前日譚:半宵 弐
[失ったものは守れなかったもので。
守れなかったものは、大切なものだった。
その大切なものをなくした時の記憶は、総じて不明瞭。
覚えていないのではなく忘れてしまったのだと、三度目に大切なものをなくした時、彼の姫は眉間に皺を寄せてそう云った。
ぽかんとする俺よりも哀しげで苦しげで、辛そうな顔をするから。
大丈夫ですか、と、声をかけたのだっけ。
大丈夫じゃないよと直ぐ返されたけれど。
大丈夫じゃないなら俺を診てるよりも貴方が診てもらった方が良いのでは、と言いかける最中。
ぽん、と頭に手を置かれて、そのまま、怪力を思わせない優しさに染まり切った手で撫でられた。
さわりさわりと髪を梳かれて。
だから、こうして診てるんだよ、と。
遣る瀬無さが滲み出た声で、そう、云われて。
意味が分からなくて、首を傾げた。
それにまた哀しげに彼女の睫毛が揺れたことに、気づいては、いたのだけれど。
休日、ふらりと目的もなく出かけたカカシは、不意に通りかかった商店街の前で立ち止まった。
それはただ、カカシの存在を物ともせずカカシの方へ走ってくる子どもがいたからで、もしカカシが立ち止まらなければ子どもは素直にカカシの足へとぶつかっただろう。
だから立ち止まって、とてとてと走る音と視界にも入らないような小さな影がカカシの前を通り抜けていったのを見届けて、また歩き出そうと片足を浮かしかけた時。
おとーさーん。
耳に飛び込んできた単語と声に、何気なくカカシは振り返ってしまった。
視線の先では丁度先ほどの小さな影と思わしき子どもが中年の男に抱きついている。
久々に会ったのかと思わせる抱擁と笑顔、取り交わされる会話に、周りの人間はのほほんと微笑み、更には真ん中を過ぎて緩くなった日差しが穏やかな午後を演出していて、まさに平和な一場面。
なのにそれは、薄い氷を隔てた先の景色のようにカカシには写った。
陽炎のように掴みどころのない光景。
それはきっと、カカシには願ってももう届かない、思い出と未来だ。
「良いなぁ…」
ぼんやりとした光景を見遣ったまま零された声に、力はない。
道の真ん中で立ち尽くすカカシを避けて通る者の中にも訊く人間はおらず、云ったカカシさえその言葉を知らない。
知らないまま、零して。
知らないまま、笑った。
切望と羨望と、どちらがより大きいのかも分からないほど小さすぎた笑みは、見ている者がいたなら心を震わせない訳にはいかなかっただろう。
切り取られた哀しみと後悔と。
それらを宿した微笑は、あまりにも寂しすぎたから。
「……帰らないと」
そうしてカカシが呟き、やっと視線と足先を家へと続く帰り道へと修正したのは、件の父子が商店街の雑踏の中へ消えたのを見届けてからのことだった。
長い長い行動の停止は疎らな人通りの中でも目立ったけれど、それでも特に話しかけられることも気遣われることもなかったのは、ある程度他人に無関心でいられる神経を持たないとやっていられない忍里の性質故だろう。
一々ベストを着た相手がどの程度の忍で今は笑う顔で何人人を殺し傷つけてきたか、なんて。
そんなことを気にしていたら、商売も近所付き合いもできたものではない。
ただ自分の職業と人生の適性を考えた時、忍という生き様を選択した者が多いだけのこと。
それは特定の人を守る為だったり、不確かな未来を守る為だったり、里という大きな現象を守る為だったり、志願の理由は様々だろうけれど。
それでも自分の人生をかけた選択であることに違いはなく、誰かに貶される謂れはない。
(ま、胸張れる仕事じゃあないのかもしれないけどね)
ただ、忍でないから真っ当だとか、忍だから真っ当でないとか。
そんな話でないことも、また事実で。
カカシとしては誇れる職業であり生き様であると、思っている。
(とか云って、全部先生の受け売りなのが痛いところだけどねぇ)
本当のところ、カカシには分からない。
忍という職業も、忍である意味も。
ただ自分にはその道しかなかっただけの話で、命を授けてくれた人が忍で、救ってくれた人が忍で、だからカカシは自然と忍の世界に飛び込んだ。
そこでカカシは評価されているけれど、別段思うところはない。
そう思いながらも伸し上がった地位の力で勝手に暗部の中に新しい隊を作ったりもして、でも片手間に遊び半分で作ったようなものだし、上から何か云われれば解散することを厭う気はない。
そんなことを云えば、彼等はきっと泣くけれど。
(―――そんなことより)
今日も任務だなぁ。
誰とかな、テンゾウとかな。
そういやそろそろみんなまとめて修行合宿にでも行かないと。
サバイバルでもさせようか、それとも俺対みんな?
新術使いまくって驚かせようかな。
なんて、色々ぼんやり考えながらカカシは家へとのそのそ向かう。
たった一人きりの家、誰もいない帰る場所。
他に居場所のないカカシの、唯一にして最後の住処。
思い出と過去しかないそこを目指す他ないカカシは。
ゆっくりと昼の里を歩いていた。
その足が途中帰り道から逸れたのは、だからその意味で至極当然で、しかしある意味で全然自然では、なかったのだけれど。
「懐かしい~」
そうカカシが顔を綻ばせて声を上げたのは、不敬にも火影岩に腰掛けた時だった。
帰り道、いつも通る道からここが偶然見えるなんて知らなかった。
だから鳥の声に誘われて空を見上げた時、一直線上に火影岩が見えたことに驚き、そして不意に昔を思い出してついつい来てしまった。
懐かしいと云ったカカシ。
ここはカカシが先生と、任務帰りのちょっとした時間、一緒に過ごした場所だった。
何をするでもなく傍にいて、時たま話すことと云えば、その日の任務や明日の任務のこと、里の情勢や政治、教育体制についてなど、のほほんとしたものではなかったけれど。
(楽しかったな)
と、カカシは微笑する。
楽しかった、本当に。
明ける夜と共に見た里は静かで、でもぽつぽつと灯りをつけ始める店子や商店街の光があちこちに見えて綺麗だったり。
そのちょっと前だと、静かすぎて灯りも見えなくて、昼とは違い澄み切った空気が、ほんの少し寂しかったり。
知ろうともしなかった里の夜の表情を、教えてくれたのは先生だった。
自分一人で見ても何の感慨も感動も覚えなかったというのに、先生と見ればどれほども違った。
現金だなぁとカカシが小さく笑えば、先生はカカシが笑ったことに感動したようで、良く最初の頃はその度毎に抱き締められたものだ。
嬉しかったけれど幸せだったけれど、でも恥ずかしかったから、止めてくださいと連呼すれば渋々承知してくれて、だから次からはカカシが笑ってもぴくりと躰が動くだけになって、顔をちらりと見れば苦笑してて、それは少しだけ、ほんの少しだけ、淋しいなぁとも思ったのだけれど。
そんな時でも先生は任務の時と同じように綺麗に気配を消すものだから、時折横を見て安心して、自分から体を預けてみたりして。
甘えただね、と先生は柄にもないカカシの行動に、それでも柔らかく微笑んだけれど、いつだってカカシは、違いますよ、寒いんですと言い張った。
はいはいと返る声にはカカシの言を信じた素振りはなく、でもカカシだって信じてなかったからまぁ良いやと預けたまま。
(夜が明けなければ良いと思った)
あのまま、あの瞬間がずっと続けば良いと。
カカシだけが寄り添って、先生はただそれを受け止めるだけで。
だから寄り添い合ったことは一度もなくて、それはカカシが子どもだったからかもしれないし、違う要素があったのかは分からないけれど。
傍にいたいと思った。
ずっとずっと傍にいれたら、きっとカカシは幸せで。
その幸せの為に、自分が死んでしまったとしても、多分それだって幸せで。
そう思って、思い込むくらい、幸せで。
だから。
(夜が明けなければ良いと思った)
夢みたいな、夢よりも綺麗で哀しい時間が終わらなければ良いと。
そう、思っていたのに。
『――…カカシ』
いつか夜は明けるよ、絶対にね…と。
それは、俺の抱く闇だっていつの日か光に変わるんだよという、先生の言葉で。
『ごめん、ね』
でもね、違うんだ。
怖かったのは、そんなことじゃない。
だって先生がいれば俺が持つ闇なんて存在を忘れられる程度のもので。
それは多分、先生が太陽みたいに輝いて俺を照らしてくれているからで。
だから、怖かったのはそんなことじゃないんだ。
怖かったのは、恐れていたのは。
『まだまだ、カカシの傍にいるつもりだったのに』
最後まで、俺が願っていたのは。
『ごめんね。カカシ』
置いていって、遺すことになって、一緒に生きてやれなくて、―――ごめんね。
ごめんねと繰り返して、抱き締められて。
きっと泣き虫な先生だから、いっぱいいっぱい泣いていただろう。
笑いながら、微笑みながら。
ぎゅうと抱きしめてくれながら。
罪悪感と未練と、何かを想って。
泣いてくれたのだろう。
『頼むね…』
そっと俺から離れる時。
あぁ先生は一体どんな顔をしていたのだろう。
『俺の子を、里を』
守って。
そう云われた時。
俺はどんな顔をしていたっけ。
どんなことを、思ったのだっけ。
覚えていない。
でも、ただ。
痛烈に。
信じてもいない神に縋るほど。
(夜が明けなければ良いと、思った)
「懐かしい、なぁ」
ふんわりと、カカシは笑った。
ここも、あの記憶も。
朧げな当時の思い出は、ピンぼけした写真のよう。
永遠に焦点があうことはない。
哀しい、と思う。
淋しい、と思う。
もう手に入らないのに、もう見ることは叶わないのに。
過去くらい、綺麗なままでも良いのに。
忘れてしまった、大事なことを。
大切なものを。
それは守れなかったもの。
失ったもの。
失って、守れなくて、だから二度と失わず、守っていこうと誓ったのに。
「自分がそう願ってりゃあ、世話ないよね」
忘れることを選んだのはカカシ自身。
そう訊かされて、死にたくなるような思いで笑えば。
それほど辛かったんだよと、診察してくれた綱手に諭された。
頭を撫でられて、驚いて、でもその言葉が分からなくて首を傾げた。
辛くても刻み込めば良かったんだ。
もう未来を歩むことが叶わないあの人の最期を記憶に遺すことは俺にしかできないことで。
それはきっと、しなければならないことだった。
その想いは今も、変わらない。
「ごめんねぇ、先生」
覚えてる、忘れられない。
先生と過ごしたあの過去を、カカシはずっと生き続けている。
絶望も哀しみも、辛いことだって数限りなくあったけど。
父を失って絶望だけで生きたあの日々より。
友を死なせて心を抉られた日より。
先生と過ごした年月は、幸せなことも数え切れないくらい、あったから。
その幸せにしがみつくように生きている。
そんなこと、先生が望んだとは到底思わないけれど。
「でも、生きてる、から」
許してね、と。
カカシは空を見上げる。
「まだ死んでないよ。あの子と里を、守らなきゃいけないからね」
まだ死ねない、と。
太陽を見て、微笑んで。
「あは。先生は、やっぱり」
ひどいなぁ。
カカシは小さくそう云って。
ほんのり笑って。
ひっそり泣いた。
『―――誰もいらないです。誰も、ほしくない』
だから独りで生きていきます。
『寂しいよ』
『慣れました』
『ま、俺がいるか』
『先生にはクシナさんがいるでしょう』
そんな人はいりません。
『……まったく』
お前は嘘しか云わないね。
そう云った先生に。
(貴方の所為でしょ)
と云えないくらい、好きだった。
(だからまだ、夜は明けない。)
20110311