優しい空言

[ 認めない。認めない。そんなもの ]



 今でも思い出す。
 手を振り払った時の、彼の、涙。





  昊が泣くまで





 ずっと逃げていたのかもしれない、と思ったのは、仕事を終えて帰ろうとした矢先、小さな室に連れ込まれた時だった。
 連れ込んだ人間を見て、静蘭はとうとう捕まってしまったという思いが拭えなかった。
 何時気付いたのかは知らないが、それでも直接身分を明かしたのは静蘭の方だ。
 覚悟は出来ていたつもりだったけれど。

(どうも、静蘭になってから甘くなった気がする)

 昔なら、即刻その掴んだ手を叩き落していたのに。

(……あぁ、違うな)

 誰にでも甘い訳じゃない。
 ただ彼は、一度手を離してしまっているから。

(―――から?)

 だから、何だと。
 哀れみか?
 同情か?
 ―――懺悔とでも?
 下らないと吐き捨ててそれを否定したかった。
 だけど、手を振り払わない気持ちが何処までそれに似ている事に、静蘭は気付いてしまって。

(…甘い、な)

 けれどそれも良い。
 多分それは、無駄な事ではない。
 だから静蘭は何時も通りに笑みを作り問う。

「何か御用ですか。藍将軍」

 けれどあくまで静蘭として。
 此処が後少しで門へと辿りつく宮城の端とは言っても、用心に越した事はない。
 何処に耳がついているのか分かったものではないのだ。
 そんな静蘭の思惑も。

「清苑公子」

 楸瑛は全く気にしなかった。
 分かってはいたがあまりにもはっきりとした態度に、かえって静蘭は笑った。
 楸瑛は静蘭を求めない。
 求めるのはいつだって過去の亡霊だけ。
 もうあの人間は居ないのだと言う事は簡単だったけれど、静蘭は言わずただ楸瑛を見た。
 あぁやはり甘くなったなと、内心苦笑しながら耳を澄ませる。

「どうして、藍家ではなかったのですか…」

 絞り出すような声だ、と静蘭はぼんやりと思う。
 ちらりと視線をやれば、楸瑛の表情は何処か燻る紫煙のよう。
 何を知り。
 何を感じ。
 何を耐え。
 何を想う。
 頭に上ったそれら全てを問わず、ただ、促すように見遣るだけ。

「どうして、私達をお選びにならなかったのですか」

(その質問こそ、どうして、だろうに)

 紅家が清苑を拾った事と清苑が紅家を選ぶ事は無関係であるし、また清苑は紅家を選んだつもりもない。
 確かに、藍家は選ばなかったけれど。

(あぁ、それにしても)

 と、その問いに答えず、その問いを吟味せず、ただ静蘭は首を傾いだ。
 以前より疑問に思っていた事があったと、楸瑛の顔を見て思い出す。

「私も聞こう、藍楸瑛」

 純粋に、思うのだ。

「どうして、泣かない」

 藍家の者は泣かない。
 頑固なまでにそれを嫌い、頑是無い幼子の顔を曝け出す事を極端に厭う。
 最初出会った頃から、どうしてだろう、と静蘭は疑問に思っていた。
 分かるのだ、泣かない理由。
 その、矜持を。
 けれど。

「そんな泣きそうな顔をしているくせに」

 泣いてしまえ、と思うのだ。
 それによって吐き出されるものもある事を、静蘭は知っている。

「此処には、私しかいないのに」

 するりと静蘭は楸瑛を抱き寄せる。
 そうすれば顔を見られなくて済む、と誰かに教わった事を実行した。
 大人しく従った楸瑛は、けれど、静蘭の肩で小さく笑みを零すだけに留まった。

「…貴方だからこそ、泣けないのに」

 酷い言いがかりだと静蘭は思う。
 けれどそれが藍楸瑛の矜持なら、守ってやるのも慰めか。
 そう考える静蘭に、楸瑛の静かな声が響く。

「………それに私はもう、あの頃の子どもではありません」

 流罪になる直前、ひっそりと夜の帳と共に訪れた藍家の幼子は侮蔑とも取れる言葉で清苑を責め、そして清苑に抱きついて泣いた。
 打ち負かした時も涙なんて終ぞ見せなかった子が、行かないでと泣きついた事に清苑は心から驚いて、少しだけ、嬉しかった。
 でも、それを叶える訳にはいかなかったから、泣きついた子を引き剥がす。
 びっくりしたように見開かれた眼から零れ落ちた涙は、清苑の弟が流す涙のように綺麗で。
 彼が泣いたのは、いや、藍家の者が涙を見せたのは、彼のその一度きりだった。

(―――愛せたら、良かったのに)

 思い出して、少しだけ後悔した。
 その子が藍家ではなかったら。
 その子が清苑を選ばなかったら。
 その子が、これほどまでに一途でなかったら。
 もしかしたらそれは可能だったかも知れないけれど。

(それももう、過ぎた事だ)

 いくら考えても藍楸瑛は藍楸瑛で在り続ける。
 今此処に居る彼が、藍家の者と一緒で、涙を決して見せようとしないように。

「甘やかしても、ダメか」
「ダメです」

 顔を上げた楸瑛の顔は、何時ものそれ。
 安堵する心を持ちながら離そうとする静蘭を、今度は楸瑛が離さない。
 そしてまた伏せられた顔。

「けれど…」

 その途切れた言葉の行方を、静蘭は知っていた。
 甘やかしすぎかもしれない。
 それでも。

「……雨が、降るまで」

 静寂の中に、楸瑛の中に、響いたその呟きに、楸瑛は静蘭に気づかれないように微笑んだ。
 今宵の昊を楸瑛は知っていた。
 だからこその言葉に、けれど謝辞は言わなかった。
 言えば静蘭の矜持を傷つける。
 だからただ、そっと衣を引っ張って。

「      」

 さっと吹く風が、その言葉を奪っていく。
 けれど気付いただろう、静蘭なら。
 回された手が、それを物語る。

(あぁ…、今宵の満月(つき)は優しい)

 貴方の、ように。





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 20090401
〈あぁ地続きなのだと思い知る。清苑(かこ)静蘭(げんざい)は、どうしても。〉





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