本篇:夜明け前

[ 母子草(ハハコグサ):いつも祈ってます ]



 その日は、サァサァと、風の煩い晩となった。
 静かな夜が好きなイルカとしては、些か強すぎるくらいの風。
 これが秋や冬だったら気も滅入るだろうが、春の差し掛かりで良かったと、ほっと息を吐きながら丁度アカデミーを出たばかりだったイルカはそそくさと家路を急ぐ。
 中忍になり、ようやく予てからの夢だったアカデミーに勤務することになって早数ヶ月。
 慣れないことや分からないこともあるが、生来の器用さや人好きのする性格のお陰か、さほど苦労することもなくやってこられている。
 と云ってもまだ助手や見習い程度の仕事しかしていないので、これからが大変だろうなぁとぼんやりと思いながら歩いていると。
 不意に、視線が何かに囚われた。
 なんだろう、視界に何かが引っかかったんだが…。
 歩みを止め、気配を探り、鋭く辺りを見渡した。
 しかし。

(気の所為、か?)

 何も異変はなく、誰かがいる気配もない。
 ただ風が煩く、樹々の多い通りであることも手伝って、葉擦れの音が嫌に響いているだけだ。
 動物でもいたかな、と思い直してまた歩き出そうとした。

「あ」

 その時になって、ようやく気づく。
 火影岩だ。
 岩の上に、誰かがいる。

(あぁ、その月に照らされた誰かの影を踏んだのか)

 自分の違和感の正体を探り当て、喉の小骨がやっと取れたような感じ。
 イルカはなんだなんだそんなことかと笑い、そのまま通り過ぎようとした。
 誰が岩の上にいようが、別にあそこが立ち入り禁止区域でない以上、自分には関係のないことだ。
 それが子どもであれば時間的にも立場的にも注意しなくてはならないが。

(最近あそこらへんで見かけるのは黄色い髪の男の子だけど、あれは、大人、だよなぁ)

 しかも。
 そこでまた、イルカは新たなことに気がついた。
 子どもの髪の色が黄色と思い出して、では今いる大人の髪色はと良く良く見れば。

(白……いや、銀、か)

 空を覆う深い紺の布に、ぽかりと大きな白い穴が開いたような、とても大きな今宵の月に負けず、それどころか照り返すかのようにキラキラ光る銀色の髪。

(綺麗だなぁ)

 にこりとイルカは微笑んだ。
 良いもの見た、と心を浮き立たせて、今度こそ歩き出す。
 さぁ早く帰って明日の授業の準備をしよう。
 指導要領の見直しもしなくちゃな。
 そんなことを思いながら、春の夜の風を頬に受けてイルカは足早に家へと続く道を辿った。





(……中忍?)

 見下ろす先に、道を急ぐ人影が一つ。
 彼はアカデミーから出てきたし、垂れ流しの気配は上忍ではありえないから、きっとその考えに間違いはないのだろう。
 その彼は出てきて少し行ったところで立ち止まり、こちらを見上げていたかと思えば一分ほどもそこで立ち尽くし、その後何も行動を起こさないまま行ってしまった。
 別段何かしらの反応を期待した訳ではないし、接触を持ちたい訳ではなかったから良いけれど。

(括った髪がぴょこぴょこしてる。おもしろー)

 高めに括られた長いとまでは云えない黒髪が、その短さを表すようにあちらこちらへ跳ねて彼が動く度にひょこひょこ動いた。
 その様が何だか可笑しく、カカシは意図せずふわっと微笑む。

(しっかし、まさか中忍が俺に気づくとはねぇ)

 完璧に気配を消していたから、気づかれるとは思わなかったのに。
 何が彼を引き止めたんだろう。
 何故自分の存在を、彼は知り得たのだろう。
 そして、一分間の、ただ互いの存在を認めただけの出会いとも云えないこの邂逅。
 それに何の意味があって、今後、どう作用していくのだろうか。

『人生、無駄なことなんてないよ』

 よくそう云っていた師は、こうも云ったものだ。

『一瞬の出来事、小さな気づき、微かな絆を、大切にしなさい』

 きっといつか、それらが君の人生に作用してくるから。

(えぇ、そうですね)

 先生の言葉に、嘘なんて、なかったですから。
 だからきっと彼とはまた会うでしょう。
 どこかで彼が必要となるでしょう。
 ただそれが。

(彼を不幸せにしないことを祈りますよ。俺にとって嫌なものでないことを、祈りますよ)

 何かがきっと作用する。
 それが、良いことに関してか、悪いことに関してかなんて、今はまだ分からないから。
 取り敢えずそうであることを願いながら。

「いーい月だねぇ」

 思ってもないことを、カカシは云ってほくそ笑む。





 それが、最初。
 何の変哲もない、そして、対面すら果たしていない、一度目の邂逅。
 イルカはただ感嘆し。
 カカシはただ祈った。
 それだけの、ただ少し風が騒がしかっただけの夜が明け。
 そして二度目の出会いは、思いの外早く果たされる。





「……あれ?」

 今日も他人の仕事を肩代わりしていて遅くなったイルカは、また風が煩いなぁと思いながら歩いていたのだが。
 ふと昨日見た人影を思い出してちらりと視線をそちらへやれば。

(また、いる)

 少しだけ昨日より右に寄った月が彼を捕らえ損ねているけれど、しかし変わらず銀色は煌めいていて、綺麗。
 ―――だけど。

(なんか、嫌な感じが…)

 例えばそれは、微かな臭気。
 本当に微かな、花の閉じた夜だからこそイルカでも感じ取れる、微量な血の臭い。
 それが、ここまで漂っているということは。

「あの人…まさか…」

 と、焦り始めたイルカの目の前で。

「―――ッ!」

 ぐらり、と、銀髪の彼の躰が大きく傾いで、落ちていく。

(やっぱり…!)

 何かを考える前に、イルカは走り出していた。
 手を塞ぐ荷物を放り出し、焦りを頭と心から追いやって。
 静かに息を吐き、自然と印を結んでいた。

「風遁、追い風」

 目測で定めた場所に、風が生まれる。
 それは地面から空に向かって吹き、しかも噴水のように循環しながらその場に留まっていた。
 その風によって火影岩から落ちた人影がふわりと受け止められ、そっと地面に横たえられる。
 駆け寄ったイルカは、一気に増した血の臭いと彼の怪我に思わず眉を顰めて凝視する。
 彼の怪我は、嘗て数度経験した戦場で負うようなそれに、ひどく似ていた。

(……今の時期、戦場へ…?)

 現在戦をしているような国を知らないが、しかし彼の場合、戦でなくただの任務でこうなった可能性は高いだろう。
 彼は、動物を模した仮面、獣面をしていた。

(暗部……ならば、任務と云ってもSランクか…)

 イルカには未経験のランクで、その危険度は推し量るしかない。
 が、それよりも今は。

「……木蓮」

 巻物を一つ取り出し広げ、チャクラを人差し指に少し籠めてイルカがとある場所を押し、そう呼べば。

『あい』

 ふわんと大人の拳ほどの白い鳥が現れた。

「火影様に言伝を」
『なんと?』
「火影岩の下にて気絶した暗部を発見。重傷にて医療忍者を要請する、と」
『承知』
「頼んだ」

 返事の代わりに鳥はお辞儀のように一度ぐっと身を沈めると、次の瞬間夜空へと舞っていた。
 それがちゃんと火影邸の方角へ消えたのを見届けて、イルカはまた暗部へと向き直る。
 木蓮とイルカが呼んだ鳥は本物の鳥ではなくイルカが作った式であり、その為一般の鳥よりかは早く飛べるものの、それでも火影の元へ行き、医療忍者が派遣されるまでは多少時間がかかるだろう。
 それまでに最低限の止血をしなければ。

「ちょっと、触りますね」

 気絶したままの彼に一言断り、そっと慎重に体に触れ、傷を検分していく。
 かと云ってイルカに医療忍術の心得はないのだが、彼も教師の卵、救急道具は常に持っている。
 筒に入っていた清水で布を湿らせ、特に大きな傷を清め、薬を塗っていく。
 効果の程は期待できるのか、傷が深すぎて検討もつかないが。

(やらないよりマシだろう)

 と、闇雲に治療していく最中。

「ぅ……」

 傷が痛んだのか、イルカの気配に気づいたのか。
 暗部が呻き声を上げて、躰を起こそうともがき出した。

「駄目ですよ。貴方、怪我してるんですから」

 静かに云えば、獣面がイルカの方を向く。
 と云うことは暗部がイルカを見たということだ。
 今頃ぱちぱちと目を瞬かせているのかなぁ、なんて、見られ続けて五秒を数えたところでイルカが思えば。

「…あん、た…」
「はい」
「せん…せ…?」
「はい?」

 名前か何かだろうか、と首を傾げると、暗部は更に言い足して。

「昨日…アカデミーから……出て、来たでしょ…」
「…あぁ、はい、そういうことなら、えぇ、先生です」

 ただし、卵ですけどね、と答えて、まだ何か云おうとする暗部に、しぃ、とイルカは押しとどめた。

「もう喋らないで。あと少しで医療班が到着しますから、それまで」

 静かに、と、言いかけるイルカ。

「なまえ…」

 しかし暗部は訊かず、熱の篭り始めた声で問う。

「あんたの、なまえ…教えてよ…」

 語尾は掠れ、けれどそれは力尽きてと云うよりも、笑ったかららしかった。
 何を笑うのだろう。
 そして。
 何故そんなことを問うのだろう。
 云えば何かあるのだろうか。
 獣面は外していないから口封じの為に殺されることはないと思うし、大体それなら名前など訊かなくとも姿を見られているのだから問う意味がない。
 鶴の恩返しのごとく、何かしてくれるとでも?
 しかし暗部に何かされるのは恩返しであってもそれはそれで怖いな、とも思う。
 ひどく一般的な家庭に育ったイルカはひどく一般的な成長を遂げ、これからも一般の範囲を超えない生活をしていくだろう。
 そう、思っていたんだが。

(暗部を助けたこの日を境に、変わるのかな)

 それも良い。
 そうでなくてもまったく構わないけれど。

「…イルカ、です」
「せんせの…、なま、え…?」
「えぇ、うみのイルカと申します」
「そ、か…」
「えぇ」
「うん…おぼえた…」
「そりゃあ良かった」

 にこりと微笑めば、獣面の下で微笑まれた気配。

「さぁ、寝なさい」

 まだ、夜だから。

 それに、うん、とひどく素直に返された声を最後に、また暗部は気絶したようで。

「まったく…」

 暗部に、名前を教えることになるとはね。

(人生ってまったく分からないなぁ)

 なんて嘯きながら、イルカはそうっと彼の髪を優しく梳いた。
 遠目に見ても綺麗だったそれは、近くで見れば更に綺麗で、且つとても触り心地の良いものだった。

「綺麗」

 その言葉を攫うように風が一陣吹き、そして静かに夜は更けていく。





 その後、暗部姿のカカシとイルカは度々初めて会った時間と場所を選んで会い、何でもない会話を重ね、ただ夜の行く末を見るように静かな時を共に過ごした。
 イルカは兎も角カカシは獣面を被ったままで、且つ名前を明かしてもいない。
 気になりますかとイルカに問うたこともあるけれど、イルカはいつも首を横に振るだけで、見たいとも知りたいとも云うことはなかった。

「貴方が誰かなんて、どんな顔をしてるかなんて、そんなこと、どうでも良いんですよ」
「興味ありませんか?」
「そうではなくて…」

 困ったようにイルカは笑い、云い難いのかとカカシが気を回して傷つきませんから云ってくださいと頼めば、大したことではないんですが、と一言断って。

「貴方の銀色の髪が綺麗だと、それを知っていれば十分だと思って」

 なんて、のほほんと笑いながら云うイルカに、カカシが獣面の下で盛大に照れたのはここだけの話。
 そして。
 その関係のまま、一年弱の時が流れた。





 その日は、サァサァと、風の煩い晩となった。
 アカデミーの仕事を終えていつも落ち合う場所へイルカが行けば。

「あれ、珍しいですね」

 貴方が先に来るなんて。

 揶揄い混じりにそう云えば、いつも通り、暗部姿のカカシがくるりとイルカに振り返る。

「今晩は、イルカせんせ」
「はい、今晩は」

 何故か呼び捨てでなく生徒のようにイルカ先生と呼ぶものだから、ついついイルカも生徒に接するように返してしまう。
 それに不満が漏れたことはないから、ある程度意図的なのだろうなとイルカは勘繰っている。
 なんの意味があるのかは知らないけれど。

「イルカせんせ」
「はい」

 それにしても、今日はよく喋る。
 返事をしながら、ふとイルカはそう思った。
 いつもならば先にここにいるのはイルカで、喋り始めるのもイルカ。
 それは沈黙を挟んでも変わらず、日を幾つ跨いでも変わらなかった不文律。
 それが今宵、尽く破られている。
 変だな、と。
 そう思った時。

「今日は、お別れを云いにきました」

 至極普通にあっけなく、多分笑っているのだろうなと思われる声で、カカシは二人の関係を断つと云う。

「…えらく、急ですね」

 ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせるイルカも、けれど驚きはさほど感じさせずに穏やか。
 押さえ込むほどの驚きも哀しみも、逆にイルカが戸惑うほどなくて。
 予想していた訳ではなく、望んでいた訳でもない。
 名も知らぬ知人との会話を、イルカはとても楽しみにして、実際とても楽しんでいたのだから。

(…あぁそれでも)

 知っていたのだ、と思う。
 いつかこの日が来ることを。
 ただ今日がその日だったと云うだけのこと。
 そう穏やかに受け止めるイルカを、カカシも穏やかに見詰めて。

「さっき、決まったばかりですから」

 また、笑う。
 それが獣面で見えなくても、何ヶ月も傍にいたイルカには分かった。
 顔で笑って、でも心はそうではないのだと。

「…どこに?」

 本当ならば訊くべきではないのだろう。
 守秘義務云々もそうだけれど、今まで任務があっても別れを切り出さなかった彼がもう会わないと云う。
 今回は、それを決意させるだけの任務なのだ。
 それでも、知っておくべきだとイルカは思った。
 何故か分からないままそう思って。

「戦場へ…俺にしてみれば、故郷へ」

 訊いて、心を震わせた。

「故郷…ですか」
「えぇ」

 えぇ、せんせ。
 戦場は、俺の故郷です。
 あそこで俺は育ちました。
 何もかもをあそこで得て、失いました。
 イルカせんせ。
 だから、帰るんです。
 俺は、ここにいるべきじゃあなかったんです。
 幸せで平和なここは、俺には合わなかったから。
 だから帰るんです。

「だから、さようならを…」
「嘘は嫌いです」
「…え」

 鋭く言葉の隙間に挟み込まれたイルカの言葉に、滔々と言葉を並べていたカカシが押し黙る。
 言葉の厳しさとは裏腹に、イルカの表情は優しいまま。

「貴方が戦場で育ったのは本当でしょうけれど、行く理由は、嘘ですね」
「………」
「貴方、俺を中忍だからって馬鹿にしてます? 何ヶ月も会話を続けた人の心理状態に気づかないとでも?」
「そ、そんなこと…」
「でも嘘吐きましたね、白々と」
「う……ご、ごめんなさい…」

 もう大の大人が、多分イルカよりも身長が高く、更には暗部である筈の人が、とても素直に謝ったことにイルカは満足気に微笑んで。

「本当のこと、教えてください」

 何故貴方は、そんなに哀しそうなんです。

 くしゃりと手を伸ばして、銀色を撫でる。
 会う度に何度も繰り返したその行為。
 例え理由を聞いたって、きっと行ってしまう現実は変えられない。
 しばらくは本当に会えないだろう。
 その分を先に埋めるように優しく梳く。
 それに、カカシはふにゃりと笑ったようだった。

「……せんせ」
「はい」
「頼みたいことが、あります」
「なんでしょう」

 そこで一つ、カカシは深呼吸をした。
 躊躇いを吐き出し、勇気を取り入れる為に。
 それでも震えた声は、イルカを信用していなかったのではなく、ただ怖かったからだ。

「今後、アカデミーに入る二人の子ども…うずまきナルトと、うちはサスケを」

 どうかよろしく、お願いします。

 深々と、頭を下げられた。
 長く長く、イルカがはいと頷くまで、その姿勢を貫くと云わんばかりに。
 なるほど、確かにイルカも驚いた。
 戸惑いもした。
 出てきた二人の名は、禁忌の名に等しい。
 一人は化け狐の器にされた子どもで、一人は血継限界の生き残り。
 その二人が、カカシとどんな関わりがあるのかは皆目見当がつかないけれど。

「はい」

 アカデミーに入ってくる全ての子を、教師は平等に教え導く。
 忍という過酷な道を幼いながらに選んだ子ども達に、その意味をまだ本当のところでは分かっていなくても、忍として生き残れる術を教授する。
 それが、教師であるとイルカは思っているから。

「貴方の大切な子であろうが、ビシバシ教育させてもらいますよ」

 その答えに、数瞬カカシはほけっとして、ほっとして、良かったと、笑った。
 今度こそそれは本当の笑顔で、イルカにもそれは伝わった。
 だからこそ、分かったのだ。

「…その二人が、貴方が戦場に赴く理由、ですね」

 言葉にしなくとも、それほどの想いがあるのだと。

「……あの子達は、何も知りません。俺の存在さえ、知らないままです」

 今までも、これからも…それで良いと、思ってます―――と。
 痛いほど真摯に云う彼に。
 イルカはそっと近づいて。

「それでも…」

 それでも今まで貴方が戦ってきたのは、傷ついてきたのは、あの子達の為でしょう?

 銀が、さわりとその言葉に揺れた。
 俯く獣面もどこか哀しげで、だからきっと、その下の素顔もそんな顔をしているのだろう。
 その顔で、云うのだ。

「…俺の為ですよ、全部」

 あの子達が傷つくのが嫌だから、それなら自分が傷ついた方が良い。
 他人の痛みが分からないと嘆くなら、自分の痛みを我慢した方が遥かに良い。

「俺は幸せにしてやれません。ならばせめて、祈るくらいは、傷や痛みを請け負うくらいは、あの子達の幸せの土台作りくらいは、…して、やりたいんです」

 ねぇ、イルカせんせ。

「それは、俺のエゴでしょうか」

 真っ直ぐな視線に貫かれる。
 それでもイルカは、気丈に笑った。
 静かに、穏やかに。
 ただ、優しく。

「…さぁ、分かりません」

 でもね、と。

「それが哀しいことだけは、分かりますよ」
「哀しい?」
「えぇ、哀しいです」
「駄目って、ことですか…?」

 いいや、そうじゃない。
 駄目でないとも云えないけれど、イルカが云いたいのは、そうではなくて。

「貴方は、あの子達が傷つくのが嫌だと云いました」
「はい」
「だから、その分自分が傷つくのだと」
「…はい」
「だったら、貴方が傷ついて嫌だと思う俺の心は、どうなるんです?」
「え…?」

 ふわり。
 銀髪がまた、撫でられる。

「そういう、ことです」

 今は良い、今は。
 あの子達が何も知らないままでいる、今はね。
 けれどきっといつか貴方が自分達の為に傷ついてきたと知った時。
 今の俺よりずっとずっと、深く傷つくことになるでしょう。

「自分の痛みは我慢できる。でもね、そんなのみんな一緒なんですよ」

 自分のものじゃない痛みほど、我慢できないものはないんです。

「だったら貴方自身が、守りたいと願う彼等を傷つけることにもなりかねないんですよ」

 その言葉に、ひどく衝撃を受けたのだろう。
 カラン、と獣面が外れて地に落ちる。
 顔は、長い髪と涙を拭う手に阻まれて見えなかったけれど。
 でも。

「…行ってらっしゃい、戦場へ」

 それで良いと、イルカはカカシを抱きしめた。
 頭を撫でる以上に接触することは初めてで、でも気にせず抱きしめた。
 細かった、頼りなかった。
 血を流した姿を見たのに、傷を拵えていたのも見たのに。
 暗部であることなど、百も承知なのに。
 震える肩が幼くて。
 戦慄く唇が稚くて。
 なのにこんな彼が戦っているのは地獄だ。
 見えない明日に挑むような、途方もない戦いなのだ。

「気をつけて」

 そして戦う中で、傷つく中で、考えなさい。

「俺から貴方に、宿題です」
「しゅく、っ、だい…?」
「えぇ」

 しゃくりあげながら、それでも律儀に訊く彼に。

「生きて行く上で、傷つかないことは不可能です。特に彼等ともなれば、その度合はまた普通の子どもと比べて大きい。その上で、貴方も彼等も、より傷つかないで生きるにはどうすれば良いか。それを考えてくるのが宿題です」
「……難しい、です」
「だから今答えろとは云ってないでしょう」

 馬鹿ですねぇ、と笑って、イルカは。

「帰ってきてくださいね」

 一層優しく、そう云った。

「何年経とうが、怪我しても、宿題の答え引っ提げて、俺に答え合わせをさせてください」
「…は、い…っ…」
「そしてあの子達に、会いに行ってあげてください」
「――…はい…ッ」

 お顔はもう良いので、お名前はその時に教えてくださいね、なんて。
 ちゃっかり約束を取り付けながら、イルカはカカシを抱きしめて。
 泣き止むまで抱きしめて、泣き止んだ後も抱きしめたまま。
 朝陽が登り里を隅々まで照らすのを。
 共に、見ていた。





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 20110308





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