孔雀草

[ 個意言葉:いつも愉快・一目惚れ ]



 逢瀬というには、それは味も素っ気もない邂逅と称すべきものだった。
 あぁ月が綺麗だ外に出よう、と出歩けば、凡その確率で出会ってしまう。
 会ったのなら酒の一つでも酌み交わそう。
 一つが二つ、二つが三つになった所で変わりはすまい。
 そう云っている間にも夜も更けた、さぁ帰ろう―――。
 そんな、偶然と場の流れというもので、彼等の夜な夜なの酒宴は成り立っていた。
 闇世界の主と畏れ敬われる自由気侭な妖怪の野生児と。
 常に面白可笑しく生きる、妖怪嫌いの花開院家から輩出された、妖怪好きの天つ才との酒盛り。
 交わし合うのは酒のみで、出会い頭の今晩はも別れ際のさようならも、彼等の間に存在することはなかった。
 一度として、一度も。
 だけど、あの日は――…。





 ぬらりひょんの視線の先、繊手が無造作にとくとくと酒が杯を満たしていく。
 あと少しで溢れる、と云う所で、くいっと徳利の頭が持ち上がって酒の水平線は保たれた。
 それを意識するまでもなくやってしまうのだから、器用と云うか手馴れていると云おうか。
 綺麗な手の持ち主はそれほどその作業を繰り返してきたのだとふと思えば、ぬらりひょんは笑ってそんな思いを吹き飛ばしてしまいたい気持ちに駆られた。
 静かすぎる宵闇の帳を切り裂くような哄笑を上げてみようかと思い立って、それは考えついたのと同じくらいの時間で彼の中で棄却された。
 自然、彼の口端に一瞬生まれた笑みも、その一瞬後に消え失せた。
 だからその前後など、些末な差にしかならないのに。
 けれどそれを見逃すようなら、この男は陰陽師の山巓(てっぺん)に居はすまい。
 妖怪を前にしてそんなことをするのは、ただの無知の阿呆か、己の才に酔ったどうしようもない馬鹿だ。
 その心をの声を訊いたかのように、双眸を閉じて酒を愉しんでいた男が切れ長の目をちらりとこちらへ寄越してみせた。

「…なんや、酔い足りんの? 晩酌したろか?」

 ほれ、と徳利を傾けてはんなりと笑む花開院家の十三代目を、ぬらりひょんは面白い芸を見るように目を細めて眺めやる。
 同時に先程沈んだ笑みも復活して口元に彩りを添えた。
 と、云うのに。

「今日は機嫌悪いなぁ。邪魔やったら邪魔や云うたらえぇのんに」

 言葉が終わると同時に笑みは跡形もなく引っ込められ、ひょいと差し出されていた徳利はそれと同じくらいの気軽さで引き戻された。
 そしてその気軽さを引き継いで、

「ほな」

 云ってすっくと立ち上がると、彼は躊躇いもなくひらりと片手を振って帰路を辿ろうとする。
 突飛なことをする輩だとは思っていたし、それを享受できる度量も経験も持ちあわせたぬらりひょんだ、普段なら気に留めず引き止めもせず、あまつ見送りさえしないだろう。
 けれど今日は。
 今日だけは、駄目だった。

「…何してんの」

 引いた手。
 掴んだ腕。
 それは初めて会った時とさほど変わらないように見えた。

(変わらない、変わってない。―――だがそんなことは有り得ない)

 出会いから何十年と過ぎた。
 当初は酒を嗜む習慣のなかった彼を思い出そうにも、記憶に霞がかかって邪魔をする。
 また今の顔に少年の面影を探そうとしても、成長しきったそれからはまるで思い出せそうもない。
 ただ衰えの見えない力のおかげか、彼の躰は老成することなく最盛期の姿を留めている。
 時が彼だけを置いて、過ぎ去ったかのように。

(あぁけれど)

 掌にすっぽりと収まった手を不意に凝と見る。
 白くて、細くて、折れてしまいそうな。
 初めて触れた今も、その感想に相違はない。

(…けれど)

 掴んだ腕を見て、次いで流れるように視線を滑らせぬらりひょんは笑みを捨てた能面のような彼の顔を見て。

「―――…」

 唐突に、腕を引いた。
 躰を寄せ、そして唇を寄せた、その時。

「やめて」

 静かな瞳、静かな声が。
 咄嗟に彼の白い手を肩に置くことで作られた距離よりも遠く、ぬらりひょんを拒む。
 それは、酷く明快なことなのに。

「…何を(わら)う?」

 棄てた筈の笑みを、彼は取り戻していた。
 いつものように。
 世界を愛くしみながら、疾うに捨て去った故郷を見ているような、そんな微笑を。
 けれどそれに答えず、彼は。

「君に、そんな甲斐性あるとは思わんかったわ」

 いっつも無気力満載やのになぁ、とけらけらと咲う。
 気持ちの良い咲い方ではなかった。
 馬鹿にしたのでもない、云う方こそただ無気力なだけの憫笑は、ぬらりひょんの心をやたら逆撫でた。
 眉根を寄せたぬらりひょんがその咲い方を止めろと口を開きかけた時。

「ありがとうなぁ…」

 一瞬、白い腕に(いだ)かれた。
 それは何かを耳元で呟いたかと思うと、直ぐ離れて距離を取る。
 引き止めようとした。
 腕を伸ばして。
 手は、空を切った。
 視線の先、指の先の彼。

「ほなね、ぬらちゃん」

 ばいばい。

 零された幼子のようなその言葉とその笑みが。
 彼等の最初で最後の別れとなった。





 その少し後、風の噂で共に呪いを受けた人間(ひと)の彼はその呪いに殉じたのだと訊いた。
 人の一生なぞ(あやかし)からすれば一夜の夢も同然だと云うのに、夜が明けぬ前に彼は散ってしまった。
 夢の続きを見るように、深い深い眠りの底へと誘われて。

「…馬鹿だな」

 お前は、そんなものの為に戦ったわけではないだろうに。

 思わず思って、直ぐ様小さく(かぶり)を振る。

(否…、馬鹿はどちらか)

 苦く笑ってぬらりひょんは朝焼けの空を眺める。
 さわりと風が髪を撫でて通り過ぎていった。





『ボクは、ボクのままで死にたいんよ』

 耳奥に遺る声がある。
 最後の日、穏やかに紡がれた一滴の言霊。

『ボクは、ボクのままで――…』

 知っている、彼がどう生きてきたのか。
 持つ能力ゆえ、その道の者には畏敬され、噂を知る者には敬遠された。
 対等な人として接してもらったことなど、数え上げるほどもないのだと。

『でも人として生まれて、人として生きた。死ぬ時も、それに殉じて人で死ぬ』

 それを、知っていたはずなのに。
 自分はそれを、嫌だと、思ってしまった。

(だから、あんなことをした)

 引いた躰。
 寄せた唇。
 そして彼に、自分の持つ妖の力を与えてやろうと。
 そうすれば半妖となった彼はもうしばらく生きられる。
 純粋な妖とは生命力が異なるだろうが、それでもあと五〇年は。
 せめて、五〇年は。

(―――許されないことだ)

 妖力の譲渡は大罪だ。
 何より。
 彼がそれを許さないことなど、分かりきっていたのに。

『ありがとうなぁ…』

 それでもありがとうと彼は云った。
 そう、云ってくれた。
 それだけで、救われた気がした。





 それから四〇〇年経った今も、彼を思えば色鮮やかに思い出せる。
 古ぼけた写真の中、彼だけがまるで今しがた撮ったかのように。

(そろそろ他のもんと一緒に大人しく思い出にならんかい)

 記憶の中の彼に云った所で訊きやしない。
 はいはいと云いたげに扇を軽く振るだけで終い。
 どっちに行ったが知らないが、あの世では大人しくしているのだろうかとぼんやりと空を見上げた時。

「あれぇ。ぬらちゃん、お久しゅう」

 どこか訊き憶えのある緊張感の欠片もない間抜けな声にぬらりひょんは振り返り。
 つい昨日別れたばかり、という風に飄々と咲いひらりと手を振ってみせる思い出の中の瓜二つの彼を一目見て。

「―――おぉ、死に損ないが」

 もう一度、密かな恋をした。





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 20110919
〈そしてまた、枯れるまでの花が咲く。〉





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