本篇:夜明け前 参
[ ポプラ:哀歌 ]『 』
声が訊こえた。
眠りの淵に蹲っているその時を狙ってのことなのだろう。
いつもひっそりと訊こえる、それ。
『 』
夜の帳に割り込んで、けれど決して煩雑さはなく。
心地良い音色。
夢の底に誘うような歌声に、逆らえる筈もなく。
『 』
声が訊こえた。
ずっとずっと昔から。
眠れない夜を見計らって。
歌声が、訊こえていた。
『 』
とても懐かしい気がするんだと。
泣く自分を、彼は今も知らないでいる。
穏やかに太陽が地平に消えた頃、むくりと起きる影がある。
あぁ良く眠ったと顔を上げ、傍らにいる筈の寝起きの悪い同居人を起こそうと、手の届く範囲の布団をバシバシと景気良く叩いていたが。
「…ん?」
寝ぼけ眼のままで首を傾げる。
いつもなら既に探り当てている筈の存在がいない。
「………あ?」
そう気づいた瞬間、吹っ飛ぶ程ではなかったが眠気はある程度薄れ、手ではなく目で探し、その事実を認識して受け入れた。
「めずらし…あいつ、一人で起きれたのか…」
ぼんやりと呟いて、欠伸を一つ。
その所為で出た涙を拭い、敷いてあった二つの布団を手際よく片付け始める。
乱れているのは今起きた子の方ばかり。
もう片方は、布団を一度跳ね除けただけの形で綺麗に敷いた時と同じ状態で残っていた。
これが寝相の良し悪しの話であれば、それを見て子どもが大人びたように呆れる理由には成り得ない。
「…そろそろ、この癖もやめなきゃな」
子どもが苦笑するのには、訳がある。
つかず離れずの関係を保ち続けるその子と同居人は、いつだって別々の布団で寝て、同じ布団で起きていた。
例え真夏の夜だって、寝苦しい夜も。
だからと云って触れ合うことは絶対にない。
寝てる間も気配を読み、感じて、互いの躰を回避する。
例えどんなに寒い夜でも、寄り添いあうことは有り得なかった。
ただ同じ布団の端と端に陣取って、昏々と眠るだけ。
子どもらしいと微笑むには、あまりにも何かが足りなさ過ぎた。
けれどその理由を、痛いほどその子は知っていたから。
「……まぁ、まだ、良いか」
いつも、そうだ。
止めようとして、真剣に考えて、思い至って、止めれない。
寄り添う為に手を取り合った訳ではなかった。
それでも一人で立てるほど強くもない。
なのに触れ合うことは怖いから。
(そうして、知っていることに気づかないふりをし続ける)
俺も、あいつも。
強くなきゃいけないのに弱くて、弱くありながら強かった。
ただひたすら弱かったなら、諦めもついただろうに。
幸いなことに、不幸なことに。
二人は二人で生きていけるほどには強く。
一人ではいられないくらいに、弱かった。
「やってらんねぇよなぁ…」
ぺたりと畳に座り込んだまま布団を掴んだまま、子どもは小さく呟いた。
絶望と云うには渇いてて、哀切と云うには穏やかな。
だからこそ哀しすぎるその声を訊く存在もないままに。
子どもは布団を畳むことを放棄して、ずっと座ったままでいた。
座ったまま、視線の先、窓という枠で切られた夜空が小さいと。
ぼんやりと思って、ほんのりと、笑った。
(…今なら、願ってやれるのに)
夜空が小さすぎて狭すぎて、流れ星が絶対に見えない今だったら。
(叶わないのなら、願っても…)
大丈夫かな。
そう思って、そう思ったから。
「 」
子どもは小さく歌い出す。
小さく、小さく。
月の煌きのように、星の瞬きのように、微かに。
「 」
それは歌と云うには拙くて。
そもそも詞なんてものはなく、ただ音の連なりと云った方が良い程度の。
そんな音律が、子どもの小さな口から紡がれる。
思い出をなぞるようなたどたどしさ。
記憶の底から引っ張り出した楽譜を辿るようなそれは。
子どもの一番古い記憶と思い出。
そして今も夢の中でだけ触れることの適う過去。
「 」
過去なんかないのに。
誰かに触れ合えた記憶も感覚も。
誰かに愛惜しまれた思い出も。
自分にはなく、これからもない。
だと云うのに。
「 」
懐かしい歌。
知らない詞。
忘れられなくて苦しくて。
でも忘れたらもっと苦しいだろうから、覚えておく。
覚えておくから、だから――…。
「 」
言葉の行先を知らないまま、気づかないまま。
子どもは夜を見詰めながら小さく小さく歌い続けた。
微かに静かに。
泣き続けた。
寝室の気配が動いたことに、あぁ起きたのかと感じてはいたけれど。
程なくしてもそこから動く様子を見せない子どもの気配に、イルカは不審に思いながら脇にいる子どもに意識を向けていた。
「あぁ、違う。ここはこうだ」
「こう?」
「そう。ここは手順を間違えると術が跳ね返る」
「どんな風に?」
「試したかったら止めないが、自己責任でな」
「…じゃあしない」
「それが良い」
素直な諦めの言葉に頷いたイルカは、自分とは違う夜更け前の黒を映した髪を撫でようとして、あぁ駄目だと自制する。
黒髪の子―――サスケは他人に触れることと触れられることを嫌うのだと付き合う中で知ってから、イルカは極力それを避けていた。
我慢できる、と幼気にサスケは云ったけれど、我慢させることがイルカは嫌だった。
その代わりと云うようにナルトに触れることにはまったく躊躇わないので、サスケはその意味で面白くないらしいのだが、それを知るのはナルトだけで、イルカが気づいている節はない。
その分、サスケは今日みたいにこっそり早く起きて、ナルトに内緒でイルカから術の手解きや新術を習っているのだから、どっちもどっちだろう。
「しかし、ナルトの奴、遅いな」
術の講義が一段落ついたところで、イルカはさっきから気になっていたことを独語した。
この家で気配を消すことはないと以前ナルトが云ったように、探ればナルトの気配もちゃんと感じ取れるのに。
「また寝たのかな…」
寝室から、動かない。
首を傾げたイルカを見上げて、サスケが小さく云う。
「…あまり、眠れないみたいだ」
「そうか…」
ナルトは不定期に不眠症に陥ることがあった。
理由を訊いてもはぐらかされるか大丈夫と押し切られる。
そう云う時いつだって大丈夫と思えるような顔はしていないのだけど。
「今回は特に酷い…と思う」
一番ナルトの傍にいるサスケは、思うところがあるらしい。
表情を翳らせて、ちらりと寝室の方を見た。
「多分、イルカが来てることも、気づいてない…」
それにはイルカも衝撃を受けた。
ナルトは人一倍気配に敏い。
意識が混濁していようが眠気の極限状態にいようが関係なく、そこに誰がいるかを躊躇いなく間違うことなく云い当てることができる。
寝ぼけているからと云って、それは理由にすらならないのに。
「……それは」
危ないんじゃないか?、というイルカの声に被さって。
『―――… 』
声が、訊こえた。
遠く小さく、それは寝室から。
「……歌…?」
気配と今までの会話を信じるなら、そこにいるのはナルトで。
だとしたら、歌い手はナルト。
歌とは云い難い拙い声と幼い音に、それは分かるのだけれど。
(これ…どこかで…)
その音律をイルカは嘗て訊いた気がして、でも思い出せなくて首を傾げた。
(なんだろう…)
確かに…どこかで…。
「…またか」
考え続けるイルカの思考を断ち切ったのは、サスケの声。
見ると呆れたように苛立ったように、寝室のある方角を睨みつけていた。
「また?」
問えば面白くなさそうにサスケは頬杖をつく。
そしてとてもとても面白くなさそうに、ぽつぽつと話してくれた。
「……昔から、訊こえてくる歌があるんだと」
あいつが小さな頃から、眠れない夜が続くと訊こえたんだと。
どこか遠くから耳に直接囁くように、静かに穏やかに、寝物語を語るように、訊こえる歌。
俺と暮らし始めてからも訊こえてたらしくて、俺は知らないし訊いたことないって云ったら驚いてたな。
兎に角その歌はナルトにしか訊こえてなくて、訊いたらやっと眠れるんだ。
云い換えれば、訊くまで全然寝られない。
なのにあいつは、こっちが眠るまで訊こえ続けるからしょうがなく寝てやるんだとか云ってたけど。
「最近まったく訊こえなくなったらしくて、ナルトは多分、今までで一番眠れてない」
その所為なんだろうな、きっと。
そう云うサスケの瞳が静かに揺れた。
「…あいつ、今まで俺がいくら云っても歌わなかったその歌を、歌うようになった」
夢見心地で訊いた歌。
はっきりとした詞なんて覚えてる筈もなく、だから曖昧に音だけをなぞって。
でもそうまでして、歌うんだ。
眠ろうとしてじゃない。
多分それもあるけど、本当は違うんじゃないかと思う。
覚えていたいんだ、忘れてしまう前に。
何かの手掛かりのように、大切にしていたいんだ。
「…何を?」
イルカの問いに、サスケはただ頭を振って知らないと云う。
けれど。
「でも、そうなんだと思う」
いやに確信のある声と言葉に、何故?、と視線で質すイルカの目を、サスケはそっと見返して、躊躇うように、逸らして。
でも云った。
微かな声でひっそりと。
内緒だよと云うように。
云う前に、一呼吸して。
「……泣くんだ、ナルト」
歌いながら、泣くんだと。
寂しく云って、サスケはまた寝室の方を見た。
今度は呆れや苛立ちを見せず、何も映さない瞳を時折瞬かせてじっと見る。
言葉を挟まずただ訊いて。
泣いているであろうナルトを見ない為に、立ち上がりもしない。
気配をゆっくりと薄めていって自分の存在を消していく。
ナルトが歌い終えるまで。
ナルトが泣き終わるまで。
その妨げにはなるまいと、表情を変えずにサスケは自分の気配を消していき。
『 』
時たま長く眼を閉じる時、きっと耳を欹てて訊くのだろう。
詞のない詩を、知らない音を。
サスケの中には一切ないその歌を。
覚えるように刻むように。
今夜はナルトが眠れたら良いと、願うように。
(…あぁそれを、今この静寂を)
壊せば恨まれるのだろうかと思いながら。
「…… 」
イルカは一つ息をして、小さく小さく、口遊み始めた。
少し伸びていく音は、いつか寝室に届くだろう。
今はサスケが目を見開き驚いて、イルカを見る程度のことだけれど。
(思い出してしまったから)
子どもの歌に、綺麗に重なった音、微かに連想した歌。
夜に響いたそれは、あぁ、火影岩の上で訊いたのだっけ。
『――…昔、ある人が俺の為に歌ってくれました』
そう云って、嬉しそうに顔を綻ばせた彼。
『任務で一週間も外に出れば眠れなくなる俺の為に歌ってくれたんです』
里内では勿論家が別々でしたから、歌ってくれることはなかったですけど。
『だから一生懸命覚えました。一人の時でも歌えるように。寝たいからじゃなく、その人がくれたものは何でも覚えていたかったから』
ねぇ、イルカせんせ。
『俺は、幸せでしたよ――…』
云って、笑って。
泣きそうに、笑って。
たった一度、彼はそっと口遊んだのだ。
イルカが真似る歌を。
ナルトがなぞる歌を。
(……本当に貴方は)
馬鹿、ですねぇ。
イルカがとても哀しくそう思った時。
ガタッ
引き戸が思いっきり音を立てて開かれた。
犯人はナルト。
寝室から慌てて走ってきたのだろうに、足音を立てないところがさすがと云うかなんと云うか。
それほどのことなのだと分かっているから、イルカが驚くことはないけれど。
「イ、ルカ…?」
ナルトには衝撃が大きすぎたようで、まさか、と目を見開いた。
その瞳に端にきらりと拭い切れていない涙を見て、だからこそ、イルカは笑んだまま。
「俺じゃないよ」
「……そか」
さらりと云えば、ナルトも少し戸惑ったまま、でもどこかで違うことは分かっていたのか、すんなりと頷いて。
少しだけ目を伏せて、少しだけ、笑って。
やっぱり、と云いたげに、唇を噛み締めるから。
「でもいつか、会わせてあげる」
イルカはそっと云い足した。
静かに、なんでもないことのように。
明日は晴れだよと云うような気軽さで。
「ナルトに、そしてサスケにも、会わせてあげるから」
サスケはそれに唇の端を小さく上げた。
小さく小さく、お好きなようにと云いたげに。
そしてナルトは、ぱちぱちと意味が分からないという風に瞬きを繰り返して。
でも唐突に理解したのか。
「……そか」
同じ言葉、違う声音で、イルカに微笑む。
その時眦に残っていた涙が、さっきの瞬きによって押し出されてか、一つだけぽろりと頬を伝って零れていった。
それは今日、夜空を彩るの星のように綺麗で。
流れ星みたいに、儚かった。
こうして少しずつ少しずつ、イルカはカカシの種を蒔いていく。
芽吹くのはカカシが帰った時。
そうして生まれるものは、なんだろう。
ナルトは喜ぶのだろうか。
カカシは哀しむのだろうか。
サスケは何を思うだろうか。
そしてイルカは、どうするだろう。
(さて、ねぇ)
ナルト達の家からの帰り道、イルカは夜明けに向かう空を見上げて立ち止まる。
あの人もこの空を見ただろうかと、戦場を駆けるカカシを偲んで微笑む。
(分かっているのは許されたい訳ではないということ)
だからイルカはナルトとサスケの傍にいる。
カカシの願わなかったことまで背負って、告げて、笑って。
ごめんなさいは云い飽きたからもう云わない。
ただ。
「彼等の傍に、早く帰ってきてやってください」
そう願いますよ。
早く早く、彼等の、傍に。
(だから、もう)
見詰める先、空の端がじわりじわりと太陽の色に滲んでいく。
夜が明ける。
それでも諦めず見続けて。
けれど結局。
何もないまま、夜が明けた。
見届けて、朝焼けに照らされながら、ふふとイルカはほのかに笑う。
笑って、思った。
(……だから、もう)
願わない。
「早く、帰ってきてくださいね」
それだけしか、願わない。
流れ星は流れなかった。
願いごとは叶わない。
だからだから。
イルカは微笑む。
聖者のように清らかに。
殉教者のように黙して。
それでも、祈った。
(ご無事で、どうか)
生きて帰ってきてください。
もう。
(俺の傍にとは、願わないから。)
ただ静かに、太陽に祈る。
20110312