本篇:夜明け前 肆
[ずっと、思っていたことがある。
少しの間、夢に耽る瞬間。
〈誰か〉といた記憶を振り返る時。
思うことが、あった。
『 』
でもそれが何かを自分で知ることはできず。
何かを思っている筈なのに、その言葉に手は届かない。
まるで夜空の星に手を伸ばすように。
流れ星を捕まえようとでもするように。
『 』
心に蹲った、言葉があった。
『 』
それを知らず分からないまま。
戦場を駆けて。
血雨を降らせ。
赭色に染まる。
『 』
目を、背けて。
(でも今なら分かるよ)
今なら、今だったら。
分かるのに。
(ずっと叫んでたのにね)
かえりたい。
(そう、叫んでいたのにね)
視界が潤む、目障りなほど。
今更―――今更。
(かえりたいと、ねがうなんて)
赭に濡れきった躰。
痛みも分からず熱ばかりを生む躰。
もう動かせない。
もう動かない。
(もうあなたのところに、かえれない)
滑稽だ。
今更で、今更すぎて。
思うことすら、罪悪だ。
(…あぁならば)
置いていくよ、置いていく。
この躰で還ることがもう叶わないのならせめて。
(こころだけでも、あなたのところにかえりたい。)
滲む世界。
涙と混濁する意識の狭間。
見上げた空。
時間は深更。
最後に見た
優しく柔らかな。
貴方の、色。
アカデミーの仕事が終われば火影岩へ。
それはいつからかイルカの習慣になっていた。
遡ればそれは半年前からのこと。
足を運ぶ理由は、いつ帰るとも知れないあの人が好んで来ていた場所だったからだ。
(あの人―――顔も知らない、暗部の彼)
彼はイルカに大切な子どもを託し、戦場へと行ってしまった。
『どうかよろしく、お願いします…――』
震える声で、そう頭を下げて。
それからもう半年が経つ。
彼が任務に赴いた直後は一週間に一度ここに来れば良い方だったけれど、今となっては日課となってしまったっていた。
そして毎晩ここに来て何をしているのかと云えば、特に何もしていない。
何もせず、ただ静かに夜が明けるのを待つ。
彼と共にいた時のように。
違うのは会話がないことくらいで、けれどそのくらいと云ってしまうには、そのことが一番イルカの心を寂しくさせていたのだけど。
分かっているのにここに来る。
どれほど疲れていても足が向く。
来てしまう。
足繁く通う場所を間違えている気がするなぁと苦笑しても。
(もしかしたら、今日こそは)
そう、思ってしまうから。
ここから見える景色のどこかから、今日こそあの人が帰ってくるのではないかと。
もし昼に帰ってきていたとしても、事務処理が終われば夜にでも自分に会いにここに来てくれるのではと。
何の根拠もない。
何の報せもない。
ただ、イルカがそう願っているだけ。
(空振りし続けて、三ヶ月くらい経つけれど)
彼がいつ帰ってくるのか、帰ってこられるのか。
イルカは知らないし、彼も知らなかった。
だからイルカができることと云えばただ待つこと。
待って待って待ち続けること。
そうしてやっと帰ってきたあの人に、お帰りなさいを云う為に。
(ずっと一人で生きてきたであろうあの人は、きっと忘れている筈だから)
待つ人がいるんですよと教えてあげたい。
お帰りなさいと訊いた時の安心感を思い出させてあげたい。
温かい気持ちを、分けてあげたい。
だからだから。
「…早く帰ってきてください」
待ちくたびれましたよ、なんてイルカは笑って嘯いて。
静寂に耳を澄まして空を見る。
その横顔も雰囲気も、どこまでも夜に似て、ただ静か。
それは、イルカがどこまでも夜に近いから。
だからイルカは闇に強い。
だからあの子達から懐かれた。
月であるあの子達と、夜であるイルカはとても相性が良かったから。
そして。
(きっとあの人とあの子達も、仲良くなれるだろう)
月を輝かせるのは太陽の役目。
だからきっと大丈夫。
ただ…。
(その理屈で云えば、俺とあの人の相性は最悪だな)
そのことが少しだけ、哀しいけれど。
と、イルカがふわりと視線を落として苦笑した時。
「……?」
ぴくり、とイルカの肩が揺れた。
視線を上げ、泳がせる。
何かを感じた。
ラジオの電波が一瞬乱れたような、そんな、何かを。
(ざわざわする…)
また見上げた空。
さっきとまったく変わらず、夜はいつも通り静かなのに。
神経を掠めて行った何かが胸に残る。
敵意も殺意も害意もない。
誰かがいる気配もない。
なのに。
(なん、だろう…)
気になって、座っていられなくて、イルカはふらりと立ち上がった。
耳を澄ます。
意識を尖らせる。
視覚に頼らず、何かを感じ取ろうとして。
「……!」
―――呼ばれたような、気がした。
誰かに。
(名前を…)
誰かに。
(微かに…でも、確かに)
誰、に?
「まさか…」
小さく呟いた、その瞬間。
「――――」
訊いた。
訊こえた。
この耳に。
確かに。
『イルカ、せんせ…』
あの人の、声。
同じ頃、町外れの隠れ家で。
「だぁめだー!」
大声と共にばさりと布団を跳ね飛ばして起き上がったナルトが、苛立つままに髪の毛を掻き毟っていた。
それを隣の布団で横になって巻物を読んでいたサスケが呆れたように見て。
「…何してるんだ?」
と問えば、ギッと睨まれて吼えられた。
「何してる? 見て分かんだろ寝ようとしてんだよ頑張って!」
とてもそうは見えなかったが…、という言葉をサスケは賢明にも心の内に仕舞い、代わりにその言葉から察し得るナルトの状態に顔を僅かに曇らせた。
「……また眠れないのか」
そう云えばうっすらまた隈ができているようにも…と眉を顰めてナルトの顔を覗き込むサスケに、慌ててそうじゃないとナルトは云った。
「そっちじゃねぇよ…違う、ほら、昼夜逆転生活に慣れねぇんだよ…」
「あぁ…そっちか」
二人がアカデミーに入学してそろそろ半年が経つ。
入る前はこれでも色々と心配したのだ。
アカデミー生がどの程度の力を持っているのかなんか知らないから加減が分からないし、だから二人はどこまで手を抜いて授業を受ければ良いのかがまず分からなかった。
そもそも何を用意すれば良いのかも、本気を出したらどうなるのかも、っていうかアカデミーってどんな処だ?、という疑問から出発し。
一つ一つ、時間を掛けて丁寧に解決していったのだ。
(わざわざアカデミーに潜入してみたり)
(校内の購買部に侵入してみたり)
(変化してアカデミー生の集団に突入してみたり)
(校内図入手してみたり)
(授業を覗いみてたり)
(教師の机覗いてみたり)
(―――とかな!)
禁術の書にだってあれだけの時間をかけたことはないと二人は断言する。
それでも入学し、これまでなんとかやってこれているのだが。
「俺ってば元々夜型だから、朝起きて昼に授業とか、マジ鬼だぜ…」
規則正しい生活がこれほどまでに辛いものだとは思わなかった…、というのはナルトだけの言で。
「俺は然程辛いとは思わないが…」
同じく夜に起きて朝に寝ていた筈のサスケは精細さや神経質そうな外見を裏切って思いの外順応性が高いのか、ナルトほど悩んではいないらしい。
「…お前結構図太いもんな」
ジトッと羨むように云ってから、図太い、と云うか、拘りがないんだっけ、とナルトは思い直す。
幼少期を闇の中で生きていたサスケは、あれから何年経った今も、主に時間の境目というものに疎い。
朝だろうが昼だろうが夜だろうが関係なく。
サスケを包み込むものは、闇だったから。
ナルトに連れ出されて外を知ってからは光というものを思い出したけれど、それにしたってあると認識しているに過ぎない。
あってなきがごとし。
多分そういうことだろうと、ナルトは推察している。
「しかし、そんなことを気にするとはお前らしくないな」
「あ?」
「どうせ授業中に寝てるんだろ?」
「まーな」
じゃあそれで良いじゃないか、と教師が訊けば泣きそうなことを平気で云う優等生のサスケは、だからこそ気がついた。
誰に何と云われようと結局は自分の意見を通してしまうナルトが、頑張ってまで自己の体質を改善しようとする訳を。
「あぁ…イルカか」
「…そーだよ」
不貞腐れたように唇を尖らせたナルトは、だって、とこれまた子どものように云い訳した。
「怖ぇんだもんイルカの奴…しかもあの飛んでくるチョーク、マジで痛いし。俺キャラ的に避ける訳にいかねぇし。お前も一回受けてみろよー」
「そんなの〈うちはサスケ〉じゃないだろ」
「あぁ…お前優等生してんだったか…」
「思い出したか、〈ドベのナルト〉」
「うっせ! あー、俺も優等生すりゃ良かった!」
「まぁ優等生になるにはまず寝ることだな」
「……うっわマジむかつくどーしよこれ」
「飼い殺せ」
「お前も鬼だな…」
はいはい分かった寝てやるよ、とブツブツ云いながら自分で剥いだ布団を頭から被ってそのまま寝ようとぎゅっと目を閉じた、まさにその直後だった。
「「!」」
布団はナルトによって再度跳ね飛ばされ、サスケが持っていた巻物は宙を舞った。
どちらもが片膝をつく体勢になった時、家の周りに貼った結界を通り抜けて一羽の鳥が二人の前に現れた。
イルカの式だ。
「木蓮、どうした」
問うサスケの声に、先ほどまでの穏やかな響きはない。
硬質な声、そして表情。
それに応えたのは。
『―――来い!』
イルカの、声。
木蓮が、イルカの声でそう叫んだのだ。
訊いた、その一瞬で。
ザッ――…!
二人は近くの窓から外へと飛び出す。
木蓮が先行するのを追い駆ける。
方角は北東。
探れば、イルカの気配がする。
しかし…。
「…らしくねぇじゃん」
ナルトの呟きに、サスケも頷く。
「あぁ…らしくない」
ひどくひどく、彼らしくない。
(これじゃあまるで―――)
嵐の夜だ。
(乱れたチャクラも、焦ったような全力の疾走も、先ほどの声も)
その全てが、イルカの印象から程遠い。
静かな夜と云うに相応しい彼とは対極に位置する。
「何があった…?」
双眸を眇めて零すサスケに、ナルトはさぁと一言で片付けて。
「まぁ、俺等がいくら考えたところで仕方ない。今はイルカに追いつくことが先決だ」
「…そうだな」
「じゃ、行くぜ」
掛け声と共に、ナルトとサスケは速度を上げ、木蓮を置いてイルカの気配を辿り出す。
向かう先はどうやら木ノ葉の国境。
そこで何が待ち受けるかは知らないが。
「…楽しいことじゃあ、なさそうだな」
苦さの交じるその言葉に。
気不味い沈黙が、応えた。
樹々の中を趨る。
我武者羅に、ただ。
思うことは何もない。
考えることも何もない。
ただ速く、できるだけ速く。
そこに辿り着くことを願った。
そこに―――あの人のもとに。
向かう先に感じられる気配もないのに。
呼ばれた気がしたと、ただそれだけの理由で。
真夜中の森を駆ける。
ただ早鐘の心臓だけは。
何か、思うところがあったけれど。
「…ご無事で」
知らず祈るように口走った時。
「―――イルカ!」
背後から、声。
「…焦り過ぎるな」
太陽の子と、夜の子と。
押しとどめるような両者の声に苦笑しながら、イルカは手を挙げるだけで返事をする。
振り返る余裕はなかった。
視線を僅かに逸らす、それだけの余裕も。
それを察してか、二人から不満が漏れることはなく、それ以上声がかけられることもない。
葉擦れの音、樹々のざわめき、風の声。
それだけが聴覚を刺激して、耳に痛い。
その、中で。
「…あれ?」
ナルトが、小さく声を零した。
普段なら掻き消えた小ささに、けれど静寂の中、その声は大きすぎて。
「どうした」
鋭く訊くサスケに、ナルトが答える。
「誰か、来る」
くっと息を呑む。
双眸を眇める。
睨み据える先はひたすらに眼前。
「―――ッ、イルカ!」
背にかけられる声を無視して、イルカは速度を上げた。
まったくの、同時刻。
「ッ…!」
複数の暗部が、国境を目がけて走ってくるのを目視する。
追われている風ではない。
それでも、焦っていた。
焦燥と不安が彼等の足を前に進ませているのが見て取れるほど。
彼等はとても、焦っていた。
「暗部…?」
「何故ここに…」
ナルトの驚愕と、サスケの困惑。
両方を退けて、イルカは暗部に向かって駆け寄った。
否、暗部と云うよりも、誰かを背負った暗部に。
暗部に背負われた、誰かに。
誰か。
(その、誰かは)
一目にして、瞭然。
項垂れた手は背負う誰かを掴むでもなく投げ出され、手甲の金属部分は焼き爛れて。
血に染まらぬ処一分も無し。
しとどに血塗られた躰。
それが彼自身の血か、または別の誰かのか。
分からぬまま混在する黒色の赭。
けれど。
それでも。
(見間違える訳がない)
一年間、…一年だ。
顔も知らず名も知らず。
僅かな時を共に過ごした。
夜の終わりから朝の始まりまで。
交わす言葉は少なく、実のあるものでなかったとしても。
傍にいた。
ただ、傍に。
望まれた訳でも願われた訳でもない。
請われた訳でもないのに。
暗黙の邂逅の約束。
ふと交わる視線。
零された笑みの気配。
そんなもので、そんなものがあったから。
傍にいた。
この人の。
この。
(この銀の、傍に)
血に塗れたところで褪せぬ気高さの横に。
『今晩は、イルカせんせ』
あどけなさの隣に。
『戦場へ…俺にしてみれば、故郷へ』
寂しさの傍らに。
『――…はい…ッ』
傷つき続けた人の、傍に。
己は、いたのだ。
だから。
「お前達は…っ」
「容態は」
三人の登場に驚き戸惑う暗部達を構わず、問いつつイルカは近づいたその誰かの銀に手を伸ばす。
触れればパラパラと乾燥した血が雨のごとく振りかかる。
手が汚れる。
紅に染まる。
「………非常に、危険だ。道中から意識が途絶えたままで…」
目を、覚まされない…。
悔やむように云った暗部は彼を大地に横たえた。
イルカは素早く傍らに膝をつき、手を頬に添えて親指で撫ぜる。
開かぬ瞳の縁、縦に走った傷の部分。
そろりと撫で、そして、呼ぶ。
「……カカシさん」
知った名。
教えてもらっていない筈の。
知る筈のない、名前。
「カカシさん」
でも呼んだ。
静かに、促すように。
そっと大事なものを戴くように。
「カカシさん…」
さぁ起きてください。
「もう、朝だから」
いつかとは正反対の言葉。
あの時素直に聞いた彼は同じように。
この時も、素直で。
「……ぅ、…」
摩り続けた目元がぴくりと動く。
長い睫毛がふるりと震え。
薄らと開かれた目。
その色は、紅。
暫し彷徨って、射ぬいた先。
数度の瞬き。
そして。
「……せん…せ…?」
掠れた言葉。
それでも、訊いた。
訊こえた。
この耳に。
この心に。
確かに。
絶対に。
「…えぇ、―――えぇ、そうです」
馴染んだ呼称、声。
半年の空白を飛び越えて触れた存在。
待ち侘びた人。
待ち続けた人。
待ち望んだ人。
たった、一人の。
「よく、生きて、還って」
声も心も、ともすれば震えて崩折れてしまいそう。
叱咤してなんとか、頑張ったのに。
「…せん、せと…やくそく…しましたから」
ふにゃりと笑う人。
傷も痛みも孤独も全てを知った上で。
「せんせが、…かえってきて、って…いった…から…」
だから帰ってきましたよと。
笑って。
笑って。
つと泣いたその人が。
紅の瞳から透明な涙を流すその人が。
堪らなく、愛おしくて。
「お帰りなさい」
待ってましたよと云う声に。
「…ただいま、…です…」
イルカせんせ…――。
応える声と、消えそうに呼ばれた己の名。
「――――」
堪え切れず、涙が、出た。
望んだことは、小さなこと。
きっと当たり前と云われるような。
そんな、こと。
(でも当たり前じゃないから会えなくて)
(当たり前じゃないから、望んだ)
かえりたい―――。
―――またあいたい。
二つの望み。
行き交って。
(かえれること。またあえること)
いつかそれが当たり前のことになることを。
どちらともなく、心の片隅で、そっとそっと、祈った。
20110322