗らかな街角の姦しさを思い出す。やはり吸血は別にしても、外に行くのは楽しかった。
(つい半年前は、この真っ赤なベッドの上が俺の世界の全てだったのに)
 うっそりと瞼を半ばまで押し開きながら、そう言えば、と嘗ての自分に笑う。
(泣き虫、だったなぁ…)
 それは光樹が征と出会ったばかりの頃の話。まだ征を信じることができなくて、自分以外の誰かが怖くて、外の世界が恐ろしくて、自分の過去を思い出せなくて、光樹は泣いてばかりだった。理由もなくただ不安で堪らず、自傷に駆られたことも、あった。
(そんな時、いつだって俺を受け止めてくれたのはこのベッドだったっけ)
 嗚咽を押し殺したのも、傷口から血を滴らせたのも、爪を立てたのも、このベッド。元は征が使用していたもので、譲り受けた今も、真紅のベッドカバーが掛けられている。自分の好みから言えば少々派手すぎるのだが、征が先日のように何かの用事で家を空ける時、このベッドに横たわると不思議と心が安らぐ気がして、結局元のままで使い続けていた。
(赤は血の色で、征の、色だ)
 だからだろうか。擽ったい気持ちで一層敷布(シーツ)に顔を埋めて、光樹はくすりと笑った。心安らかでいられるのは、そのお陰だろうかと。
 畢竟(ひっきょう)、どんなに素っ気ない態度を取ったところで、光樹は征を頼りにしていた。心の拠り所と言ってもいいのかもしれない。他に縋る人がいなかったと言ってしまえばそれまでだが、それでも、出会ってから今までに心で育っていった征への感謝も好意も、否定し難く本物だった。
(そんなこと、征には言ってやんないけど)
 だが、いつかは言えたらと思う。いつかいつか。
(そのいつかは、きっと――…)
 と、考え込む最中さなか、カチャリ、とドアが開かれて。
「おやおや、こんな所に猫がいる」
 部屋を覗いた征が、丸まって寝そべる光樹を揶揄して「にゃー」と鳴いた。むっと上目遣いで睨む光樹の視線を物ともせず、勝手にベッドに腰かけた征は、まだ少し濡れたままの光樹の髪に目敏く気付き、持っていたタオルで手早く、それでいて優しく拭き始めた。
「前から度々言ってるけど、ちゃんと髪を乾かして寝ないと、風邪引くよ」
 髪も傷むし、と言いながらも手を休めない征。その迷いない、手慣れた動作を、光樹は胡乱げな目付きで見た。嫌に手慣れたものだと、思っていた。
 生まれが貴族だと言うのだから、傅かれることに慣れて自分では何もできないお坊ちゃんかと思いきや、征はまるでそうじゃない。
(料理は上手いし、家事全般お手のもの。手先も器用だし、果ては裁縫まで完璧ときてる)
 呆れるほど嫌味なほど、否、いっそ清々しいほどに、「隙がない」という表現が似付かわしい。
(まぁ、俺がそういうの、からっきし駄目だから、そう思うのかもしんないけどさ)
 そんな征は一人で生きてきたような顔をして、実は誰かと生活していたんじゃないかと、こういう時ふと思うのだ。家族とか召使いとか、そういう類の誰かとではなく、もっと別の、手の掛かる、他人で年下の、そんな、誰かと。
 生活の端々にそれは感じられて、だが語る過去もない自分が征の過去を詮索するのはなんだか不公平な気がしていたから、光樹がそれについて訊ねたことはない。
 でも、そう考える度になんだか胸がもやもやしたものが(つか)えて苦しかった。ずくりと嫌な感じに重くなる。失くした記憶を求めて、心が疼くのだろうか――…。
「光樹?」
 呼びかけに、目を、上げる。枕の影から征を見れば、不安げに光樹の顔を覗き込んでいた。何?、と目だけで問うと、征はふわりと一つ、瞬いて。
「辛そうな顔をしたから、気になって。髪、引っ張っちゃった? 痛い?」
 見当違いな心配に、光樹は思わず目元を和らげて微笑んだ。違うよ、と言って征を安心させる。そればかりか、腕を伸ばして征をベッドに引き摺り込むと、抱き枕を放り、代わりに征の胸に縋って瞼を閉じた。
「今夜は甘えただね、光樹。僕もここで寝ていいの?」
 返事はしない。分かっているはずだから、何も言わない。
 征もそれを予想していたのか、二度も聞かず仄かに笑っただけだった。枕元にあるリモコンで部屋の電気(あかり)を暗くする。
 おやすみの声がひっそりと聞こえて、後は窓から入る月明かりと、心地いい室温、そして互いの熱に微睡んでいく。
 その頃、居間(リビング)では時計がカチリと音を立てた。
 時計の針は、午前二時を指していた。


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