後日譚:黎明 参

[ 二人静(フタリシズカ):静御前の面影 ]



 幸せになるのは、怖いことだ。
 誰かの傍にいたいと思うのは、恐ろしいことだ。
 自分一人なら淋しいけれど哀しい想いはしないのに。

(だから恋はしないと決めた)

 もう二度と。
 誰かを愛すのは止めようと。
 誰かを愛おしく想うのは止めようと。

(そんなに俺は強くない)

 一人でいるのは我慢できるけど、一人になるのはもう嫌だ。
 だから。

(恋はしない)

 もう絶対に、もう一生。

(一人で、生きていこう)

 その決意と一緒に涙が零れたけれど。
 気にしないことにした。
 気づかない振りをした。

「これから、ずっと、ひとりきり」

 何も涙も何もかも。
 その呪文のような言葉と一緒に呑み込んだ。

 それから彼は一人で生きてきた。
 ずっと、一人きりで生きていた。





 その日カカシが訪ねた時、イルカは大量の洗濯物を干していた。
 パタパタと皺を伸ばして物干し竿につっていく。
 イルカは家にいる時たいてい家事をしていて、洗濯するのもよく見かけるけれど。

「今日はまた、すごいですねぇ」

 まるで箪笥の中の衣類を全部まとめて洗濯したかのように大量だ。
 縁側でほぇ~と目を真ん丸に開いて見ていたカカシに、イルカは律儀に振り返って。

「そろそろ衣替えを、と思いまして」
「あれ、もうそんな時期でしたか」
「いえ、まだ早いかも知れませんが、最近はもうあったかいですし、春でも着られる物を残して片付けてしまおうと」
「なるほど」

 と云ってちらりとカカシが部屋の隅を見れば、丁寧に畳まれた服が何かの基準で選り分けられて置かれていた。
 几帳面だなぁと笑って、ふと気づく。

「わ、イルカせんせ! イルカせんせ!」
「はい?」

 大きな声を出して呼ぶカカシに、イルカはなんだろうと洗濯の手を止めて縁側に近づき家の中を覗き込む。
 見ればカカシがにこにことしながら、壁に掛けてあったものをじぃっと見ていた。
 それは。

「着物、持ってらっしゃったんですね」

 緑を基調とした着物。
 これは適当に畳んで納戸に、と片付けられるものではないので箪笥に入れたままでも良かったのだが、今年は一年を通して着なかったので少し広げておいた方が良いだろうかと、出して壁に掛けておいたのだ。
 着物を見たことがないとは思えないが、カカシはそれをひどく楽しげに見詰めていた。

「えぇ。いつもなら年始にそれを着て神社にお参りするのですが、今年はアカデミーが年末年始と忙しくて着られなかったんです。でも一応、風に通しておこうかと」

 と説明するイルカの言葉を訊いているのかいないのか。

「せんせ、これ、着ても良いですか」
「え?」
「ちょっとだけ、羽織るだけですから、ね? ね?」

 突然のカカシのお願いに少しだけ戸惑って、けれど結局イルカは良いですよと頷いた。
 楽しそうなカカシの顔を見て、無下に断り哀しげな顔をしてほしくなかった。
 カカシにはいつも笑っていてほしいと思う。
 心から、イルカはそう願っていた。





 二人が出会って既に二年。
 暗部であるカカシをイルカが助けて、それから始まった二人の関係。
 その中で、彼の願いも子どもっぽい性格も、のほほんとした微笑みの裏にある諦めも、知るくらいには傍にいた。
 そして時たまイルカの家に遊びに来るくらいには、親交を深めてきたけれど。
 この関係を、どう云えば良いだろう。
 知人と云うには知りすぎて、親友と云うには何かが足りない。
 ならば友人かと云えば、カカシの家も知らないという有様。
 そのくせ心の深層の表面は知っている。
 あべこべな関係、そのままでいるのも良いのだけれど。
 そろそろ名前をつけたいなと、イルカはのんびりと思っていた。
 友情なら友情で良い。
 とにかく何か繋がりを証明するものがほしかった。
 そうしなければ、カカシがふと消えてしまいそうで。
 また、一人で遠くに行ってしまいそうで。
 その時に引き止められる関係がほしかった。
 なんて思う自分に、イルカはくしゃりと苦笑する。

(…困ったな)

 心底思う。
 困った困った、どうしよう。
 自分は誰かを傍に置いておきたいような、そんな人間ではなかった筈なのに。

(困ったな)

 情が移った、なんて、そんな哀しい云い方はしたくないけれど、そうなのだろうか。
 いや、情が移っているのは知っていた。
 でなくば一年もの間、顔も知らない相手と逢瀬は重ねないだろうし、その後も世話を焼くようなことはしないだろう。
 嫌われることを覚悟してまでカカシの願いに余計なお節介を上乗せし、守りたいとは思わないだろう。
 この状況は、云うなれば、―――そう。

(…まさか、ね)

 ふふっと笑って、それ以上考えることをイルカは止めた。
 止めて、ただ。

(カカシさんが、幸せであると良いな)

 優しく優しく、そう、願ったのだ。





 イルカの許しを得て、きゃー、と喜びながら着物に袖を通したカカシ。
 羽織るだけ、と云ったように帯も絞めずにいるから、歩く度に裾がだらりと床を擦る。
 あまり着物には宜しくない状況だが、イルカは何も云わず笑顔で見守ることにした。

「懐かしいです~、着物とか」
「お持ちではないんですか?」
「はい、私生活では着る機会なんてなかったですし、それに高いじゃないですか。着るのは好きなんですけどねぇ、結局持たないまま、ずるずると、ってやつです」

 云いながらぺたぺたと歩くものだから、一緒に着物の裾もずるずると。
 分かりやすいなぁと狙っている訳ではないのだろうが、思わず苦笑が漏れつつも。

「私生活では?」

 しっかり聞き逃さないイルカに、あぁ、とカカシは頷いて。

「昔、舞を習ってましたから」
「舞を?」
「えぇ。潜入捜査の任務で一度だけ必要になって、必死になって覚えました」

 多分まだ覚えてますよ、と云ってカカシは部屋の真中に移動したかと思うと、姿勢を正し、腰を落とした。
 その瞬間に、表情がガラリと一変する。
 それは、凛として、清雅。
 そしてそのまま、息を呑むイルカの前で舞い始めたのだ。
 するすると独特の足運びで床を滑り、空中を撫でるように手を動かす。
 先程まではとてとてと子どものようにしか歩けなかったのに、今は危なげなく裾をさばきながら、歌も楽もないままに、それでもカカシは調子を合わせるように舞い続けて。
 それは、イルカがいつか見た、哀しい恋物語の舞に似ているような気がした。
 好いていた人の傍にいられなかった女が、敵勢の大将の前で舞うことになった時、好きな男の歌を詠みながら舞ったという、あの舞に。

(…けれど)

 空覚えであるけれど、振りも違うし型も違う。
 女の動作ではあるには違いないが、あの舞ではない。
 ならば何故、似通っていると感じたのか。
 カカシの舞を見ながら、イルカはじっと考えて。
 あぁそうか、と、思った。
 カカシの表情がそうなのだと気がついた。
 カカシの誰かを想うような切ない表情が、あの舞に一番似ているのだと。
 すとんとその答えはイルカの心に落ちてきて。

「貴方は、哀しい恋をなさったんですね」

 するりとそれはイルカの口を衝いて出た。
 その、瞬間。

「――――」

 ぴたり、と。
 カカシの動きが止まる。
 舞っていた時はあれほど軽やかだったのに。
 一気に重力の存在を思い出したよう。
 腕も足も気分すら、下へ下へと堕ちていく。

「カカシさん?」

 呼び掛けにしばらく反応は返らず、けれど唐突に何かを思い出したかのよう、カカシは緩く首を振った。
 目を見開いて、子どものように。
 力なく、首を振った。

「違います…」

 そして言葉された声の、なんと力のないこと。
 イルカがぎょっとするほどその顔もその声も蒼褪めていて。
 そしてその顔その声で。
 カカシはポツリと云ったのだ。

「…恋を、したことはありません」

 違う、違う、そうではなく。
 …あぁそうだ。
 カカシが抱いていたのは。
 カカシが、あの人に、向けた心は。

「―――あいしてました」

 きっときっと、あの時の自分は、あの人を。
 あぁそうだ。
 そうだった。
 自分は、あの頃の、自分は。
 どうしようもなく、堪えるのが辛いほど。
 それでも、耐えなければならないほど。
 恋で、なくなるほど。

「あいして、たんです…」

 ぽろり。
 ぽろり。
 ぽろり。
 涙が溢れる。
 止まらない。

「俺は…俺は……あの人を…――」

 言葉にしたことで、想いが形作られてく。
 今までその心を見ないように、意識しないように、してたのに。

(苦しい…辛い…いやだ…)

 哀しいほど、苦しい。
 苦しいほど、愛していた。
 愛していたから、辛かった。

(だから知らない振りをした…)

 だから閉じ込めたんだ。
 心の闇と同じところに落とし込めた。
 蓋をした。
 もう二度と、開けるつもりなんてなかった。

(こんなことで、開くなんて)

 また、思い出すなんて。

(どうすることもできなかったあの時以上に)

 どうしようも、ないのに。

「…カカシさん」

 涙が止まらない。
 決壊した川のよう。
 あぁ緑が涙に濡れて黒になる。
 嫌だな、駄目なのに。
 人のものなんだから。
 羽織るだけって云ったのに。

(ごめんね、ごめん、ごめんなさい)

 心の中でできるだけ謝って。
 なるたけ我慢して。
 でもありったけ、カカシは泣いた。
 溢れるまま枯れるまで。
 手を伸ばしてイルカに縋りつき。
 そのまま座り込んで。
 イルカの腕の中で泣いた。
 二度目のことだとぼんやり思いながら。
 カカシはずっと、泣き続けた。





 云えない言葉の分だけ、心に澱が溜まってく。
 駄目だなぁと思うのに、どうすれば良いか分からない。
 分からないから、放っておいた。
 また澱は溜まっていく。
 どうしようもない。
 溜まってく。
 その連鎖が終わりを見たのは、その言葉と感情を必要としなくなった時。
 向ける相手がいなくなってからだった。
 それから澱は溜まらなくなったけど。
 代わりに虚しさと哀しさと寂しさばかりが溜まっていく。
 いらないのに。
 いらないのに。
 全部。
 いらないのに。

(ひとりだったら、いらないのかなぁ)

 きっとそう。
 だって一人だった時にはいらなかった感情、なかった感情だから。
 きっときっと、そうなのだろう。
 あぁだったら。

(一人で生きよう)

 もう誰かと生きようなんて思わない。
 恋はしない。
 愛だって。
 だから。

(ひとりで、生きていこう)

 淋しいかも知れない。
 でも多分。
 失うよりは、きっと良い。





 ごめんなさい、と泣き腫らし、衰弱したような顔で云って、カカシはイルカの腕から出ようとした。
 けれど力が入らない。
 そして。

「イルカせんせ…?」

 イルカがそれを、許さない。

「もうちょっと、こうしていましょう」

 にっこりとそう云われると、泣き顔を見られた手前、すごくすごく恥ずかしいのだけれど。
 でも何故か嫌とは云えなくて、無理矢理出ようとも思えなくて。
 はい…と頷いてイルカの腕に逆戻り。
 すっぽりと収まった感覚に、カカシはとても安堵した。
 ここにいて良いんだという気になった。
 許されている気になった。
 それがどういう事かどういう意味を持つのかも分からないまま。
 カカシはひどく安心してて。
 だから。

「ねぇ、カカシさん」
「はい」
「俺と恋をしましょう」
「……はい?」

 イルカの言葉は、微睡む最中、耳元で目覚まし時計を掻き鳴らされたようなものだった。

「え、え、え?」

 かぁっとカカシの顔が赤く赤く染まっていく。
 耳も顔も首も。
 見事に真っ赤。
 それを揶揄するように笑うのでなく、ただ穏やかに、愛惜しむようにイルカは見て。

「俺は貴方が傷つくのを見てられません。哀しむのも見たくない。泣き顔なんて、云うまでもなく、です」
「イルカせんせ…」
「貴方には笑っていてほしい。幸せになってほしいんです」

 笑む表情とは別に、黒真珠の瞳はどこまでも真摯。
 それは、分かっているのだけれど。

「でも…でも、せんせ」

 また泣きそうな顔で、カカシは苦しげに拙く言葉を紡ぐ。

「せんせにそう思って頂けるのは嬉しいです…でも、それは…」

 それは恋じゃあないです。

「……それに」

 またぽろりと、真珠みたいな涙がカカシの頬を伝って零れた。

「それに、俺は多分…」

 忘れられません…。

 それが今はなのか、一生なのか、分からない。
 それでも今忘れられていないことは確かで、だからカカシは首を振る。
 横に振る。
 イルカの言葉に頷く資格など、自分にはないのだと云いたげに。
 そうして項垂れてしまったカカシの頬を伝う新しい涙を、イルカはそぅっと拭い、カカシの顔を自分に向けて優しく云う。

「忘れる必要なんてないでしょう」
「…え…」
「長い人生の中、誰かと恋をするのも、誰かを愛するのも、あって良いことです。素敵なことです」
「せんせ…」
「それに俺にも、忘れられない人はいます」

 嘗て愛した人がいます。

 思わぬ告白に、カカシの目が見開かれる。
 驚きと、ほんの少しの落胆と。
 それを正確に読み取って、それでもイルカはそっと笑う。

「それでおあいこでしょう」

 そういう問題だろうか、とカカシはぱちぱちと目を瞬かせながら思ったけれど。

「ねぇカカシさん」

 一人で生きるのは寂しくて、でもある意味では楽です。
 失う心配がありません。
 誰もいないのだから、誰かを失うことはない。
 でもね。
 それはやっぱり、寂しすぎます。

「それにね、もう手遅れだと思います」
「手遅れ…?」
「えぇ。だって出会ってしまいましたから」

 出会って、ただそれだけなら良かったのに。
 守りたいと思ってしまった。
 傷ついてほしくないと思ってしまった。
 幸せになってほしいと。
 幸せにしたいと。
 思って、しまった。

「それじゃあもう、一人で生きていないのと同じことです」

 本当は恋はしていないのかもしれない。
 恋に到達していない好意なのかもしれない。

「それでも」

 云って、イルカはカカシの頬をするりと撫でる。
 そして優しく柔らかく。
 穏やかな愛情と共に、笑った。

「俺は貴方が傍にいないだけで、とても哀しいのに」

 きゅう。
 カカシの心が、微かに痛む。
 イルカの一声一声が、ひどく心に響いて痛む。
 同じ痛みと哀しみを知った人。
 一人を望んで生きてきて。
 なのに自分をと望んでくれた。
 恋をしようと。
 愛したことを忘れなくても良いからと。
 そして自分の幸せを、願ってくれた。

(………うれしい)

 心にある痛みを中和する感情の名は、きっとそれ。

(……嬉しい)

 真っ直ぐな言葉は痛くて。
 でも嬉しくて。

「…せんせは…っ」
「はい?」
「イルカせんせは…」

 優しすぎます…。

 カカシはまた泣いた。
 痛くて、嬉しくて。
 優しすぎて。
 そんなイルカが好きで。
 だから。

「カカシさん」
「ぁい…っ」
「俺と恋をしましょう」

 涙で見えない。
 でもきっと。
 男前の顔をしていることなんて。
 優しい顔をしているなんて。
 今までの経験で、分かってて。

(恋じゃないかもしれない)
(ただ縋りつきたいだけなのかも)
(あぁそれでも)
(そう勘違いしてでも)

「はい…――」

 この優しさの、傍にいたい。





 二人が出会って既に二年。
 関係はと訊かれて戸惑うこともあったけれど。
 云い淀んだこともあったけれど。
 これからはもう、迷うまい。

「お二人はどういったご関係で?」

 ちらりと互いを見て。
 イルカは男前に笑い。
 カカシは乙女に恥ずかしがり。

「「恋人です」」

 そう、胸を張って、云うだろう。





 恋はしないと決めた。
 でも一人は寂しすぎたから。
 また手を伸ばすよ。
 その手が離れた時がきっと。
 恋の終わりでなく。
 二人きりの関係の終わりでもなく。
 一人をまた始める切っ掛けでなく。

 二人の死であると、信じている。





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 20110315





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