[ 花言葉:想い ]



 静謐の中夜が明け、太陽が蒼い空を翔けて夕暮れを引き連れる。
 また、夜が訪れる。

 それは穏やかな一日。

 それを知ることはなかった。
 出会わなければ永遠に。
 それが美しいことも尊いことも。
 得難いことであることも。

 世界はとても美しい。

 …とても、美しかった。





「あ…」

 秋風が(まろ)ぶように耳元を摺り抜けていった。
 釣られて振り返った晋助は切れ長の目を少しだけ見開いて風の行き先を見る。
 何もないことなど承知なのに、どうしてか目が逸らせない。
 夕方の小道、誰も通らないことを良いことに、晋助は長い間じっと来た道を睨みつけて。

「………」

 期待などしてなかったのに、何もないことなど、分かっていたのに。
 結局何も現れなかったことに落胆し、視線を振り返る前の方向へと戻した時。

「っ、先生…!」

 数歩先、通う塾の師である松陽が、穏やかに微笑んでこちらを見ているのに気がついて、晋助は肩を大げさに震わせた。
 それを松陽は気づかぬふりで近づくと、晋助に視線を合わせる為に膝を折り、目を細めて頭をさらりと撫でてやる。

「こんにちは、晋助。随分と熱心に見ていましたね」
「ずっ…ずっと見ていらしたんですか…」

 声を掛けてくだされば良かったのに…、と何もない道を凝視していたのを見られていたことに酷く羞恥を感じて晋助が頬を赤らめれば。

「何か大切なものを待っているような気がして…それにあと少し気づかなければ帰ってしまおうかと思ってましたから」

 と何でもないことのように云うから。

(良かった! 気づいて、ほんと良かった…!)

 そろそろ夜に傾く空模様を見れば、松陽の性格上幼子が一人道に立ち尽くしていれば知己であろうがあるまいが置いていくはずもないと分かっていたけれど、思わず晋助は心の中で歓喜した。
 今日は生憎講義のない日で、それは週に二日程度のことなのだけれど、晋助にしてみれば行けず松陽に会えないのはとても寂しいことだった。
 毎日あればいいのにと、何度思ったか知れない。
 時折口にも出しているらしく、銀時や小太郎に揶揄されることも間々あった。
 恥ずかしいとは思ったけれど否定したことは一度もない。
 だって晋助は松陽が大好きで、それを誰かに知られることは確かに穴があれば入りたいくらいだったけれど、知られず嫌いだと誤解されることの方が耐えられなかった。
 好きだと直接云えなくとも、結果的に知られれば良い。
 そんな打算も込めて晋助は直向きに松陽ばかりを見つめてきた。
 これからもそうしていくつもり。
 ずっとずっと、ずっと。
 そんな晋助の心を当の松陽が知ってるかどうかなど、まだ子どもの晋助には分からなかった。
 だから。

「…先生」
「はい?」
「俺、早く大人になりたいです」

 先生の傍で、大人になるんだ。

 それを信じて疑わなかった。
 それはどこか松陽が塾を開き望んだ道と食い違っていると薄らと知りながら、知らないふりをして晋助は云った言葉と同様の真っ直ぐな視線で松陽を見つめた。
 松陽は僅かばかり笑みを深めたような、逆に浅くしたような、兎に角微かに笑みを変化させた後、ふと立ち上がって距離を取る。
 目線が遠くなる。
 身長など気が遠くなるほどに。
 首が痛い。
 心が、ずきりと痛かった。

「…意気込まずとも、いずれ晋助も大人になれます」

 そのいつかを、待っていられないと思った。
 早く早く早く。
 この絶望的な距離を縮めたい。
 どんな卑怯な手を使ったって良い。
 他に望むものなんてあるもんか。
 先生が見ている世界を知りたい。
 それを先生の隣で見てみたい。
 同じように見て同じように感じて見合って笑うことができたなら。
 それはどんな素晴らしい世界だろう。
 先生の隣でしか世界を美しいと思えない自分の世界が変わる。
 本当の意味で美しいと信じられる気がした。
 だからだからと急く心を持て余す晋助を見通してか、松陽はほんのり困ったように笑って、ただ、

「立ち止まり、振り返った先にはありませんけどね」

 と穏やかに云った。

「前に進むことです、晋助。未来は立ち止まった処に、振り返った場所に、待てば来るというものではありません。どんな暗い道でも良い、前に目を凝らしてご覧なさい」

 きっとそこにこそ、貴方の目指すものがあるはずです。

 静かな声、凛とした言葉が。
 晋助の心に波紋を作る。
 波紋は心を揺るがせて。





(……そうして、どうしたっけ)

 煙管(キセル)からの煙がその先を遮るように(けぶ)る。
 手を繋いで帰ったのだったか。
 確かあそこは家の近くだったはず。
 さて、どうしただろう。
 どうした、だろう。

(……その先が、見えない)

「……は…」

 カラン、と手から離れた煙管が床と口付けて音を立てる。
 立てた膝、腕に埋めた顔。
 口端には苦い笑み。
 見るのは闇。
 いつだって。

「―――先生…」





 あんたが死んでから、世界が全然綺麗じゃねぇんだ。
 灰色がかってて、空はいつも機嫌悪そうに淀んでる。
 でかい花火でも打ち上げりゃあ綺麗に見えるかと思っても全然そうならねぇんだ。
 何でだ?
 なんで俺の見る世界はこうも薄汚れてる?
 何が足んねぇんだ。
 何が駄目なんだ。
 …クソ。
 分かんねぇんだよ。
 あんたがいた頃は。
 こんな汚ぇ空を見上げたことなんか一度だってなかったのに。
 なんでなんでなんでだ。





(そんな問いを、俺は何度繰り返しただろう)

 分かってんだ。

『未来は立ち止まった処に、振り返った場所に、待てば来るというものではありません』

 俺はいつだって少し待てば現れたかもしれない待ち人を待てず、いるかも知れないと目のない後ろばかりを振り返る。
 そうして目の前に佇む誰かを見失い続けて、傍にいたはずの誰かも喪って。
 …分かってんだ。

『前に進むことです、晋助』

 ふと視線を戻した時、見るのはいつだってそう。

『あ…』

(――…風が、通り過ぎた後)





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 20110925
〈そうして、失って来たことなんて。〉





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