夢の最果て




 優しい夢を見た。
 白い夢を見た。
 月魄(げっぱく)の如き夢だった。
 薄桜(はくおう)を思わせる夢だった。
 淡雪に似た夢だった。
 そこに自分はいた気がする。
 …違っただろうか。
 そうじゃ、なかっただろうか。
 ………。
 どちらでもいい。
 兎角、良い、夢だった。
 気持ちのいい夢だった。
 甘い夢だった。
 覚めたくはなかった。
 ずっと、永遠に近く、微睡んでいたかった。
 (ささ)に満たされた盃に映り込んだ月のように。
 ふわりと風に飛ばされた桜の花瓣のように。
 まだ穢れを知らぬままでいる白雪のように。
 壊れることが、前提の。
 …それでもいい、それで、よかった。
 見ていたかった。
 それほど、それくらい、倖せな夢だったのだ。
 そこに、自分はおらずとも。


 夜。仕事帰りの鬼や妖怪達が(ひし)めく雑踏の中、颯爽と足を進めていた鬼灯の歩みが鈍ったのは、視界の端を見知った白頭巾が(よぎ)った気がしたからに他ならなかった。
 他意はない。そもそも彼にはまだ仕事が山積しており、出歩く余裕などないに等しい。地獄を統括する閻魔大王の補佐官である以上、そして己がその官職を目指し、拝命した以上、放り出し、剰え弱音を吐くなど、彼の決して低いとは言えない矜持が断固として許さなかった。
 現状に不満がまったくないとは言わないが、それでも、そこそこ満足する程度には鬼灯は今の生活を気に入っていた。例え閻魔大王が、鬼灯がいないのをいいことに休んだり、間食したり、犬と戯れたり、鬼女の井戸端会議に参列したり、誰かれ構わず孫の自慢話をしたり、賽の河原の子ども達と遊んだりしなければもっと(楽で)いいのに、と思っていたとしても。
 そんな鬼灯が外に出たのは、人探しのためだった。本来それは鬼灯の仕事ではないのだが、昼休み以降、日付を跨ぐまで机に向かいっぱなしだった鬼灯を案じた大王が、ずっと座っているのは良くないと、取ってつけたような用事を言い渡して鬼灯を仕事部屋から追い出してしまったのだ。そういう時の大王の頑固さを知るから、鬼灯は大人しく従った。事ある毎に鬼灯を母親のようだと指摘する大王も、他人(ひと)のことは言えない面がある。
『君は賢く恋愛しようとしすぎだよ』
 いつかの日、大王はいつもと変わらぬ口調で言った。彼の恋愛観を聞いたのは、長い付き合いの中、それが初めてだっただろうか。彼は出会った時既に妻帯者であったし、鬼灯は恋愛に重きを置く性格でもなかったから、自然、話題に上らなかっただけなのかもしれないが。
 でもその時、確かに鬼灯は恋をしていた。叶わぬ恋と、最初から諦めていた恋だった。悲観的と言うより投げやりに、そして自暴自棄すら孕んだ想いは、行く宛もなくぐるぐると胸の内を彷徨っていた。苦しかった。死ぬ時だってこんな辛い思いはしなかったと断言できるほど。
 それをどうすればいいのか、鬼灯は知らなかった。何故自分がその人を好きなのかもよく分からなかった。切り貼りされた理由は脆く剥がれ、嫌いになろうとしても、無関心を装うと、心はどうしたってその人に向く。
 苛立ち始めていた。心が軋み始めていた。それに彼は気付いたのだろう。そうと悟らせない巧みさで鬼灯から心の言葉(うち)を引き出すと、そっとそっと、言ったのだ。
『好きなら好きで、いいんじゃないかなぁ』
 饒舌ではない。論理的でもない。ただ受け止めたらいいと。彼らしく根拠のない、…だが優しい考え方だった。
 きっとそういうところなのだ、と鬼灯はひっそりと思う。鬼灯が大王の補佐官を仕事に選んだのも、なんのかのと言いながら彼の後ろに控えているのも、結局のところ、肩書や地位や権力云々より、偏に大王の傍にいたいと思ったからだ。彼の優しさに触れていられる距離にいたいと思った。それを本人に言う気は、さらさらないのだけれど。
 だからその分、彼の期待には応えようと、捉え損ねた白布の行方を探して、鬼灯は喧騒の中に目を凝らす。
 しかし結局、探し出すことはかなわなかった。見間違いかと詰めていた息を吐き、鬼灯は再度歩き出す。振り返ることはなかった。鬼灯の頭の中は、もう、処理しきれず置いてきた書類や、席を外している間に追加されているだろう仕事のことで占められていた。
 致し方ない。鬼灯にしてみれば、彼がいるなら自分に見付けられないはずはないという刷り込みに似た思い込みがあったとして、一体誰がそれを責められるだろう。
 多少の語弊があるとは言え、確かに、彼はそこにいなかったのだ。


 薄らと開かれた瞼の隙間から、とろりと黒玉の瞳が覗く。長い長い眠りからの目覚め。揺蕩っていた夢の残滓が、指の間から零れ落ちる砂を真似て、さらさらと滴って掴めない。そも、自分は本当に夢を見ていたのだろうか。夢を見ていたと、思い込んでいるだけでは…。考え考え、畢竟(ひっきょう)、面倒になって思考を止めた。
 気怠げに躰を起こす。と、自身が真白の世界の中心に座しているのに気が付いた。それは、そうだ。ここは己の精神世界。躰の内に存在する自我であり、尚深く宏大な、それこそ八極さえ内包し俯瞰し得る高次元。神の座に列席する〈彼〉であるからこその、形而上の有象無象が形而下を装って視認できる、蜃気楼の如き世界。
 見渡し、見下ろし、見上げて、それらがまるで変わっていないことを認めた〈彼〉は、ふと溜息に紛う吐息を零す。そこに憂慮の影を見て、ちらりと笑みが浮かぶ。苦さを交えた微笑は哀笑に転じ、果ては悔恨の色も滲んだ。
 仕方ない。しょうがない。どうしようも、ないのだ。何に対してそう思ったのかは追求せずに、分かっていて知らない振りをして、すっとまた、切れ長の目を閉じる。
 眠るためではない。起きるためだ。憂い、哀しび、悔い、それらを隠すために笑う他なくとも。
 (あぶく)は弾けた。止まっていた砂時計の砂が落ち始めた音がする。加速はしない。だが徐々に、確実に、それは小さくなってゆく。止める手立ては最早ない。もう、夢は見られない。
 最後に一度、一瞬だけ、くちりと唇を噛み締めて、〈彼〉は己の世界から脱却し、水面(みなも)を目指す要領で現を目指した。
 主のいなくなった世界は、その瞬間、水を掛けられた水彩画のように、滲み、溶け、後はただ、色を失った静寂(しじま)が横たわるだけとなった。


 ぱちり、と目を開けば、まだ朝は遠かった。窓の外の伸し掛かるような闇色に、いつもならまだ寝ていられると安堵して寝返りを打ち、今度こそ朝陽が褥を照らすまで眠るのが、彼の常であったはずなのに。
「………」
 ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返した彼は、上半身をそっと起こして、一つ、深く呼吸した。喉奥から何か硬いものを吐き出すような、そんなぎこちなさで。
「………」
 眠気はまったく感じなかった。たっぷりと睡眠を取った後のような爽快感とまではいかないものの、それでも二三時間寝ただけとは思えないほど、意識ははっきりしていた。
 けれど不意に、視界がぐにゃりと歪んだ。意識が混濁しているのではなく、ただ、視界だけが滲んで可怪しい。
「   …」
 瞬けば、涙。目の縁から溢れるそれは、次から次へと生み出されて、頬を滑り、布団に沈む。
 彼は静かに泣いていた。(しゃく)り上げることもなく、眉間に皺を寄せるでもなく、ただ雨が降るのを雨宿りの軒先で見詰める横顔に似た泣き顔。それ故に綺麗で、それ故に寂しい泣き方をするのは、同居人を起こしてしまうことを嫌ったと言うよりは、彼が涙の意味を、泣く理由を、明確に理解していたからだろう。
 ぽろりぽろりと涙は重力に従って落ちていく。その行き先である布団を空虚な目で見下ろしていた彼は、何かに気付いて顔を上げた。顔が、視線が向いたのは、仕事場と私室を隔てる扉。開いた気配も音も、なかった、はずなのに。
「…久しぶり」
 そこには一人の人がいた。その人は光を嫌うように月光の届かぬ暗がりに溶け込もうと壁に凭れ掛かるばかりで、親しげに声を掛けたわりに彼の傍に寄ろうとはしない。
 彼は、それが自分のためだと知っていた。優しい〈彼〉は自分を思って近付かないのだ。近付けば、具に見えてしまう。全てが詳らかになってしまうから。
 …そう、〈彼〉は優しい。素っ気ない態度や口の悪さに隠してしまおうとするけれど、少しでも傍にいれば、どうしたってその優渥(ゆうあく)を感じずにはいられなかった。それは〈彼〉が〈彼〉である故なのだろう。それを、疑ったことはない。
「クロ」
 小さく呼んで、じっと見詰めた。涙はまだ止まらないまま流れ続けて、なのにやんわりと微笑んで甘く呼ぶから、呼ばれた〈彼〉はしょうがないなと嘯いて、それでも多少の躊躇いを歩みに見せながら徐に彼に近寄った。
 五歩も歩けば〈彼〉は月明かりの水溜りに踏み込むことになる。端からその中にいた彼と同じ舞台に立つことになる。それを覚悟して、ここに来たんじゃないか。言い聞かせて、〈彼〉は最後の一歩の距離を飛び込んだ。
 途端、〈彼〉の姿が夜に浮かび上がる。それを彼は見て、〈彼〉も知った。二人共が、同時に目を細めて矢庭に笑う。
 彼と〈彼〉。同じ背格好に、同じ顔。眦にある紅い臉譜(れんぷ)までもが同じ。鏡の此方(こなた)と彼方が同じ空間に揃った不自然さと奇妙さを、互いに否が応でも感じながら。
「…シロ」
 〈彼〉が呼ぶ。
「……うん」
 彼が応える。
 はっきりとした言葉はない。だがその遣り取りで、彼等には十二分に十分だった。
 その妙な空白を埋めるように、つと〈彼〉の手が伸びた。彼の頬に流れる涙を拭おうとしての動作だった。…けれど。
「………はは」
 できなかった。手はそこに何もないみたいにするりと頬を擦り抜けて、届かない。笑ったのは彼で、傷付いたのは〈彼〉だった。
 同じ顔で違う表情を露わにした二人は、少しの後、これまでずっとそうしてきた自然さでそっと寄り添い、会話もなく、目を見交わすこともせず、ただ夜を見送った。
 静かな夜だった。夢が朽ちる音さえ、聞こえそうなほどに。


20140406
戻る




PAGE TOP

inserted by FC2 system