昔の話




 眼の前の、小さな子。痩せっぽちで薄汚れていて、土を掴む指は荒れ、石を踏む足は傷だらけ。真っ黒のはずの髪は土煙に汚れてくすみ、躰はいつも埃っぽい。
 それでも子どもは笑っていた。いつもいつも、無邪気に無垢に、楽しそうに笑っていた。今も涙を浮かべながら、彼に笑いかけて。
 苦しいだろうに、熱に浮かされながら、それでもあの子は笑って。笑って。笑って…。
『…  』
 ふと、呼ばれた気がした。唇の形だけでなぞられた自分の名。気付いて、ぽろりと目尻から涙が堕ちる。
 ぽろり、
 ぽろり、
 ぽろり。
 あぁ駄目だ。駄目だ。彼は子どもに言い聞かせる。例えそんな僅かな水分ですら無駄にできないのだと言った。彼はそれが自分の涙だなんて、気付いても居ない。
『  …』
 また呼んだ。大丈夫だよと言いたげに。声もなく、ただ喉を通る空気音。それでも確かに子どもは彼の名を呼んだのだ。分かるだけに胸が苦しかった。抱く腕に、力を込めた。
『…  、…  』
 音にならない声が自分の耳を擽って消えていく。涙が零れる。子どもの頬が濡れる。どちらもが、泣いているよう。
『  』
 子どもは最後まで、彼の名を呼び続けていた。


 別に、今に始まったことではないのだ。この店の主が気儘と言うには些か無邪気に自分勝手であることなんて。振り回されるのはいつものこと。突然、あれが欲しい、こうしたい、やっといてね、なんて日常茶飯事もいいとこだ。
 だから不思議に思わなかった。ただ一つ、あぁまたかと溜息を零しただけで。
「休み、ですか」
「そ。最近なんだかんだで忙しかったでしょ。この一週間は特に、ずっと店、開いてたもんね」
 そう言えばそうだ。この一週間、自己采配で不定期に休みを入れる主には珍しく、休日を挟まなかった。性格はあれだが腕は確かな主には元々依頼が多い。だがそれも狙ったように、この一週間に集中していた。
 作為を感じるなぁと思いつつ、言わないまま分かりましたと頷いた。七日ぶっ通しで酷使した躰は確かに休息を求めていたから、主の申し出は正直ありがたかった。…いやこの場合、ありがたがるのも変な話なのだが。
「では明日と明後日、お休みを頂きます」
「うん。じゃあ今日は気を引き締めて頑張ろうね」
 言って主はニコリと笑んだ。それはいつも通りの、ただ口元に在るだけの笑み。
 なのに。
(……変、なの…)
 心に(しこ)りが残った。何かが可笑しい。どこか、不自然。
 頭を悩ませても答えは伸ばした指先を擦り抜けて届かない。それでも何かが掴めそうと、あとちょっとを繰り返し、気付けば店を閉める時間になっていた。


「昨日のあの様子…。一体なんなんでしょう…」
 影を落とした溜息と共に吐き出された言葉は、ともすれば食堂の喧騒に紛れてしまいそうだった。しかし向かいに座る男には辛うじて届いたらしく、けれど答えは「さぁ」という、味も素っ気もないものだった。
「鬼灯さん、もうちょっと真剣に考えてくださいよぉ…」
 鬼ー、と言えば、鬼ですから、とこれまた素気ない声が返る。鬼灯は迷惑そうな顔を隠そうともせず頬杖をつき、相談を持ちかけた桃太郎を眇め見た。
「そんなこと言われても、知りませんよ、としか言い様がないでしょう。その場にいた貴方でさえ分からないのに、私が分かる訳ないじゃないですか」
「そりゃそうですけど…。鬼灯さんならこの話聞いただけで、何か掴めるんじゃないかな、って…」
「それは些か私に期待しすぎってもんです。あの男について知っていることと言えば、女癖が悪いことと頭はいいってことくらいですよ」
 まったく言い掛かりもいいとこだ。―――鬼灯は内心苛立ちながら双眸を瞼で隠し、蟀谷を押さえた。
 少し勤務時間を超過して、それでも滞りなく職務を終えたことに不満はなかった。だから機嫌よく帰ろうとしたところを桃太郎に捕まって、閻魔殿の食堂で晩飯を食べることとなったのだ。
 別に桃太郎が嫌いな訳でも食堂の飯が嫌な訳でもないが、内容が内容なだけに眉間の皺はどこまでも深くなっていく。
 似ているから、と言われる。どこが似ていると言うんだか。兄弟同士が互いを似ていないと思っているのに他人から見ればよく似ていると言われるあのようなものだろうが、だからと言ってその言い分を大人しく聞いてやるほど、ましてや理解し受け入れてやるほど、鬼灯は優しくできてない。
 他人は他人で、しかも自分達の場合は種族の隔たりさえある。そんなものがなくとも、あの馬鹿を理解しようとは思わないけれど。
 そう、自身の中で相手に対する認識を再確認していた時。
「白澤様の話ですか?」
 突然、桃太郎のものでない声で話題の核に触れられ、鬼灯の肩が揺れる。目を開け声のした方を向けば、木霊がちょこんと鬼灯の隣に座っていた。桃太郎も今の今まで気付かなかったようで、目を見開いて固まっている。
 だが木霊がそれに頓着する風はない。気にした風もない。性格の穏やかさを表すゆったりとした動作で、童子の姿をした妖精は可愛らしく両手で頬杖をついて二人を見上げた。
 笑う。笑い顔。笑顔。―――だが歪だ。
 そうと気付いたのは、いち早く動揺から抜け出した鬼灯だけだった。瞬間、目を細める。観察するようなそれは目付きの悪さの為か睨みに似て、しかし呆気なく木霊に黙殺された。
 気付いただろうに、なかったことにされた。笑みを少し深めただけの、ただそれだけの動作で。
 伊達に長生きしていない、という訳か。鬼灯は思って表情を消した。一人相撲の趣味はないと心の中で毒突いて、大人しく耳を澄ませることにした。満足したのか、木霊の笑みはまた深くなる。
「白澤様と言えば…、知ってます?」
 そう言った途端、二人を前に、二人を巻き込んでいるくせに、問いながら、木霊は思い出に耽る顔をした。記憶を手繰るように他者を排除するように、ふわりと半ばまで閉じた瞼で大きな瞳を隠し、そっとそっと夢見心地の声で言う。
「年に一度、たった一日だけ、あの方は地上に降りられるんです。花街に行くふりをして、誰にも何も言わないで、そっと一人、現世(うつしよ)に降りるんです。毎年毎年、同じ日に、同じように、ただ、一人で、…ね」
 知っているかと問うたくせに、知らないことを前提とした口調。承知だったのだろう、鬼灯も桃太郎も、どちらもが知りえないことなんて。
「そろそろ、向かうんじゃないかなぁ」
 独り言は大きく零される。故意的に、大袈裟に。そうしてちらりと視線を寄越されたのは、ぴくりと反応した桃太郎でなく、全く反応を示さなかった鬼灯だった。
 視線に視線を返す。じっとじっと見詰めて見詰められて、数十秒。
 しょうがないなと言いたげに木霊が肩を竦めた。まるで子どもを相手にする大人だ。どちらもが、子どもと言うには憚られる年月を過ごしてきたと言うのに。
「行ってあげてくださいよ」
 何故―――と鬼灯が問うことを予期していたのだろう。木霊は半拍も置かず次の言葉を紡いだ。楽しげに愛おしげに、年長者の貫禄を持って言う。
「貴方でないと駄目なんです。優しくて同情しやすい桃太郎さんでは、あの方は本音の一割も零せない。その点、厳しすぎるくらいあの方にきつい貴方なら、もしかしたら本音十割聞けるかも、です」
 聞くべきことだろうか。踏み込むべきだろうか。この自分が、あの偶蹄類の内情に?
 想像できなかった。そうする意味も分からなかった。ただ一言嫌だと言えば、それで済む話だろうとは思ったのに。次いで出たのは流されそうな心を何とか止めようとする、悪足掻きに等しい言葉だった。
「では、貴方は? 木霊さんでは、駄目なんですか?」
 歳の差で言うと木霊は白澤を凌駕する。だがそれでも鬼灯よりも近しく、それだけ共感できるところも多々あるだろうに。
「駄目です」
 返されたのはあまりにもはっきりとした(いら)えだった。嘗てそんな場面があったのではと想像することも許されそうなほど、きっぱりとした自己否定。清冽に、厳しい。
 声の調子、表情に、まるでそんなところはないのに激しいとさえ思えるそれに一瞬呆けた鬼灯を見ながら、木霊は駄目なんですよと繰り返した。影はなく落胆はなく、辛苦はなく懐古はない。ただ空を見て晴れだと言うような、
「私は〈見守る者〉、ですから」
 そんな穏やかな、声で。


 彼は山に降り立った。いつもの白衣(かっこう)でなく、殆ど着ることもなくなった正装を身に着けていた。耳に髪に服に施された飾りが、緩やかな風と戯れて踊る。音はしない。動物の気配もない。それもそうだ。そこは泰山の頂。桃源郷にほど近い、人も魔も踏み入れられぬ不可侵の聖域。
 なのにそこには墓があった。墓石があるのではない。ただ簡素に幾つもの小石で囲われた盛土と朽ちた献花だけがある。土の膨らみに立てかけられた板は年月の風化に晒され、見る度に小さくなっていく。
 そろそろ替え時か、と真白の衣であることなど構わず片膝をつき、手が汚れるのも厭わず撫でた。優しい手つきだった。愛おしげに柔らかく、板の表面につく汚れを拭う。だがいくら拭っても板は板のままで、その下から普通なら彫られているはずの名は現れない。
 それを気にした様子もなく粗方の汚れを落とし、代わりに汚れに汚れた指を横着にも服で拭うことで綺麗にした彼は、暫く彫った跡さえない板を微笑みながら眺めた。
「久しぶり」
 声は平坦に、それでも穏やかで少しの愛情を込められて紡がれる。そこから睦言じみた言葉を連々と投げかけるのだろうか、と思いきや。
「今日は空気が悪いね、あぁ僕じゃないよ、当たり前だけど。まぁそれでも僕が連れてきたようなものだから謝っておくね、ごめん。でも基本的に悪いのは僕の後ろでこそ泥のように隠れてる鬼だからねー」
「誰がこそ泥だ」
「お前だよ」
 と、日常の延長線にあるような会話を経て木の影から姿を見せた鬼灯は、やっぱり、と腹立ち紛れの溜息をつく。
 ここが目的地だと感づいた時から鬼灯の不利は目に見えていた。聖域で鬼が隠れるなんて、鬼に分が悪すぎる。
 気付いた瞬間、帰ろうかとも思った。そう思いながらも地獄に足が向かなかったのは、矢張りどんな言い訳をしても、白澤の年に一度の奇々怪々な行動に興味を持ったからだ。
「まったく、相変わらず意地が悪いですね」
「僕の後を付けてくるお前ほどじゃないさ」
 言葉に孕んだ刺々しさは常と同じ、罵り合いに発展しそうな応酬は、意外にも白澤が口を噤んだことで区切られた。
 少しの空白。向けられたままの背が、小さく見えたような気がした。そう感じて、怪訝に思う鬼灯の耳に届いたのは。
「あーあ。なんで、付いてくるかなぁ…」
 自嘲とも落胆ともつかない、声だった。


「何故鬼灯さんを行かせたんです?」
 桃太郎は腑に落ちないと表情にも声にも滲ませながら、鬼灯が去った後も座ったままでいる木霊に問う。
 それは何故自分ではなかったのかという非難ではない。木霊の言う通り、主の心音(こころね)を引き出せるとしたら自分ではなく鬼灯だろう。
 主は口も表情もよく回るが、本音を吐露することは滅多にない。詐欺師並みに己を作ることを知っている。しかもそれは哀しいほど完璧だ。
 よく笑いよく愛を囁きよく子どもの如く振る舞う主は、その実誰よりも大人だった。それは生きた年数の話ではなく、自分を他者と扱うことに慣れた行動を指してそう思う。
 主は常に自分を客体視している。何故かは知らない。だがその甲斐あって、主は自分を自由奔放な神獣であると他者に思わせることに成功していた。要らぬ手間をかけてまで何故そう見せたいのか。漠然とではあるものの、共に生活をする桃太郎は見抜いていた。
 それを木霊は知るのだろう。桃太郎に含んだ微笑みを見せた。それに、乗せられてはやらない。
「行かせて、よかったんですか?」
 主はそれを望んではいなかっただろう。あの休みのなかった一週間を思う。何の為に。今なら分かる。完璧な休みを作る為だ。
 桃太郎一人を残して消えれば、整合性の取れない言い訳を作るしかない。どこかでボロが出る可能性を少しでも減らす為に、二人共が自由である必要があった。
 その為の一週間。
 付き合わされた桃太郎にはたまったものではないが、自分がいなければ主がそこまで頑張る必要はなかったのだと思えば、なんだか申し訳ないような気もする。
「気にする必要はないですよ」
 木霊は言う。それは桃太郎の言葉と心情、どちらにも向けられたようだった。小さいながら何千何万と生きる山神は、木の温かさを体現するように笑う。なのに心が引きつったように感じた。
 不安だ。人の心を不安定にさせるような、これはそんな笑顔だ。
 それを知っている、と思った。見覚えがある。どこかで、この人じゃない誰かが。そんな風に、笑っ、て。
「何も気にすることはない。でも気にしてやらないと壊れてしまうこともある。停滞は何も生み出さない。静止は何も癒さない。躓いた場所から動き出さなければそれ以上の傷は防げるけれど、傷口が膿んで腐って死んでしまえば、なんのことはない、無駄の一言に尽きる。あの方がやっていることは、つまりそれと同義だ。誰かが気づかせてやらなければならない。大事なことは傷を守ることではなく、傷ついて、それからどうするかということなのだと」
 あぁ、あの人だ。答えは唐突に桃太郎の心に湧いた。木霊はまだ笑っている。でももう、誰の笑顔とも結びつかなかった。
「あの方は、そろそろ許されてもいい頃だ」
 何のことか分からなかった。でもこの人が言うのならそうなのだろうとも、思った。


『あーあ。なんで、付いてくるかなぁ…』
 怒りではない。蔑みでもない。取り繕うこともなく零された消沈の声音に、鬼灯は内心動揺した。責められているのだと、気が付いたからだ。
 そもそも白澤と鬼灯の遠慮会釈のない関係は、互いの距離の測り方が正確だったからこそ成り立っていた。二人はその意味で距離の取り方を間違えたことはない。どちらもが一定の距離を保って、一線を踏み越えず、礼節だけを忘れた関係に没頭していた。
 悪友のように容赦無く、他人のように余所余所しく、仇敵のように対立する。それらを纏めたような関係でいられたのは、偏にその絶妙な距離感にあった。
 なのに、鬼灯が今日、ここへ来たことでその均衡は破られてしまった。木霊の言葉に興味を覚えてのこのことついてきてしまった。そのことに、白澤は失望の色を見せている。
 あぁ気付いて然るべきだった。この男が隠そうとするものなど、恋やら愛やらといった甘美なものでなく、傷と言って差し支えないものであることなんて。
 自分は傷に触れたのだ。白澤が守るように隠していた傷に、他の誰でもない自分が触れた。最悪にも好奇心という、最も免罪符にもならないものに突き動かされて。
「………」
「………」
 気不味い沈黙が下りる。謝るべきだろうと分かっていて、鬼灯は何度か口を開いては閉じるを繰り返した。…言えない。普段と違う状況に呑まれてはいるものの、矢張り相手が相手であるだけに謝辞を飲み込んでしまう。
 その沈黙を、嫌ったのだろうか。
「…まぁ、いいけど」
 無音を裂いたのは、白澤だった。今更しょうがないと、片膝をついたままの状態から立ち上がり軽く土を払う。くるりと回れば、いつもの人を喰ったような笑顔が見えた。
「大方誰かに聞いたんだろ? まぁ誰かは推測つくから聞かない、興味もない。正直僕は今、機嫌が悪い。でもバレると分かっていてここまで来たお前のその根性の悪さに免じて、一つだけ質問を受け付ける」
 それで今日のことは忘れろ。
 言い捨てた白澤に、らしくない、そう思った。
 鬼灯の知る白澤は条件付けを嫌う。きっぱりと零か一か、有るか無しかで判断する白澤のらしからぬ言葉に、しかしそんな状況に陥らせたのは自分かと溜息をつきたいのをぐっと堪える。けじめなのだと分かった。この妥協は、今の状況を変える為に必要なのだと知った。
 だから鬼灯は一つだけ聞いた。当たり障りのないことを聞いた、つもりだった。
「その墓に入っている方の名前は、なんですか」
 瞬間、白澤が笑うことを止めた。たった一瞬で掻き消えた。呆然とした表情が垣間見えて、それを隠す為だろう、前髪をくしゃりと掻き乱した。顔が見えなくなる。髪に触れる手が、震えたような気がした。
「……痛いとこ突くね」
 か細く聞こえた言葉。…あぁ、また失敗したのか。鬼灯は自分が白澤の読みと期待を無残に踏み躙ったことを理解した。また自分は、彼の傷に触れたのか。
「お前は本当に嫌な奴だよ。大嫌いだ」
 憎々しげに言いながら、苛々とそう言いながら、手が退けられて見えた顔には酷く静かな嫌悪が浮かんでいた。
 久々に見る、白澤の本性。それは人好きのする普段の彼からは程遠い、人嫌いを全面に押し出した顔。
 …あぁそうだ。彼は他人を、自分以外の全てを嫌っている。本当は心底世界を憎んでいた。
 そのくせそんなことはないと繕った顔をするから、鬼灯は白澤が大嫌いだった。似ていると言われることが屈辱で堪らなかった。白澤が誰かに笑いかけ愛を口にする度、虫唾が走った。
 化けの皮を剥がしてやろうと何度喧嘩を吹っかけても、白澤はのらりくらりと逃げまわる―――これまでを思い出して、先ほどの白澤の様子に絆されかけた鬼灯の眉間に知らず皺が寄った。
 見咎めて、白澤は良い気味だと言いたげにハッと笑う。
「お前が聞いたんだ。最後まで聞いて行け」
 いいえもう結構ですと言ってやりたかった。聞きたくないと思った。ここにいたくないとさえ思った。この、どこまでも自分と相容れない男の傍から離れたいと思った。
「僕は昔、一人の子どもを殺したのさ」
 ―――できなかった。


 耳に痛いほどの沈黙が(よぎ)る。風が吹いているのに木々は戦がない。斜陽が嫌に眩しい。だがそれは薄い膜を通して見るように、どこか現実味が薄かった。(さなが)ら忘れ去られた風景画のように、朽ちるのをただ待つだけの空間に迷い込んだよう。
 不安が容赦なく煽られる中、見詰める先の白澤は泰然と佇んで一つ瞬いた。長くゆったりと時間をかけて切れ長の目が隠されて晒される。悠久の時を見詰めてきた双眸は凪いだ海に似て静か。容貌も既に先ほどの感情を捨てており、冷たいほどの無表情を貫いていた。
 …あぁ。気付く。今、彼は桃源郷に住まう薬師の顔を捨て、神と同列の獣としてそこに立っているのだと知った。普段の不特定多数に見せる浮ついた顔でなく、少数が知る嫌悪を滲ませた顔よりも尚珍しい、感情という感情を極限まで削ぎ落した顔。
 それが神獣、白澤としての素顔だった。
 正装であることも合わさって、彼は今、誰よりも神らしくそこに在った。人の痛みを分からない、そんなところまで愚直なまでに神らしい、無機質な顔をして。
 だからこそ、と長らく止めていた息を吐き出して鬼灯は小さく呟く。
「…貴方に人は殺せない」
 分かっているでしょうと言いたげに、戸惑いを込めて白澤を見た。白澤はそれを静かに受け、返す。
「…そうだ、僕には人を殺せない」
 表情と同じ、揺れない湖面を思わせる抑揚のない声。記憶の淵をなぞるように、視線がそっと揺れる。
「人でなくとも、誰かを傷つける術を僕は持たない」
 人は神殺しになれるのに、神は人殺しになり得ない。それは理論や理屈でなく、覆ることのない理だ。だがそれでもと白澤は言う。覚えている。忘れられない。あの日、確かに自分は。
「あの子を、看取ったんだ」


 彼は天上天下にたった一つの存在として創られた。白澤はその意味で種族であり名前であり存在を縁取る(しゅ)であった。また彼はその当時唯一の神獣であり、世界の全てを知る者であり、神に一等近い存在でもあった。
 だが世界はまだ未完成で、辛うじて天界ができているに過ぎず、地獄はまだやってくる死者を収容するだけの、受け皿程度の存在でしかなかった。
 よって現世は生と死が無差別に順序なく共存する、坩堝のような空間を形成していた。早々に天界での生活に飽きて暇を持て余していた彼は、そんな現世に興味を持った。有象無象の人の生活を観察することに決めた。
 それも最初は楽しかった。だがどうしたって徐々に飽きてくる。人の進化は神獣である彼にとって遅すぎる。大人が赤子の歩幅に合わせようとするくらい、人の歩みは遅かった。
『いっそ人間に扮して世界を掻き回しちゃおうかな…』
 何度彼がそう思ったか知れない。その頃世界に君臨していた皇帝は、彼が呆れるほど凡才で保守的な、酷く詰まらない男だった。昔からの方法や仕来りを盲信し、薬師が新たに見つけた薬草や医師が発見した治療法を蔑ろにすることが殆どで、民がどんな生活をしていようが意に介さなかった。
 権力を笠にきて己を大きく見せるしか脳のない男。
 当然、そんな男が治める国で、文化が発達し、文明が発展する訳がない。国は停滞し、進化どころか退化の一途を辿って悪夢のどん底にあった。
 そこから脱却する為には起爆剤が必要だった。例えば、新たな王の誕生といったものが。
 彼は気付いていた。愚鈍な男の傍に、それだけの器を持つ人間がいることを()っていた。あの男の下にいるのが憐れなほど、その人間は賢く慈悲に溢れていた。その人間ならば世界をより良い方向へ導くだろう。自分が唆してしまおうか。あぁそれはきっと楽しいだろう、面白いだろう。ひいては人間(かれら)の為になる。
 そう、思いながら。
『―――まぁいいや』
 結局、彼は傍観者のままで在り続けた。人と接したことがない為に上手く化けられないだろう懸念がその要因の大部分を占めたが、何より、彼は良くも悪くも神獣だった。
 所詮は人の世のこと、自分には関係ないと、躊躇わず割り切ることができてしまった。下手に関わってしまうと後が怖いし、どうせいつかあの男は死ぬ。それとも死を待たず誰かが手に掛けるだろうか。どちらにせよその後を楽しみにしよう。男の死後、国は今よりは発展することは確実だ。そうしたらどんな国になってどんな人間が育つだろう。それは今より自分を楽しませてくれるだろうか――…。
 そんないつかを夢見ながら、神獣は天上の楽園で下界を慰みに微睡んでいた。


「でも、世界は僕が望んだようにはならなかったよ」
 次にたった皇帝も、あの男と同等かそれ以上に昏君(ばか)だった。血筋を重んじた官吏達があの男の息子を玉座に据えたからだ。
「その所為で国は荒れに荒れた。人は今日明日を生きるのに必死だったよ。重税と貧困に喘いでいた。しかもその年は旱が続いて、最悪の三乗くらいに最悪だった」
 あの子と出会ったのはその頃だ、と呟いた白澤は、その年のことを思い出したのだろう、俄に表情が翳った。鬼灯は冷静にそれを見て、何故、と問うた。
「出会った、と言うからには現世に降りたのでしょう? 何故です? ずっと上から見下ろすだけだった貴方が、何故地上に行く気になったのですか?」
 聞いて白澤は一つ瞬きをした。それで表情が消える。そうして無味乾燥を語らせるなと言いたげに、
「見てみたかったから」
 と平淡に言った。
「それだけさ。僕は体感したかった。天界や桃源郷にいると体験できない旱ってやつと、貧困という現象をね」
 最悪だ。鬼灯は内心で吐き捨てる。悪政より旱より、この神獣が最悪だ。その心情を表情から察したのだろう、白澤は嘲笑(わら)った。
「お前の感想なんかどうでもいいよ。まぁ兎に角僕は下りてみて直ぐ様後悔した。僕がいるべき場所じゃないと悟って直ぐ天上に帰ろうと思った」
「…できなかったんですか」
「気候があまりにも違いすぎた所為でものの数秒で夏バテ、…いや、脱水症状になったのか。飛ぶ元気なんてありゃしないよ」
 しかも降りた先は人里離れた山。誰かに頼んで水をもらうこともできない。そもそも頼んだところで貰えるなんて期待は全くしていなかったけれど。
「まぁ少し休めば大丈夫だってことは分かってたから大人しく寝転んでた。もしかしたら寝てたのかな。何かに気付いて目を開けたら、目の前に子どもがいたんだ」
 今でも鮮明に思い出せる。小さな子どもだった。細くてひ弱で汚れていて、みっともない布みたいな服を着ていた。肌は乾燥して唇も指先もひび割れて。でも異形の獣である自分を見詰める好奇心にキラキラと輝く瞳は、瑞々しくて新鮮で、綺麗、だった。
「地面に座るその子の横には桶があった。どうも水をかけてもらったみたいなんだよね。僕は全然覚えてないし、その必要もなかったって言うのに。しかも行き倒れの人間にするなら分かるよ、でも普通、見たこともない獣にそんなことする? 水不足が深刻でさ、多分自分の為か、家族の為に汲んだ水だっただろうに」
 馬鹿だよね、と神獣は素っ気なく言って、馬鹿だよ、と繰り返した。当時の戸惑いを思い出したように視線を泳がし、けれど結局、ほんと馬鹿、と言って、くしゃりと笑った。…あぁ嬉しかったのか。鬼灯は思った。
「取り敢えず助けてもらったと解釈してお礼を言って、ついでに名前を聞いた。でもあの子は答えなかったよ。もともと喋れない上に、あの子は字の書き方も、自分の名前も知らないようだった」
 それはその時代、特に珍しいことではなかった。だから驚きもせず、白澤はただふぅんと言ってぺろりと長い舌で子どもを舐めた。何に使う水だったかは知らないが、取り敢えず礼として汚れを落としてやろうと指先から腕を、足先から足を綺麗にした。舌先がざらざらした。土や血の味が不味かったが、なんとか耐えて。
 ふと見ると、子どもは驚いた表情で固まっていた。食われるのだろうかと怖がられ逃げられてもそれでいいと白澤は思っていたのに、いつまでも逃げる様子はない。腰が抜けたのだろうかと最後に頬を舐めてやると、子どもは白澤を見上げ、首を傾げてニコッと笑った。危機感のまるで見えないその笑顔に、白澤はこれまでに何度も思ったことを改めて思った。曰く、―――人間は馬鹿だ。
「でも、……でもその愚かしさは、嫌いじゃないと、思ったよ」
 白澤はやんわりと目を優しく細めてそう言って、その一瞬後、くちりと唇を噛み締めた。何故か、と思えば。
「…人が生きるにはあまりにも辛い時代だった。大人でさえそうだったんだ。子どもなんて言うまでもない。まして医学の進歩は遅延して、その癖薬代は馬鹿みたいに高かった。ただの風邪薬でさえ、貴族以上じゃないと手に入らなかった」
 そんな世相を把握していた白澤は、少し、ほんの少しだけ、心配した。目の前の子どもがそんな時代に殺されてしまうような気がした。それはそれでこの子の天命なのだろう。だがそれを、―――許していいのだろうか。
「初めて自分の行いに疑問を持った。自分は何か、間違っていたんじゃないかって」
 聞いて即座に何かを言おうとした鬼灯は、白澤の表情を見てそっと口を閉ざした。自分の言いたいことを白澤は分かっている。それは痛感と言うよりは痛切に、哀切さえ覚えるほどに、白澤はそれを身に沁みて理解しているのだろう。
 その結果が、彼の足元にある墓標なのだろうから。
「…亡くなったんですね」
「……僕と出会って、数週間後のことさ。嫌な予感がして下りてみれば、案の定。その当時の薬じゃあ、どうしようもなかった」
 森羅万象を知る神獣には分かってしまった。彼を治す薬ができるのは、もっとずっと、後のことなのだと。
「だからせめてと、僕が此処まで連れてきた。天に一番近い、泰山へ…」
 かと言って、当然何か出来たはずはない。異界の存在(もの)同士が交わることは不可能だ。山に満ちた清浄な空気が子どもの死を遅らせたとしても、結末は変えられなかっただろう。仙桃が子どもの口元を潤すことなく、唇に触れた端から消えていったように。
「…貴方にとって死は障りでしょうに」
 慰めることもできなくて、鬼灯はただ言葉を繋ぐようにそう言うに留めた。それを受けて。
「うん、死にかけた」
 白澤はなんでもないことのように言う。邪気(あどけ)なく空虚に微笑み、過去を見詰める眼差しを優しく細めて、彼は。
「でもそれは言葉通りの意味じゃなく、本当にただ、死にかけるように辛かったってだけの言葉の短縮にすぎない。結局どんな状態でも僕は死ねない。当然だ、生きてない僕に、死は永劫訪れない」
 …いつかの彼が言ったことを鬼灯は思い出す。「お前の肩書きである鬼神は階級だけど、僕に名指された白澤は現象なのさ」と。その意味を今更のように思い知る。確かに、彼と自分とでは在り方からして違うのだと。
「だから構わなかった。死に触れるのは辛かった。怖かった。でも言い換えれば、辛い怖いで済ませられる程度のことだったのさ」
 言って、表情に滲むほどの哀しみを抱えながらも、それが哀しいと白澤は言わない。言えないのだと鬼灯は悟って、話題を変えるように問うた。
「どんな方だったんです?」
 その問いに、白澤はなんとも言い難い、それでも敢えて言葉を当て嵌めるのならば、ふわりとした笑みを浮かべたように鬼灯の目には映った。奇妙で奇矯な微笑。それが口端に鎮座している不自然さに居心地の悪さを覚えながら、解を待てば。
「お前も知ってる顔だよ」
 と言う。え、と思わず驚きを見せた鬼灯の気の抜けた顔を楽しげに見遣る白澤。やはり口元には不可解な笑みがあって、それが、答えになった訳ではないけれど。
「……白澤さん、まさか…」
 何故だろう。何故か、唐突に理解した。納得には至らない。腑に落ちることもない。だが、それでも。
「そう。この姿は、あの子を模したものだ」
 …何を、不思議に思うことがあるだろう。この人は、目の前にいる、存在(かれ)は…――。
「分かってただろ。人形(ひとがた)になる術を知っていたとして、人じゃあない。生まれ付きの姿はどうしたって獣なんだ。お前はよく僕を偶蹄類だと言うけれど、まぁ間違いじゃないし、だから僕は一度だって自分が獣であることを否定したことはない」
 その白澤の言葉の正しさを心底認めながらも、鬼灯はまだ理解の追いつかない、どこか飽和した頭で考えた言葉を吐き出していた。
「それは、贖罪、ですか?」
 聞いていいのかを斟酌する心の余裕はなかった。だから感情の赴くまま聞いた。それが彼の心の深みに土足で踏み込む言葉になりかねないと気付いたのは、言った後のことだ。
「分からない」
 しかし鬼灯が気にかけるほど、白澤が気にした風はなかった。きっぱりと言って、尚も。
「ただあの時は、あの子を抱き締めてあげたかった。一人で死んでいくあの子の傍に誰かがいたことを覚えていて欲しかった。獣の姿のままじゃ、それはできなかったから」
 だからだと言う。だからあの子の姿を借りたのだと。そして、そうして、今もその姿で居続けたのは…――。
「…僕はあの子の声を知らない。でもあの子の姿を象ってこの声が出たのだから、僕が喋ろうと思う度に零れる音はどうあってもあの子の声なんだろう。僕の都合で成長したこの姿も、きっとあの子が大きくなった時の姿なんだろう」
 何度でも思う。鏡を見る度に思う。水面に、窓に、映り込む姿に、あの子を想う。
「後悔じゃない、懺悔でもない――…なんて、そんな風には絶対言えないし、思えない」
 それまで自由気侭に生きていた神獣は放浪することを止めて居を構え、仙桃を植え、薬を作り、医学の発展に努めた。必要と有らば現世に降りてそれを広めた。必要な時代に、必要な知識だけをばら撒いた。後悔があった。懺悔でもあった。自分が己の力を適切に使っていれば、もしかしたら回避できたかもしれない事象だったと思うから。
「…だから真実、あの子は僕が殺したのさ」
 選んでやれば良かった。善い為政者を。子が捨てられず虐げられない世を創れる王を。守ってやれば良かった。見逃した小さな傷が少しずつあの子を蝕んだ。不純物は傷口から血管に入り、血を介して全身へと行き渡る。病気はそこから生まれたのだ。傷口を水で洗い流す。ただそれだけのことで―――防げたのに。
「尊く在れ、不羈(ふき)の獣、人と交わらず、人と介さず、天高く…」
 汝の智は八極に優る――…。
 誰に言われたのでもない、生まれた時から脳裏に刻まれたその言葉は、知らず知らずのうちに白澤の生き方を制限していた。自分が神獣であるという自惚れもあった。全てを知る故に何にも興味を持てなかった。下界のことなんて、尚更意識にも上らなかった。でもあの日を越えた今なら分かる。生に触れ、人を知り、死を見送って、思った。
「僕は馬鹿だ。小さな子ども一人救えなかった、…大馬鹿者さ」


 地獄の空はいつもそこかしこで焚かれる炎を映して明るく、それ故夜を夜と知れるのは、時計の針がそれを指し示すからという、身も蓋もない散文的な理由だった。
 例に漏れず目に入った閻魔殿の大時計に、あぁそろそろ一日が終わるなと視覚的に時の移ろいを知った木霊は、背後から声をかけられて振り返る。
「やっぱ君だったんだ」
 と常の白衣を纏い、いつもの如くあってないような笑みを浮かべる白澤は、だが別に秘密を漏らしたことへの恨み言を言う風ではない。あっけらかんとして、逆にそのことを楽しんでいる風ですらある。
 恐らく繕ったものではない。白澤は今日の出来事を、果ては過去、未来に至るまで、ただ受け入れているだけなのだ。あったこと、そうなったこと、それは自分の感情がどうであれ、起きたことは必然、そうあるべきだったのだと。
 白澤(かれ)らしいと、木霊は思う。人間(ひと)が抱く葛藤も懐古も、神は決して斟酌しない。時が進む無慈悲さで、事の起こりその結末を肯定する。運命を捻じ曲げるのは神の所業なのに、神はその結果に責任を持ってはくれないのだ。
 だがそう受け入れる神だって全く傷つかない訳じゃないと知る木霊は、悪戯が露見した子どもの顔で、そのくせ大人の静けさで、ただ穏やかに問う。
「鬼灯様に聞きました?」
「聞かなくても分かるよ。木霊(きみ)の性質と性格を思えば、さもありなんってとこかな」
 意地悪く言って、なのにやっぱり咎めの色は見えない。そんな白澤の顔を見遣りながら。
「楽になったでしょう?」
 言われて、白澤は肩を竦めた。
「あんなの嫌がらせだよ。おっもい話してやって、あの鬼の気を滅入らせようって作戦」
「うまくいきました?」
「…さぁね。あの鉄面皮がどう思ったかなんて、僕じゃ分かる訳ないよ」
 そう言い訳しながら、白澤はいつもを思えばくるくると目まぐるしく変わっていった鬼の表情(かお)を思い出す。それだけ重い話をした自覚はあった。話すべきでないと知りながら、八つ当たりのようにぶち撒けたことも。
 まぁ嘴を容れたアイツの自業自得だから罪悪感の欠片もないけれど、なんて思う白澤に、木霊はそっと微笑んで。
「いいじゃないですか。痛みを共有できる誰かがいるというのは、幸せなことですよ」
 幸せ? それはどうだろう。よりによってあの鬼だ。今後もどうせ今までの啀み合いが解消されることはきっとない。それでいいとすら、思っている。
 そう思っている素振りなど微塵も見せないまま。
「お断りだね」
 白澤はそう、笑って言い切ったのだった。


20130511
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