温泉に行こう!

[ with you ]



 鳳珠は以前から決めていた。
 ずっとずっと、それこそ数年前から決めていた。
 ある一言を彼に言う事を。
 けれど例年言いかけては違う事を言ったり、何でもないと取り消すといった失態が続いていた。
 つまり、一度もそれを言えた事がない。

(けれど、今年こそは…!!)

 そう心の中で闘志を燃やしている事など、彼が仮面尚書であるが故に気付かれはしなかったが、それでもやっぱり纏う気が何時もと違う。
 かと言って、それを指摘する人間は居なかった。
 指摘するのが恐い、という意見もあるが、本当の所はそれ以前の話で。
 まぁ仮面だし奇人だし黎深の友人だし…、と最初から些か彼に関係ない部分でも普通でないと区分され、どれ程可笑しい行動を取ろうがそれが彼にとって普通なのだろうと思われているなどとは、鳳珠と言えど知る由もない。
 それが幸せなのかは…まぁ置いとくとして。
 兎に角鳳珠の意気込みは例年を上回るものだった。
 何がそうさせたのかと言えば、身近に彼を(けしか)けるのに長けている人物を思い出せば分かるだろう。
 何と言って唆されたのかは、鳳珠の名誉を重んじて言わないが。
 鳳珠は一つ咳払いをして、仕事の書翰をじっと見るある人物に近付いて行った。
 彼の副官、景柚梨である。
 おずおずと傍らに立ち、腹に力を込めて何時も通りに呼び掛けたつもりだったが。

「ゆ、柚梨」

 その呼びかけが既に上擦ってしまった。
 鳳珠は焦ったように息を呑むが、仕事に集中していた柚梨は気付かなかったようで。

「おや、鳳珠。どうかしましたか」

 と、何時ものようにほんわか笑顔を鳳珠に向けて聞いてきた。
 それにうっかり和みながらも、鳳珠は呼び掛けた目的を果たそうともう一つ咳払い。

「い、いや。あの…」
「はい」

 どもる鳳珠に疑問も持たないようで、柚梨は急かすでもなく鳳珠の言葉をじっと待つ。
 それがとても柚梨らしく、鳳珠はくすりと仮面の下で笑った。
 それが功を奏したのか、言いたかった言葉が、するりと出た。

「温泉に行かないか?」

 しかし、途端ぽかんとした柚梨に、一度は去った焦りと緊張がまた急速に戻ってきて。

「いいいいやあの! そろそろ冬も半ばだし寒いし冬至だしと思ってだなそれで…!」

 自分でも何が言いたいのかはっきりしないと意気消沈しかけた鳳珠の耳に、あぁ、という柚梨の声。
 ちら、と柚梨を見ると、柚梨はにっこりと笑って。

「柚子湯ですか。良いですね」

 最近温泉なんて行ってませんからね、と嬉しそうににこにこする柚梨。

「楽しみです」

 その言葉に分かりやすくぱぁっと鳳珠の表情が明るくなった事など、温泉に思考を占領された柚梨は知らない。

(やった…!!)

 数年越しに漸く取り付けた約束に、鳳珠は子どものように喜んだ―――のだが。





  ……って、あれ?





 日を改めて後日。
 今までほとんど手をつけていなかった公休日をもぎ取って、二人は都心から少し離れた旅館へと来た。
 人の往来を避けるように建てられた其処はひっそりとしており、けれどその落ち着いた風情ある様子を鳳珠は元より、柚梨もどうやら気に入ったようで、鳳珠はこっそりと安堵の息を吐いた。
 荷物を片しますから先に温泉へ行って下さい、と笑顔で見送られ、一人逸早く温泉へと向かい、脱衣所から温泉へと続く戸をガラッと開けた鳳珠は入ろうとして、しかし唖然として固まった。

「……………………………は?」

 柚子の香りが漂う広々とした温泉の一角を占める場所に、白い湯煙に僅かに姿を隠された人達を見つけて。
 と言うか、その声に。

「酒が足りねぇ!!」
「あんたががばがば飲むからいけないんでしょうが! どれだけあったと思ってんですか!!」
「飛翔、欧陽侍郎の言う通りですよ。最初から飲む速さが尋常じゃないじゃないですか」
「ほっとけ悠舜。分かり切ってた事だろう」
「お、さっすが黎深! 分かってんなぁ!!」
「解りたくなくても解らざるを得なかったんだろうが!」
「まぁまぁ…」

 ぎゃーすぎゃーすと何処か飽和した声がそれでもしっかりと鳳珠の耳に突き刺さってくる。
 気の所為でなければ知った声のような気がしたし、あぁけれど気の所為とは思えない固有名詞と性格を表した台詞が聞こえた。

(飛翔? 欧陽侍郎? 悠舜? …黎深?)

 何故、彼等が、此処に居る。
 確か此処は滅多に人の来ない秘湯中の秘湯で、柚梨と二人きりで入ろうと…い、いや、それは当然自分の顔の事を考えての事だが!!

(それにしても何故!?)

 鳳珠はその有能で優秀な頭脳を高速回転させた。
 この事は誰にも言ってない筈だ。
 自分達の関係を面白がっていた黎深に言うなど断じてない。
 絶対に、ない。
 なのに…、と頭を抱えながら考える鳳珠の脇を、スッと通って行った者達が居た。

「お、やっとるのぉ」
「一升瓶持ち込むたぁ、流石飛翔だな。霄、飲むか」
「いい加減歳を弁えろ、宋」
「良いじゃねぇか。相変わらず鴛洵は…」

 ぴきり、と鳳珠は固まった。
 何故…何故だ。

(何故朝廷三師まで此処に居る…!)

 そう心の中で絶叫した鳳珠に逸早く気付いたのは、飛翔との口喧嘩をぶった切った黎深だった。

「鳳珠、何してるんだ。早く来い」

 しかも至極当然と言った顔で鳳珠を手招いている。
 鳳珠はもしもの時の為に用意していた折り畳み式の仮面を着けて(此処では欧陽侍郎対策)、よろよろと近寄った。
 抵抗する気も怒鳴る気力も失せていた。

「何だ、疲れた顔をして」

 ちゃぽん、と寂しげな音を鳴らして湯船に浸かった鳳珠を見て黎深は眉を顰めながらそう言ったが、実際疲れていたし疲れさせたのはお前等だとは鳳珠の口から出なかった。
 言えばもっと疲れそうな気がして。
 ただどうしても気になったから、鳳珠は一つだけ黎深に聞いた。

「…何故、お前達が此処に居る」

 しかも三師まで、と言えば、それに答えたのは意外にも欧陽侍郎だった。

「お邪魔して申し訳ありません。私が景侍郎から聞いたのを、其処に居る大酒呑みも盗み聞いていたようで…」
「聞こえたんだよ」
「で、其処から私にも漏れただけの事だ。狸が何故来たのかは知らん」

 ちらり、とまた別の所で三人固まってわいわいやり始めた朝廷の頂点近くに居る古老達を、鳳珠は眺めた。
 確かに黎深達は兎も角、太師に情報源など求めた所で詮ない事だ。
 往々にして太師自身が情報源だったりするのだから。

(それにしても、…そうか)

 鳳珠は一つ溜息を吐いた。
 しかし、柚梨を責める訳にも行かない。
 それに提案した時の柚梨の顔を思えばとても喜んでいた。
 誰かにその喜びを伝えたくて欧陽侍郎に言ったのだろうと推察する事は酷く簡単で、そして実際そうだったのだろうと鳳珠は思う。
 柚梨はそういう人だから。

(しょうがないか)

 些か煩いかもしれないが、柚梨も気心の知れた人間ならば気疲れはするまいし、案外楽しんでくれるかもしれない。
 元々二人きりで何処かへ行く事が目的ではなく、柚梨と温泉に来たかっただけだ。
 其処に二人きりという縛りはなかったのだから、まぁ良いか、と、鳳珠の頬が若干緩んだ時、ガラッと再度戸が開いて、柚梨が来たのかと思いきや。

「お、柚子の匂いがする」
「今日は冬至だからな。この旅館もそれに習っているんだろう」
「む。余だってそれくらい知ってるぞ!」
「まぁまぁ。絳攸も悪気があった訳じゃありませんよ」
「煩い黙れ常春頭」
「庇ってるのに…」
「その言い方がむかつくんだよ」
「絳攸殿。藍将軍に難しい事を求めないであげてください」
「……静蘭…」
「あ、楸瑛が泣いた」
「気にしなくて良いんですよ、主上。藍家の男が泣く訳ないじゃないですか」
「あ、相変わらず黒いな…」
「酷い…しくしく…」

 鳳珠がまた凍った。

(また、何か、来た…!!)

 しかも今度は王とその側近とあの娘の家の家人か!、と鳳珠は心の中で吼えた。
 当然、この場合は黎深と絳攸が結びつくのだと分からない人間は居ない。

「黎深…!」

 これでは柚梨が、と言いかけた鳳珠を、黎深は鼻で笑って一笑に付した。

「景侍郎はそんなに柔じゃないだろう」

 何の問題がある、と黎深は言った。
 そう言われれば鳳珠はぐっと詰まるしかない。
 柚梨の人柄であればどんな人間とも上手くやれる。
 しかもあの四人ならば節度を知らぬ訳ではないし、信頼も置ける。
 柚梨に気を使わせる事なく立ち回ってくれるだろう。
 平静になって考えて見れば、どうやら自分は柚梨に対して過保護すぎる嫌いがある、と鳳珠は僅かに赤面した。
 しかしやっぱり分からない。

「お前が彼等を呼ぶ理由などないだろうに」

 悔し紛れにそう言って考える。
 養い子を虐げている風に見える黎深だが(いや、風に見える、とは軽く言い過ぎかもしれない)、当然其処には愛情らしきものが在る。
 多分に歪んではいるが。
 それでも此処に呼ぶ理由にはならないだろうし、他の三人なら尚更…、と考えた鳳珠は、あぁ、と唐突に理解した。

「彼の方か」

 鳳珠が向けた視線の先には、黎深がひっそりと気に掛ける希少な存在の一人、榛色の王の髪を優しく梳く、藤紫の彼。
 何時もは前髪に隠されている張り詰めたような翡翠の瞳も、今日ばかりは緩んで見えた。
 この場と面子と湯煙が、そうさせるのかもしれない。
 それを黎深はしっかりとその目で見たのだろう。

「…悪いか」

 鳳珠に対する返答が僅かに遅れて、それを隠すように黎深は意地悪げに笑った。

「まぁ、君と景侍郎の関係の進展を間近で見ようと思ったのが大半の理由だけどね」
「し、進展って…」

 思わず反応してしまった鳳珠に、してやったりとばかりに笑みを深める黎深。
 今まで感じなかった熱さが鳳珠の頬辺りを襲った。

「おや? 考えなかったとは言わせないよ」

 こんな所に、二人きり、で泊まろうとしたんだろう?

 黎深の「二人きり」を強調した言葉に、鳳珠は思わず逃げるように黎深から離れた。
 その背に黎深のクックッという笑い声が聞こえたが、例え恥を忍んで其処に踏ん張ったとしてもどう答えて良いかなんて分かる訳もない。
 これで良いんだと思い込もうとしながら周りを見ず湯の中を歩き回っていた鳳珠は、動き回って上がった体温に仮面を着けている限界を感じ、外して手に持った。
 此処まで来れば誰も居ないだろう、と思った矢先、前方に人影を見つけた。
 長い黒髪に藍楸瑛かと身構えれば。

「鳳珠」

 湯を掻き分ける音に気付いて振り返ったその人は、鳳珠が自主的に此処に連れて来たたった一人の人、柚梨だった。
 …しかし。

「…鳳珠?」

 鳳珠は今宵何度目かの硬直を味わった。

(そ、う言えば……初めて、だ)

 長年連れ添ったと言って良い程彼等は一緒に居るが、それでも見た事はなかったと、鳳珠は顔を紅くしながら今更ながら思い出す。

(柚梨は、髪を下ろすとこんな風になるんだな…)

 鳳珠は何時も髪を結わない、と言うか、結えない。
 だから自身も見慣れているし柚梨も見慣れているだろうが、柚梨が髪を下ろした所など、一度も見た事はなかった。
 湯に濡れた髪は艶やかで、柚梨の年齢を考えれば驚く程の濡れ羽色。
 それが、日に焼けない仕事の所為か、白い肩に背に、とても鮮やかに映えて。

「……綺麗だ」
「え?」

 思わず零れた賞賛の言葉は、遠くではしゃぐ招かれざる客達の騒音で聞こえなかったらしく柚梨は首を傾げたが、鳳珠は恥ずかしくて面と向かってはとても言えない。
 繕うように、詫びた。

「す、済まない。どうやら勝手にあいつ等があっちこっちから此処の話を聞きつけて来たらしく、騒がしいな」

 ゆっくりと温泉に浸かるつもりだったのに、其処はまるで子どもが集まったかのように煩い。
 このような場所では普段静かにしているだろう静蘭も欧陽侍郎も、相手が相手なので突っ込むのに余念がない。
 本当に静かにしているのは悠舜くらいなものだ。
 だから詫びた鳳珠を、柚梨は朗らかに笑って首を振った。

「いいえ、とても楽しそうじゃありませんか」

 本当に本当に、心からそう思っているであろう柚梨。
 人が良いな、と苦笑しながらも、やっぱりそういう柚梨が好きだ。
 鳳珠は、思う。

「…来て良かったと、思ってくれるか?」

 少しばかり不安の含んで聞いたその言葉に。

「えぇ。またご一緒させて頂けたらと、思えるくらいに」

 柚梨はその不安を吹き消すように笑ってそう言ってくれたから。
 鳳珠の笑みが深くなる。

「連れて来てくださってありがとうございます、鳳珠」

 その上そんな事まで言ってくれるから。
 愛おしさに手が伸びる。
 それを柚梨の頬に添えて、瞬きをして揺れる睫毛すら鮮明に見える距離に近付いた、鳳珠。

「――――……」

 そして何かを言おうとして、口を開いた―――その時。

「痛――――――――ッッ!!!!」

 凄まじい、悲鳴。
 吃驚して手を離し距離を離した鳳珠と柚梨は、そちらの方を凝視する。
 すると。

「な、なななな何で風呂桶が余を目掛けて飛んで来たんだ!!?」
「大丈夫ですか、主上!」

 泣きべそをかいて頭を抑える王に群がる三人。
 何だ、と思っていると。

「痛かったですか、主上」
「い、いたぁい…ぐすぐす」
「あーあ、(こぶ)になってますよ」
「痛い! 触るなぁ!」
「あ、酷い! 静蘭は良くて私は駄目だって言うんですか!」
「…当然だろ」
「……何か言ったかい、絳攸」
「別に」
「それにしても、何で風呂桶が飛んで来たんでしょうね」
「わ、分からないのだ…」

 きーきー騒がしいのは年少組らしい、と鳳珠は溜息を吐く。
 離れている年長組は我関せず。
 そしてその近くの年中組はと言えば。

「おやおや、主上に風呂桶が当たったらしいですよ、飛翔」
「大当たりだったな!」
「…違うでしょう、飛翔…」
「気にすんなや、悠舜」
「そうは言っても…」
「酒飲んで忘れろ!」
「そんな芸当が悠舜殿に出来る訳がないでしょう、貴方じゃないんですから」
「…ふん! 肩に手なんぞ置くからだ、洟垂れ小僧め」

 適当な言葉を交わす工部と唯一まともな悠舜。
 その中で、多大な憎悪が含有された小さな呟きが一つ、鳳珠の耳に届いて。

「……黎深?」

 酒に強い筈の黎深の目が据わっている。
 いや、酔ってはいないのだろう。
 ただ真剣に怒っているだけで。
 これでは周りは見えていないだろうなと鳳珠は思った。
 そうでなければ、鳳珠の先程の行為を止めるような事をする筈がない。

「鳳珠?」

 躊躇いがちに呼ばれた声に、鳳珠は振り向く。
 もう上がりますか?、と聞く柚梨に、首を横に振って。

「此方へ」

 柚梨の手を取る。
 そっとそっと自分達以外の人間から離れて、鳳珠は湯の中を進んだ。
 行き先なんてない。
 行きたい場所もない。

(ただ、二人きりになれる所へ)

 数年来の願いが漸く叶った。
 そんな日に、出会った時から願っていた事も叶えたいと思うのは、欲張りだろうか。

(それでも)

 思うだけでは伝わらない。
 思うだけでは叶わない。
 伝えても叶わないかもしれない―――それでも良い。

「柚梨」

 鳳珠は立ち止まった。
 伴って柚梨も立ち止まる。
 繋いだままの手から自身の心音が伝わってしまいそうだと、そんな事を思いながら。

「聞いて欲しい事があるんだ」

 鳳珠は柚梨の真っ直ぐな視線を受け止めながら、先程言えずに散った言葉を言う為に息を吸った。
 仄かに、柚子の匂いが広がった。





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 20091222
〈変わることは怖い。でも変わらなければ進めない。〉





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