幸福の欠損




 ―――ひたり。

 硝子に手をつく。冷たさがじわりと滲むよう。温度差で、水滴が涙のように流れ出す。その向こう、窓の外で、季節に移ろう景色が赤に染まっていた。紅葉。樹々が美しく映える。それは決して、淋しい光景ではないのに。

「……ディル」

 指についた雫を振り払い、身を翻して呼びかける。見下ろす先は直ぐ側の褥。傍らに立てば立つほど、敷布の白と彼の白の境界線が曖昧で困った。薄らと開けられた琥珀の月に似た双眸が、ゆっくりと此方へと向く。

「…ん…」
「何か、欲しいものはないか?」

 吐息に似た返事に、それでも安堵しながら顔を寄せて囁くように云い、指先で額を頬をなぞる。褥に横たわる彼の、冷たくて、白すぎる肌を。擽ったげににふぶに笑んだ彼は、けれど。

「……いら、ない」

 微かな声で云う。静かな声で、淋しいほど簡潔に。それは奇跡的に声として成り立ったような音だとずきりと思って、しかし、声を出すことが既に辛いのだと分からない訳ではないから何も云わずにおいた。内心の落胆を出さず、ただ顔では穏やかに片笑んで。

「そうか」

 頷いて姿勢を正し、また外に目を向ける。窓から見える絵画のような秋の風景を見たい訳ではなかった。見ていられなかったのだ。見ていないと消えそうなディルを、けれど見てはいられなかった。
 目を背ける自分を、彼はどんな顔で、どんな想いで見るだろう。思ったけれど、それでも。

(…済まない)

 ぎりと手を握る。…弱いものだ。一番辛いのは、自分ではないのに。
 無言の空白が続く。居た堪れないという感覚はなかったが、そろそろそれも長すぎる。そう思って振り返ると、ディルは既に目を閉じていた。澄ませた耳に届くのは細やかな寝息。

「……寝た、のか…」

 もう寝ることに飽いていいほど寝ているのに、ディルは気づけば何時も眠りに落ちている。体力の消耗がそれだけ激しいのだと、遠い目をして話すギルの横顔を思い出した。それだけで息をするのも苦しくなった。

「っ、…おやすみ、ディル」

 耐え切れず、まるで云い捨てるようにその言葉を置いて部屋を出た。扉を閉めて凭れ掛かる。頭を預けて、眉間に皺が寄るほどきつく目を瞑った。震える手。握って止めることもできないまま。

(あの日…春は、終わりかけていた…――)

 思い返す、瞼の、裏に。





 元が、悪かったのだ―――それはギルにしては珍しく、歯切れの悪い云い方だった。そもそもの生活が、彼にとって最適ではなかったのだと。
 訊いたの何時だっただろう。セピアが酷く似合うそれは、あぁけれど、つい近頃の話だ。何も遠くない、一つ二つと数えられる程度の、そう、たった数日前の呟き。弱音に似て小さな、誰にも訊かれる筈のなかった私語(ささめごと)。ギルは最早覚えてもいないだろう。否、そもそも記憶にないに違いない。だが確かに訊いてしまった居心地の悪さを、胸の閊えを、未だはっきりと覚えている。
 しかし今を以てして、それが何を意味するのかを理解しない。自分はディルの過去を知らなかった。出会ってからこれまでが、自分が彼を知る全て。ただ凄絶であったと、だから訊くなという意味合いも込めて、出会い頭牽制に一言云われただけに留まっていた。
 故に自分はディルの家名を知らない。知ろうとしたこともない。ディルはただディルで、それ以上でも、それ以下でもなかった。それで、よかったのだ。家を捨てたも同然の自分に、訊く権利も理由もなかった。ディルが此処にいることこそが最重要で、だから他のことなど、訊くことすら愚かだった。それを疑ったこともなかった。

『ディル…? ―――…ディル!!』

 倒れたのは、あと少しで夏になろうという時期だった。二人、居間で語り合っていた時にディルが椅子から崩れ落ちた。心臓が逆立った。冷や汗が止まらなかった。だがなんとか我を忘れず対処できたのは、何時もの、突発性の発作だと信じていたからだ。
 ディルは時たま酷い発作に襲われることがある。幻覚を見るらしい。夢見が悪いとそうなると、ギルは云って何時もディルの傍にいようとする自分を彼から引き剥がした。ついていたいと云って許されたことなど一度もなかった。恨みがましい目で見てもギルはあやすように頭を撫でるだけ。そうしてディルと二人、部屋に引き籠るのだ。ディルの発作が治まるまで。
 長い時もあれば、短い時もあった。それでもちゃんと、時間が経てば治っていた―――のに。

『……ディルは?』

 何時もなら二人で出てくる扉から、その日はギルしか出て来なかった。俯きがちな顔が暗い。気づいていたけれど、自分はそれを夜の所為にした。

『ディルは、寝たのか?』

 扉の隙間から覗こうとして、その寸前で閉められる。無理矢理なそれは、扉を軋ませ、大きな音を立てさせた。廊下に鈍く響く重音。びくりと反射的に肩を震わせてギルを見上げる。表情は夜と同じかそれ以上に仄暗く、紅の瞳は深く翳っていた。

『…ギル…?』

 どうした、と目で問う。恐れが混じっていた。薄々何かあると感じて、ギルもそれを察してか暫し云い淀む。
 後から思い返せば、それが永遠に続くように思え、そうなればよかったのだとも思う。だがそれも思うだけ意味のないこと。過去にあったことを後からどう考えようと変わりはしない。そもギルの性格を、況してや自分の性格を鑑みれば、云わず、訊かずに終わった筈はない。ことディルに関して、自分達二人が妥協することはないからだ。そのことを自分よりギルは分かっていたのだろう。

『…発作では、なかった』

 端的に云い置いて、ギルは告げることを決めたようだった。瞬時の決断は覗えず、だからその決意の重さは知るよしもない。

『あれは―――病だ』

 訊いて、しかし出来たことと云えば、ただゆっくりと目を少しだけ見開いたことだけだった。





 (シン)と静まった宵に更に沈黙が重なって痛かった。無音が身に心に押しかかるよう。振り切って、慄く喉をこじ開けた。何時もならすんなりと出来るそれが、酷く強ばっていてもたついた。ようやく出た声も、罅割れて訊き辛い。

『やま、い…?』

 くらり、とする。手が痺れる。頭の芯も、飽和したように頼りない。その中でギルの声だけは明瞭だった。

『発作は精神的に弱ってのものだが、今回は身体的に弱っている。原因が判然としないが…酷く、悪い』

 だが、それに何の意味があるだろう。その言葉が楽になる薬になるだろうか。いきなりだ。意味が分からなくて、訳が分からなくて、分からないまま。

『どの、くらい?』

 そう、問えば。

『………冬まで、保つかどうか』

 ―――意味が、分からなかった。

 呆然として、次いで唇が震えてはきつく閉じた。何かを云いかけてはするりと解けて言葉にならず、端を見つけた気になっても目を凝らせば靄に変わる。訴えたい気持ちはあるのに、声にならない。声として、言葉として、伝えられないもどかしさに身を捩り、その滑稽さに、笑みさえ漏れた。涙も、零れた。

『何を…何を、云う…そんな訳ない、そんなの』
『アルトリア』
『ディルは強い!!』

 迸る声。事実だった。現実に対する逃避ではなく、目を逸らす理由にするのでもない。彼の強さを自分は知っている。双槍と双剣、使い熟すは彼の人一人。たった一度だけ垣間見た彼の強さを言葉にする術を、自分は持たない。その彼が、それほど強いディルが、死にかけている? ―――馬鹿な。

『ディルは強い…! だからだから…っ、大丈夫だ…! きっと、きっと、だってッ、』

 叫ぶように云い募って、溢れる涙を拭おうともせず垂れ流したまま、気づけばギルに縋っていた。握り締めたギルの服が皺を作る。ともすれば皮を食い破りそうなほど握るそれを、ギルがそっと引き剥がす。

『……あぁ、そうだな』
『…っ…ギル…、…ッ…』
『そうだな…ディルは、強い…』

 そうして遠く遠く、叶わない夢を見るように。哀しげに云うことも放棄して、ただただ願うように、云うから。
 頭の中の絶望が、やっと心に追いついた。じわじわと侵食する。何故なんだと誰を責めることも、運命を憎むこともできないまま。涙にくぐもった声で云う。拙く、途切れがちに、震えながらも。

『幸せに…』
『…あぁ』
『三人で…』
『……あぁ』
『幸せに、なるって…――』

 涙が止め処なく溢れる。ギルは変わらずそうだなと優しく云って、その優しさを裏切るように、強く自分を抱き締めた。痛いほど、強かった。

〈―――幸せに、なりたい〉

 それは、自分が云ったことだった。ディルの、そしてギルの過去を知らないまでも、二人共、そして自分も、平穏な人生を歩んできたとは思わない。幸せだったとは云えなかった。だからこの三人で幸せになるんだと、彼等に語ったことがある。
 ギルは思いの外真面目にそうかと頷いて、けれどディルは哀しげに微笑むだけで頷いてはくれなかった。最も幸せになるべき人は、幸せを願ってはくれなかった。だがそれでも何時か、何時かきっとと、そう思っていたのに。

(その何時かとは、何時だ)

 身に余る幸せを願ったとは思わない。強欲と罵られるような、それほどの幸せを願った訳ではない筈だ。

(ならば、何故…!)

 何故なんだと、現在(いま)に立ち返って思う。扉を伝って頽れる。細やかだろう。小さなことじゃないか。ほんの小さな、ことじゃないか。
 心に隙間風が吹く。荒れるでもなく、哀しいほど静かに。だからこそ遣り切れない。静まり返った心は哀しみに浸りすぎる。辛くて辛くて堪らない。

「   」

 それから逃れようと唇が戦慄く。助けを求めて、名を呼ぼうとして、無意味に、動いた。でも誰の名も紡げなかった。呼ぶ相手など彼等二人しかいないのに、そのどちらを呼べると云う。どちらもが今、同じように助けを必要としているのに。

「―――…」

 結局喘ぐように動かすだけで唇は閉じられた。咬み結ぶ。血が出るほど、強く。
 その痛みと何かに、虚ろに開けた目から涙が零れて仕方なかった。淋しくて堪らなかった。怖くて凍えそうだった。ただ泣き声だけは漏らすものかと膝に顔を埋めて泣いた。たった一人、秋の夕暮れの光が増していくばかりの廊下で縮こまって、泣き、続けた。





「―――アルトリア?」

 肩を揺さぶられる感覚に、細く目を開ける。訊こえた声にも反応して顔を上げた。はっきりしない視界の中、真正面に、それでも端正と分かる男の顔が見えた。満ちた月に真似された琥珀の双眸が、訝しげにぱちぱちと瞬いて隠されては晒される。あぁ睫毛が長いな、羨ましい。目尻の黒子なぞ要らぬ美丈夫ぶりにうつらと思って、手を伸ばす。そうして手に掴んだのは、彼の頬。

「いっ、いひゃいいひゃい! こりゃ、ありゅとりあっ!」

 不明瞭な発音が可愛らしい。しかも目線を合わせる為か些か不安定な座り方をしていたようで、暴れた弾みでころんと後ろに倒れた彼。頬を摘む自分も自然、つられて覆いかぶさる姿勢で倒れこむ。当然瞬時に床に手をつき事無きを得たが。

「あれ…ディル…?」

 今、気づく。頭を打ったようで痛みに顔を顰める彼とは、目と鼻の先。摘んだ頬と涙を浮かべる瞳の縁が紅い以外は石膏のそれに似て白い肌。だが病的に感じるほどではない。寧ろ健康そのものだ。…あぁ。

「……夢か」

 項垂れると、次いで疲労感が押し寄せた。躰を支えるのも面倒になって腕の力を俄に抜き、今度こそディルに全身を預けるように凭れ掛かる。恥じらいはない。そんな羞恥を持つ相手では、疾うになかった。
 ディルも気にした風はなく、と云うよりは避け切れぬ体勢での突然の衝撃に対する驚愕と伴う痛みに喘ぎながら、涙目で此方を睨んできた。

「お、まえ…っ、普通抓るのは自分の頬だろう!? なんで俺の頬を抓るんだ! そして云いたくはないが、重いぞ!」

 ぎゃあぎゃあと喚くディル。冷静に見やって、思う。元気なものだ。夢の中での彼は、儚げで危うく、瞬きの間に空に溶け消えてしまいそうな透明感さえ持ち合わせていたのに。

「綺麗だったのにな」
「は!?」
「でも私はこっちの方が好きだ」
「…はい?」
「うん。大好きだ」

 ごろん、と猫が寝そべるよう、若しくは喉を鳴らすように、ディルに懐く。意味が分からん…とぶつぶつ文句を云うディルは、それでもされるがままでいてくれた。廊下で重なりあっている二人。何を喋るでもなく、何をするでもなく。
 それも束の間の戯れに終わった。唐突に窓から差す陽光が遮られて影が落ちた。それは何も陽が暮れたからではなく、もう一人の住人が来たからだ。
 見上げれば、金髪が冷たく輝いて涼やかに揺れる。紅の瞳は鋭く、しかし楽しげな色を湛えていた。それに気づかず、ギル、と助けを求めようとしたディルに笑んで、彼は。

「我の目の前で悠々と不純異性交遊か。やるな、ディル」
「ッ、ギル!?」
「交じるか?」
「あ、あ、アルトリアっ!!」

 夕暮れ時の廊下で、三者三様の言葉と口調が乱舞する。打ち合わせた訳でなく、今までそうしてきたように。これまで何度も感じてきた空気の中で笑い合う。そのことに安堵した。酷く酷く、深く。
 長い長い夢だった。何日をも数え、何ヶ月をも跨ぐほどの、長い長い、夢だった。既に端々は記憶の底に沈み、思い返すことは適わない。虫食いだらけの書籍。それを修復する術をないと云えば、嘘になるけど。

(……止めよう)

 夢なのだ。夢だったのだ。ならば無理には追うまい。自分が生きるべきは此処なのだ。そう、思いながら。

(一体、何処から何処までが、嘘、だったのだろう)

 一瞬脳裏に浮かんだ問い。思えばギルが云ったと認識していたあれも、訊いたことはない筈だ。結局自分は何も知らないまま、そのことに不満を覚えてディルの過去に触れる話を創り上げたのだろうか。
 首を傾げるも、それはギルとディルが話しかけてきた所為で波に飲まれた船のように沈んでいった。そしてもう二度と浮かび上がることはなく、深い水底(みなぞこ)に朽ちていく。





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