花が咲くのに理由などない

[ 幸福は権利でなく義務 ]



 花が咲く様散る様を、何度此処で見ただろう。
 忘れ得ぬあの日から幾年月を、穏やかに微睡んで居られただろう。
 そんな一日一年が、これからずっと続けば良いのにと。
 そんな夢物語を、願っている。





  花の如く、花の様に





 まだ寒さが漂う中、うっすらと春の匂いがする。気付いて翡翠の瞳で庭院を見渡せば、早咲きの桜が咲いていた。しかし桜というには違和感が…。そう思いそっと首を傾げる。

(……いや、違うか)

 清苑は凝と其方を見詰め、それが桜に似た、別の木である事を知った。

(あれは、黎深が大事に大事に育てている養い子(かれ)の姓となった木か)

 そうして思い出したのは、白群の髪に凛とした面持ち、聡明で真面目、且つ育ての親の所為で突っ込み要員となってしまった、彼の養い子。様々な経緯が重なって此処に厄介になっている清苑を、快く迎えてくれた好青年。

(まだあの時は小さな子どもだったが…)

 そう思い、よくこれ程の時に身を預けられたものだと清苑は微笑した。過去を思えば、今自分が世に存在しなくとも不思議ではない。その過去を断ち切り、その道を閉ざして、こうして今も生きている。優しい時の中に身を置いて、あの少年が青年へと成長するのを見ていられた。

(あの李の木が、見事な花を咲かせるまで)

 桜と見間違えたそれは紅李の木。それを姓に冠する彼は、その花言葉の通り、恩義に重きを置く忠実な人間へと育った。

(黎深とは大違いだ)

 笑って、素直に育ってくれて良かったと、叔母である百合姫の存在の有り難さを清苑は痛感した。玖琅が育てたとしても彼の子どものように素直で賢い子に育っただろうが、黎深を育てた邵可、邵可に育てられた黎深であれば、あぁは育つまい。

(最悪、黎深二号の誕生か)

 あぁなんと恐ろしい。良かった良かったと心の内に零していた清苑は、近付いて来る気配を感じて鋭く思考を止めた。その事に、小さく笑う。

(……抜けないか…この、癖は)

 此処は紅家当主、黎深の邸。そして黎深が心を砕く清苑を守るよう厳命されている『影』が常時侍っていて、その限り、清苑が剣を抜くまでもなく、その身に危険は及ばない。紅家の『影』は他の家を圧倒する程優秀である。そして清苑の室がある場所まで来られる者は、清苑が懇意にする者だけ。
 そうと知ってて尚、清苑は何時も近付く全ての気配を探りそれが誰かを知らねば安堵し息吐く事が出来なかった。それは嘗て生きていく為の術だった。あの、安息などなかった日々の名残。最早捨て去っても構わない習慣。

(……なのに何時まで囚われる)

 死を死でもって償ったあの場所に。生きる意味さえ奪われた彼の場所に。自分は、何時まで。

(もう、全てが終わったのに)

 固く口閉じ、瞳を閉じる。己で作り出した暗闇の中、清苑は過去に遡る。





 冬の昊の下、邵可に拾われた清苑は酷く疲弊し衰弱していた。その為か起きていられる時間はごくごく僅かで、自分でも苛立つ程に一日の殆どを寝て過ごすしかなかった。気付けば場所が変わっている。そんな事は多々あった。最初はその度に気を張り詰めていたが、それも何時からかなくなった。
 ―――ただ面倒になった。それだけの事。
 偶然拾われたとは思っていなかったが、それでも拾った者、邵可とその家族に毒されたか、疑うのも馬鹿らしくなったのかも知れない。眠って、起きて、少しその温かい家族を見遣って、また眠る。そんな日々の繰り返しだった。
 その中で微かな違和感に何処かで気付いていたものの、疲れか、またはいきなりの展開にまだ心身共について行けていないだけだろうと片付けた。
 その違和感が何だったかを知ったのは、些か不自然な程眠り続けて起きた、その時だった。
 清苑は紫州の外に出て知った事がある。場所によって、その空気、雰囲気が違うのだと。紫州には紫州の空気があり、そして茶州には茶州の空気があった。起きた時感じた空気は、今まで感じたもののどれでもない、また別のものだった。
 辺りを見渡せば、何時の間にか軒を降り、何処かの客間の寝台に運ばれていた。身を起こし窓の外を見る。紫州に向かっているものと思い込んでいた清苑は、すっかり様変わっていた外の景色に瞠目した。此処は何処だと内心自身に問い掛け、そしてその解は直ぐに己の心の中に出た。

(私を見付けた者は邵可――――紅、邵可)

 ならば此処は紅州。と来れば。

『紅家か…!』

 その一瞬清苑の思考の片隅を過ぎった名は邵可ではなかったが、焦燥がそれを見逃した。

(何故こんな事に…っ)

 清苑は自身の迂闊さを呪った。キリ、と唇を咬んで巡りの悪い頭を叩き起こす。身体の怠さ、頭の回転の鈍さを考えれば、薬を盛られた事に気付くのは簡単だった。

『やってくれる…!』

 清苑は吐き捨て、気力のみで立ち上がった。蹌踉めく足を許さず、震える手を許さなかった。目を開いたまま深く呼吸をし心と体を落ち着かせる。
 清苑が起きた事を何れ相手は知るだろう。どうせ『影』を忍ばせてある筈だ、今にも誰か、来る。
 清苑はそれまでに相手につけ込まれぬよう、仮面を被り、そして何かの糸口を見付けねばならなかった。それがどんなものでも良い、どの道に通ずるものでも構わない。どんな道で、あっても。

(その覚悟は、何時もこの胸にある)

 清苑は唯一の扉を睨み付けた。広く、そして豪奢な室には目もくれず、それだけしか目に入らぬように。
 ただ、思っては居た。貴族にも格がある。そしてそれは如実に邸に表れる。だから此処が紅家の上層の地位を持つ者の邸だろうとは思っていた。
 しかし清苑は、生憎邵可と言う名を聞いた事がなかった。知らねば悟る事は出来ない。気付く事は出来ない。睨み続けていた扉を開ける人物がもしかしたら〈彼〉であるかも知れないと、思い浮かぶ事はなかった。

『…………』

 清苑は這入ってきた人間を冷たく睥睨した。極寒の地、つい最近まで居た雪原の、血まで凍るような寒空に似た瞳で。それを清苑よりも背が高く紅衣を着た相手は受け止めず、扇で顔を隠したまま清苑に近付き、数歩の距離を残して足を止めた。
 観察するような視線だけを感じた。害意も悪意も感じない。ただ合わない視線の遣り取りだけが続く色のない時間。途切れたのは、相手が口を開いたからだった。

『……本当に、帰ってきたのか』

 清苑は一瞬眉を顰めた。その言葉が不快だった訳ではない。ただ。

(この声…何処かで……?)

 そう思い始めた清苑を急かすように、相手は一度溜息に似た吐息を零して、そして言う。

『……清苑』

 そう口にした相手を、清苑は驚きの目で見詰めた。その視線の先で、相手はゆっくりと扇の垣根を取り除いていった。見えなかった顔が露わになる。月が時間を掛けて片端から満ちていくように。
 息が細くなる、手が震える、記憶の中の誰かと、合致していく。その誰かに気付いてしまえば自分はどうなってしまうのか。そんな恐怖すら覚えながら、けれど視線を外す事は出来なかった。
 そしてはらりと取り払われた扇の下から現れたその顔に、清苑は息を凍らせた。瞠目する。胸が痛む。喘ぐように、その名を呼んだ。

『………れい、しん…?』

 嘗ての友が、其処に居た。
 しかし何故だと清苑は驚く頭の片隅で冷静にそう自問した。此処が紅家の邸と言えども、彼は本家の人間。分家なぞの家に居る筈がない。そして清苑には黎深が自分との仲を他言しているとは思えなかった。
 だからこそ紅家はまだ息をしていられる。もし黎深が誰かに言っていれば、人の口に戸は立てられない、何処からか御史台に漏れていた筈で、その時紅家が死から免れた筈はない。
 何よりも可笑しいのは、紅家の人間が清苑を見付けたとしてもそれを言うのは決して黎深ではなく、当主であろうという事。本流の子息とは言え、真っ先に黎深に告げるとは到底思えない。

(なら何故、黎深が此処に居る)

 こんなに早く、私の目の前に…、と微かに目を眇めて考えた清苑は、答えに行き着いて再度目を見開いた。まさか、此処は。

(紅、本家…?)

 黎深に聞くまでもなく、清苑はそれを確信する。先程脳裏の片隅で思っていた、此処が紅家の上層に居る者の邸だろうという推測は、まったくの当たりではなかったものの、外れでもなかったのか。
 それまで途切れていた糸が急速に繋がっていく。こんなに早く黎深が此処に居る理由が、此処そのものが黎深の居住だから。あぁならば、迷わずこの家に清苑を連れて来た彼は。誰にも言っていない筈の黎深と清苑の関係を知っている彼は。彼は―――邵可は。

(黎深の、兄か)

 喩え本家の長兄でも、名を売るに値しないと家に判断されたのなら表に出ない事がある。清苑でさえ、その名を知らぬ事はあり得る。完璧ではないのだ。全ての家の隠された名を覚えていられる筈もない。しかし。

(この家の者の目は節穴か)

 力が抜けそうになった。邵可が名を売るに値しない? 馬鹿な。この清苑に薬を盛り、此処まで連れてきた人間だぞ。この、紫清苑を、何の疑問も抱かせず、紅家まで。…と其処まで考えて、清苑は目の前で動揺している自分を凝と見続ける黎深を見返した。

(あぁ―――そうだ)

 雑念の波が引いていく。再会の喜びは、状況により然程大きなものではなかったが、それでも確かにあったのに。全ての感情と疑問がなくなっていく。哀しい程、空虚になっていく。

(…此処まで、連れてこられてしまった)

 ぽつりと零したそれは、波紋を作った。反響する、心の何処かに。心の何かを、揺り動かす。

(私は、此処まで………紅家、まで)

 それが何を意味するのか。分からぬ訳がなかった。今目の前に居るのが黎深だと言う事に関係はない。最後の情けとでも言うつもりか。元公子の使い道など決まっている。王位争いの、道具だ。

(………させない)

 唇をきつく咬む。たった一つの決意。たった一つの糸口。それは、清苑が此処で死ぬ為の。

『ッ………!』

 一瞬。それで清苑は黎深の懐に飛び込み、そして黎深の胸元から懐刀を抜き取った。貴族ならば当然護身用に持っている物。家の中だろうが黎深なら、と思った清苑の勘は当たっていて、しかしそれを喜ぶ間もなく短刀を鞘から抜き白刃を晒す。首筋にあて、そして後は引くだけ―――だったのに。

『馬鹿が…!』

 寸前で、ギリ、と捕まれた腕。いや、微かに紅い線が刻まれた。それでもそれは死からは程遠い。死の一端に触れる事すらない。カラリ、と無機質な音を立てて刀は床に転がった。清苑は小さく震える。その銀の刃を見詰め、後少しだったのにと悔やんで。そして。

『………ころせ…』

 低い、低い声が、清苑から漏れた。それが、慟哭の引鉄(ひきがね)となった。

『殺せ―――殺せ殺せ殺せ…ッ!』

 血も涙も、想いすら含んだ、その(こえ)

『もう嫌だ―――もう、私は』

 この身は誰にも利用させない。この身も。この血も。この名すら、利用するなど許さない。誰かに利用され誰かを傷付けるくらいならいっそ。

 ―――壊してしまえ。

『このままでは私は紅家に使われる! 私はお前達に捕らえられる為に生き延びた訳ではない!! 私は王家の弱味になぞ成りたくはない…!!』

 最早戻る事の敵わぬ場所。名乗る事すら許されぬ至高の名。それでも良い。それでも構わなかった。どうしてそれが生まれの家を貶める理由になるだろう。
 彩の頂に立つは我等が紫家。己の身が落魄(おちぶ)れようと、その誇りを踏みにじる者は容赦せぬ。喩え手を伸ばすは嘗ての我が友であったとしても。

『私は誰の手にも落ちぬ…!!』

 そう叫んだ清苑を、黎深は掴んでいた腕を引っ張って力の限り抱き締めた。言葉もなく、ただ。

『…ッ、離せ!』

 強く逃すまいとするかのように抱き締める黎深の腕の中で、清苑は暴れた。

『離せ…!』

 それでも黎深は離さなかった。何かを耐えるように唇を噛み締めて。

『――――黎深…ッ!』

 何ヶ月ぶりかに呼ばれた名に心を動かされながらも、それでも黎深は離さなかった。

『…清苑』

 そして漸く黎深が口を開いたのは、清苑が叫び疲れ、暴れ疲れた頃だった。

『安心しろ。紅家はお前を利用しない。利用など、この私が許さない』

 記憶と違わないその声を耳にしながら、それでも清苑は頑なに顔を上げず、声も出さなかった。黎深が何と言おうと、紅家が動き出せば止められる訳がない。そう思っていた。清苑はただ、知らなかったのだ。

『…なぁ、清苑』

 清苑は余りにも俗世から離れていた。

『紅家の当主が替わった』

 そしてその可能性が未来に起こる事を、一度、一瞥の元に斬り捨てていたから。

『今の紅家当主は―――私だ』

 宣誓のような、静かな声。それにぴくりと清苑が動いた。黎深をあれだけ突き放そうとしていた指が、紅衣を握る。そろそろと動いた頭は黎深を見上げる為。時間を掛けて、清苑は黎深を見た。そして微かに歪んだ黎深の笑みを見た時、清苑から掠れた声が零れた。

『…お前が、…当主…?』

 清苑の翡翠の瞳が僅かに見開かれて、仄暗く、翳った。

『……まさか……まさか、黎深…』

 知っている。黎深が、紅家を嫌っていた事。心の底から憎んでいた事を。

(その黎深が、当主に?)

 馬鹿な、紅家の(しがらみ)に自ら身を落としたと言うのか? 何をしても拒むと思っていた。紅家本体を壊しても黎深は…と。ならば何故。

(何の―――誰の、為に)

 勘付かない訳が、ない。

『…私の、為か…?』

 涙が、堕ちる。勝手に次から次へと生まれては、零れていく。それと同様、言葉も制御できなくて。

『私の為に、お前が、紅家に飼われるのか…?』

 あれ程嫌った紅家に繋がれた。もう二度と逃げられない。喚き騒ぐ獣を放っておく事は許しても、捕まえた獲物を逃す程、紅家は優しくない。黎深程の獲物なら尚の事。ならばもう、死ぬまで黎深は紅家の檻の中で生きるしかない。そうと分かっていて、当主になったのか。

『何故だ…、何故!』

 嫌だ…嫌だ嫌だ―――嫌だ。己の為に黎深が。それを一番、恐れていたのに。

『―――私はお前をそんな風に縛りたかった訳じゃない…!!』

 だから忘れろと言ったんだ。だからその手を離したんだ。私に縛られ続けていたら何れ黎深は自ら紅家に縛られる。私を守る為に、厭わずそれをするだろうと。喩え傷付けてもそうなるくらいならと、そう思った。

(だからあの日私はお前を手放したのに…!)

 紅の衣装を握る清苑の手に力が籠もる。ともすれば清苑の繊手を傷付けてしまいそうなその行為を止めようとするように、それは優しく握られて。

『……あぁ、知っている』

 滲む視線の先、黎深は笑った。それは何処か、お前が良いと言ってくれた初めての彼の笑みに、とても似て。

『私の為だ』

 黎深は言う。

『誰の為でもない。私は私の為に、当主になる事を選んだんだ』

 だから泣くな、と黎深は清苑の涙を優しく拭った。優しいその笑みと同様に、その行為が酷く酷く、優しかったから。

『…黎深…、黎深…――!』

 堪えきれず清苑は子どものように泣いた。黎深に縋り付いて泣いた。己の不甲斐なさの為に友が憎む家に繋がれた事がただ哀しくて、ただただ、悔しくて。
 許しを請うように泣いた。自分の存在を恨んで泣いた。存在するが故に誰かを不幸にし続ける自分を殺したい程憎んで。
 清苑は、泣き続けた。





 それからずっと清苑は紅州の本邸に居た。しかしその存在を知るのは、邵可と黎深と百合、玖琅に絳攸、そして『影』に限られた。家人にはその姿を見るどころか、存在を知る事すら許されなかった。
 何処で情報が漏れるかは分からない。もし漏れれば紅家はあの王位争いの時に免れた死を覚悟しなければならなかった。
 紫清苑の名はそれだけの価値がある。その知略には国を動かすだけの価値がある。それを回避する為に紅家の籠の鳥となっても、清苑は構わなかった。
 不自由はない。寂しくもない。黎深が居なければ百合が、百合が居なければ絳攸が、絳攸が居なければ玖琅が傍に居てくれた。一人縁側に座っていても、誰かが気付いて来てくれる。
 今回廊の角を曲がってこっちへやって来る、絳攸のように。

「清苑様」

 出会った時には九歳とまだ小さかったのに、もうこんなにも大きくなったか。清苑は絳攸の成長に感慨深く笑んで絳攸を迎えた。

「どうした、絳攸」

 座した絳攸を見て、清苑は絳攸が僅かに緊張している事に気が付いた。それを何故かと問えば、絳攸は、分かりますか、と苦笑して。

「国試、状元にて及第致しました」

 思わず清苑は嘆息した。絳攸に才がある事も、また努力家であることも知っていたが、この年で国試を、しかも状元で通るとは。

「おめでとう。将来が楽しみだな」
「ありがとうございます」

 滅多に無い清苑の褒め言葉に、絳攸の顔も漸く綻ぶ。しかしその顔は然程も経たない内に霞んで。

「あの、清苑様…」

 言い淀む絳攸に、視線で清苑は先を促す。

「噂にお聞きしたのですが」

 こくり、と喉を鳴らして絳攸はまた緊張をその顔に浮かべて言った。

「清苑様は、十を過ぎた頃には既に状元で及第できる程だったと…」

 その言葉に、清苑は苦笑した。

「環境が違う」

 清苑の傍には生まれた時から優秀な師が居た。拾われた絳攸と差がある事はしょうがない事。そして、そんな絳攸が今まで誰もが為し得なかった事をした事に価値があるというものだが。清苑は言い聞かせるように、優しく言った。

「それでも貴方は、十六歳で養い親である黎深と百合姫の恩に報いた。他人と比べるよりも、それを誇る方が黎深も喜ぶだろう」

 それに、と言葉を続けて。

「黎深が貴方と私を比べたか?」

 その問いに絳攸はハッとして、首を横に振った。清苑はそれを見て言う。

「なら、そんな考えは捨てた方が良い。貴方はそんなに愚かではないだろう」
「…はい」

 今度こそ自信を持って頷いた絳攸に、清苑は安心したように笑んだ。

(この養い子は、優しい)

 清苑は絳攸を見る度そう思い、連なって自分の弟を思い出した。自分を助けてくれた、自分を拾ってくれた人に、何とか恩返しを。そんな想いを、絳攸と小さな弟は持っている。

「…黎深には勿体ないな」
「え?」
「いや、何でもない」

 首を傾げる絳攸にやんわりと笑んで清苑は頭を振り、そう言えば、と絳攸に問う。

「もう黎深や百合姫、玖琅には言ったか?」
「あ、いいえ。何方も見付からなくて…」

 困ったように眉を下げた絳攸に、清苑は元気づけるように肩を叩いた。

「もう暫く探してみれば良い。早くしなければ誰かが貴方よりも先にこの吉報を伝えてしまうかも知れない。それは貴方の、そして彼等の望む事ではないはずだ」

 子が親に自慢したい気持ちも、親が子の成長を喜ぶ気持ちも、清苑は分かる。絳攸が誰かに伝えたいように、その誰かもまた、絳攸の言葉を待っている筈。

「行っておいで」
「はい」

 失礼します、と一礼して姿を消した絳攸の姿を最後まで見送って、清苑はちらりと絳攸が消えたのと反対の回廊の角を見た。

「……折角私がお膳立てしたというのに、動かないつもりか?」

 その言葉に霞のようだった気配が存在感を増し、そして現れたのは黎深だった。けれど清苑は素っ気なく見遣っただけで、また視線を絳攸が来るまで見ていた庭院へと固定した。

「絳攸が待って居るぞ。行ってやれ」

 そもそもあの子が人を見付けられないのはお前と百合姫の所為なんだから、何とかしろ。

 言い捨てた清苑に、近付き傍らに立った黎深は眉を顰めた。

「…お前、絳攸の事となると厳しいな」
「そんな事はない」
「しかし、何故あいつも此処に来るのは迷わないんだ。他の場所は迷う癖に」
「私が手ずから教え込んだからな」
「ほら、絳攸には優しいのに…」
絳攸には優しいのに(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)? 例外が居るとでも? 私は誰にだって優しい」

 そう言って優艶に笑んだが、黎深の機嫌は直らず尚悪くなった。

「……何を拗ねてるんだ?」

 呆れて聞けば。

「……お前、本当に分からないのか?」
「………絳攸の国試の結果が気に入らないのか?」
「いや。全然」
「はー。お前が榜眼だったから、妬いてるのかと思ったが、違うか」
「…違う」
「では、李がまだ咲ききってないから?」
「…流石に季節でないのに怒りはせん」
「お前にも季節が分かる心があったんだな」
「………清苑」
「何だ?」
「お前こそ、何か怒ってるのか?」

 聞かれた事に清苑は真剣に首を傾げた。そしてちらりと黎深の困ったような顔を見て、何かに気付いたように、清苑は花咲くように微笑した。

「……黎深」
「ん?」
「私は、幸せだよ」

 突然のそれに黎深は一瞬瞠目して、そしてその後、春の日差しを見たように、僅かに目を細めて清苑を見た。

「生きて今此処に在る事が、嬉しい」

 視線の先、綻んだ微笑に、あぁそうだ…、と黎深は思う。一度は喪いかけたこの命。流罪と聞いても何も出来ず、再会したあの日もただ絶望させただけだった。後少し遅ければ、この何よりも大切な命を永遠に喪う所だったのだ。
 その彼が此処に居る。その事が泣きたいくらい、嬉しい。

「清苑…」

 けれど。

「だから、黎深」

 清苑は同じように笑んだまま。

「何かあれば、迷うな」

 優しく優しく。

「私を切り捨てる事を、―――迷うな」

 そんな事を、言う。

「清苑!」

 聞きたくない、と言葉の先を遮るように叫ぶも、清苑は口を閉ざさない。

「もう二度と、お前が何かに縛られる事を、何かを喪う事も、私は望まない」

 笑みも変わらない。

「お前に限らず、百合姫も絳攸も玖琅も…幸せでなければならないよ」

 その声もまた。

「だから」

 散るのは、私だけで良い。

 優しい、ままで。

「―――……ッ」

 そんな清苑を抱き締める。強く強く、強く。言葉を閉ざし、口を閉ざす為に。聞きたくない想いと、言わせたくない想いを込めて。けれど何処か、縋るように。
 それを清苑は何も言わず受け入れて、そっとそっと、黎深の背中に手を宛がった。宥めるように数度撫で、きゅっと衣を握る。

「……黎深」

 また呼ばれた声は、それでも先程と変わりなく、だから黎深は数瞬聞く事を躊躇った。けれど促すように背中に回された手が衣を引っ張るから。

「…なんだ」

 先刻みたいな言葉は聞かんぞ、と先手を打つ黎深に、清苑は、違う、と楽しそうに笑って。

「お帰り」

 待ちかねた、と言う、偽りの影もないその言葉に。

「………ただいま」

 黎深は誤魔化された心地を抱きながらも、花の蜜のような、優しく甘い口吻(くちづけ)で返した。





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 20100214
〈幸せを願う時、ついつい貴方の幸せばかりを願って怒られて、お前も幸せになるんだと、しかめ面で言う貴方がとても好き。〉





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