停雲

[ じっと留まっている雲。歌が上手い事。親友を思う事。 ]



「清苑」

 呼んだ声を知っている。けれどどうしてか振り向く気にはなれなくて、清苑はただ昊を見上げ続けていた。
 何がある訳ではない。寧ろ綺麗な程何もない。昊はただ蒼く蒼く澄み渡っていて、それを邪魔するように浮かぶ雲も飛ぶ鳥もない。昊はただ昊。清苑が清苑でしかないように。

「無視するな、馬鹿」

 些か乱暴に吐かれた言葉に、漸く清苑はその声の主を見た。肩越しに振り返れば、拗ねたような顔。良くこの男はこういう顔をする。ふとそう思って、何故だろうと考えた。
 らしくない。
 そう言ってしまえば一番適切だろうか。この男に似合う顔は世界を拒絶したような無表情だ。そこには何も余分な感情は含まれない。呆れも怒りも照れも何もかもを排除した、真に表情のない顔。まるで、そう、今自分たちの上に広がる昊のように。

(…あぁ、そうか)

 清苑はぽつりと思った。自分は今、少しばかり気落ちしているようだと気が付いた。昊を見て。その昊が連想させた男が今此処に居る事に。

(身勝手な)

 誰の所為でもない、などと綺麗事は言えない。それは昊の所為でも、ましてや彼の所為ではないが、真実その気落ちの理由は自分にある。自分の決めた未来に、彼がいない事を悲しむなんて。

(馬鹿みたいだ)

 清苑はひっそりと笑った。それに視線の先の男は戸惑ったように瞬いた。それすら哀しいと、言えばこの男は笑うだろうか。

(何度繰り返すだろう)

 心の中で呟き続ける謝罪と感謝。会っている時も会えない時も零し続けた心の涙。自分は何時だってこの存在を喪う事を畏れている。縋り付いてでも離したくないとさえ思うのに。
 そんな未来は有り得ないのだ。欠片の可能性すらない。自分がそれを、許さないから。

「すまないな」

 そう声に出して言えば、彼の顔は更に無表情から掛け離れる。また心が剥離する。

「少しだけ、ぼうっとしていた」

 見ているのが辛かった。だから視線を外してまた昊を見る。何もない昊。見続ける価値さえ見出せないのに。
 その蒼を奪われたのは、震える息を零そうとした、その時だった。

「……疲れているのなら、そう言え」

 彼の手で創られた真っ暗闇の中。安堵できるのは、彼の低い体温を感じられるからに外ならない。

「肩を貸すくらいなら、私にだって出来る」

 この男らしくない言葉だ。そう言い切ってしまうのは簡単で、でもだからこそ哀しくて言えなくて、清苑はただ空虚に笑った。

「……余り私を甘やかすな」

 彼の手を自分の手で取り払う。世界がまた清苑に還ってきた。

「清苑」

 咎める声は、歩き出した清苑の背に掛けられた。受けて、今度は身体ごと振り返る。ほんのりと、笑んだ。

「行こう、黎深。休むのに良い場所がある」

 そうしてまた歩き出せば、時を置かずもう一つの足音が続く。言葉は無い。顔は見えない。ただ雰囲気だけが優しくて。

(…馬鹿みたい)

 歩きながら昊を見た。先刻はなかった雲が一つ、ぽっかりと白く浮かんでいた。





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 20100616
〈空が泣くのは己の所為だと詰られても、恐らく否定はできないのだ。〉





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