God only knows.

[ =答えなど何処にもないと言う事 ]



 生まれた事を喜べない事。
 生まれの家を選べない事。
 多分それが、俺達の悲劇だった。





   Cushionmum





「………相変わらず、無茶するねぇ」

 ほとほと感心したような、呆れたような、そんな声を吐いたのは、神田の任務報告を聞いていたコムイだった。
 神田はそれに無関心の視線を送り、聞かなかった振りをして、もう用はないとばかりに司令室から出て行こうとしたが、コムイの焦った声に引き留められた。

「ちょ、ちょっと神田くん! 一応自分の部屋に帰る前、医務室に寄って行きなよ」
「…必要ねぇって分かってんだろ?」
「それでも、だよ」

 理解しかねる。
 神田はそう言う顔をした。
 自分の身体は普通ではない。
 怪我は治るのではなく再生する。
 幾ら大きな怪我でも今まで治療などとは殆ど無縁に過ごしてきたのだ。
 今回の任務では多少大きな傷(普通の人間なら今でも絶対安静を言いつけられる程度)を負ったものの、ほぼ完治するに至っている。
 後数日もすれば傷跡すら残らない。
 他の誰がこの理屈を理解しなくとも、コムイならば分かっている筈。
 そして、この程度なら大丈夫だろうと、今まで医務室に行けなどと言わなかったコムイが何故そんな事を言うのか。
 神田の視線が半ば問い詰めるような色を濃くしてコムイへと向けば。

「……バクちゃんがね、来てるんだよ」

 困ったように、コムイは笑った。
 その表情その言葉で、神田にも伝わるものがある。

「……………何か、言ってたか?」

 ぽつり、と零れた小さな声を、コムイはちゃんと聞き取って。

「そりゃあもう。神田くんが帰ってくる二日前に遊びに来たんだけどね、丁度その時、連絡くれたでしょ? 怪我したって」
「……あん時、居たのか」
「そ。聞いた瞬間から凄い心配しててね、今日帰ってくるって知ってるから、今も医務室で今か今かと待ってるんじゃないかなぁ。まぁ、その連絡も帰還の日程も、神田くんにしたらちょっと間が悪かったかな。多分そうじゃなかったら、ボクも、医務室に行け、なんて、任務帰りで機嫌の悪い神田くんに言う必要はなかったんだけどねぇ」

 あはは、と悪気なく笑うコムイは、けれど表情程おちゃらけてはいない。
 その表情には寛容さと、対して心配が滲んでいた。
 それは神田に対する、と言うよりも、寧ろ。

「…………行かなきゃ、駄目か?」

 答えなど分かってる。
 それでも聞くのは、神田が行動する為の理由と、後押しを得る為。

「とーぜん」

 それにコムイは一言で応え、行ってらっしゃいと手を振った。
 それでも渋るように視線を彷徨わせた神田に、コムイはしょうがないなと肩を竦め、更に言葉を重ねた。

「もし行かなかったら、…そうだね」

 そう言ったコムイの声は何時ものように明るかった。
 なのに、どうしてか。

「バクちゃんが、泣く、かな」

 その裏側に、真剣な色が見えたから。

「……行ってくる」

 漸く神田は扉に向かう。
 胸に秘めるのは、覚悟と、何か。
 コムイはひらひらと手を振った。
 神田からは見えないと知りながら、扉の向こう側に、神田の姿が隠れるまで。
 そしてパタリ、とドアが閉じた後、コムイは全ての表情を消して窓の外へと身体を向ける。
 闇に覆われた空には月。
 その暗闇に対して小さすぎる光の何分の一でも、どうか彼等に降り注ぐように。
 一瞬目を瞑って心に描いた願いに、コムイは笑う。
 自分は科学者、科学と向き合う者。
 本来なら願いなどと言う非科学的なものに頼らない。
 それでも身を置くのは神という存在を様々な形で認めざるを得ない場所だ。
 だから科学者が願う事だって許されるだろう。

(あぁそうだ)

 許される筈だ。
 許されなくてはならない。

(例え神を憎む心を持っていたとしても)

 ボク達は、その願いを叶えてもらっても余りある程の犠牲を出し続けているんだから。





 コムイの言葉に背を押されるまま、気の重さを隠そうともせず医務室の扉を開けた神田を待ち構えていたのは、想像通りの人物だった。
 しかし。

「………………」

 眼に入った光景に思わずその場で立ち止まり、目を瞬かせ、無意味に時を過ごす事十秒弱。
 医務室に入った途端に起こる出来事をおおよそ予想し気構えていただけに、神田は直面する現実にどっと気疲れのようなものが押し寄せるのを感じた。
 神田の目に映っているのは、本来なら病人や怪我人が寝る為のベッドの上に小さく丸まって寝ている、二十九歳のアジア支部長だった。

「………………」

 …このまま帰ってしまおうか。
 熟睡しているし、バレないだろう。
 けれどそうすればコムイが言ったように泣いてしまうかもしれない。
 神田はそう考えて、扉を開いた状態で立ち尽くしていた。
 二十九にもなって?、という疑問は全く持って意味を成さない。
 酷く素直な育ち方をしたこのバク・チャンという男は、年齢など関係なく感情を抑える事が不得手だ。
 だからこそコムイにからかわれるのだが、どうもそこら辺に気付いていない節がある。
 支部長という肩書きに相応しい頭脳を持ちながら不思議な事だ、と神田は毎度の事ながら思い、けれどだからこそこの男は人に好かれるのだろうとも思う。

(……あぁ、けれど)

 それだけじゃ、なくて。

「―――――」

 気付いてしまった事は、気付いていた事。
 そんな自分が恥ずかしいやら腹立たしいやら。

「…………ちっ」

 小さく小さく、舌打ちをする。
 眠る彼に聞こえぬような。
 そんな遠慮など素振りからは絶対に見せぬまま、神田は優しく舌を鳴らした。
 次いでドアが閉まる音。
 足音は、医務室に響いた。





 ―――一度だけ、涙が涸れてしまうんじゃないかと危惧するくらい、泣いた事がある。
 それはまだ自分が少年と言うに相応しい頃。
 けれど自分が生きる世界は少年などという括りを意に介さず存在していて、だからきっと、あの頃の自分は既に一般的に少年と呼ばれる子等よりもずっと内面的にも学力的にも大人であった事だろう。
 子どもではいられなかったと言っても良いけれど、その言い方は哀しいから余り好きではない。
 兎に角自分は大人でなければならなくて、子どもにしては過酷な事も残酷な事実からも目を逸らさずに生きていた。
 世界をただ単純に綺麗だと思える期間は短かかった。
 幻想は抱けなかった。
 目の前に横たわるのは何時だって事実で、自分の味方は科学だった。
 でもそれが自分が生まれた家の責務であり仕事でもあったから、しょうがないと諦める前に受け入れた。
 …認めた訳じゃない。
 多分これからも認められないだろう。
 自分の頭脳も、自分が生まれた家の能力も、自分が継ぐ筈の家がしてきた事も。
 背負っていかねばならない。
 けれどそれらは独りで背負うには余りにも重すぎる。
 そう、あの事は、特に。
 泣いた日。
 自分の事ではないのに、けれど自分の事のように身が切られるような思いがした。
 哀しくて哀しくて許せなくて。
 泣く事しかできなかった。
 泣いてどうにかなるなんて思える程、子どもではなかったのに。
 怒りも苦しさも悔しさも、全部引っくるめた涙が止まる事はなくて、何日泣いたのかもよく覚えていない。
 取り敢えずフォーが呆れるくらいに泣いて、でもそれをからかわれない程に、深刻だったあの出来事。
 泣き止んでから、ずっとずっと考えた。
 起きてしまった事は取り返しの付かない事。
 ならば今後を担う自分が出来るのは、それを繰り返さない事だと。
 それは誓いだった。
 誰に聞かせる為の誓いではなく、神へ捧げる為の誓いでもない。
 ただ自分に課す枷。
 あんなのは一度で良い。
 一度でもいらなかった。
 だから誓うよ。
 もう二度と繰り返さないと。
 だから、ねぇ…。

(許してなんて言わない…言えない…)
(でも頑張るから…)
(…一生、懸命…)
(頑張、る…から…――)

 …ねぇ。

(  、……   )





「―――ン…」

 視界がぼんやりしてる。
 はっきり分かるのは、世界がモノトーンになってしまったかのように、白と黒が目立ってる事。

「ぅー…」

 目を擦る。
 あぁ、段々視界も思考も明瞭になってきた。
 寝ていたのか、僕は。
 しかし、白と黒の天井なんて、支部にあっただろうか。
 いや、今僕は本部に来ているのだっけ。
 それにしても、知らない。
 なら、此処はど、こ……。

「ッ…!」
「……やっと起きたか」

 聞こえた声は、バクの視界いっぱいを占める男から発せられた、不機嫌とも無感動とも言えそうな声。
 何しろ、顔が近い。

「か、か、神田!?」

 寝顔を覗き込まれていたらしい事への羞恥と、神田が自ら此処へ訪れバクが目を醒ますまで待っていた事への驚きが、バクの頬を赤くする。
 しかし次いで自分が何の為に此処に待機していたのかを思い出し、頬は一転して蒼醒めた。

「す、済まない…。君がちゃんと治療を受けられるように手配する為に、此処へ先回りしていたのに…」

 何も用意出来ていない…、と、しゅんと項垂れたバクの謝罪に、神田は気にするなと漸く顔を離しながらベッドの空いてる場所へと腰を下ろした。
 バクが疲れている事は寝顔を見れば直ぐに分かった。
 恐らく此方へ数日滞在する代わり、アジア支部の仕事を短時間で仕上げたとか、そんな理由だろう。
 コムイ並のずぼらさがあれば良いのに、バクは反して几帳面。
 任された仕事は期間内に必ず終わらせるし、部下に迷惑は極力掛けないよう努力する。
 コムイみたいに部下に押し付ける事を学べば良いのにと、神田でも思う。

(…こいつは背負いすぎなんだ)

 支部長としても、…チャン家の人間としても。
 あぁきっとそうなのだろう。
 そういう事なのだろう。

(さっきの、…目が醒める直前の、寝言は)

 えらく苦しそうな顔で寝ていたから気になった。
 どんな夢を見ればあぁなるだろう。
 きっと酷く酷く辛い夢だろう。
 想像は、付いていたのに。

『  、……   』

 聞こえたのは、名前。
 決して忘れられない名前と共に呟かれたのは、自分の名。

(俺は背負われる程弱くない)

 聞いた瞬間そう思ったのは事実で、けれど言った所でそういう問題ではないのだと突き放されるだろう。
 バクはきっと忘れない。
 あの悪夢を。
 見させたのは俺なのに、その事実すら抱え込んで背負い込んでいる。
 止めて欲しい、できれば。

(夢の中まで、…泣かないで欲しい)

 あの時自分は泣けなかった。
 一粒だって、流さなかった。
 友をこの手で切り刻んでしまったのに。
 その代わりと言うように泣いたのがバクだった。
 自分よりも大きな人間が泣くのを見るのは初めてで、そしてそれがただの同情ではなく、友を弔うものであると知ったから。

(あの一度だけで十分なんだ)

 泣いてくれただけで良い。
 チャン家の過去に責任を持つ事なんてない。
 俺を背負う必要もない。
 お前が思う程、俺は多分気にしてないから。
 だからだから。
 (しがらみ)なんか気にせず生きてくれ。

(そう願っても、お前は聞き分けないだろうから)

「――…神田?」

 考えの為に俯き黙り込んだ神田を、そうとは知らず心配し覗き込んだバクは、突然自分に向いた視線に(おのの)いた。
 そして。

「え…っちょ、…!」

 その慄きを軽く凌駕したのは、神田の行動への驚愕。
 後頭部を掴まれて、抱き寄せられた。
 嘗てない密着度合いと突然の行動に混乱を通りこうして狂乱しそうなバクに。

「寝ろ」

 端的な、神田からの命令。
 気持ち良い程神田らしく、高圧的な。
 そして、人の意見なんて、聞こうともしない。

「かん…」
「仕事が気になるならコムイの馬鹿にやらせろ。お前の部下だって能なしじゃねぇ筈だから、任せたって上手くやる」
「し、仕事が気になってるんじゃなくて、僕は…!」
「俺の事を気にしてるなら」
「っ…」
「…俺の心配するんだったら、このまま、寝ろ」

 人を宥める事も慰める事も知らないであろう神田の、不器用に背を撫でる仕草。
 その拙さに、バクは固まった身体を徐々に弛緩させ、思わずというように小さく笑う。
 何時もなら自分が笑われた事をそのままにはしないのに。
 神田は気付かない振りをして、そのまま不器用にバクの背をゆっくりと慎重に、そして優しく撫で続けた。




 あんたは今、何処にいるんだろう。
 蓮の花が消えねぇんだ。
 傷の治りは遅くなるばかりで、だから多分、彼奴は俺を心配しているんだろう。
 まだ死なねぇ。
 まだだ、まだ。
 けれどそれは、ずっとでは、ないから。
 早くしなきゃいけねぇな。
 あんたを早く見付けなきゃ。
 この命の期限が来る前に。
 手っ取り早く誰か知ってりゃ良かったのに。
 あんたが今何処にいるかの情報や、その探し方。
 彼奴の心配や哀しみ、心の負担の消し方とか。
 …神のみぞ知る、ってか。
 そうだろうな、きっと、そうだろう。
 だから俺達人間は、明日を目指すのにも足掻いてるんだ。
 過去っていう大きな荷物を背負いながら、一歩一歩頑張って。
 面倒な事が嫌いな俺も、慣れるしかない面倒臭さだ。
 多分それが、生きてるって事だから。

(だから、まだ、死なねぇ)

 今はまだ、その覚悟も、ない。

「…………って、あー…」

 …コムイの馬鹿野郎、嘘吐きが。

「ちゃんと会ったってのに、泣いたじゃねぇか」

 透明な雫が白い頬を滑り落ちる。
 それはまるで流れ星に似て、願い事を言えば叶えてくれそう。
 そう思った自分を喉の奥で笑い、神田はその考えを否定するように流れ落ちる涙を伝い切る前に拭い去る。
 それでも穏やかに笑っていられたのは、バクの寝顔が苦悶に歪んでいなかったから。
 穏やかに、子どものような寝顔で、眠りの海を揺蕩っている。
 それで良い、それで。

「…良い夢見ろよ」

 優しい夢を見られたなら、多分明日何が起きても、生きていける筈だから。





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 20100721
〈Cushionmumの花言葉は、「友への追憶」。〉





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