[ 夢見てしまうの。もう帰れないのに。 ]



 (セイ)、の一文字で、心が浮く。
 好き、の二文字で、嬉しくなる。
 大好き、の三文字で、幸せになれる。

(―――あぁ、けれど)

 愛してる、の四文字は、





  四文字に、四文字で





 眠りの深淵から顔を出し、そっと開いた瞼。
 そして見えた天井は、闇の中で見ている所為か、僅かに濃い灰色。
 それに、あぁ、と嘆息を零して。

(私の世界はきっと最初からこんな風な灰色だったのだろうと思う)

 色の溢れる世界だと知りながら、けれどそれに何の意味も見出せなかった私は、世界の全てを灰色に塗り替えてしまったのだろう。
 水晶の煌く腕輪。
 豪奢な離宮。
 金箔の張られた調度品。
 最高級の御衣。
 美しく繕った女の顔。
 彩雲国一の庭師が整える庭院の草花。

(それら全てに何の意味がある)

 水面下で動く殺意と憎悪と謀略。
 兇手は闇に紛れ、毒は擬態して混じるのに。

(そう、だから)

 色を見るから分からなくなる。
 外面を重視するから真実が見えない。
 偽りの装いに欺かれ、隠された恐怖を見抜けない。

(だったら色など最初から必要ないんだと)

 自我が目覚める前、殺されかけたその時に、世界は白く霞み始めた。
 自我が目覚め、毒を盛られた事に気付いた時、更に世界は色を失って。
 誰も守ってくれないのだと、年を三つ重ねる前に気付いた私の世界は、白に黒が混じり始めた。

(それからずっと、灰色の世界に住んでいた)

 少しずつ白を侵食する黒。
 毒を見つける度に。
 誰かを殺す度に。
 誰かを陥れる度に。
 私は闇の(みち)に足を囚われていく。
 そのまま沈んでいくのかと思っていた。
 それも良い。
 私の歩む路は、生まれた時からこの路しか用意されていなかったのだから。

(…そう、諦めに似た思いでいたのに)

 寂しい、と呟いた、幼子。
 小さな紅葉の様な手で私を掴み、小さな足で私の後ろを付いて回り、大きな澄んだ瞳で私を見てくれた、その子。

『あにうえ』

 舌足らずな喋り方で、そう呼んでくれた、子ども。

(あの子が、失った色を教えてくれた)

 色のある世界は美しかった。
 灰色の世界より、ずっと。

(戻れるかと思った、…その、世界に)

 けれど現実は上手く行かない。
 自分の役割を演じ切れなかった私は繋いでいたあの子の手を離さなければならなくなった。
 生家を、身分を、母を失った。

(そして世界は灰色よりも尚深く昏い黒へと塗り替えられて)

 自分の居た世界。
 自分が其処に佇んでいるのかすらも分からない昏冥の世界。
 私に似合いの場所はそんな所なのだと、傷付くでもなく、納得した。

(あの男の傍に侍らされてからは、特に)

 それから全てを放棄した。
 戻りたいと思う事。
 過去を偲ぶ事。
 これからを考える事。
 終わったものだと見做した。
 己で選び歩む人生は、もう終わったのだと。

(誇りも理性も感情も全て捨て、惰性で生きていこうと)

 そう、思っていたのに。

『ふーん。そいつが噂の小旋風ってやつ?』

(能天気で明るい声)

『お前、名前は? いちいち小旋風なんて長ったらしくて呼んでられるか』

(気後れせず言いたい事を遠慮なく言う性格)

『名無しか。じゃ、勝手につけるぞ』

(桁外れの強さは、けれど巫山戯た態度に隠れて目立たない)

『……お前の名前、セイな』

(手合わせしないと図れない力量)

『俺は燕青。浪燕青だ』

(その彼が、私の世界に色を与えてくれた、二人目の人間だった)

 けれどまるであの子とは似ていない。
 唯一同じ点は、真っ直ぐな眼差しくらいか。
 そんな二人が、同じものをくれたのだ。

(それはきっと、奇跡に等しい)

 心の中、段々冴えてきた頭でそう零し、寝ている事に飽いてそっと身体を起こして横を見る。
 星の明るさに闇の中でも室と呼ぶには質素で貧しいその場所がよく見えた。
 視線の先は安らかに眠る燕青。
 彼の寝顔の幼さにふと笑う。

(…可笑しなものだ)

 近付く事さえ嫌った相手と、何時しか床を共にするようになった。
 寄り添って寝るなど、あの子ともした事がないというのに。

(……燕青…)

 膝に乗って眠ったあの子にしたように。
 隣で眠る燕青の髪を撫でる。
 起こさないように慎重に。
 眠りに誘うようにゆっくりと。

(燕青)

 呼びかけて、呼吸を繰り返し僅かに開かれた口に視線が奪われる。
 あぁ確か、好きだという言葉が其処から漏れたのは、つい先日だっただろうか。
 驚いたものだと、その時の事を思い返す。

『―――なぁ、セイ』

 だらだらと森の中で仰向けに寝ていた燕青が、唐突にその身を起こして私へと向き直った。
 私は視線を遣るだけの返事をして何時も通り無関心を示したのに、燕青がそれを気にする事は何時までもない。
 だからそのまま口を開き飛び出た燕青の言葉に、私は関心を示さずにはいられなくて燕青を凝視した。

『俺、お前が好きだ』

 無関心では居られない。
 居られる筈が、ない。
 そんな私の様子を、燕青はからからと笑って。

『そーかそーか嬉しいか』
『違うわ馬鹿』
『違うのか?』

 嬉しくない?

 う、と言葉に詰まる。
 微かに燕青の眉が下がったような気がして。
 そしてそれは多分、本当の事だから。

『そ、ういう事じゃないだろう』

 何とか言い返したけれど、燕青は私の表情か言葉か顔色かで何か安心する根拠を得たらしい。
 また快活に笑って言った。

『お前はそれで良いよ。そのままで良い』

 何の事かは分からない。
 けれど、それ以上あの言葉を繰り返す事も、同じ言葉を強要される事もなく、その数瞬の出来事はそれで終わった。

(あの時燕青は、自分の素直な気持ちを言ってみただけなのだろう)

 恥ずかしげもなく何を、と思うが、それが燕青なのだと理解しようとする時期はもう疾うに過ぎた。
 燕青の表情、言葉、行為、思考。
 燕青から現れるそれら全てが燕青だ。
 どれが真か偽かを考証するのも面倒な程に、ただそれだけの話だ。
 燕青は決して繕わない。
 (おもね)らない。
 偽らない。
 だからきっと、あの言葉も。

(……まったく)

 何時の間にか浮かべていた笑みに気付き、そっと口元に手を遣る。
 如何やらこいつの傍に居ると感情が素直に出てしまう。
 困ったものだと嘆息する振りをして、また、笑う。

(どうやらそんな自分が、私は嫌いではないようだから)

 誰かに好かれる事が、嬉しい。
 闇の中に居るうちに忘れかけていたその感情は、同じく闇に侵食されていた私の心を明るく照らす。
 その光の中で、私は心の片隅に蹲る一つの感情を見つけた。
 見つけて、戸惑って、そして見なかった振りをした。
 だから燕青には告げてない。
 何も。
 一言も。

(……それで、良い)

 それが、晴れやかだった気持ちに翳を落とす。
 言わない事と、言えない事。
 それは同じようでいて、全く違う。
 だから、私は口を硬く閉ざしたまま、燕青の髪を梳き続けて。

「―――…、セイ?」

 寝ぼけた声が、耳をふわりと擽った。
 あぁ考え事をしていた所為で、どうやら力の加減を間違ったらしい。
 深い眠りを誘う為の行為が、眠りを覚ます行為へと切り替わっていたようだ。

「悪い。起こしたか」

 素直に謝り、退かそうとした手が唐突に掴まれる。
 へにゃりとだらしなく笑った燕青がその行為者だった。
 何をする、と視線で問うと。

「気持ち良いから、そのまましててくれよ」

 よく眠れそうだと燕青は嘯いた。
 起こされたくせによく言う。
 けれど一度始めた事だ。
 別段中断する事に拘っている訳でもない。
 そう思い、また髪を梳く。
 私ほどない短い髪は、直ぐに終点へと辿り着き私の手から逃れ行く。
 あぁきっとこんな風に私がこいつを捕まえる事は出来ないのだろうな、とその様子を見て考えた。
 それは少しだけ寂しい事のように思えて、そっと息を吐く。
 それを見越したように、燕青がふと口を開いて。

「セイ」
「…何だ」
「好き、の次って、知ってるか」

 一瞬梳く手が止まって、けれど結局は一つ瞬きの間。
 私は平然とその停止の時間がなかったように問い返す。

「一体何の話だ」
「この前の続き」

 けれど私以上に平然とした燕青の言葉に、私の行為は明らかな不調を訴えた。
 手が止まったのだ。
 舌打ちしたい気持ちに駆られたが、燕青の所為だ。
 諦めて行為そのものを止める事にした。
 文句は聞き入れない。

「…それで?」

 静かに、それでも抽象的に問うに留めた私に、燕青はくるりと姿勢を変えて腹這いになりじっと私を見上げて何故か笑った。
 私の疑念の色を濃くした視線に押されてか、再度口が開かれて。

「好きの次は、大好きって言うんだ」

 この時、一段と大きく心臓が拍動した。
 それは断続的に続いて、私の平常心を蝕んだ。
 理由が分かるからこそ、更に。

「……だから何だと言うんだ」

 それでも捻り出した言葉の語尾が、震えた。
 それは、喜悦でも不快感でも嫌悪の表れでもない。

「じゃあ、大好きの次は、何だと思う?」

 こんな時ばかり私の様子に気付かず笑う燕青の顔を見れない。
 汗が肌を伝う。
 喉が震える。
 何も、出来ない。
 心を占める感情は、恐怖だ。

(こいつは、何を)

 引き出すな。
 私から。
 言葉も。
 感情も。
 何も、かも。
 そう縋すがる気持ちで、願っていたのに。

「セイ?」

 その、優しい声に。

(―――駄目だ)

 心の声に、身体がすぐさま呼応する。
 身体は既に準備していた。
 燕青の傍に長く居た為に癒えた身体は、私の思う通りに動いてくれた。

「セイ…!」

 突然室を飛び出した私の背に投げられた燕青の呼び声を振り切って、私は頭の中で思い描いた避難所への最短の道を駆けた。
 横たわっていた燕青は出遅れて、尚且つ眠りから目覚めていない身体は思いの外言う事を聞かないもの。
 その場合、私の方が有利なのは目に見えていた。

「セイ!」

 それは何処か懇願する声に似ている。
 けれどそれを聞いてやる訳にはいかない。
 捕まる訳にはいかないのだ。
 そして私は、一つの室へと駆け込んで。

 ―――カチリ。

 室の中に。
 闇の中に。
 自分の中に。
 響いた、それ。
 冷たい音。
 外と内を隔てる音。
 燕青と私を、裂く音。
 それに私はへたり込んで。
 懐かしいその部屋の中を、見渡した。

(…燕青に連れ出される前、私が、居た場所)

 何人も人を殺し、傷付け、傷付けられ、自分を殺した、場所。
 窓のない其処は、一切の光を拒絶する。
 あぁまた戻ってきてしまった。
 暗闇。
 私そのもののような、場所に。
 それを証明するように、澱んだ空気は変わらぬまま其処に在って、肺に馴染む。

『オイ…ッ!』

 セイ、何してんだ!、と漸く追い付き怒鳴る声。
 あぁ此処を覚えていたか、とその声の中に含まれた焦りに笑う。
 そして、その台詞にぼんやりと笑みが歪んで。

(……セイ、か)

 偶然手にした仮の名は、酷く嘗ての名に似通って。
 呼ばれる度に彼処で過ごした十数年を思い出した。
 忘れられない。
 もう帰れないのに。
 もう戻れないのに。
 もう居場所など、ないのに。

(あぁ、だから)

 切り離せない。
 自分の嘗ての地位と今を。
 背負うものは何も変わりはしないのだと。
 これからもこれまでも。
 命を奪い奪われの関係が、連綿と続くのだと。

(その時、こいつが傍に居れば)

 …心強いだろう。
 傍に居てくれたら、きっと。
 認めたくはないけれど、こいつは凄く強いから。
 負ける事など想像できないくらいに、強いから。

(その代わり、私がきっと弱くなる)

 一人で立ち上がれなくなる。
 一人で戦えなくなる。
 独りで、生きられなくなったら。

(それが、怖い)

 だから開かない。
 開かない。
 この扉は、絶対に。

(これが最後の砦)

 面と向かっては決して構築出来ない、燕青から自分を守る要塞。
 その砦の扉を破ろうと、ガンガンと音が鳴る。
 何かを叫ぶ声がする。
 それは。

(私の好きな、…あいつの、声)

 すっと零れた心の声。
 地が雨を受け入れるように、容易くそれは広がって。
 口元に自嘲が浮かぶ。

(…あぁ、認めよう)

 心の端に存在していた小さな気持ち。
 それは確かに燕青への好意だった。
 紛れもなく、認めたくない程に、確かな。

(それでも、…いや、だからこそ)

 開けない。
 この扉は。
 お前を此処に入れない為に。
 私の心を閉じ込める為に。
 その代わり。

(…好き)

 何度だって心の中で叫ぶから。

(大、好き、―――だから)

 だから、燕青。

「…済まない」

 そう言いながら。
 願って、しまった。

(その言葉でなく、愛していると、言えたなら)





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 20091017
〈そうすればきっと、私は二度とお前の腕から逃げ出せない。〉





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