幸福の欠損
[ / secret night / ]闇の中、窓に這入る月影だけが部屋の灯り。誰と誰がいる訳でなく、声だけがただ響く。
「―――だから云っただろう、奴は運命の女神に愛されていると」
女神―――あぁそうだ。神格化とは強調の一点に収斂する。その所為でどう見ても許されざる快楽殺人者や近親相姦、人喰いなどが平然と神話の主人公として祭り上げられる。知ったことではないが、だからこそ納得できるというのも真実だった。
運命を司る神はその意味で最も悪趣味だ。運命とは即ち契機、もしくは切っ掛け、
本当に、まったく―――忌々しいまでに女神はあいつを
「そして母親が死んだ後、父親の責め苦が始まった」
命が途切れる寸前まで、何度も父親は責め苛んだ。喉は叫びに焼き切れた。爪は石畳に縋ってなくなった。内蔵は痛めつけられ、骨は幾度も砕かれた。
その都度魔術師によって怪我は最低限治癒された。当然それが慈悲である筈もない。死なないように、できるだけ長く、寧ろ永続の苦しみが彼奴に訪れるように願って施された治療。目隠しをされた暗闇の中であいつは何を見ただろう。希望の光を見いだせたとは、到底、思えない。
「……五年だ。五年、奴は其処にいた」
生後間もなく母親が魔力のチャームに溺れてあいつを宮殿の奥深くに隠し虐待。あいつが母親を殺したのは六歳だった。そして然程時を挟まず、今度は父親が彼奴を地下牢の闇に放り込んだ。
地獄だっただろう。だが母親にあったのは、歪み曲がっていたとしても、それは愛から成り立つものだった。反吐の出る、腐りきった親と女の間で揺れる母親だったが、それでも根底にはあいつへの愛情がまだあった。父親にはなかった。欠片も、一握りさえ。
「瑣末な差だ。だが、相対化すら許されぬ絶対的な差でもある」
それは痛みの度合い、それは傷の深さ、それは残忍さ、悦楽、方法に至るまで、全てに作用する。あいつが受ける絶望の程度を大きく変えたことだろう。
「彼奴が幸せを願わない理由は其処にある」
母親は女の
どうしようもないことだ。あいつのチャームは生前付与の代物だ。母親が女であることは当然として、その母親を愛したのは父親の心だ。作為はない。他意はない。誰かがどうにかしようと藻掻いて、そうなった訳ではない。
あいつも、母親も、父親も、だから誰も悪くはないのだ。幸せになれた筈だった。―――運命さえ、阻まなければ。
「だが事の始まりはどう考えても、どの視点で見たところで、奴へと帰結する。奴が生まれなければ、少なくとも呪われた泣き黒子がなければ、それだけで二人の人間が平凡ながらも幸せに生きていけた筈だ。寿命よりも先に死ぬことはなかった。奴も傷つくことを知ることはなかっただろう」
それ故にあいつは幸せを忌避する。その資格はないと切り捨てる。笑って、泣いて、それでも。
「理解はしない。そんなことに、意味はない。奴が幸せにならなければ誰かが代わりに幸せになれるのか? その懺悔は誰に向かってのものだ。母親か、父親か。死人に何を告げた所で、許しは永劫やってこない」
それでも、それがあいつが虚ろに生きる理由なのだ。確固として揺ぎなく、だからこそ哀しいだけの生き様を曝し続ける根底にあるもの。その為に今共にいる者が傷ついているというのに、気づくこともなく。
「愚かだと思う。だがそれを云うことは、それ以上に愚かなのだろう…」
声は途切れる。泰然として宵に解ける。舞台の転換のように完全に闇に閉ざされ、音もまた、なくなった。