指の間から流れ落ちていく砂のようなその夢は

[ 針もないのに傷つく事を怖がった。痛みを恐れて触れ合わない。扞格(かんかく)にすら陥れないならそれは拒絶にすら近しいのに。 ]



 夜が近付く。藍色に染まる昊。その昊に輝くのは月ばかりでなく。

   ドンッ ヒュ――… パン…ッ

 音を立てて、天高く輝く大花。

「綺麗だろう」

 私を此処まで連れてきた彼が、そう呟く。それは雰囲気を、若しくは昊に舞う火花が消えてしまう事を畏れるようにひっそりとしていて。

「…あぁ」

 こちらも知らずとひっそり返す。それに珍しくも満足そうに、擽ったそうに笑った彼は、此処だけの話、花火よりも綺麗だった。





 突然邸にやって来て、行こう、とだけ言って歩き出した彼。こちらにも予定というものがあるし、大体何処に行くんだ、何の為に。言いながらも付いていき、その道中抗議と質問攻め繰り出すも綺麗に無視され、いいから、の一言で黙らされる。
 そういう力関係というよりも、逆らえない。どちらが上だとかどちらが下だとか、そんな事ではないのだ。確かに家の格式に上下はあるけれど、私達の関係の場合、そう言う事ではなくて。

(…言葉にするのも馬鹿馬鹿しい)

 あぁそうだ。何時からだろう。どうして、だろう。分からないのに、畏れているんだ。

(そんな事、馬鹿馬鹿しすぎて誰にも言えやしないけど)

 だから彼は知らないままでい続ける。だから私は黙ったままでい続ける。ただ唇を咬んで、前を行く背中を見失わないように見続けて。

(そうして辿り着いた場所で見た景色)

 それが畏れていたものの姿にそっくりだなんて、だからやっぱり言えないのだけれど。





 最後の花火が昊に散る。その昊は既に藍色を通り越して、烏羽色にほど近い。光の残滓が消え行く様を見て、少しの沈黙の後。

「……夢、みたい」

 隣から聞こえた、掠れ声。彼らしくもない、何処か浮かされたような。暗闇の中、中々に見えづらい彼の横顔を伺い見れば、まだ昊を見上げていた。もう昊には、何も何も、ないのに。それでも漠然とではなく、何かを、何処かをしっかりと見続けている彼。

(あぁ、こんな時だ)

 微かな戦慄が、心を撫でる。

(此奴が何処か遠くへ行ってしまうのではと、思ってしまう)

 だから逆らえない、だから彼を一人にしたくないのだ。その途端、泡沫のように消えてしまいそうで。何処かへ、独りで行ってしまいそうで。

(……馬鹿馬鹿しい)

 そう何時だって否定するけれど、その考えと恐怖が消えた事など一度もない。だからそれを手っ取り早く忘れてしまえるように、この場所から離れようとした。立ち上がり、帰るぞ、と強く言って彼も立ち上がらせようとした。けれどそれを言う前に、彼の方が闇に言葉を放り投げる。

「―――私も、あのように綺麗に散れたなら」

 哀切、と言っても良い口調。縋るような視線は、相も変わらず夜の昊へ。愕然とその言葉を聞く私の存在など、彼は疾うに忘れてしまったかのよう。
 その彼がふと、自嘲するように笑う。視線は地を向き、目は伏せられた。愚かな、と呟く。それは絶望の深淵と、希望の浅瀬に佇むような、そんな声音に彩られて。

「……それこそ、夢のような話だ」

 何を思ってそう呟いたのかなど知らない。何を哀しんでいるのかなど知らない。何を願ってるのかなど、知りたくもない。

「清苑」

 だから私は彼の名を呼び手を引いた。無理矢理立ち上がらせて、転びそうな彼が倒れないよう気を付けながら、それでも強引にその場から連れ出した。
 後ろから、何度も名を呼ばれたのを知っている。それでも振り返ろうとは思わなかった。立ち止まろうとは思わなかった。何を求められているのかなどどうでもよく、ただ彼を彼処から連れ出したい一心で闇の中を突き進んだ。
 ある時から大人しく私に手を引かれ無言になった彼は、なのに何故か自分の邸が見えた瞬間、くい、と私の手を引いた。その声なき呼び掛けに、あの場から離れた安堵からか今度は躊躇いなく立ち止まり振り返ろうとして、けれどそれは出来なかった。

「……どうした?」

 彼が、私の背に寄り添い、頬をぴたりとくっつけた感触がした。一度だってそんな甘えたような素振りを見せた事もない彼の突然の行動に、声に戸惑いと動揺が滲む失態を犯す程の衝撃を覚えながら、それでも何とかしてそう聞けば。

「………おい、笑うな」

 背から聞こえる押し殺した笑い声。背に感じる肩を震わせているような律動。酷く酷く楽しそうなそれは、悪戯(イタズラ)が成功したとでも言うよう。
 一瞬羞恥と苛立ちが心を占めたが、それはふと消え失せた。どうしてかなど分からない。ただ思ったのだ。それが、嘘だと。

「…清苑」

 名を呼ぶ。静かに。咎める色も叱責の響きも孕まずに。夜に溶け消えてしまいそうな程、ひっそりと。そう、すれば。

「―――」

 途端、声は殺され、擬態の震えはなくなった。楽しげな雰囲気など、一瞬吹いた風に連れ去られたように跡形もなく。気付かねば良かったと思うものの、もう遅い。

「――…黎深」

 溜息を零すような彼の声が、闇に私に響いて爆ぜた。





 何時か言っていたと思い出す。忘れていたのは何故なのだろう。あんなにもはっきりと、彼は言っていたのに。

『…怖いんだ』

 一度しか聞いた事はない彼の弱音。

『夢から覚めるように…、いやきっと、毀れ落ちていくように』

 震わせた睫と唇は、愛おしい程潤んでいて。

『お前を喪ってしまう事が、私は酷く怖いんだ』

 そう呟いて哀しげに微笑んだ彼を、あぁ確かに、この腕に抱き留めたのに。

(そんな訳がないと言い聞かせた)
(彼に、自分に)
(無責任な程、真っ直ぐに)

 だから、忘れていたのだろうか。

『……でも黎深』

 抱き締め返すようにぎゅっと私の背に手を回した彼の。

『お前が私を喪うんじゃない…私が、お前を喪うんだよ』

 くぐもった、その言葉を。





 思い出したその言葉。心の中で繰り返して溜息を吐く。聞こえたのか、ぴくりと彼は戦慄いたようだった。安心させようにも、振り返る事も出来ず、だから手を握る事すら出来なかった。
 解決策の見付からない中、彼が先ほど見上げていた昊を見遣る。

(何もない。何もない。何も、見付けられない)

 なのに彼は一体何を見付けたというのだろう。何を見ていたというのだろう。火花の消えた夜昊は、こんなにも寂しいのに。

(それは多分、彼を喪った時の自分の心と重なる気がして)

 もう一度溜息を吐いた。聞こえただろうに、彼はもう震えはしなかった。全てを享受するように泰然と私に寄り添うまま。それに少しだけ落胆した自分の心がよく分からないまま。私は再三零れそうになった溜息を、ようやっとの思いで呑み込んだ。





(嘘吐きが)

 あぁそうだ。もしお前が言うように、離ればなれになる時が来たのなら。

(お前が私を喪うんじゃない)
(私がお前を喪うんじゃない)

 そうじゃない。そうじゃない。きっと真実は、そう。

(お前が私を喪った時、私もお前を喪うのだろう)

 昊に掻き消えた花火のように。毀れ落ち行く、夢の、ように。





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 20110901
〈繰り返したさよならの予行演習。結局言えた(ためし)は、なかったけれど。〉





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