本篇:夜明け前 弐

[ 馬酔木(アセビ):犠牲と献身 ]



 夜明けと共に、彼は任務に赴いた。
 いつ終わるともしれない戦の勝敗が決するか。
 彼の命がそれを待たずに散るか。
 そのどちらかを迎えるまでの任務へと。
 見送りはしなかった。
 ただ去り際に。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 と。
 どちらが強いるでもなく、そう云えた。
 だからきっと帰ってくるだろう。
 きっときっと。
 彼は、イルカのもとに、あの子達の為に。
 帰って、くるだろう。

(……だから、今は)

 イルカはある種の決意と共に、徐々に面積を増やす太陽を見上げた。
 一日が、始まろうとしていた。





 先生さよーなら、またねー、という幼い声に一々応えながら最後まで校舎に残っていた生徒達を見送り、イルカはようやく校庭から誰もいなくなったのを見て伸びをする。
 若い力というのも侮れん…と嘗てイルカを担当した教師も思ったであろうことを身に染みて知り、でもまぁそれが子どもでしょうと内心笑ってみせる。
 さぁてこれからどうしようか、と橙の空を見た。
 まだ夜には時間がある。
 夜には行く処があるから、今日はゆっくり残業かな、と校舎に帰ろうとした時。

「―――…ん?」

 誰もいなくなった筈の校庭の隅っこに、影が見えた。
 寄り添うような、小さな小さな、二つの影。
 生徒がまだ残っているのだろうか。
 下校時刻はとうに過ぎ、まだ下忍ですらないアカデミー生が出歩くにはそろそろ危険な時間が迫っている。
 時間もあるし送っていこうか、とイルカは近づく為に一歩踏み出した。
 その瞬間。

「………瞬身、か」

 見えていた姿が、掻き消えた。
 少し脇に避けた、というような程度の移動速度でもなければ、第一障害物のまったくないそこで身を隠すことなど不可能だ。
 それに。

(あの子達の気配…)

 アカデミーの子どもの気配の消し方はまだまだ甘く、だから誰かがいたのなら絶対に分かる。
 けれどイルカが彼等に気づき、彼等が消えた後も。
 何故か、誰かが消えたという感覚がなかった。
 最初からないものが姿を消したような…と考え、そうかと気づく。

(気配を消していたのか)

 少なくとも中忍の自分に悟らせない程度には、なかったことになる。

(…となると)

 瞬身とその気配の消し方は、既に上忍レベルで。
 見た所、まだ五六歳ほどの子ども。
 橙にも染まらなかったその髪色は、黒と、金。
 手がかりはたったそれだけ。
 でも。

(あの子達が…)

 イルカはぼんやりと彼等がいて、消えた場所を見詰め続けた。
 託されたもの。
 顔も名前も知らぬ友人から。
 預かり得たもの。
 そうか。
 彼等が、彼の。

「……会いに行くか」

 そう呟いて、イルカは視線を引き剥がし、踵を返す。
 もう夜は待たない。
 予定を繰り上げて今から行こう。

(そう云えば、あの子達も綺麗な髪だったなぁ)

 カカシの時と同様、それもまた、出会いとは到底云えない邂逅だった。





 失礼します、と扉の前で断り、イルカが足を踏み入れた場所は火影の執務室。
 ぽかり、と紫煙で輪っかを作った三代目が、それを迎えた。

「急用だと訊いたが?」

 三代目とはイルカが孤児になった頃から懇意にしており、援助と愛情を惜しみなく与えてくれた義父のような存在だった。
 今もそれは変わらず、休日には私用で三代目の邸を尋ね酒を酌み交わすことも珍しくない。
 それでも公務の時間にイルカの相手をするほど、三代目は公私混同を良しとしている筈もなく、だからイルカは急用があると云って面会と人払いを願った。
 それほどの用ならばと受け入れた三代目の言葉に、えぇ、とイルカは微笑んで。

「以前三代目に医療班を要請していただいて一命を取り留めた暗部のことなのですが」

 と切り出したそうそう、三代目はそれを遮るように首を振る。

「誰かは明かせんぞ」
「存じておりますとも」

 軽くあしらうイルカに、訝しぐ三代目。

「ならばなんじゃ」
「今朝、任務に行かれましたね」

 長く危険な、任務に。

「…会ったのか」

 むぅ、と渋面を作る三代目を無視して、

「その時に云われたのです」

 穏やかなまま、イルカは云った。
 心を落ち着けたまま、ただ静かに。

「うずまきナルトとうちはサスケを、よろしく頼むと」

 数瞬目を見開いて言葉をなくし、馬鹿な…と三代目は呻いた。

「…お前に、あやつはそんなことを云ったのか」

 溜息と紫煙と共に吐かれた言葉は苦い。
 驚嘆よりも諦観の見える表情に、これはある程度予想された経過なのだということを知る。
 それを表情には見せず、イルカはえぇと頷いて。

「そして今日、アカデミーの校庭で、その二人を見かけました」
「何?」
「偶然視界の端に入らなければ、気づかなかったでしょう。それほどの完璧な気配の消し方で、そして彼等は私が気づいたと知るや、瞬身で姿を消しました」
「………」

 頭を抱える三代目と、それを静かに見やるイルカ。
 沈黙が、流れる。
 その切り上げ時を見失ったように長く長い時間、二人とも喋らなかった。
 思案と整理とが十分にできる時間が過ぎた頃。
 静寂を打ち破ったのは、イルカだった。

「私には、知る必要があります」

 凛とした声が射られた弓の如く部屋に響く。

「彼と、彼が守ろうとしているあの子達のこと、その繋がり」

 そして何よりも。

「彼が、〈個人で動く理由〉について」

 お聞かせ、願えますか?

 (さざなみ)すら立たない水面の声と、凍った空を思わせる漆黒の瞳。
 迷うことなくそれは三代目に牙を向く。
 今度こそ沈黙は許されず、だから口を開くしか、三代目に道はない。

「…お前は、あやつの何を知っている?」
「何も。顔も名前も、過去も現在も未来も、背負う何かも守る傷も。何一つ、私が知ることはありません」

 それは彼が望んだことで、そしてイルカが望んだことでもある。
 彼の何かを知るのなら彼の口からと決めたイルカと。
 開けっ広げのようで何も教えたくないと心の奥底で思っていた彼。
 だからイルカは何も知らない。
 それで良いと思っていた。
 けれど知らねばならないだろう。
 イルカはもう、彼とあの子達の関係に引き摺り込まれてしまったのだから。

「そうか…」

 言葉の後、とてもとても深い吐息が三代目から零された。
 老いと年とを一緒に吐き出すようなそれ。
 三代目の老齢さが、一時に出てきたかのよう。
 鋭い眼光を瞼の奥に押し込めて。

「……あやつは嘗て、…否、今もかもしれん」

 里を、憎んでおったよ。

 三代目はぽつりと、雨粒の落ちたような声で、そう云った。





 窓の外、空の色が深くなる。
 底を知らないまま、暗くなる。
 その中で、三代目は遠い昔噺を話して訊かせた。
 今に繋がる、物語を。

「理由はあやつの過去が関係しているが、それは今は省こう…ただ云えるのは、そうじゃな」

 ゆっくりと開かれた瞼。
 双眸には、昏い陰。

「誰もが忍である以前に人間であり、心を持ち、強くありながら弱く、弱くありながら強かった」

 それをいつからか忘れて、忍であることが前提となっていた。
 人は弱い…忍は強い…。
 そんな幻想を、持ってしまったのかもしれん。

「その中であやつは途轍もない哀しみを背負い、傷つけられ、憎み、何も得ることなく何かを失い続け」

 そして生来の能力を、開花させた。

「……見ておれんかったよ」

 力に対し力で返し、その差を考慮することなく、全力で打ち負かす。
 誇れる名はいつしか脅威となり、美しい月は血を纏って闇に耽る。
 咆哮と哭き声は交わり、涙は血に紛れ。
 誰かを傷つける度に、己が最も傷ついた。
 まだ小さな子どもだった。
 愛され、慈しまれ、守られることが許された筈の。
 小さくあどけない、子どもだったのに。

「憎しみは深かった…あのまま育っておれば、確実にあやつは木ノ葉の敵となっただろう」

 憎悪と絶望を糧に、持ちうる能力を里の為に使わず、その上刃をこの里に向けただろう。

「何かしらの策を講じなければと上層部が動き出そうとしていた時、偶然、任務帰りのとある忍があやつと出会ったんじゃ」

 何が切欠だったのかは分からない。
 誰が何を云っても訊かなかった子どもは、少しずつではあるけれどその忍に心を開き、笑顔を取り戻したのだと、三代目は云った。

「お陰で、里の損失と未来の脅威は免れた…」

 その言葉は里を考える者としてひどく納得できるもので、だからイルカも反論はしなかった。
 眉を顰めることもなかった。
 ただその奇跡と云える彼等の出会いが汚されたように感じたことは、事実だったけれど。

「…その後、あやつを救った忍は死んだ」
「そのことに、上層部は腰を抜かして慌て、恐れたでしょうね」
「……そうだ」

 イルカの皮肉に、三代目はただ深く頷くにとどめた。

「またあやつが暴走するかもしれんと緊張が走った。忘れるにはあやつの爪は鋭すぎる。年もまだ、浅すぎた」
「それでも今も飼われているということは…」
「その心配が今はないと判断されているにすぎん」
「今は、ですか」

 上層部の弱腰に嗤いながら、イルカはしかし何故と首を傾げた。

「そう判断された理由は?」
「…遺言じゃ」
「あの人を救ったという、忍の?」
「うむ。その忍の云うことは、あやつにとって絶対。故に、あやつは今も里に縛られておる…」

 変な云い方をするものだ、とイルカは不意に視線を向けていただけになっていた三代目を意識して見た。
 縛られる?
 まるで逃げ損ねたような物云いだ。
 それじゃあ、何も、誰も。

(救われないじゃないか)

 イルカの胸の内を悟ったのか、三代目は口端に皮肉げな笑みを拵えた。
 小さな笑み――…哀しみの。

「あやつは今も昔も、己の意志でこの里にいる訳ではない…あやつにとって二番目に大切になった者の傍にいたかったのと、その忍があやつに自分が死んだ後の里と、そして息子を託したからじゃ」

 それだけのこと…それだけのな。

「……なるほど」

 訊く途中から構築されていた仮定が、そこまで訊くことでイルカの中でほぼ確定事項に変わった。

「だからあの人はあの子と、そしてあの子の友達であるもう一人の子を守り、一人で行動せざるをえないということですか」

 ぽかり。
 忘れ去られていた紫煙がまた、円を描いて空を舞う。

「…あやつは知っておるのだよ」

 自分が木ノ葉に属しながら木ノ葉を第一に考えられぬことも。
 自分の過去の所業が今影響を及ぼしていることも。
 大事なものがふとしたことで失われること、その哀しみ。
 誰もいない寂しさも、幸せが得難いものであることも。

「そしてまた、気づいてもおるのだ」

 またぽかりと白い円が吐き出され、ふわふわ浮かんでゆっくりと消えていく。
 そのさまを三代目は眺めながら。

「誰もおらず、糧もなく、ただ生きることは辛いのだと…」

 そう小さく、呟いた。





 時刻は既にイルカが指定した時間を大きく超え、深更に入っていた。
 それに気づき、イルカは「お時間を取らせまして」と簡単な挨拶をして去ろうとした。

「イルカ」

 その扉へ向かうイルカを、鋭く三代目は呼び止める。

「…何を考えておる」

 そして云われた言葉に足を止め、けれど振り返らないまま、イルカはそれに応えた。

「これからあの人の代わりに俺が子ども達を守ります」
「……まだあの子等はアカデミーに入ってもおらぬのだぞ」

 牽制のような台詞に、何をおっしゃる、とイルカは今度は笑って振り返る。

「あの子達には忍になるしか道はない。それ以外の道を、許される筈がありません」

 生まれも、能力も、環境も、背負うものも。
 何一つ、彼等に他の道を選ばせないだけの理由になる。
 もしかすると、既に忍という道しか彼等の中にも答えがないのかもしれない。
 取捨選択が人生の醍醐味であり、自己の確立を導くものであるのなら。
 彼等は、生まれた時からそれを奪われている。
 それを哀しむ謂れも権利も、イルカにはないけれど。

(見守ることは、義務だろう)

 ならば。

「あの子達は未来のアカデミー生です。俺はその、未来の担任です」

 どこに問題がありますか。

「…詭弁じゃな」
「どうとでも」

 眼光鋭く睨む火影に、イルカもまた譲らない。
 殺気とは違う気が膨れ、ひたりと互いを見据えた視線は逸らすことを許さない。
 逸らさないまま和らげたのは三代目。
 ほぅと小さく溜息を吐く。

「この頑固もんめ。昔からこうと決めたらわしが云ってもきかんのじゃから…」
「よくお分かりで」

 ようやくふわりと笑ったイルカに、ふんと三代目はそっぽを向いた。

「好きにせい」
「はい。好きにします」
「ただし」
「分かってますよ」

 云いながら、イルカは細く目を眇める。
 優しさとはどこか違った、淡い何かを瞳の奥に宿しながら。

「見守るだけです。…分かってます」
「…なら、良い」

 失礼しますと一礼し、今度こそイルカは執務室を出る。
 三代目の盛大な溜息と、心配そうな視線が追ってきたことに気づきながら知らない振りをして。
 建物を出て空を見上げた。
 視線の先には、嘘みたいに綺麗な、満天の星。





 既に上忍レベルの力を宿した子ども達。
 あの人の過去、そして関係。
 それらを鑑みれば、あの人の今回の任務、それに関していると見るべきだろう。

(…任務に子どもも大人もありはしない)

 力があれば年齢など忍に関係ないと云って良い。
 実際十代で暗部になる者もいるくらいだ。
 ならば、あの子ども達が忍として幼すぎるということはなく、にも関わらずアカデミーにも入学していないことを考えれば。

(あの子達を極力忍の世界から遠ざけて、あの子達に回される筈だった任務を、全てあの人がこなしているということか…)

 任務はその忍に見合ったランクを宛てがわれる。
 だとすれば彼は自身の暗部としての仕事と、上忍としての仕事を二人分を受け持っていたと考えるのが筋だろう。

(その全てを受けていた訳ではないだろうが、それにしても)

 考えれば考えるほど、イルカの眉間の皺は増えていく。
 無茶をする、という程度の話ではない。
 良く今まで生きていたと賞賛するレベルの話だ。
 そして。

「……だから、貴方は一人だったんですね」

 とても哀しい、話だ。

「だから貴方は、さようならを云ったんですね」

 抱き寄せた華奢な体。
 守り続けて、傷つき続けて。
 そうすることでしか、この世界で生きられなくて。
 そうすることしか、知らないのだろう。

(そうして守ってきたあの子達がアカデミーにいつか入ると、彼は云った)

 それは自分がいつ終わるか分からない任務に就いたことで迫られた、いくつかの選択肢のうちの一つだった筈。
 あえて選んだのがそれであったのは。

(アカデミーには、俺がいるから、だろう)

 偶然出会い、知り合い、会話を重ねただけのイルカを、信じるに足る人間とカカシが思ってくれた要因は分からないけれど。

(えぇ、守りますよ)

 頼まれて、頷いた。
 云った言葉は曲げない。
 約束は、破らない。

(…けれど)

 三代目に彼等を守ると宣言した時、その理由に彼の名を出さなかったのは、イルカの教師という誇りがそうさせた訳ではない。
 ただもしかしたらという予感があった。
 …いや、それはもう確信に近い。

(俺は、あの人が自分を犠牲にしてまで守り続けていたものを壊すだろう)

 だってイルカは、忍で、教師で、でもそれ以前に。
 ただの、人間だから。
 傷つく覚悟で傷つき続ける人を、ただ見てなんか、いられないから。

(あの子達は守ります。そして貴方のことも、守らせてください)

 彼が犠牲の上に守ってきたもの。
 あの幼い二人の子どもと、そして、彼が守っているという事実を隠し続けること。

「―――ごめんなさい」

 貴方に、宿題を出しましたね。
 知ってました?
 宿題というのは、ある程度作成者の意図が反映されて作られます。
 その答えも、しかり。
 ごめんなさい、考えなさいと云ったのに。
 答えはもう俺の中にあります。
 貴方がどんな答えを持って帰ってきても、俺が気に入らなければバッテンです。
 だからそのヒントを、子ども達に伝えます。
 怒らないでください。
 ただ、もう傷ついてほしくないのです。
 哀しい顔をしてほしくないのです。
 だから。

「ごめんなさい」

 貴方を守る為に、貴方の守ってきたものを、壊します。

「ごめんなさい」

 俺のことは許さなくて良いです。
 でも早く帰ってきてください。

「ね」

 ―――   さん。

 云って小さくイルカは微笑む。
 可笑しそうに目を細めて、空を見上げて。

「馬鹿だなぁ」

 と呟いた。





 貴方に答えを貰う前に知ってしまった名前を宿した唇が痛い、なんて。
 心が痛いなんて。
 きっときっと、嘘なのに。





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 20110309





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