輝夜の月

[ 友 ]



 待ち人は未だ来ず

 来ると分かっているだけに少し心許ない

 一人の酒宴の味気ない事

 面白味をなくして手許を見れば

 酒の入った盃の中

 風に揺れるは花露の面とそれに映る闇夜の月

 ゆらりゆらりと形を変え

 されど燦めきは変わらぬまま…

 夜を仰いでその姿を直に己の瞳に映す

 あぁなんと

 今宵の月の、蒼き事





  夜に、啼く





 ひっそりとした宵だった。
 微かに日が暮れるのが遅くなりつつある今、けれど人はまだそれに気付かぬのか、今尚冬の日暮れの時を境目に家の中に籠もってしまう。
 まだ夜は始まったばかりだというのに、通りに人影はない。
 土御門の方面へ行けば、人どころか家の数すら減っていく。
 幾度も通い慣れた路とは言え、博雅の心地も何処か不安定に揺れていた。
 心細いとか、不安とか…、それに似た感情が胸に湧く。
 その理由を、博雅は何とはなしに察していた。

(今宵の月の、なんと不可思議な事よ…)

 足を止めて見上げるそれ。
 闇を照らす月は夜の(しるべ)
 何時もなら賛美の対象にはなれど、どうしてか今日はそのような気持ちは微塵もない…。

(心が…ざわめく…)

 冴え冴えと澄み渡る月。
 その色さえ、何処か冷たさを表したかのように、蒼く見えて。

(……似てる)

 そう、思うからだろうか。
 あの男に今宵の月が似ていると、…いや、あの男が今宵の月に似ていると、そう、思うからであろうか。

(まさか、な)

 自嘲しながら、それでも足は何かを恐れるように其処から踏み出せず、瞳は捕らえられたようにその輝きから離せない。
 つきつきと胸に痛みが走る。
 その痛みを知覚した途端、それが純然たる恐怖である事に博雅はようやっと気が付いた。

(……まさか…)

 今度は自嘲すら出来ない。
 恐怖の先、その理由に、気付いてしまった。

「馬鹿な…」

 (いにしえ)の物語。
 何故それを思い出す。

(月に生まれ、何故か地に堕ち、月に帰っていった、あの姫を―――)

 腑に落ちぬものを感じながら、けれどどうしてか思い出さずには居られない。
 その姫を、―――友である、晴明を。
 何故、と博雅は自身に問うた。
 重なる所など在る筈もない。
 彼の姫は人ではなかったが、しかし、友は人である事に違いない。
 確かに、心ない者共から、狐の子と言われ恐れられたりはするが、それは根拠のない謂われであり、知って尚、博雅にとっては大事な友であった。
 例えその言葉が偽りでなく、晴明が真実(まこと)、妖物であったとしても、博雅の心は変わるまい。

『いいか、晴明――――――たとえ晴明が妖物であっても、この博雅は、晴明の味方だぞ』

 以前言った言葉に、嘘はない。
 博雅は晴明という存在を知ってしまった。
 その心に触れてしまった。
 だから晴明が博雅と種を違えようと、恐らく博雅は、晴明の傍に在り続ける。

(そう願うて居るし、その覚悟もあるが…)

 偶にふと、思う事がある。
 己に彼の男の傍に居るだけの価値があるのかと。
 才に溢れ、見目麗しく、度胸も据わった、あの男の傍に、自分が居ても良いのだろうかと。

(……おれに出来る事など、無きに等しいものを)

 過去を振り返れば、その思いは一層強くなる。
 何か出来ただろうか、晴明の為に。
 何も出来なかったのではないか?
 何の望みも、叶えてやれて居らぬのではないか?

(あの、姫の望みを叶えられなかった、公達等のように)

 そう思いながら、博雅は困ったように、笑った。

「何だ…重なる所など在る筈もないと思うておったのに、在るではないか」

 晴明だけでなく、己も彼の物語の者共に似て居るか。
 博雅はそう気付いて、僅かに瞳を細める。
 胸に湧くは、落胆か、自嘲か。

(………違う)

 これは―――と悟り、博雅は微かに笑みを深めた。

「…それでも、傍に、居たいか」

 己の価値を疑い、話に出てくる者達に自分と彼を投影(うつ)して尚。
 心が、変わらない。
 あの男の傍に居たいと叫んでいる。
 自分の力と知恵の無さを嘆きながら、それでも、と。

「あぁ、そうだな」

 博雅は、切ない想いを零すように、溜息を吐いた。

(晴明の傍に居れば、己の無知を知る事も在ろうよ。無力さに打ちのめされる事も在ろうよ)

 それでも、傍に居たいのだ。
 あの男―――晴明の傍に。
 繰り返しそう呟いて、博雅は挑むように夜に君臨する蒼月をしっかりと見た。
 今にも姫を連れ帰った天人が降りてくるのではと恐れるように心を震わせながら。
 心の裡で、懇願した。

(頼む…晴明を、連れて行かないでくれ)

 月よ、月よ、どうか。
 あの男をおれから奪ってくれるな。

(もうあの男の居ない世界など、想像もできんのだ)

 それは空から月を奪う事に等しい。
 なればもう夜には闇しかない。
 標はない。
 地に這う我等は彷徨うしかなくなる。
 だから―――と願う博雅の耳に。

「博雅」

 己が名を呼ぶ声。
 夜の帳に似たその声の主を、博雅は見なくとも知っていた。

「晴明…」

 その名を口にした途端、呪縛から解放されたように視線は月から剥がれ落ち、声の主を捉える。
 果たして其処には晴明が居た。
 泰然自若をそのままに、牛車の傍ら、夜に身置いていた。
 あるかなしかの笑みを何時ものように浮かべた彼を見てほっと博雅は息を吐いたが、反対に晴明は僅かな緊張を眉宇に漂わせて博雅へと近付いた。

「何かあったか、博雅よ」

 来ると言うのに来ぬから来てみれば…。

 そう言う晴明は、博雅と居る時には滅多に見せぬ、真剣な顔をしていた。
 博雅はそれを僅かばかりの戸惑いと共に見て、一度口を開きかけて、また閉じた。
 あったと言えば、あった。
 しかしそれは、口にするのも恥ずかしい、幻想のような夢物語。
 古の小咄に出てくる姫におまえを重ねてしもうたなどと、いかな博雅でも言える訳もない。
 だから博雅は「いいや」と首を横に振ったのだが。

「なら何故泣いて居る。苦しげな顔をして居るのだ」

 咄嗟に博雅は言葉を失った。
 泣く事は、博雅にとって良くある事だ。
 花の儚さを目にして泣く。
 詩吟の、楽の素晴らしさに泣く。
 人のなんたるかを想い泣く。
 月が綺麗だから、泣く。
 そんなふとしたものを目にして涙を流す事は良くある事で、晴明も知っている事。
 けれど「苦しげな」と言われてしまえば、そんな言い訳は使えない。
 博雅は困ったように一度瞳を伏せ、躊躇うようにまた晴明を見た。
 晴明の静かな瞳を見た。
 言葉が勝手に零れた。

「おれはな、晴明、弱い人間だと自分で思うのだよ」
「――――」

 突然のその言葉に晴明はぴくりと眉を動かしたが口を挟みはしなかった。
 博雅はただ、言葉を続ける。
 先程思い続けた事を、そのまま、素直に。

「そんな自分を許せぬよ。それは自分が武士だからなのか。その役職に自負を持っているからなのか。いやそんな事は関係なく、ただ己が人間であるからなのか。…理由はおれには分からん」

 だがな、と博雅は楽の音の如き声を闇に溶かすように吐き出し続けた。
 視線が少しだけ、揺らぐ。

「…おまえと居ると、その思いが強くなる」

 妖物との対峙を重ねて、何度思っただろう、と。
 いくら恐ろしい妖物と会ったとしても何時も飄々と其処に立つ晴明に対し、己の失態の数々。
 歯噛みしたくなる程の、己の弱さ。

「おまえの強さを垣間見る度に、おれにはおまえの傍に立つ資格があるのだろうかと思う」

 余計な事に首を突っ込まず、ただ酒を飲む為の友の立場を弁えた方が良いのではと。

「そう思うのにだ、おれはおまえの傍を離れられんのだよ」

 離れたくないのだ。
 弱い自分を許せぬ癖に、その弱さと相対せねばならぬ機会の多い晴明の傍に居たいと願っている。
 その矛盾を、博雅は持て余している。

「月を眺めて居ったらおまえを思い出して、そう思うて、涙が流れてしまったのだよ」

 そう言って、博雅は笑みを浮かべた。
 ひっそりと、それこそ、夜のような。

「……おまえには、似合わぬ」

 思わず、晴明の口からそんな言葉が漏れる。
 博雅はそれが何に対して言われたか分からず、数度瞬きをした。
 それを見て、晴明はほんのりと苦笑を口元に広げた。
 それは淡く、優しい。

「なぁ博雅よ」
「何だ」
「人は、人である事を止められぬ」
「…うん」
「付きおうて行かねばならぬのだ。生きて、そして、死ぬるまでな」
「…うん」
「そして人は、人であるが故に縛られる。博雅は博雅としてしか生きられぬ。おれが、おれとしてしか生きていけぬように」
「……うん」
「だからこそ、博雅には博雅にしか扱えぬ力があり、おれにはおれにしか扱えぬ力がある。人が違うのだ。道が違うのだ。持つ力が違ごうても、致し方あるまい」
「――――」
「おれの傍にはおれの持つ力を遺憾なく発揮せねばならぬ場が転がるものぞ。それと同じように、博雅の傍には博雅の持つ力を遺憾なく発揮せねばならぬ場が在る筈」
「――――」
「違ごうて良いのだよ。強いとか弱いとか、そんな事は考えずとも良いのだ。おれの得手とするものと、おまえの得手とするものが違うだけの事ではないか」

 子どもに諭すように晴明はそう言い、それに、と言葉を繋げた。

「おれがおまえに求めるものがそんなものであると、おまえは本当に思うて居るのか?」

 その言葉に、博雅は思い出す。
 嘗て晴明が己に向けてくれた言葉の数々を。

『安心しろ、博雅よ。人は人でよいのだ。博雅は博雅でよい』

 ―――欲望に負けた僧都が成仏できずに弟子の夢に出たと話した時。

『おまえがいるではないか、博雅』

 ―――世に自分一人だけと、寂しいと思ってないかと問うた時。

『おまえがここにいるから、おれはこうして人の世に繋ぎとめられているのだよ』

 ―――季節の移ろいを、天地の全てが愛しいと語った時。

『もしも、おまえが鬼になってしまったとしても、この晴明は、おまえの味方だということだ』

 ―――己が鬼になってしまったらどうなると聞いた時。

『もしも、おれが道満殿と違うとするなら、それは、おれにはおまえがいるということなのだ、博雅よ……』

 ―――人の世をどうでも良いと嘯く男と同じで違うと言った時。

(……晴明)

 残ってる…覚えている。
 晴明がくれた言ノ葉が、消えずに心に光っている。
 それは忘れたくなかったという心の声。
 それを覚えていたかったという心の音。
 博雅はそれを咀嚼するように見つめ直し、そして笑った。

「おまえは優しい男だな」

 照れもなく、嘘もなく、真実に、博雅の言葉。
 晴明もそれを見て、聞いて、笑った。
 それこそが博雅よと、そう言うように。
 鬱々とした空気は最早ない。
 晴明はそれを感じ取り、博雅に言葉を掛けた。

「さて、夜も少し深くなったが、博雅よ、どうする」
「どうする、とは」
「このまま自分の屋敷に帰るか、それとも、この晴明と酒を呑むか」
「…晴明」

 含み笑いする晴明の意地悪な言葉に、博雅はまた少し困った顔をして、けれど数瞬の後に少年のように破顔した。

「決まっておるだろう」

 そう言えば、晴明はしょうがないなと笑って手招いた。
 その傍らに立った時、晴明は月を見上げて、釣られて博雅も仰ぎ見る。

「博雅よ」
「うむ」
「今宵の月、どう思う?」

 先程と同様、意地悪な言葉だ。
 優しい男と言ったのを取り消してやろうか。
 博雅は一瞬そう思って、けれど幾許もせぬ内にその考えを何処かへ放った。
 優しい男なのだ、この晴明は。
 それを博雅は、嫌と言う程知っている。
 だからこそ、博雅は笑って言ってやった。

「良い月ではないか」

 おまえのようにな。

 そうして見せた晴明の顔を知るのは、博雅と、そして、夜空に蒼く輝く月のみなのであった。





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 20100213
永久(とわ)にとは願わない。ただあと少し、もう少しだけ、おまえの隣で月を見たい。〉





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