本篇:夜明け前 伍
[覚えている姿は、いつも空を見上げてた。
探す何かがそこにあると云うように。
ふと視線を移しては、しばらくそこから目を離そうとはしない。
いい加減苛立って服の裾を引っ張れば、あぁごめんねと、柔らかく、それでも反省の色なく笑うから。
自分は呆れながらもくしゃりと撫でる手を素気無く払ったのだったっけ。
訊けたことはない。
訊こうともしなかった。
何を探しているの、だなんて、そんなこと。
(ただその穏やかな横顔がまるで祈るようだと)
そう、思ってはいたけれど。
カカシが仲間に背負われイルカとの再会を果たした夜から数えて、優に一ヶ月が経った。
その間、カカシはずっと眠り続けていた。
被っていた血全てがカカシのものであった筈はなかったが、それでも全身隈なく負傷していたし、何より今回一番大きくカカシの体力を奪ったものは精神的な負担だった。
戦闘に次ぐ戦闘。
延々と繰り返されるルーチンワーク。
心への負担が、大きかった。
それでも任務中は何とか堪えていたが、還ってきたことを実感した時、その心の
イルカと少しの会話を交わした後また意識を失ったカカシは、昏々と眠ったまま、起きようとはしなかった。
病室に運ばれて治療されてもそれは変わらず、身動ぎもせず、包帯が少しずつ取り払われ傷が徐々に癒えていっても。
それまでの何かを取り戻すように、ただ静かに昏睡し続けた。
その傍らには、朝と云わず昼と云わず、夜の面会時間ギリギリまで、いつだってイルカの姿があった。
何をするでもなく傍にいて、時折カカシの顔に触れ手に触れ、ひっそりと微笑む。
ただ、それだけ。
毎日毎日、それだけを繰り返して。
いつか自然と目覚めるはずと知っていながらまるで臨終の時を看取るようなその姿に、ナルトとサスケ、三代目は度々声をかけたのだが。
「学校行けよ」
「休職願いを出したよ」
「…気分転換に、子どもと遊んでこい」
「休職しておいて生徒と遊ぶわけにもいかないさ」
「兎に角、少しは休め」
「ご心配はありがたいのですが、教師ですから、体調管理はしっかりしていますよ」
終いに。
「大丈夫」
そう、静かに、譲らぬ瞳で微笑まれては、それ以上言葉が続くはずもなくて。
そんな顔して―――そんな、死にそうな顔して、よく云う。
そう怒ることもできないまま。
それでも諦めず似通った会話を繰り返しては玉砕して、という一連の行動が続いたひと月。
カカシが目を覚ましたのは、そのひと月後の夜のことだった。
昏闇が、目の前まで迫ってきていた。
それでもぱちぱちと瞬きしている感覚があるから、起きているのだろうとは思うのだけれど。
本当にそうなのか、と不安になる。
負った傷の深さを、カカシは他人事のように知っていた。
傷を負うのに慣れていたカカシでさえ、いや、そんなカカシだからこそ。
駄目かもしれないと思うほどの、傷だった。
(血を、流し過ぎた)
止血している間も、増血剤を服用する間もなかった。
最後の戦いは、それほどまでに苛烈な死闘だった。
長い長い戦いだった。
終盤にはチャクラが切れ、忍具や暗器の体力勝負にまで持ち込まれた。
刃が欠ければ敵の物を奪い、奪った物で傷つける敵や逃げる敵の命を奪った。
そしてやっと終わった時。
敵全てを殲滅させた後。
異様に世界が静かだったことを、ぼんやりと覚えている。
(その中を…俺は…)
生き抜けたのだろうか、と。
カカシが不安に思った時。
キィ…
ドアの開く音を、訊いた。
まるでそっとそっと忍び込むようなそれ。
カカシは咄嗟に身を固くする。
それだけで激痛が身を焼いた。
呻きそうになるのを懸命に堪え、耳を澄ませ神経を尖らせる。
感じられない殺気。
消された足音。
その、中で。
(――…?)
ふと気づく。
気づいたことに一瞬目を見開き息を呑んで。
唇を、咬んだ。
(消し切れてない、この、気配は…)
気づいて、分かって。
強張った躰が自然と弛緩する。
警戒心が霧散していく。
怖くなんてなかった。
突然の侵入者。
それでも。
(…俺、貴方を知ってますよ)
そう思うだけで、目頭が熱くなる。
鼻の奥がツンとして。
思わず声を出して笑ってしまいそうになる。
笑って、泣いてしまいそうになる。
だから唇を咬み締めて。
(変わんない、なぁ)
気配の消し方の甘さも。
夜に似てるところも。
優しい雰囲気も。
全然、変わらない。
(一つも、少しも)
あぁだから。
「…カカシさん?」
返事をしなきゃ。
痛む喉を抉じ開けて。
涙なんて流さないで。
ただ一言で良いから。
貴方の声に、応えたい。
「―――…せん、せ」
そうして出たのは、とてもとても聞き取りづらい、
「はい」
笑った気配。
穏やかな。
その裏には、安堵。
(だからこそ、思った)
やっと還ってきたんですね。
俺は貴方の傍に。
やっと還って、これたんですね…。
ぐしぐしと目を擦りながら、目の前が真っ暗なんです、と云えば、夜ですから、と返された。
「よる…?」
「えぇ。ですから本当はもう、面会時間、過ぎてるんですよね」
あはは、と笑ってイルカは悪びれもなく云った。
規則を遵守する彼らしくない行動に目を見張れば、小さく苦笑したのが闇の中伝わって。
「…貴方のチャクラが、波打った気がして」
何かあったのかと、病院の入口から引き返してきてしまいました。
そうしてイルカはそっとカカシの手に触れた。
思えば、いつだってイルカはそんな風にカカシに触れていた。
壊れ物に触るような慎重さで。
それが喪うことを知っている者の手だと、気づいてしまったのはいつだっただろう。
哀しいことだと思ったから気づかないふりをしてたけど。
(…せんせも、何か失くしたのかな)
忍である以上、それは仕方のないことと云える。
分かり切っていることで、承知しなければならないことだ。
それでも。
(せんせが哀しむの…やだなぁ…)
そう思う気持ちを何と云うのか知らないまま、カカシは手の微かな熱が自分の手から離れて頬に移されるのを知りながら、されるがままに任せていた。
その頃から徐々に、とろとろとした眠気が瞼を重くする。
気づいてか、イルカは小さく笑って。
「…長居しすぎましたね。そろそろ、失礼します」
名残惜しげに、親指で頬の傷を優しく一撫でされる感触。
普段隠していて滅多に外気にすら触れられないそこを誰かに触られるとは思いもしなくて。
でも嫌悪より、心地良さが優った。
眠気が助長される。
瞼が重い。
躰が眠りにつく体勢を取り始めたのが分かる。
けれど。
「せんせ…」
呼び止めた。
はいと少し遅れて返事があって、そのことに、何故か酷く安心した自分を不思議に思いながら、カカシはぽつりぽつりと喋り出す。
今しかない、なんて。
そんなことを漠然と、思った。
「ずっとね、ずっと…考えてたんです…」
「…何をですか?」
「せんせから出された、宿題のことを、です…」
別れたあの日。
さよならすら、覚悟した。
それでもイルカが帰ってきてと云ったから、カカシはもし帰れた時の為にと、その宿題の答えについて考えた。
寝る間も惜しんで、考えていた。
けれど結局。
「……分かんなかったです」
答えを見つけ出すことは適わなかったと、ふにゃりと笑ってカカシは云う。
「例え哀しいことだとしても……俺には、傷つくことしかできません…」
何度取り組んだってどれだけ頭を捻っても、答えはいつも哀しいほど同じだった。
正解に辿り着こうと直線を走っているつもりで、一周して戻ってしまっていた。
あぁやっぱりねと、諦めながらにカカシはその理由を知っていた。
(だってやっぱり、思うんだ)
自分が傷つかないことで誰かが傷つくのなら、誰かが傷つく分を自分が全て引き受ける。
傷は自分が耐えれば良いだけの話。
それだけのことなのだと、思ってしまう。
「俺、傷つくことには…慣れてますから…」
傷つくことに、慣れている。
それを哀しいと思ったことはない。
必要なことだった。
自分の心を保つ為に、傷つき続けることは手段であり方法だった。
全てをなくした後も生き続ける為に死なない程度に傷つくことが、カカシにとって生きる為の術だった。
(そんなことを、ずっと、繰り返していた気がする)
誰かが傍から居なくなる度、そうしてぽかりと空いた虚ろを傷と痛みで埋めていく。
本当に埋まっていたのかなんて、そんなこと気にもせず。
ならば殺してきたのは敵なのだろうか、自分の、心だったのか。
それはもう、分からないけれど。
「やめなさいって…云われたのになぁ…」
(あぁそんなことを、いつか、誰かに云われたような…)
そうだ。
柔らかく、窘められたのだった。
君の為にならないよと。
お月様の色で綺麗だと、初対面でこの髪を褒めてくれた、あの人に。
(大事な人じゃなかったのに…いつの間にか、大事な人になっていた…)
だから喪った時、耐えられなかった。
耐え切れたはずがなかった。
三度目の喪失。
心が、壊れてしまいそうなほど。
(だから――…)
思う傍から、それは夢の淵に沈んでいく。
その先を考えようとするのに、思い出そうとするのに、できない。
意識に霞がかかり始めて、もう、目も開けていられない。
何を云ったかも分からない。
(…せんせはもう、帰っちゃったのかな)
声が聞こえない。
気配ももう、分かんない。
(ごめんね、宿題ちゃんとできなくて)
でも頑張って考えたの。
これでも一生懸命、考えたんです。
せんせ、せんせ。
訊いてます?
ねぇ。
「せ…ん―――…」
行き先を失った言葉と同時に、くたりと顔が横を向く。
衝撃でつと零れていく一筋の涙。
見て、拭って。
穏やかな寝息を訊いて。
「ごめんなさい、カカシさん」
夜は云う。
寝入った彼にそっと優しく触れた指。
それは極めて珍しい、指先から出すチャクラを対象のチャクラにぶつけ、ある一定の波長で乱すことでかけることのできる、催眠術。
かけた意図をその事実を。
どうかどうか、知らないままで。
「おやすみなさい」
そしてどうか。
(今度こそ、優しい夢を見られますように)
小さく祈って、微かに哀しく微笑んで。
銀を撫でる。
今夜は出ていない、月の色。
惜しむように触れて、覚えるように何度も。
それは長くて、でもきっと、短くて。
そっと手を離した瞬間唇が震えたことを知るのは、自分だけで良い。
誰も何も、知らなくて良い。
知れば何かが変わると知っていても。
知らなくて、良いこと。
だから。
「……さようなら」
最後に一瞬目を伏せ、それでも夜は笑った。
笑って、夜の中に消えてった。
涙を流して起きる朝を、今まで何度迎えたことだろう。
昇る太陽、棚引く白雲。
哀しいほど綺麗な。
朝焼けの空。
見て、感じて。
ぽたぽたと、溢れる涙が白波に呑み込まれる様にぼんやりと視線を移して。
シーツの上の点々と色の違う部分。
濡れた場所。
ぽかりと空いた穴。
心の空洞。
何かをなくしたような、喪失感。
(でも何を――…?)
分からない。
知らない。
でも哀しい。
(なくすものなんて、俺は何も持ってないのに)
喪いたくないと思ったものは喪ったものだけ。
哀しいと思うほど涙を流すほど、喪いたくなかったものなんてなかったはずなのに。
(何を哀しむの)
(何が辛いの)
(何もないのに)
(何も、なくしてやしないのに)
哀しい夢でも見ただろうか。
覚えてない。
優しい夢でも見ただろうか。
あり得ない。
(…あぁ、けれど)
哀しく優しい人の夢を見た。
柔らかく微笑む人だった。
少し寂しげに笑う人だった。
喪うことを知っている人だった。
どこか自分に似た人だった。
(夜に似た、人だった)
夜に似た―――夜の。
「……イルカ、せんせ…?」
何の予感もない。
何の確信もない。
ただ知った。
気づいてしまった。
その名が喪失のそれと一抹の齟齬なくぴたりと合致すること。
つまり自分はあの人を喪ったのだ。
指の間から零れ堕ちた、涙のように。
「…あ」
躰が震える。
手が布を
布を握る。
白が赤に染まる。
赤く紅く。
その色はまるで。
(あの日の景色)
喪った日。
喪った人達。
血と。
瞳と。
空の、色。
(あの、日の――…)
赤。
「なん、で…?」
…ねぇ。
「俺はもう、喪いたくなんかないのに」
こたえて。
「なんでそばにだれもいないの」
かみさま。
20110326