後日譚:黎明 陸

[ マダガスカルジャスミン:二人で遠くへ旅を ]



 それは、突然の言葉ではなかったのかもしれない。
 どこまでも夜に近かったその人は、能力や技術の割に日陰を歩いているような人で。
 むしろそれを、望むように生きていた。
 貴方はそれで良いんですか。
 何度も訊いた言葉には、いつも笑みで返された。
 思えば、答えを訊いた例がない。
 いつだって夜の深淵にほど近い笑みを零していただけ。
 はっきりと物事を云うあの人を思えば、どれほども、らしくない。
 けれどそんなの、今更だ。
 本当の本当に、今更だ。
 訊く相手はもういない。
 こちらはどうしたって子どもだと云うのに遠慮なく大人の歩幅で歩き、それでも時たま振り返って、

『置いていくよ』

 と楽しげに宣ったその人は。
 もう、いないのだから。
 だから。

『置いていくよ、イルカ』

 それは、突然の言葉ではなかったのかもしれない。
 紅く染まった最後の夜に零されるに相応しい。
 予め用意されていた、最期の言葉だったのだろう。





 コンコン、と扉を敲く音が聞こえたのは、ナルトが任務があるからと帰ってしまって、三十分くらい経った頃のことだった。
 カカシはその間まったく無防備に本を読んでいたものだから、びっくりして、そのびっくりしたことにもびっくりして、返事をするのを忘れていたから、また聞こえたノック。

「あ、はーい」

 どぞー、と云えば。

「こんにちは、カカシさん」

 顔を覗かせたのはイルカ。

「わ、イルカせんせ!」

 入院してから初めての恋人の見舞いに、ぱぁっと顔を輝かせてカカシはどうぞどうぞと手招いた。
 けれどさっきまでナルトが座っていた椅子はどうやらナルトが律儀に片づけて行ったらしく、また脇に畳まれていて、すみません~、と云ってカカシが慌てて椅子を出す為にベッドから下りようとすると。

「寝てなさい」

 幾分強めの声で、云われた。
 それにカカシはきょとんとして、その間にさっさと椅子に手をかけ広げているイルカの横顔を知らずに見詰める。
 何故なら、強い声の中に、細く固い芯のようなものを感じたからだ。
 でもその横顔はいつも通り優しくて。

(…違和感)

 声と表情が合っていない感じ。
 微妙に、齟齬がある。

(優しい表情…違う声…)

 なんだろう、と不思議に思いながらも、座ったイルカは何でもない素振りでい続けるから、まぁ良いやとカカシはその疑問を放棄した。
 そしてにっこり笑って挨拶。

「お久しぶりです」

 そう、云った途端。
 にっこり。
 イルカもまた、笑った。
 はっきりくっきりにっこりと。
 でもそれは、明らかに奈辺に何かを含んだ笑み。
 気づいて、

(こ、れは)

 やばい。

 カカシは笑顔のまま、器用に顔を引き攣らせた。
 それは経験と云うよりも勘だ。
 直感で、カカシは地雷を踏んだことを、どころか踏み抜いたことを悟った。

(これはこれはもしかして…)

 と焦るカカシを知ってか知らずか、きっと知った上で無視しているのだろうが、イルカは穏やかに笑んだまま。
 けれどカカシを見る目は優しげな素振りで凍りつき、冬の夜のキンとした冷たさを思わせた。
 その眼に見据えられたままのカカシは顔と体を強ばらせ、イルカは滔々と喋り始める。
 穏やかに緩やかに。
 ただ、静かに。
 にっこりと、笑って。

「一週間の面会謝絶の上に、それが緩められても貴方が起きなかったから、そうですね、二週間ぶりですか。まぁ任務での怪我なのだから仕方ありませんけど、それにしたってお寝坊さんですねぇ、カカシさんは。チャクラ切れもそうでしょうが、今回は珍しいくらい怪我をなさったそうで。その回復の為に躰が睡眠を欲していたんでしょう。安静やら安住やらを軽んじる貴方にとっては一番良い薬だったようで。その分あの子達がどれほど心配したかは云うまでもありませんし、云わないと分からないと仰るなら教えてさし上げても良いのですが、まぁ兎に角」

 お久しぶりですね、本当に。

 一息で、そこまでイルカは云い切った。
 笑みはまだ消えず、イルカの口端に鎮座する。
 でもそれが余計恐ろしい。
 カカシは俄に蒼褪めながら、あの、と控えめに呼びかける。

「怒ってます、ね…せんせ…」
「怒ってません」
「…うそ」
「本当ですよ。ただ少し」

 キレてますが。

 さらっと云ってのけるイルカに、

(そ、云うの、怒ってるって、云うんじゃないかなぁ…)

 なんて。
 こっそりひっそり思ってみたりしたけれど、でも当然、口にも顔にも出さないまま、それはカカシの心の中に仕舞われて。
 代わりにじわじわと、申し訳なさが込み上げた。

(イルカせんせが…怒ってる)

 イルカは普段、怒ることをしない。
 と云うよりも、怒ることを嫌っている節がある。
 その理由をカカシは知らないし、訊いたこともないけれど。
 嫌っていることを知っていればそれで十分で、好きな人が嫌うことはさせたくないと云う当たり前の感情から、カカシがイルカを怒らせたことはない。
 イルカがカカシを怒らせたことも。
 そうでなくとものほほんと共に過ごす彼等には喧嘩という現象が皆無で。
 なのに。

(怒らせて、しまった)

 それはもう、申し訳なさと云うよりも罪悪感。
 押し潰されそうなほど、それは重くて。
 だからイルカが怒る理由を何も知らないまま分からないまま、カカシは、

「ごめんなさい…」

 と、小さく謝ったのだ。
 けれどそれを、イルカは一度目を瞑ることで受け入れず。

「謝るようなことを、した覚えがおありですか?」

 瞳の冷たさが、声にも伝染ったよう。
 金属のように冷たい声が耳朶に触れて。
 ひやりと、する。

「それ、は…」
「貴方は要請のあった任務について、怪我をした。ただそれだけのことです。疚しいことは何もしていない。だから謝らないでください」
「でも…っ」
「カカシさん、良いんです。俺が勝手に」
「―――でもせんせは怒ってます!」

 思わず。
 叫んでいた。
 云い張るイルカが。
 笑みをなくしてしまったイルカが。
 どうしてもカカシには辛くて。

「せんせは、怒ってるじゃないですか…っ」

 哀しくて哀しくてしょうがなくて。
 ―――涙が、出た。
 ぽろぽろと、雨のよう。
 それは止まない秋雨の冷たさ。
 真夏の夜の雨の、静けさに似て。
 頬を伝って、堕ちていく。

「…カカシさん」

 涙で烟る視界の中、イルカがそっと動く。
 伸ばされた手はカカシの頬に宛てがわれ、親指が涙を拭う。
 受け入れて、カカシはそっと目を瞑り。
 伴って溢れ出た涙は、イルカの手をしとどに濡らした。
 それでもイルカは気にせず触れ続けて。

「すみません」

 白い白い世界に久々に生まれた声は。
 夜の優しさに似て。

「ごめんなさい、カカシさん」

 少し、寂しげ。

「せん、せ…」

 気づいて、カカシはぱちりと目を開ける。
 涙の零れ切った視界には、イルカの穏やかで哀しげな顔。
 なのにイルカが笑うから。

(笑わないで…そんな辛い顔、しないで…)

 泣いてほしい訳でもないけれど、そう思いながら。
 手を伸ばして、指先で、頬に触れる。
 そのままするすると輪郭をなぞれば、イルカは涙を拭っていた手を下ろしてその手を取り、自分の頬に押し付けた。
 少しだけ強く。
 少しだけ、痛いくらいに。
 そして。

「……こういうの、慣れてなくて」

 やっと口を開いたイルカは、歯切れ悪く、そう切り出した。

「俺は、喪うことに慣れてません…喪うことは怖いです。喪うのは、もう嫌です」

 嫌なんですよとイルカは云い訊かせるように繰り返した。
 カカシと、そして自分に。

「それに…思い出すんです」

 僅かに伏せられた瞳は、カカシを見ない。
 どこか遠い過去に耽るよう。
 それはきっと、カカシの知らないイルカの記憶。
 哀しい過去の。

「イルカせんせ…」

 共有できないそれに絶望しながら、カカシがそろりと呼びかければ、イルカはひっそりと濃さを増した夜色の瞳でカカシを見て。

「傷つくなとは云いません。任務に出るなと、云いたい訳でもない」

 ひっそりと、言葉を重ねていく。

「でも今回は少し、俺も肝を冷やしました」

 真っ直ぐな視線以上に。

「貴方を喪うかもしれないと、…怖かったです」

 真っ直ぐな言葉が、胸に痛い。

「貴方、知らないでしょうけどね、五代目が一週間、他の仕事を放り出して貴方に付きっきりだったんですよ」
「………」
「それほど、酷かったんです」

 今はきっとその時放り出していた仕事に忙殺されて、五代目の方が酷い有様でしょうけどね、と。
 イルカはやっと少し笑って。
 その笑みを、消した。

「…俺に、貴方を守ることはできません」

 そうして曝されたのは、どこまでも真摯な声と顔。
 悲痛の色はなく、ただ真剣に。
 イルカはそれを知っていた。
 嫌というほど、分かってた。

「共に任務に赴くこともできなければ、その任務の内容を知る位置にいません。できることは見送りと出迎えること、それくらいです」
「そんなこと…っ」
「いえ。実際、それくらいなんですよ」

 中忍で、アカデミー勤務で、外の任務を受けることの方が少ない。
 安全地帯にいつも身を置いている。
 子どもが好きで、アカデミーの仕事に携わりたかったという気持ちに嘘はないけれど。
 その仕事を誇る気持ちも持っているけれど。
 忍でありながら忍という括りから外されがちな立場を、自覚していない訳でもない。

「だから本当は、俺が怒る筋合いはないんです。心配も、お門違いでしょう」

 でも―――だから。

「守ろうとしてください。貴方は、貴方を」

 お願いですから、どうか。

「貴方の躰も心も、もう貴方だけのものじゃないんですから」

 云ってイルカは。
 カカシをぎゅうっと抱きしめた。
 優しさなんてどこかに置き忘れた、力の限りの抱擁。
 カカシがここにいることを実感する為と。
 イルカがそこにいることを知らせる為に。

「俺を置いて逝かないでください…――」

 掠れた願いは、一粒の涙と共に零された。





『さよならなんて言葉に騙されるなよ』

 どういうこと?

『そんなものがあるから、別れの時はいつだってその言葉を云ってもらえると勘違いする』

 違うの?

『考えろ、イルカ。俺とお前は今一緒にいるけど、だからってお前が忍として任務に赴く時だって俺がいるとは限らないだろ』

 うん。

『その時にどっちかが死ねば、さよならなんて云う暇はどう考えたってない』

 そうだね。

『だから別れの言葉はぁ…』

 ってちょっと待ってよ!

『あははー、おっそ』

 あんたが速いんだよ!

『そんなに遅いとね、置いていくよ、イルカ』

 待ってってば、もう!

『…置いてくよ、いつか、ね』

 捕まえたっ、って、なんか云った?

『なぁんにも! さぁ今度はちゃんとついといで』

 だからあんたがっ…ってもう良いよ…。

『イルカ』

 なに?

『幸せに、なんなよ』

(夜の声、夜の表情、夜の夜の夜の―――)

 夜の人、と俺はその人のことをそう呼んだ。
 名前なんて知らなくて、素性だって知らなくて。
 ただ夜にだけ会える人だった。
 それでも願ってくれたことが嘘だなんて思わない。
 教えてくれたその全てが闇に染まるものばかりでなかったように。

(だからと云ってそう願ってくれたあの人自身が幸せかどうかなんて俺が知りようもないことで)
(でもいつだって子どものように笑う人だったから不幸せではなかったのだろうなんて思ってた)
(本当かは知らない)
(それどころか、何も知らない)
(それでも一緒にいたくて、追い駆けて、追い縋って、追い抜くんだと)
(そんな〈いつか〉を夢見てたのに)

 貴方はいない、もうどこにも。
 紅い夜に消えてしまった。
 だからもう、駆けていく先に貴方はいない。
 縋ることもできやしない。
 抜くことだって、同様に。
 だから。

(今でも思うよ)

 置いていくよと云う声に。
 置いていくなと云えば良かったのではないだろうかと。
 待ってもらうのではなく。
 一緒に歩こうと云えば良かったのではないだろうかと。

(一緒に生きようと云っていれば)

 貴方は笑いながらも、歩調を緩めてくれたのではないだろうかと。
 「置いていくよ」なんてそんな哀しい言葉を云わせなくて済んだのではと。
 そんな夢を、今も見る。
 今も昔も。
 きっと、ずっと。





(―――それでも)

「イルカ、せんせ…」

 腕の中、カカシが身動ぎしてイルカを呼ぶ。
 はい?、と腕の力を緩めれば、カカシがひょこりと顔を出して。

「俺の躰と心は、俺だけのものじゃない…って仰いました?」
「えぇ」
「じゃああとは、あの、誰のもの…?」

 おずおずと。
 子どものように上目遣いで。
 期待と不安が入り交じった視線でイルカを見る。
 それを受け止め、イルカはふわりと優しく笑んだ。

「もちろん、ナルトとサスケでしょう」
「………」
「不満げですね」
「…いえ、良いんです…分かってましたから」
「あはは」
「せ、せんせはっ、意地悪です!」
「知ってました」
「俺だって知ってましたよ!」
「カカシさんは物知りですねぇ」
「そこは褒められてもちぃっとも嬉しくありませんっ! もっと俺が喜びそうなことあったでしょ今から遡ることちょっと前に!」
「あまり叫ぶと怪我に響きますよ」
「誰がそうさせてるんですかっ」

 もー!、っとカカシはイルカの胸をぽかぽか叩くと、じんわりと涙を黒と紅の瞳に溜めた。
 期待した恥ずかしさやら、的中した不安やらが一気にカカシの心を占めた所為。
 そういう人だと分かっていたけれど。
 分かっては、いたけれど。

「せんせなんか、せんせなんかっ」
「愛してますよ」
「えぇそうですよ愛して―――って……え?」
「あはは、カカシさんの顔、真っ赤です」
「そ、そそそんなのっ…!」
「早く怪我、治してくださいね」
「そっそれよりも今はさっきの言葉の説明を求めます!」
「んー、怪我が治ってからにしましょう」
「せ…せんせはっ」
「意地悪、でしょう?」

 知ってますよ。

 とにこやかに微笑んで。

「兎に角、お大事になさってくださいね」

 躰も心も、命も。

「貴方だけのものじゃ、ないんですから」

 云えばまた、不満げな顔。
 分かってますよと云いたげに、カカシは唇を尖らせ頬を膨らます。
 その顔に、イルカは笑った。
 愛しいと思う、愛惜しいと。
 でもきっと、そう云ってしまうより。

(―――愛してる)

 そう云った方が正しいなんて、今は云わない。
 でもいつか。

(一緒に生きてと、〈貴方に〉云うから)

 だから。

「何か云いました? せんせ」
「いいえ、なぁんにも」

 今はまだ、知らないままで。

(「まだもう少し続く筈の人生を、できるだけ遠くまで、俺は貴方と共に生きたい。」)

 そんなこと、今は、まだ。





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 20110321





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