後日譚:黎明 拾
[思い出せる過去も、思い返す記憶も。
全て静かな夜に置いていく。
月の隠れた宵空に。
嘗てのさよならと小さな夢を預けていくよ。
もういらないものだから。
もう叶わないことだから。
置いていくよ、預けていく。
振り返らないから、だから、ねぇ。
消えてしまえば良いよ。
泣きたい想いも、綺麗な過去も。
届かないのなら切り捨てる。
その覚悟はできてるから。
(優しい夢は、もうみない)
覚めた後、泣くのはもう、嫌だから。
深夜過ぎ。
自分に向けられた殺気を辿れば自然家に帰ってくる訳で。
胃がシクシクするなぁ、なんて。
泣きそうにカカシがそう思いながらびくびく窓から顔を覗かせれば。
「「ばかかし」」
「……ひどーい」
当然のように二人はそこにいて、暴言を吐き、カカシの弱々しい抗議を綺麗に無視。
一見穏やかなそれは、しかし絶妙にブレンドされた殺気と怒気がまだ鳴りを潜めていない為、見た目を裏切った緊張状態が続いている。
さぁ次は何かな、とカカシが内心身構える中。
「おっせぇんだよ馬鹿。つか誰が外出して良いっつった? あ?」
「寝てろと云った筈だが?」
云いながら二人は素早く手を伸ばしてカカシの腕を鷲掴み、突然のそれに均衡を崩して驚くカカシを難なく受け止め、寝具に押し込み頭の上まで布団をかける。
受身のカカシは一体何が何やら分からない。
気づけば殺気と怒気も霧散してもう捉えることはできなくて。
「???」
いつもなら怒声と禁術が問答無用で飛んできても可笑しくないのに、今日はひどく平和的。
なぁに一体、とかけられた布団からそうっと瞳を覗かせ疑問を飛ばすカカシに、二人は素っ気なく、でも仄かに笑い。
「寝ろ」
「怪我が治ったら、相手してやるから」
そんなことを、云う。
それは労りの言葉はない。
優しい言葉ですらない。
それでも乱暴なその言葉の裏に見えない優しさがあることなんて、カカシは気づかないふりして気づいてたから。
「……うん」
色違いの眼が柔らかく細められる。
淡い微笑みが、とても優しい。
無言のありがとうが込められたそれが、二人にはひどく擽ったくて。
だから。
「じゃあ今日カカシの代わりに行った任務で新しい術書奪ってきたから、カカシ、その練習台」
「あ、俺もそれ試したい。俺の今日の任務も新術関連だったし。つーワケで」
よろしく。
誤魔化すように、そう、云ったのだ。
その会話に他意はなく、当然、悪意だってなかった。
いつだってそんなやり取りは場を和ませる潤滑油で、それが本気か冗談か、そんなのは二の次。
ただカカシが慌てるさまを楽しみ、笑い、一時の安らぎを得る。
その為の言葉だった。
たったそれだけの、そんな意味しかない、言葉だったのに。
「…カカシ?」
カカシの笑みが、変化した。
ただ優しく柔らかかった微笑に、ほんの少し、哀しみが交じったのに気がついた。
気づいて、ナルトもサスケも戸惑った。
いつも笑って終える会話と、今日のそれは寸分違わなかった筈。
カカシも承知の上で普段ならば大げさに振舞うのに。
哀しみを、カカシが見せるなんて初めてで。
二人はちらりと互いを見遣って考える。
何がいけなかったのだろう。
何を間違えた?
哀しませる気なんてなかった。
その為の会話ではなかった。
なのに、何故。
(微笑んだまま、お前は何を哀しむの)
初めてのことに、考えても考えても、かける言葉が二人には分からなくて。
呼びかけて良いのかすら迷って。
眉尻を下げてカカシを見れば、やっぱりカカシは寂しく微笑んだまま。
その顔で。
「ありがとうね」
「…え?」
「俺の代わりにいつも頑張ってくれて、ありがとう」
感謝してるよ、なんて云われて。
どう返して良いか、分かる訳もない。
こんなに「ありがとう」という言葉が似合わない表情もそうそうないと思う。
どの面下げて、という言葉がぴったりで、でもそんなの、云う訳にいかなくて。
だから黙ったままでいた。
次に何を云われても良いように身構えて。
「―――…でもね」
けれど結局、無駄だったように、思う。
気づけば二人してカカシに抱き締められていた。
どうして良いか分からないくらい、その腕はただただ優しくて。
そして。
ただただ優しい声で、カカシは、云う。
「無理、しないで」
俺の為に戦わなくて良いんだから。
守られるのも心配されるのも心地良くて、だから俺は甘えてしまうけど。
その為にお前達が傷つくのなら。
「俺は、自分が傷つくことなんて怖くない」
優しさの中に垣間見える、凛とした声、本気の色。
相反するその強弱が一処に同居する矛盾が恐ろしくて。
「カカシ…ッ」
「…馬鹿、云うな」
二人が拙く抗議するのに。
こういう時だけ、カカシは訊かないふりをする。
優しく優しく。
何も訊かなかった、ふりをする。
「俺の代わりにもし二人が傷つくようなことがあったら、その時は」
その先を遮るように名を呼んでも。
強く肌に爪を立てたって。
訊き入れてはくれない。
訊き届けてはくれない。
云うな云うな云うな。
そう、思うのに。
「―――返してもらうよ」
(傷つけたくないから、傷つく覚悟をしたんだ)
「役目を、返してもらうから」
(色んな言い訳を用意して、守って、きたんだ)
それを、その覚悟を。
その、誓いを。
守る為だけに、俺達は。
(…馬鹿、馬鹿、ばかかし)
返してやるものか。
返してなるものか。
(守る役目を。傷つく役目を)
そうなればカカシはまた傷つく。
嘗て二人の為にたくさんたくさん傷ついたように。
躰も、心も。
二人の為に、ボロボロに、なったのに。
(二度と、繰り返してなるものか)
その思いで、俺達は強くなったのに。
何故それを奪おうとする。
何故また傷つこうとする。
そんなの。
俺達は望んじゃあいないのに。
(―――ばかかし)
有りっ丈の罵倒を心の中で向けられたカカシは、気づかないまま、それにね、と言葉を繋ぐ。
訊いて、もう何も云ってほしくないと思った。
どんなことを云われても訊き入れてやるつもりはないけれど、云われるだけ、訊かされるだけ、気力と怒力が喪われる。
もう、良いよ、カカシ。
何も云うな。
そんな哀しいことを、云うな。
云いたくて、けど、云う前に。
「ナルトとサスケが生きる為に俺が邪魔になった時は……大丈夫だよ」
消える覚悟は、出来てるからね。
そんな、死にたくなるほど優しく甘い、最悪の告白を。
耳に痛い静けさと共に、訊いた。
「――――」
声が、出なかった。
罵倒の言葉すら思いつかず。
抱き締められたまま。
胸を、抉られたような気が、した。
(……なに、が?)
何が、大丈夫だと云うのか。
その言葉の意味もその真意も。
分からない。
分からない。
分かりたく、ない。
(消える覚悟?)
馬鹿な。
こいつは何も、分かっちゃいない。
(この、馬鹿は、何も、まったく、理解してやしない…!)
呆然として絶句して、戦慄く唇を噛み締めて。
馬鹿が…と囁くサスケの震えた声を訊く。
同感だぜ、と、ナルトは不意に笑いたくなって、笑おうとして。
でもできなくて、笑えなくて。
言葉をなくしたまま、思った。
(…あぁ、だって)
だって、そうなんだ。
カカシを独りにするくらいなら、自分達は何もかもを捨てる覚悟なんて、疾うの昔にできてるんだ。
独りぼっちの二人を抱きしめてくれたこの馬鹿を、例えどんなことを云ったって、何をしたとしても。
(選び取ることを決めてしまっていると云うのに)
(里を捨てる覚悟だって、できていると云うのに)
思って、でも、云えなくて。
ナルトもサスケも、カカシの腕の中、その底知れぬ優しさの中で。
叫びだしたい想いを、血が滲むほど唇を噛み締めることで耐えていた。
それでも耐え切れない想いが。
「―――…っ」
流れ星みたいに、頬を伝って、堕ちてった。
20110307