西洋林檎

[ 花言葉:導かれるままに ]



 流されるように生きていた。
 川の中、水に押し流されて下流へと目指す小石のように。
 コロコロと水と戯れるように転ぶ小石も、けれど川底の突起やより大きな石に打つからずに済んだ筈もなく、傷つかずに最後まで辿りつける筈もない。
 小さな傷は、集まればとても痛かった。
 一つ一つは無視出来るほどのものなのに、徒に傷を増やしていくその姿は滑稽なほど無様で。
 磨耗されて綺麗に丸みを帯びるまでの過程は、とても醜く残酷に、少年の眸に映っていた。





 用事があるからと、ヒメコが早々に部室の扉から出て行ってしまってから数十分が経つ。
 部活内容が依頼人がいなければ成り立たない部であるから、依頼人が来なければただ暇を持て余すしかない。
 よって何時もならば誰かの「帰ろうか」という言葉が響くまで各々個人の世界に埋没していくのだが。

「なぁスイッチ」

 畳の上、壁に背を預ける形で座るボッスンが、膝の上に開いた雑誌に視線を遣ったまま、真摯にパソコンに向かっていたスイッチを呼ぶ。
 『なんだ』と即座に返すも、その視線がこちらを向くことはない。
 静止画のように止まったままの彼に、スイッチが戸惑いを込めてもう一度言葉を入力する。

『どうした、ボッスン』

 その揺れを感じたのかは定かでないが、兎に角ボッスンは笑みの破片を漂わせるだけだった口元に今度こそはっきりと笑みを形作った。
 それでもまだ、視線は雑誌を彷徨ったままで。

「なんか欲しいもの、ある?」

 腹減った、と云うような気軽さで零された言葉に、スイッチはまた戸惑いを心に積んだ。

『…俺の誕生日はまだまだ先だぞ』
「知ってるよ」
『ではハロウィーンか?』
「まぁ楽しい方が好きなのは好きだけど、ハロウィーンってのはお菓子がありゃいいだけじゃねぇか」
『ヒメコの誕生日…も過ぎてるな。今日から一番近い誕生日、且つボッスンがプレゼントをあげたい人間を絞り込むと、どういう訳か藤崎佑助、もしくは椿佐介になるんだが…』
「あ? 誰にもプレゼントなんてやんねぇよ」
『……ボッスン』
「ん?」
『俺にはお前の云う意図が掴めない』

 すまないが、と付け足したスイッチを、ボッスンは初めて視線を動かして見た。
 その過程で掻き消えた微笑、きょとんとしたそれは、受けるスイッチの戸惑いを(いや)増した。
 見つめ見つめられるだけの無為な時間が過ぎていく。
 窓から差す橙が些か濃くなったかと思われた時、ボッスンがへにゃりと笑って「ごめん」と云った。

「そんな気構えて答えて欲しいと思ってた訳じゃねぇんだ。ただ聞いてみたかっただけだよ」
『俺が欲しいものをか?』
「あぁ」

 何故、と問うことを、スイッチは躊躇った。
 (さざなみ)のような微かさで、けれどそれはどうしようもなく確かな逡巡だった。
 ―――ボッスンの考えが汲めないことは間々あることだ。
 賢さ云々、察しの良さ云々の話でなく、彼は時たま酷く突飛な思い付きで常識から精々爪先立ちで逃れたつもりでいる人間の世界を覆す。
 それを楽しいと思える時もあれば、心臓に悪いと冷や冷やすることもある。
 今回は後者だった。
 ただ現在、スイッチを困惑させていたのは常識を覆されるかもしれない未来でなく、視線の先の、ボッスンの姿だった。
 誤解されがちだが、彼はとても空気を読む。
 何時も無闇矢鱈に元気に騒いでいる訳ではなく、例えばヒメコやスイッチの様子や雰囲気から、今はどのように振る舞うべきかを取捨選択しているのだ。
 それは、空気を吸うような気軽さで。
 その彼が今、スイッチの心情を汲まず、静かに穏やかに、過去に撮った一枚の写真のように、動かず微笑んだままでいることが気掛かりだった。
 それ故に何事かと問うべきか迷って、けれど結局スイッチは質問の類を口にせず、『そうだな…』と口火を切ってボッスンの問いに答えることにした。

『最近キーボードの調子が可笑しいから、買い換えるか徹底的に掃除をする時間が欲しい』
「他には?」
『他? …欲を出せばアニメのキャラクターソングのCDや生産限定版のDVD諸々が欲しいが、そういうものは買っても買っても新しいものが出て限がない。イタチごっこだ』
「へぇ。じゃあ今んとこ何が一番欲しいんだ?」
『ん…今一番欲しいものか…それなら――…』

 そんな風に誘導尋問に近い形でボッスンはスイッチの中から〈欲しいもの〉という曖昧なものを一つ一つ言葉にすることで明確にしていった。
 スイッチは疑問を挟まない。
 それがどういう意味を持つのかなんて、訊くのも野暮だ。
 何故と(ただ)すことも同様に。
 会話と疑問と解答と、混じった言葉のキャッチボールは滞りなく投げては返され、返されればまた投げた。
 スイッチの答えが底をつくまで。

『――…そんなところか』
「そっか。思いの外お前って貪欲だな。あれ欲しい、これ欲しいって」
『む。ボッスン、その云いようはなんだか傷つくぞ』
「悪ぃ悪ぃ。そうだよな、そういうもんだよな」

 うんうんと納得したように頷く彼は、スイッチを通り越して天井を見上げて、また。

「そういう、もんだよなぁ」

 遠く遠く、そう、呟くから。

『ボッスン』
「ん?」
『ボッスンは、何が欲しい?』

 問いは、夕焼けが一層地平線に近づいたような色で部室を染め上げた時に零された。
 赤に紛うオレンジが人も物も何もかも染め尽くして、鮮烈に光る。
 けれどそれも、

「なぁんもいらねぇ」

 その言葉その声に、怯んだように弱まった。
 ボッスンは飽くまで笑顔で、しかもそれはとても優しい笑みだった。
 そんな顔をされるならいっそ泣いてくれた方がマシだと縋りたいような、柔らかくて寂しい顔だった。
 でもそれを、スイッチは伝えて良いのかすら分からなかったから。

『…ボッスンは、無欲だな』

 云いようのない無力さを心に押し込んで、こういう時ばかり自身のポーカーフェイスと合成音声を心底有り難く思う。
 成功したのだろう、それとも気にしなかっただけだろうか。
 ボッスンは尚微笑んで「はは、ちげぇよ」と朗らかに云い放った。

「本当は欲しくて欲しくて堪んねぇ。あれもこれもそれもどれもな。でも俺は気付いちまった」
『気付いた…?』

 あぁ、と我等がリーダーは笑って頷いた。
 何時もの笑みと同じで、けれどどうしたって違う笑みだった。
 悲しくて苦しくて辛くて、そのどれもを無理矢理笑顔にしてみせた笑みだった。

「俺が欲しいものは、何時も当たり前のものだった」

 欲しいもの。
 諦めたもの。
 ボッスンが、欲しかったもの。

『ボッスン…』
「当たり前のものを願う自分が嫌な自分が嫌だった、って云ったら、なんかよく分かんないけど」

 でもそうなんだと、スイッチの言葉を遮るように被せて云ったボッスンは、それでも笑顔を脱ぎ捨てない。

「なぁスイッチ」
『ん?』
「俺きっと、臆病なだけなんだ」

 ―――何時もは何処までも自分に疎いくせに、彼は時に酷く冷静に自分を見つめる。
 見つめるだけだったら良いのに、奥へ奥へと覗き込んでしまうから始末が悪い。
 そうして一人、傷つくのだ。
 自分の為でなく人の為ならありったけの言葉をぶつけてくるのに。
 持ちうる能力を余すところなく他人の為には注ぎ込むのに。
 その調子で自分を曝け出してくれと、守ってくれと、ボッスンを知る誰もが思うことをしてくれない。
 溜め込んで溜め込んで、そしてやっと云ってくれる。
 こうして、云いながら、傷つきながら。

「欲しいものがどれだけ有り触れたものかを知るのが怖い。誰かに云った時の反応が怖い。そんなの当たり前だろって、そう云われるのが怖くて怖くて仕方ねぇ」

 レポートを読み上げるようなその声は、戦慄きはしなかった。
 震えることもない、淀むことも、途切れることも。
 表情すら石のように動かなかった。
 けれど。

『…だったら何もいらないと、そう思い込むことにしたのか』

 そっと立ち、畳に乗り上げてボッスンの横に座ったスイッチは、云ってボッスンの肩を抱き寄せた。
 案外それは重力に従うように容易で、だからこそスイッチの心をより痛ませたけれど。
 微塵も感じさせない穏やかさで、スイッチは肩に回した手でポンポンとボッスンをあやすように撫でた。

『馬鹿だな、ボッスンは』

 返る言葉はない。
 僅かに躰の強張りを感じたけれど、それも一瞬のことだった。
 反応というには、あまりにも微かな。
 それが哀しいのだと、云うことの方が哀しいから、スイッチは気付かないふりをし続けて。

『みんな、臆病なんだ。俺も、ヒメコも、飄々としてる安形も、椿だって。みんなみんな、何かを恐れて生きている。それぞれが抱く恐れが大したことないなんて、誰にも云うことはできない。ボッスンが軽んじる何かが、もしかしたら俺達の誰かにとっては重いことなのかも知れない。それと同じことだ』

 言葉を紡ぐごと、重ねるごとに、肩の部分、ボッスンの頬が押し当てられている所がじわりじわりと濡れていく。
 感じて、息を吐いて、スイッチは喋ることを諦めない。
 声は亡くした。
 でも、言葉を棄てた訳じゃない。

『ボッスンはそれを、一番知っているだろう?』

 みんなの悩みに耳を傾け、時には怪我しながらも助けてくれたボッスン。
 これまでそうだったように、これからもそうしていくだろう。
 それは人の弱さに触れ続けることだ。
 誰かの醜さを見続けることだ。
 普通なら耐えられるものじゃない。
 弱さも醜さも、酷く心に重いから。

『それでも、助けてくれるんだろう? …いや、助けていくんだ。俺もヒメコも、お前と一緒に』

 もう一人にはさせない。
 心の領域には踏み込めなくても、ボッスンが二の足を踏みながらも領域から出たその瞬間、力の限り抱き締めてやる。
 助けたい人は依頼人だけじゃない。
 傍で人一倍頑張る、頑固なまでに弱さを見せない、君だって。

『だから欲しいものがあるなら云ってくれ。俺達じゃ、望むものにはなれないかもしれないが』

 でもできるだけ頑張るから、と云うスイッチに。

「……ばーか」

 肩の重み、触れ合う部分が。
 増した気が、した。

「お前達はお前達だ…俺の欲しかったものを、何よりも体現してる…」

 だから他の何にもならなくて良いよ。
 お前達はお前達で良い。
 お前達が、欲しかったんだ。
 掠れた声で繰り返すボッスン。
 見下ろしても、スイッチにはトレードマークのツノ帽子しか見えなかったけれど。

「…へへ…ったくよぉ…」

 それでも。

「お前等は優しくてお人好しで……だから、好きだよ」
『そうか』

 それだけでボッスンの気持ちを読み取れるくらいには、彼等は傍にいたから。





 ガラ…と小さな音を立てて部室のドアが開く。
 顔を覗かせたのは、ヒメコだった。

「ボッスン…眠ったんか」
『あぁ。気が緩んだ所為か、やっとな』
(くま)、凄かったもんな」
『ボッスンは、抱え込むから』
「…せやな」

 スイッチとボッスンを挟むように座ったヒメコは、ボッスンの寝顔を切なげに見て小さく笑った。

「アタシなぁ、ボッスンは最初から磨かれた宝石として生まれてきたんちゃうかって、ずっと思ってた」

 出会った時からキラキラしとったもん、すっごい、綺麗に。
 あぁ汚したアカン人間や。
 いや、汚すことができるんやろか。
 そんな風に思っとった。

「違うんやなぁ…ボッスンもアタシらと同じで、傷いっぱい背負(しょ)い込んでんねんなぁ」

 しみじみとした声は、スイッチの心にも染み込んだ。
 『そうだな』、と打ち込まれた声も、少しだけ沈み込んだよう。

『俺達はまだ原石だ。輝くかどうかも分からない、磨かれている最中の、傷だらけのただの石だ』

 大人になったら輝けるだろうか。
 何時になったら、何処まで行けば。
 そんなことは、分からない。

『ボッスン』

 寝入った穏やかな顔に残った涙の残滓を拭い去る。
 君に涙は合わない。

『俺達が望むことだって、案外有り触れたことなんだ』

 臆病だから、云えないままだけど。

『笑ってくれ、なんて、中々〈当たり前〉のものだろう?』

 云えないまでも、そうなるように努力するよ。
 君が何時もそうしているように。
 声高に望みを云えない君は何時だってそうして頑張っていること。
 隣にいる彼等は、誰よりもそれを知っている。

「なぁスイッチ」
『なんだ』
「ボッスンの傍におったら、何時かアタシらも輝けるで」
『…そうか』

 水に押し流されて下流へと目指す小石のように。
 磨かれ、傷付き、それでも何時か。

『そうだな』

 僕等は君に導かれて。





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 20111029
〈ありがとう。ありがとう。俺達と出会ってくれて。〉





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