本篇:夜明け前 柒

[ 花菱草(ハナビシソウ):私の願いを聞いて ]



 自分の幸せを切に願ってくれた彼等は。
 自分の幸せを願うほど、幸せになれと云うほどに。
 幸せ、だったのだろうか。

 ふと思うそれらの思考を断ち切れず、逃がすように逸らした視線は空へ。
 蒼に藍を重ね、黒を少し混ぜた空。
 …寂しいのだとこの口が云った時。
 こんな色をしていただろうか。
 空は。
 世界は。
 こんなもの哀しい色を、していただろうか。

 積み重なる疑問。
 逃げ切れぬ思考。
 伸ばした手が。
 空を切った日。

〈どうかどうか、幸せであれ。〉

 その願いを、託された。

 …今なら云える。
 そう願ってくれた彼等に。
 そう云ってくれた彼等に。

〈どうかどうか、幸せであれ。〉

 同じことを同じように。
 自分も貴方達に願い、云いたかったのだと。
 貴方達と一緒に幸せになりたかったのだと。

 今なら、云える気がした。





 東雲の空が薄らと色づいていく様を漠然と見遣って溜息。
 そのまま目を瞑れば、

『―――お帰りなさい』

 優しい声が、耳朶を打つ。

(…あぁいつも、そうだったっけ)

 あの人はいつだって優しかったと思い出す。
 声だけじゃなく、触れる指先も柔らかい瞳も、唇の端にある、微笑すらも。

『カカシさん』

 朝焼けの空のように優しく、当然のようにそこにあった。

(本当は当然なんかじゃ、全然、ないのに)

 分かっていたことなのにと、自然と浮かんだ自嘲の笑み。
 それが色を変えて憂いを含んだものになる。

(なのに、ねぇ)

 優しい夢をみた後のよう。
 何故か哀しくてしょうがない。
 傷なんかないのに。
 どこかが痛くてしょうがない。
 寂しくなんて…ないはずなのに。

(…なんでだろうね)

 知りたくない、その理由を。
 本当は触れたくもない。
 そっと目を伏せたまま、気づかないふりをしていたい。

(でもね、きっと、そんなことしてちゃあ、あの子達に怒られるから)

 覚悟を決めたあの子達に、合わせる顔がない。
 だからだから、無理矢理でも瞼を押し上げて世界を見る。
 見えない傷口にも辿る指先で触れてみせる。
 痛いだろうけど、それでも。

(―――喪うだけなのは、もう嫌だ)

 強く心に浮かんだその言葉。
 驚きに、息を呑む。
 しばらくの後、震える吐息を零して薄く笑えば。
 視線の先、朝焼けが、優しく柔らかく、溶けていく。

(……いつから、だろう)

 諦めることに慣れきっていた。
 だから自分がそれ以上傷つかない為に痛みに立ち向かうなんてそんなこと。
 疾うの昔に止めてしまったはずなのに。

(だから、気づかなかったのかなぁ…)

 視界が潤む。
 口端が歪む。
 その横を何かが伝った感触に、笑い声が微かに漏れた。

(馬鹿みたい…)

 滲む世界。
 天空の薄藍と、地平線の薄緋。
 あぁ何故。
 こんなことに気づかなかったのだろう。
 今まで何度も繰り返してきたことなのに。
 何度も見た光景なのに。
 こんな簡単な、ことなのに。

(…でも気づいたから)

 今更でも、遅くても。
 気づいたから、だから、ね。

(だから――…)

 最後の日、穏やかな。
 誰も気づかず知られずに、さよならの日の太陽は泣き笑いの彼の目の前で昇っていった。





 目を覚ませば朝。
 寝た気がしないと項垂れながら首を回せば、当然かと小さく苦笑。
 復職したイルカを待っていたのは、残業三昧の日々だった。
 先輩教師から手渡された書類と日程表を覗き込んで絶句したのは、一週間ほど前。
 その日イルカは朝三代目に復職願いを出し、直ぐさま受理され、その旨が書かれた手紙をアカデミーに提出しに行った後、イルカを指導していた教師の所に出向いてご迷惑をおかけしましたと九十度に頭を下げた。
 にっこりと笑って気にするなと云った彼が、まぁまた頑張れよと肩を叩いて渡してくれたのが、それだった。

『……なん…でしょうか。この殺人的な業務日程は…』
『いやー、真面目なお前のことだからな、ちゃあんと仕事を残してやらんと怒るかもしれんと思ってな』
『…はは…そんなこと…』
『お、違うぞ? まさかお前が来ないことで生徒達が俺に責任があるんじゃないかと詰め寄ったとか、泣いたとか、仇討ちされそうになったとか、そんなことで嫌がらせに仕事溜めてたとか、そんなんじゃ全然ないんだからな?』
『……はぁ…そんなことが…』
『違うって、勘違いするなよ』
『…はい』
『とまぁ、それはともかくとして、だ』

 教師は穏やかに笑う。

『初心に帰ってデスクワークと残業して、お前が生涯通して携わろうとしている仕事と向きあうと良い』
『…先輩…?』
『何があったかは知らん。だが、子どもたちの前でそんな顔は、絶対にするな』
『…どんな顔、してます?』
『いつもの生徒が大好きで、熱血で、真正面からぶつかってくれると評判のイルカ先生の顔じゃあ、ねぇよ』

 思わず自分の頬を撫ぜるイルカに、教師は殊更優しく苦笑して。

『お前は若い。背負い込むものも多いだろう。取捨選択の場面にも出くわすだろう。だが思い切って全てを抱え込んでみるのも、若いからこそできることだぞ』

 そんな忠告を零して、じゃあ明日からまたよろしく、と去り際にまたイルカの肩をぽんと叩いていった先輩教師。
 振り返ってその背が廊下の角に消えるまで見送ったイルカは、一瞬口を開きかけて止め、目を伏せて、笑った。
 苦笑とも自嘲ともつかない、昏い笑み。
 気づかないふりして、イルカは身を翻すと自分の机について早速溜まりに溜まった仕事に着手し始めた。
 それから一週間。
 日程表通りならば、そろそろ授業に出られるはずなのだが。

「今日も残業かぁ」

 何故かイルカの復帰は早々に生徒達に知れ渡ってしまい、授業の合間合間の休憩時間、そして放課後遅くまで、イルカのもとに馳せ参じる生徒達が後を絶たないという状況が生まれていた。
 そこそこ器用な方であるが、書類作成など集中力が必要とされるデスクワークを細切れにこなすのは中々に難しい。
 いくら残業しても、やるべき仕事の仕上げが伸びに伸びていた。
 それだけ生徒に好かれているのだと、そう思えることが救いなのだけれど…。
 思いながらイルカはくたりと力なくその身を寝具に預ける。
 括られていない黒髪が白い浪に埋れて朝焼けに照る。
 瞼を閉じ、その上に手の甲を押し当て光を遮った即席の闇の中、イルカはふと考えた。

(それも、良いかもな…)

 アカデミーにいる間、仕事をしている時。
 その時間だけはイルカは先生の顔をすれば良かった。
 うみのイルカではなく、ただの一教師でありさえすれば良かった。
 それは残業のことがあったとしても、とても楽なことだった。

(考えなくて良い…何も…深く…)

 一年と、半年と、一ヶ月。
 そして特にこの。
 一週間。

(その全てのことを、思考の外に追いやっておける)

 逃避に他ならない行為であると分かっていた。
 分かっていて、けれど。
 せめてあと少し…あと数日はくらいは。

(このまま何も知らないふりをしていたい…)

 心底から願うようなその言葉に、一瞬息を詰めて、零す。

「……馬鹿、だなぁ」

 自分が望んだことの結果を、何故悔いる。
 自ら手を離し、さよならを刻んだ。
 例えそれを望まなかったとして、けれどその結果に行き着く原因を生み出したのは、やはり他ならぬ自分なのだ。

(自分が―――壊したから)

 馬鹿…、とまた口が笑う。
 己の所業、今の後悔。
 どれほど憎んでも、恨んでも、…寂しくても。

(思ってはいけない…)

 闇を作る手を退ける。
 光りが射殺さんと云うよう、目に降り注ぐ。
 受けて、細め、虚ろに、見遣って。
 また、思う。

(思ってはいけない…もう二度と)

 報いだ、業だ。
 あれがあの人の為なんて、誓って云いはしない。
 云うものか。

(最初から最後まで、あれは己の為だった)

 小さな子ども、血に馴染む必要のない、そうあるべきでない。
 アカデミーの彼等と同じで、あと少しは無垢であることの許されたはずの。
 二人の、子。
 血の道に追い遣った自分。
 偏に、彼が傷つくのを見ていられない自分の弱い心の安らぎを得る為に。
 ―――だから。

「…思ってはいけない」

 朝日に溶け消える惰弱な声。

「逢いたいなんて、思っちゃ、いけない…」

 そのまま自分も消えてしまえば良いのになんて。
 目を瞑りながら、思った。





 そして一日が始まる。
 なんでもない日。
 ただの平日。
 朝が来れば昼が来て、昼が来れば夜が来る。
 そして夜が明ければ朝が。
 その理になんら疑問を挟み込む余地もない。
 今日はそんな、普通で一辺倒な、つまらなくも穏やかな一日だった。
 …ただその日。
 その日は、サァサァと風の煩い晩となった。





 そこは、里を一望できる火影岩の上だった。
 見上げれば酷く空が近い。
 押し寄せるほど。
 伸し掛るように。

(……懐かしい)

 残業を終え、近頃は立ち止まることもなく、視線を向けることもなく過ぎ去っていたこの場所へと、イルカは何かに導かれるように来てしまっていた。
 耳元で風がざわめいたからかも知れない。
 あの日と同じ、あの日のように。
 しかし通い続けた半年という時間を思えば、まったく来なかった一ヶ月と一週間は短いと云えるだろうに。
 何故かこの光景に酷く懐かしさを覚えて、そのことにイルカは緩く微笑んだ。
 行儀悪く寝転んで見るのは、手が届きそうだと錯覚するほど近い月。
 真円を描いて闇を照らす。
 まるで彼のようだと、思った。

(…どうしてますか)

 待ち続けた半年と、見守り続けた一ヶ月。
 そして離れて一週間。
 長い気がした。
 その一週間が、半年より、一ヶ月より。
 今まで生きたどの時間よりも。
 とても長い気がした。

(それでも)

 逢えなくて良い。
 そうしてでも守りたかったのだと、云うのはきっと卑怯だから。
 きっと出会う運命ではなかったのだと諦める。
 出会うはずはなかったのだと。
 祈りはあの日に置いてきた。
 願いはもう心ここにない。

(だからどうか)

 瞳を閉じて自分の心にただ朽ち行くだけのこの言葉を。

(お幸せに…)

 せめて月に、贈ろう。





 そうして眼を閉じて少し経った頃。
 不意に何かに気づいて瞳を薄く開き、顔の向きのまま真上の空を見たイルカは、知った〈それ〉に息を止めて喉を凍らせた。
 〈それ〉は月とイルカの間を遮る人型の影だった。
 辛うじて視界に入った風に揺れる髪が、月の光を受けてキラキラと輝いている。
 それは冴え冴えとして美しく、どこか見知った、(しろがね)の色。

(………ふ)

 瞬時に双眸は開ききり、けれどその動作と同じくらい俊敏に、瞳はまた柔らかく細められた。
 一瞬強張った躰もやんわりと解される。
 そうして浮かべられたのは、静かな憫笑。
 あぁ遠ざかったのは自分だったはずなのに。
 出会うべきでなかったと、諦めたのではなかったか。
 にもかかわらず。

(やっぱり、綺麗だ)

 そう思ってしまう自分が滑稽で、どうしようも、なくて。
 それでも、それ以上に。
 この距離では彼から逃げることなど到底敵わないから。

「……今晩は、カカシさん」

 良いお月様ですね―――と。
 そう心情を見せず穏やかに云うイルカを腰を屈めて覗き込んだ人影―――カカシが小首を傾げて小さく零す。

「…逃げないんですね」

 訝しげな声音。
 不思議そうな色違いの双眸。
 訊いて、見詰めて。

「今夜は…」

 少しだけ、遠くを見る目付きで。

「今夜は風が、煩いですから」

 イルカは一瞬目を伏せ、小さく笑った。
 数瞬遅れで、カカシも淡く、微笑んだ。





 並んで二人、間は赤ん坊一人分の距離。
 それは酷く近そうでいて、けれど二人の間に流れる硬い空気が、見かけ以上に隔絶した距離が存在することを物語っていた。
 また声はどちらからも発せられず、視線はただひたすらに空を向き、相手を見ることはない。
 その状況は、月が二度三度、夜空を移動するまで続いて。

「今日はお面、されてないんですね」

 そう云えば、と、まるで重ねてきた会話の続きを喋るように、イルカがぽつりと風の鳴る宵に音を落とせば。

「あぁ、私用で面を使うなと、三代目に怒られてしまったので」

 躊躇なくあっさりと(いら)えを返すカカシ。
 そのまま微笑み合えば、きっと嘗てに還れたのに。

「それに、」

 と、言葉を繋げたカカシは空を見たまま。
 視線は結局交わらないまま。
 何でもないことのように、その言葉は零された。

「どうやったって、最初には戻れませんから」

 あの頃に戻れない。
 仮面で顔を隠し暗部であることを理由に名乗らないまま、それでも静かな夜を二人、共に過ごせたあの日々に。
 言葉にされて、イルカの月に向く視線が僅か地平線寄りに落とされる。
 知っているだろうに、カカシは知らないふりをし続けた。
 数瞬風も静まり沈黙が世界に満ちた、その後に。

「……怒ってますね」

 少しして、イルカは苦笑を浮かべてそう紡ぐ。
 ぱちりと瞳を瞬かせたカカシは、肯定も否定もせずに(だんま)りを決め込んだ。
 それを答えと受け取って、イルカは笑みを弥増して目を細め。

「ならば何故、会いに来られたんですか」

 責める響きでそう云った。

「貴方の想いを裏切り、あの子達を危険に晒すよう仕向けた俺に、今更用なんてないでしょう」

 それとも。

「報復、ですか?」

 云った途端。

「ば―――馬鹿にしないでくださいっ!!」

 カカシが、吠えた。
 顔を真赤にして、先程までの沈黙など、冷静な顔など、全て嘘だと云うように。
 いつのまにか笑みを消して寂然とカカシを見遣っていたイルカの両目を、射ぬくように睨みながら。
 カカシは震える両手を固く握り締め、戦慄く唇を叫んだ強さで噛み締めた。
 けれど異色の双眸に宿る心は視線の強さに反比例して、弱々しいまでの哀の色。

「…馬鹿にはしてませんよ」
「じゃあなんだって云うんですか!? せんせは俺が気に入らなければ暴力で解決しようとする人間だとでも思ってらしたんですか! 今の言葉は、そういうことでしょう!?」

 普段どおり穏やかなイルカが、今は酷く疎ましい。
 噛み付いたカカシはそれ以上答えを返そうとしないイルカに焦れて更に言葉を吐き出した。

「どうせ俺は戦場育ちで、包丁よりクナイ、料理より死体処理が得意な人間ですよ! 確かに昔は力には力で対抗してきましたし、敵味方関係なく気に入らなきゃ全力でたたき潰してきた人間です! 人間関係や倫理、道徳なんて習いませんでしたし今でもよく分かんないままですし、だから人間として俺は歪んでて偏ってるんでしょうよ! そんなの自分でも分かってますよ!! でもね、でもっ」

 じわり、と滲む。
 黒が紅が。
 耐え切れないように、潤んだ。

「イルカせんせが俺のことを考えてあの子達に全て教えたって分かんないほど、人の心に疎いわけじゃありません…!」

 何故―――と涙に煌めく瞳は問う。
 何故分からない。
 何故。
 何故。
 何故。
 ―――どうして。

「そ、そりゃああの子達のことについては驚いたし、なんでって思ったし、ちょっと巫山戯(ふざけ)んなって思いましたけど!」

 どうして、分かってくれない。

「それでも俺が、分かんないわけ、ないでしょう!?」

 どうして気づかない。

「せんせのこと、分かんなわけ、ないのに…ッ!」

 どうして―――どうして?

「なのに、なんでっ」

 とうとう目の淵から零れ堕ちた涙がイルカを責める。

「なんでせんせが、俺の傍にいないの――…」

 貴方の傍にいたくて、帰ってきたのに、と。





 ―――イルカは、不思議な気持ちで泣き出したカカシを見ていた。
 風の煩い宵闇に響いた慟哭。
 月明かりに光る幾粒もの雫。
 そのどちらもが、イルカの所為。
 それに心を痛めなければならないだろうに、イルカはどうにもそうできなくて困っていた。
 ともすれば微笑んでしまいそうな自分に、戸惑っていた。

(怒るだろうとは予想していたけれど…)

 まさかその怒りの理由が、そっちとは。

(本当にこの人は…)

 堪え切れず、とうとう口元を綻ばせてイルカは思う。
 好きだなぁと、思った。

(許せなかったんですね…貴方にとって、ナルト達を唆したことよりも、貴方の傍から消えたことの方が)

 それはまるで都合の良い夢だ。
 覚めた時、悪夢に成り代わるような、そんな夢に似ている。
 …それでも。

(覚めなければ夢は現…今はきっとまだ――…)

 信じるように思いながら、イルカはカカシを見続けた。
 柔らかく片笑んで、見守るように。
 久方に訪れた二人の穏やかな時間を、そっとそっと、愛でるように。 





 そして月が夜空の真上を過ぎた頃。

「…なに…笑ってんですか…」

 人が泣いてるのに、とやっと泣き止み掠れた声で抗議するカカシ。
 ジトッとイルカを見る目が座る。
 その目元の赤さに思わずまた少し微笑んで、イルカはそっとカカシに向かって手を伸ばした。

「………」

 惑う視線を隠さずじっとその指先を見詰めていたカカシは、それと掌全体が自分の頬に触れた数瞬後、つと視線を戻してイルカを見る。
 そしてふと気がついた。
 イルカは変わらず優しく笑っていたけれど、それがどこか憂いを含んでいることに。
 何故、と微かに眉間に皺を寄せかけた、その時に。

「……幸せにね」
「え…?」
「貴方には、幸せになっていただきたかっただけなのですが」

 泣かせてしまっては、駄目ですね。

 云ってほろりと困ったように笑うイルカを、カカシは呆然として見た。
 そして、しょうがないなぁと、俯き小さく笑って。
 宛てがわれたイルカの手に自分の手を静かに添えた。
 ぴくりと反応したそれに頬を寄せて。

「せんせは今、幸せですか?」

 問う。
 俺の幸せを願って、消えようとして。
 今貴方は幸せなのか?、と。

「…違うでしょう?」

 返らない声にちらりとイルカを見れば、些か驚いた顔をしてカカシを凝視していた。
 見返して、微笑。
 泣き笑いの顔。
 また涙が、溢れそう。

(せんせが、云ったんでしょう?)

 忘れたんですか。
 まったく困った人ですね。

「…誰かの幸せを願うなら、願うその人だって幸せじゃなきゃ、駄目なんでしょ…?」
「カカシさん…」
「だからね、せんせ」

 幸せになりましょうよ。

 俺一人が幸せになるんじゃ駄目なんです。
 貴方一人が不幸せでも駄目です。
 大体、貴方が不幸せじゃあ、俺が幸せになんかなれっこないんですから。
 賢いせんせなら、そんなこと、知っているでしょう?
 だから、だから、ね―――と。
 強請るように縋るように、カカシはそう、云い張って。

「二人で、二人とも」

 幸せに、なりましょうよ。

 ね? ―――と。
 首を傾げて笑うカカシ。
 目元には、流し切ったはずの涙の粒がまたぽこりと生まれて堕ちていく。
 それは添えられた手を濡らして放物線を描く途中、唐突に親指に拭われぷつりと途切れた。
 それにイルカの答えを知る。
 言葉にされなくても涙で視界が不明瞭でも。
 優しい雰囲気が教えてくれる。
 イルカが笑ってること。
 幸せに一歩近づけたこと。
 そして。

「―――…ありがと、先生」

 きっともう、カカシは独りにならないこと。





 寄り添い合う影、赤子一人分の合間もなく、それはぴたりとくっついていた。
 何をするでもなくただ肩を寄せ合い、見下ろせる景色と見渡せる空をその小高い場所から望む二人。
 夜の人と、月色の彼。
 その二人が朝がまだ少し先に待ち構えた、それでも気の早い家や商家はそろそろ動き出す頃。
 ぽつりぽつりと少しずつ増えていく灯りを二人して数えていた時に。

「……昔、夜が明けれなければ良いと、思ったことがあります」

 ふと横から聞こえた小さな声は、どこか小さな子どものそれに似ていた。
 イルカがそちらを見れば、云う彼はこちらを見てはおらず、静かな双眸はどこまでも地平線の先を見通すように向けられていた。

「夜は特別な時間でした。闇に埋もれるから、月が見られるから、星が好きだから…そんな理由じゃなくて」
「……大切な人が、傍にいた?」
「…えぇ」

 夜の間だけ、独り占めできる人でした。

「だから夜が好きで…朝焼けが大嫌いだった」

 切ない声に、心が痛い。
 けれど自分もその気持ちを抱く相手がいたから。
 イルカは分かりますよと微笑むにとどめた。
 それに少しだけ笑みを深くすることで応えたカカシは尚も云う。
 微笑が僅かに、浅くなった気がした。

「…その人が死んだ時、俺の世界に二度と夜明けは来ないんだと思いました」

 何度この目で夜が明ける様を見ても、それはどこか遠くの世界のことだった。
 現実味のない桃源郷の空。
 凍った湖に映った、偽りの暁。

「それまでその人と共に迎える朝が、俺にとって本当の意味で夜が明けることだと思ってたんです」
「…今は違うんですか?」

 云い方に違和を覚えて尋ねれば、それにカカシは答えずに。

「カカシさん?」

 寄せていた躰を離し、立ち上がって数歩イルカとの距離を取る。
 イルカも立ってその後姿を戸惑いながら見ていれば。

「せんせ」
「はい」
「さよなら、しましょ」

 まだ薄らと残る月影の元。
 さわりと揺れる銀の髪。
 細い肩が細かに振れる。
 遠い背が、一段と哀しい。

「…云ったでしょう? 最初には、戻れないと」

 無言の拒絶を感じてか笑い混じりにそう諭される。
 分かっている。
 分かっていた。
 そう云わずにいられたらと願うくらいに。
 分かって、いた。

「………」

 云うべき言葉を失って迷えば、また肩が震える。
 泣いているのかと思いきや、俺ねぇ、と次に出された言葉はそれなりにしゃんとして。

「暗部をね、正式に辞めることにしました」

 あっさりと、そう宣った。

「まぁきっと人手が足りなくなれば召集されるでしょうけど、一応暗部という肩書きを捨てて、一上忍に戻ることになったんですよ。あの子達が代わりに俺の穴を埋めるからお前なんぞ要らない、という三代目のお言葉付きで」
「……いつ?」
「今夜まで、です」

 だから。

「さよならしましょ、せんせ」

 もうせんせいの知る暗部の俺は、仮面の俺は、今日の夜と共にいなくなります。
 その前に、と云う彼に。

「―――その後は?」

 と尋ねれば、分かっているでしょうと返された。
 くすくすと忍ばせられた笑みに、俄に強ばった躰が解れる。
 なるほどそういうことかと分かれば笑みは自然と戻ってきた。
 そのままどちらもが口をきかず、少し。
 その状態で、せぇのと拍子を取ったわけでもないのに。

「「さようなら」」

 重なった声。
 そして。

「貴方の、お名前は?」

 芝居がかったその声に。

「―――はたけ、カカシです」

 云いながら振り返った月色の人。
 綺麗な笑顔。
 その後ろで、薄く色づいていた地平線。
 見計らったように。
 夜が、明けた。





 夜は朝を待ち侘びた。
 交じり合う筈はない対局の存在。
 それを許すのは、太陽。
 夜が薄れる。
 朝が忍び寄る。
 乱れる二つの時間、双つの存在。
 どちらとも云えぬ時刻。
 どちらとも云える刻限。
 暁の色。
 時の狭間。
 〈それ〉の名は。



『夜明け前』





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 20110420 完





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