静夜
[ 忘れ形見 ]木ノ葉の里の、外れ。
中心地から程遠く、深い森に近いそこは、昼間でさえ人通りのない鄙びた場所だった。
夜ともなれば森は不気味に葉を揺らし、何かの声が風に乗って聞こえる。
獣のような、そうでないような。
そんな場所に、ある幾万の星を従えた清月の夜、小さな影が一陣の風が通った後に現れた。
十にも満たない小さな影。
そこに何かが見えるようにあるように、じっとある一点を凝視する。
そして小さく何かを口遊めば、小さな影が見ていた部分、丁度そこがぐにゃりと歪む。
しかしただそれだけ。
微かに僅かに、空間が
変わらず森はそこにあって、一歩でも踏み込めば後は闇に落ちていってしまいそう。
けれど小さな影は気にせず一歩を踏み出した。
無造作に、日常の延長線の出来事のように。
そして一歩をまたず、半歩も進んだ所で空間がまた緩む。
先程よりも大きく、歪む。
一瞬、雷鎚が落ちたようだった。
それこそ瞬きの間に閃光がそこに走った。
その一瞬後。
小さな影はそこに最初からなかったように消えていた。
その代わり、というように。
さわり、と草の啼く声がした。
鳥の羽搏きが闇を裂く。
星がキラキラ瞬きをする。
月が穏やかに微笑んで。
今宵はそんな、微風すら響く、静かすぎる夜だった。
初音
気づかなければ、ないも同じ。
存在を知覚して初めてそれはそこに在ると云える。
気づかれなければ嘘が嘘で在り得ないように。
心のありようは、ともかくとして。
(あぁ、だから)
気づかなければ、よかったか。
気にしなければ、よかったのだろうか。
疑念に疑惑を持たず、疑問にすら思わなければ、それは。
(存在しないのと、同じことだっただろうに)
でもいつからだろう、気づいてしまった。
だって消えるのは夜が明けるのと同じくらい自然なことで、だからそうだと確信するのが遅れた。
何故気づかなかったんだろう。
何故気づいてしまったんだろう。
ずっとずっと、そうだったのに。
そうであって、いったのだろうに。
(…あー、くそ)
どっちにしたって、
「むかつく」
苛立ちがはっきりと窺える言葉に、今宵同じ任務に就いていたアスマがなんだそれはと笑って咥える煙草を思わず放す。
視線を下ろせば暗部姿の金髪の子ども、ナルトが、口調に滲む苛立ちそのままの顔をして眼前の黒い森を鋭く睨んでいた。
おぉ怖、と肩を竦めたアスマが、
「カカシか?」
と訊けば、
「…あぁ。そんな名前だったっけか、あいつ」
と素っ気なく返される。
やれやれと首を振ったアスマはぷかりと煙の輪っかを見た目以上の器用さで吐き出した。
「今回は?」
「今日で五日目」
「まだマシな方じゃねぇか」
あいつの失踪癖を考えればな、と軽く云うアスマを睨んで。
「俺に何も云わずにか?」
「あいつだって餓鬼じゃねぇんだ、勝手にどっかに行くこともあるだろ」
「あり得ない」
ナルトはハッと鼻で笑ってアスマに噛み付いた。
「あいつは出かける時はこっちが訊かなくても喋る。行った後に勝手に喋る。どっちにしろ喋りたがる。なのに、この時期の失踪だけは別だ」
この時期、季節の変わり目の、一週間程度の失踪。
どんな任務も誘いも断って、たった一人いなくなる。
探しても意味のないことは疾うに知れたことだった。
そうだろう?、と確信を得た表情はアスマに向いたまま揺るがない。
そうしてそのまま、肩を竦めて話も視線も流そうとしたアスマを睨む双眸が、薄く鋭く細められて、
「カカシは、どこにいる」
アスマを、射貫く。
「…なんで俺に訊く」
「アンタなら知ってるはずだぜ? 他の誰が知らなくても、アンタならな」
実感のこもったそれに、アスマは何も云わずふーっと煙草の煙を空に吐く。
否定も肯定もない。
見詰めると云うには強すぎる視線と、それを受けるには穏やかすぎる視線と。
その応酬が少し、続いた後に。
「あぁ、知ってるよ」
あいつのことだからな、と。
憎らしいくらいアスマは飄々とそう云った。
強気と云っていいほどの態度でそう云って。
けれどふと、視線は弱気に逸らされた。
夜目にも白く映る紫煙を追うような自然さで。
だが矢張りそれは不自然だった。
どう誤魔化した所で、どうしても。
不自然、だった。
笑みが急速に失われて、思案の色が眸を掠めた気がした。
こいつらしくもない―――とナルトが怪訝に思った時に。
「…俺はな、ナルト」
アスマが躊躇いの色をその声の影に潜ませて切り出した。
静かに閑かに。
それはそっと、夜の空気に零すように。
ずっと分からないままなんだと、呟いた。
「……何が」
同じように静かに問うナルトの声に、アスマは感謝するように口端だけでほんのり笑って。
「俺は長いことあいつを見てきた。あいつの過去は、俺が知る限りでさえ傷だらけだ」
カカシが傷を求めるんじゃない、傷がカカシを求めたんだ。
そんな幻想を抱くくらい、許されるくらいに、カカシは見えない傷を抱え込んできた。
なんであいつが。
あいつばかりが。
遣る瀬ない思いは音もなく降り積もっていく。
噛み締めた唇はいつしか血を流しすぎていた。
それでも止められた筈がないのだ。
傷を抱えながら一人消えるあいつの後ろ姿を。
知りすぎたんだとアスマは云う。
傍にいすぎたんだと。
嘆くような台詞。
それを、悔いてもないくせに。
「知りすぎて、だから俺はあいつを此処に留めておけなかった。消えるあいつの背中を見送っても引き止めてやったことはない。あいつが傍にいるなら傍にいた。…ただ、それだけだ」
傷の大きさを、深さを、知るからこそアスマは傷に耽るカカシを見て見ぬ振りをした。
最善でないと知っていた。
そしてまた、それが最悪でないことも知っていたから。
でも―――だから。
傷は、傷のままで在り続けたのだけれど。
「俺には出来なかった。これからもそうだろう」
そう思って、思いながらも。
「…できるなら、あまりあいつの過去に触れてやるな」
ナルトは、それを責めることはできないと思った。
ギィ…、とどれだけ静かに開けても軋む扉を押し、踏み入って見渡した荒屋。
歩くだけで舞い上がる埃。
口布をしていなければ粉塵をしこたま吸い込んでいたことは容易に想像がつく。
掃除なんて年単位でしてはいないだろう。
呆れて、でもしょうがないと諦めた。
そういう場所ではないのだ。
掃除とか、生活とか、そんな行為や目的のためにここはあるのではないと知るから。
溜息に紛う吐息をついて進む、進む。
部屋があれば覗き込み、角があれば曲がり、扉があれば開け放して。
何度かそれを繰り返し、そして、とうとう。
「―――…」
見付けた。
漠然と最奥の部屋か、自室のような場所にいるかと思い探していたというのに。
それが、よりにもよって縁側とは。
雨戸も格子戸も取り払われたそこで、猫のように丸まって、無垢に眠りこけているなんて。
「…カカシ」
呆れと驚きと安堵とが混じった呼びかけは、殆ど空気に混じって声として成り立たない。
…それでいい。
それで、よかった。
(起こしたいわけではなかった、そのために探していたのではなかった)
眠らせてやりたかった。
静かに、閑かに。
せめて、…ここでは。
『カカシは家にいる。今の家じゃない。生まれた家だ。あいつが生まれ育ち、そして、最初に失った家に――…』
この日がなければ、きっと永劫、訪れることはなかった。
その存在を知ることさえなかっただろう。
カカシの家、生まれた家、育った家。
そして、失くし、捨てた家になど。
(…もうここに、安らぎはない)
隙間風が
朽ちるのを待つだけだ。
それでも、そう突き放すには、ここにはあまりにも優しい記憶が息吹いている。
だからカカシは手放せない。
もう誰もいないのに。
もう誰も帰らないのに。
自分ですら戻らない場所を残して置きたがる。
そんなの、何にもならないのに。
(でも大事なんだよな…お前にとって、何よりも)
アスマは云った。
カカシの過去に触れるなと。
(そうすることが、カカシのことを思えば正しいんだろう。そっとしておいてやるのが良いのかも知れない)
…でもさ、でも。
(だったら―――
ずっと変われないまま、変わる切っ掛けを持たないまま。
(ずっと、過去に生きる意味を見出し続ける)
そんなの駄目だ、そこから動き出さないと。
(だってそうじゃなきゃ、)
―――今お前の傍にいる俺達は、一体何なんだと、問い詰めてしまいそうで。
(〈今〉は確かに過去の延長だ、でも俺達は俺達なんだ。お前が引きずる過去を知らないまま生きている、それは、どうしようもないことなのに)
なのにお前は過去を生きるのか。
俺達がいない時間を生きる基準にするのか。
俺も、サスケも、みんな、いない時代を。
(――…そんなの…)
そんなのって、…ねぇよ。
理解はできない、納得することもないだろう。
カカシの行動を、この執着を、これほどの、想いを。
遺された想いを、両親の
カカシを本当の意味で分かってやれる日は、永遠に来ないだろう。
(だけど、なぁ、カカシ)
たった一度だけだ。
二度目はない、これからも云うことはないだろう。
だからせめて、夢の中で訊いとけ。
「(いきててくれて、ありがとう)」
だからこそ、俺は。
お前の
夜がすぎる、穏やかに。
風とともに時が流れていく。
だが終りはまだこない。
この夜の先に朝は確かに待ち構えているだろうに、それをまったく感じさせない宵。
縁側で、それを見る。
寝入るカカシの傍らで、ナルトは夜の向こう側を待つ。
20110809