せんせい
[ 何度でも呼んで、応えるから。 ]「…先生は先生で、父さんじゃ、ないですから」
その言葉に、何故か酷く動揺して。
子どもが困ったような焦ったような顔をして、せんせ、と背伸びし顔に手を伸ばし。
泣かないでと云われるまで、自分が泣いているとは思いもしなかった。
そして気がついたからといって涙が止まるかと云えば、そうではなく。
ぽろりぽろりと眼から生まれて頬を伝い、下へ下へと堕ちていく。
子どもは尚も流れるそれに困ったように体を揺すらせたり俺を見たり手を伸ばしてくるけれど。
そのどれもが宥めると言うには拙くて、決定打ではありえなくて。
あぁけれど、宥め方を彼が知る筈はないのだ。
小さな子であるからという以前に、彼には宥められるという経験が殆どない。
自分にされた覚えがなければ、誰かにしてやれる筈もない。
あぁそうかと、泣きながらに気がついて。
そういう時は、誰かが泣いている時は、こうしてやれば良いんだよと。
膝を付き、腕を回して、小さな子を抱きしめる。
途端身体を固くしたその子に、あぁこういう経験もないのかと哀しくなった。
クナイの使い方も戦術的思考も術を使うタイミングも暗号解読だってピカイチなのに。
こう云う事はとんと知らないのだ。
思えば、止まりかけていた涙がまた流れていく。
子どもの肩を濡らしていく。
干からびちゃいますよと、腕の中の子どもが居心地悪げにそう呟いた。
そうかもしれないと、ぼんやりと思った。
師弟
何が発端だったかと云えば、クシナに子どもができたんだと、カカシに報告した事だろうか。
カカシはそうですかと言って、ぼんやりと俺を見て溜息を吐いて云ったのだ。
先生が、父親、ねぇ。
変なの、と云い、面白くなさそうにクナイを振り回して遊び始める。
危ないよと奪い取り、それにしてもなぁにその言葉は、と不満を覚えて抗議する。
いいえ別に他意はありませんが、とカカシは俺を見ずに云い切って、白々しく口元だけで笑った。
まったく、不満があるなら云いなさいよ、なんて云ってもどこ吹く風、知らん顔。
それでも消えない眉間の皺に、笑えばようやくこちらを見た。
そっかそっかー。
……何です。
ふふっ。
………何が面白いんですか。
寂しい?
は?
俺が、誰かのお父さんになるのが、寂しい?
………。
大丈夫だよ、カカシは俺の息子も同然だからね!
なんて。
うりうりとカカシの眉間の皺を消すように人差し指で弄れば。
痛いですと身を引いてカカシは両手で赤くなった所を隠して俺を睨みつけてきた。
そして、そういう訳じゃあないんですと、カカシはぼそぼそと否定する。
違うの、とちょっと残念に思いながら、だったら何が気に喰わないのかと首を傾げたその時に。
云われたのが、冒頭の言葉。
…先生は先生で、父さんじゃ、ないですから。
………。
そりゃ、そうなんだけどね。
分かってるんだけどね。
カカシのお父さんはサクモさんだけで、俺はただの上司。
付き合いの長さがそろそろサクモさんとカカシが一緒にいた期間よりも長くなろうとしていたとしても、そんな事は関係なく。
カカシのお父さんは、サクモさん。
俺は、ただの上司。
分かってるんだけど、分かっていたんだけど。
ちょ、先生。
焦った声が聞こえる。
せんせ…。
あれ、可笑しいな。
直ぐ傍にいたカカシの顔が見えないや。
なんだろう、なんでだろう。
いい大人が、泣かないでくださいよ…。
そんな疑問はその言葉で氷解する。
あぁ泣いてたんだね、それで視界が不明瞭なのか、なるほどね。
あはは、みっともないってまた云われちゃうね、カカシ。
ごめんね、すぐ泣き止むからね。
そう云いたくて、けれど云えない事にびっくりした。
喉が何か云う事を拒絶するように震えて云う事を聞かない。
あれあれ可笑しいな。
可笑しいね。
あぁでも多分。
分かる気がする。
理解できるよ。
(俺が感じていたカカシとの距離と、カカシが感じる俺との距離)
(違ってたから哀しいんだね)
(涙が出るほど、寂しいんだね)
ぐずぐずと眼を擦れば、赤くなるからやめなさいとカカシに止められて、どっちが大人か分からない。
それでも子どもはやっぱりカカシで、だから頑張って持ち直さなきゃと思ってたのに。
「……先生は、先生の子どもの父親じゃなきゃいけないんです」
カカシはするりと俺の腕から抜け出すと、数歩の距離をとって俺に背を向けそう云った。
「俺と父子ごっこするんじゃなくて、その子だけの父親にならなきゃいけないんです」
知っていますかとカカシは云う。
父親が偉大である事の誇らしさを。
その偉大な父が、自分の親である事の誇らしさを。
「俺は、それを身に染みて知ってますから」
だから俺が先生をその子から奪っちゃいけないんです。
先生も、その事を知ってなきゃいけない。
「俺にとって波風ミナトが先生であり父親であったら、その子にとって波風ミナトという存在は酷く曖昧になってしまう」
それじゃあ駄目なんですよとカカシは云った。
「それに子どもの独占欲って大人が思うより強いんです。子どもにとって父親も母親も、自分だけのものじゃないと嫌なんです」
子どもって勝手なものでしょう?、でもきっと先生もそんな時期があった筈ですから、分かりますよねと。
カカシはようやく振り返って小さく笑う。
さっきと違った酷く大人びたその微笑にまた哀しくなって、でももう泣いてたまるかと唇を咬んで我慢する。
我慢して、なんとか、笑った。
「そうだね。カカシの、云う通りだ」
でもね、でも。
「俺は、カカシだけの先生だからね」
受け持った生徒はオビトとリンとカカシだけで、他の子達を受け持つ前に火影になった。
そして、オビトもリンも、もういない。
先生と、だからそう呼ぶのはもうこの世にカカシだけになってしまった。
カカシだけ。
それは自分が他の二人を守れなかったという事。
まだ小さかったあの子達を、今のカカシより小さかったのに、守り切ってやる事ができなかった。
なのに卑怯にも、その言葉でカカシを縛るよ。
「先生は、ずっとカカシの先生だからね」
ごめんねごめんね。
また視界が烟ってる。
あぁまた涙が零れてる。
泣き虫で、ごめんね。
「…せんせ」
呆れたようなカカシの声。
一つ聞こえた溜息。
そして。
ぎゅ、と抱き締められる感覚。
素知らぬふりして、知ってますよとカカシは云う。
「だから最初に云ったでしょう。先生は、先生だと」
わざわざ言われるまでもありませんと、そう云って。
「……まぁ、ちょっとだけ、寂しいですけど」
聞こえた言葉に、泣き笑い。
あぁそうでしょ、やっぱりね。
不貞腐れたような言動は、その所為だったのでしょうと。
笑えば笑うなと怒られる。
けれどどうして押さえる事ができるだろう。
(嬉しいね、嬉しいよ)
(だってぴたりと合ってるんだもの)
(俺が感じていたカカシとの距離と、カカシが感じる俺との距離)
(ぴたりと合ってて、すっごく嬉しい)
「そろそろ泣き止んでくださいよ…」
俺の、先生でしょ。
(―――涙が出るほど、嬉しいの)
20110201