月夜に猫が笑う

[ Volevo un gatto nero ]



 夕闇の中、そっとそっと足を運ぶ。
 猫のように慎重に、そして時偶、大胆に。
 飛ぶように駆け、長いしっぽを使って飛び上がる。
 地も空も関係ない。
 彼の理屈も感情も、この国の綱紀に関係などないように。
 空にまだ月は無い。
 ただうっすらとだけ海月が空に揺蕩って。
 それでも空の端は闇に侵されている。
 もう少しだと、浮かんだ笑みはまるで猫。





 階段を駆け上がる。
 その音は闇に解けて聞こえやしない。
 走る本人にすら、その音はなきに等しい。
 そうして駆けていく先は、上の上の上の上。
 何処までも空に近しい、塔の頂。
 雲すら懸かりそうな其処を目指して、彼はただひたすら駆け上る。
 疲れた様子はちらりとも見えず、矢張りその唇は弓月の笑み。





 トントン。
 渇いたその音は、ドアを小突く音。
 気付いた彼は、部屋の中を歩き回っていた自分にその時漸く気が付いて、そんな自分自身に呆れながらも、音に敏感に警戒心を露わにする。
 手がそろりと伸びる先は剣の柄。
 正に掴もうとする、その時に。

「俺だよ」

 聞こえたのは、良く通る声。
 少年と青年の間を行くような、重厚なドアの存在すらものともせぬその声を。
 彼は、知っていた。

「…お、前…」

 揺れる声に震える身体。
 ふわりと瞳を覆ったのは、薄い薄い水の膜。
 だって彼は、
 ―――カチリ
 分かってしまったから。

(あぁ此処に閉じ込められて幾日経ったとも知らぬ。
 ただ自分は己の不甲斐なさと何時その時が来るかを畏れながら待つしかなかった。
 ただ願ったのは、あいつが馬鹿な事をしてくれるなと言う事。
 自分に構うなと言う間もなく、いや、自分が捕まった時、彼は自分の傍に居なくて、だからこそ心根を伝える事など不可能だった。
 だからただ願って、祈って、そうなるようにと泣いた。
 けれどその願いも祈りも涙も、どうやら無駄に終わったらしい。)

 開かぬはずの扉が開かれたと言う事は、そう言う事なのだ。
 そして。

「迎えに来たぜ」

 扉の向こう。
 跪いて、まるで騎士の如く手を差し伸べるそいつは。

「お姫様」
「……ばか…っ…」

 泣き虫だと笑うな。
 騎士の真似事などするな。
 ただ自分がどうなっても、お前さえ生きていれば良いと願った自分が馬鹿みたいじゃないか。
 国よりも民よりもお前の事を考えた自分が、馬鹿みたいじゃないか。

「俺は馬鹿で良いよ。お前は泣いてても良い」

 抱き締められる。
 近い距離で囁かれているのに、ドキドキもしていられない。
 だってただ、嬉しくて愛しくて。

「だからさ、行こうぜ、フリオニール」

 無我夢中で、頷いた。





 城が真っ赤に燃え堕ちる。
 あの燃え方では、跡形もなく消えるだろう。
 眺める心に、けれど後悔も落胆も何もない。
 長年住んだ家。
 家族との思い出も、臣下達との思い出もあったのに。
 …いや、心は閑かに波打っている。
 けれども。

「フリオニール」

 帰れない。
 戻れない。
 例え後悔しても落胆しても何かを想ったとしても。
 今の自分に、あの城を取り戻し、報復する手立てはない。
 今は、まだ。

「…今行く」

 一呼吸して、先に待つ相手を見る。
 自分よりも小さくて、でも何処か、頼りになる相手。
 だからこそその手を取ったのかと問われれば、返答に窮するだろう。
 彼の手を取った理由は、もっともっと深い所にある。
 自分の心の深い深い、触れる事すら躊躇う所に。

「…どうした? じっと俺の顔見詰めて」

 首を傾げる彼。
 笑う自分。
 それで良い、今は。
 何も考えず、明日を目指そう。

「いいや。何もないよ、ジタン」

 変なの、と彼は唇を尖らせて、その一瞬後、破顔した。

「んじゃ、出発するか」
「あぁ」

 その笑みは何処か、猫の其れに似て。





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 20100609
〈いつか祖国をこの手に奪い返す。彼と共に。〉





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