銀鼠(二)

[ 鳳雛の瑕瑾 ]

 主席合格―――それが、私の胸に響く事はなかった。
 目標を達成した充実感も、会試への道が開かれた歓びも。  私の中には生まれなかった。
 …苦しかった。
 背けられた視線。
 聞こえてくる恨みの声。
 避けるように開かれた通路。
 不揃いな足音が私に近付く事は決してなく。
 …辛かった。
 半ば予想していた事が起きただけだと割り切るには、状況が悪すぎた。
 州試に受からなければ会試は有り得ない。
 この日の為に、一体どれ程の時間と金と精神を費やしてきたのか。
 分からない訳が、なかったから。
(どうして、受けてしまったのだろう…)
 分かっていたのに、危惧してたのに。
 たった一人の合格者。
 誇れなかった。
 じわりと滲む視界を、どうしようもなくて。
 立ち止まりたくなる。
 一歩を踏み出す事がこんなにも辛い。
 とうとう眦から涙が零れそうになった、その時。
「――……黄、鳳珠殿、ですね?」
 躊躇いがちな声が、私の名を、呼んだ。


  香橙の微香


 夏の終わり。日差しが柔らかくなり、風も冷たさを増して吹いている。夏の半ばは窓を全開にしてさえ物足りなかったが、今では窓を僅かに開くだけで事足りるようになっていた。涼しい風が室を駆けて行ったのを感じて、ぽつりと彼は呟いた。
「やっと夏も終わりますねぇ」
 何時もより二割程増して笑みを深くするのは、景侍郎こと柚梨だった。夏の暑さでどんどん人が居なくなり、助っ人を呼ぶ事態になった事は記憶に新しい。漸く戸部に官吏が戻ってくる目処が立った事への、安堵の笑みだった。
「柚梨」
 手を止めて空を見上げていた柚梨は、聞き慣れた美声に呼ばれてハッと我に返った。自身の机案に積み上げられた書類の向こうで声を発した人間が此方をじっと見ているのに気付き、慌てて謝罪する。夏が終わろうと人が戻ってこようと、戸部への仕事の量が減りはしないのだったと思い出して。
「すみません、鳳珠。あ、今からこの書翰を吏部の方にお渡ししてきますね」
 言い置いてバタバタと室から出て行ったその背を、鳳珠は読めない仮面で見送った。


 書翰に埋もれた机案。風に飛ばされ床に散った書類。そして隙間あらばと詰められて窮屈そうな棚。戸部の室に一人となった鳳珠は、その全てを見渡してふと思う。
(最後の休憩は、何時だったか)
 助っ人として暫くの間戸部にいた少女が提案したそれを、鳳珠は受け入れた。けれどそれは少女がいるその間だけで、それ以降はふと気付いた者がするだけとなってしまっていた。
(しょうがない、か…)
 それ程に戸部の官吏は忙殺されていた。戸部にはあまり人が居なかった。それはまだ猛暑に倒れた戸部官吏が職に立ち返っていない事を差し引いても、戸部の仕事量に反比例するかの如く異常な位に少なかった。少数精鋭と言ってしまえば聞こえは良いかもしれないが、その精鋭が吏部までとは言わないまでもキリキリギリギリ働かなければ立ち行かなくなるのは目に見えていた。
 そしてこの夏、戸部は「官吏が猛暑で出仕できない」という窮地に立たされ、実質戸部の官吏は二人まで追い詰められた。補助としてあの少女を含め何人かが付いたが、それでも本業の鳳珠と柚梨に任せるしかない案件は比喩でなく山程あった。あの時程、鳳珠が吏部の人事に不満を覚えた時はない。
(使える若い奴をまわさんからこんな事に…!)
 戸部は他の部よりも平均年齢が高い。使えない官吏を鳳珠が切るか、それか勝手に辞めてしまう。それでも何とか動いていた戸部に対し、今年の夏のなんと残酷だった事か。鳳珠は思い出し、溜息を吐く。するりと仮面を取った彼の表情は、晴れない。
「それでも、まだ…」
 人が帰って来る。仕事が僅かだが減る。夏が、終わる。やっとだ。けれどそれにただ安心できない理由が、鳳珠にはあった。
(……柚梨)
 先程駆けて出て行った、彼の人。人が少ない戸部にて培われた、「使える者は尚書でも使え」の精神を体現する柚梨は、侍郎でありながら良く戸部の室から出ては書翰をあちこちへと持ち運ぶ。王に直接奏上しなければならない書翰や他の部への提出すべき書翰、大した事のない書翰まで、柚梨は率先して運んでいた。
 それは柚梨の人柄が大半の理由だった。悪鬼巣窟と恐れられる吏部でも、常日頃酒を呷る尚書がいる工部でも、柚梨が行けば穏やかに事が進む。そして、免疫のない官吏が行って雰囲気に呑まれて仕事が出来ないのなら、柚梨が行った方が遙かに効率が良いと言ったのは、他ならぬ鳳珠だった。
(それは間違いない。だが……)
 それは戸部が正常に機能している時だからこそ出来る離れ業だった。今の柚梨には、侍郎としての責務と公務、休んでいる他の官吏の仕事、そして書翰の運搬の仕事が一気に押し寄せていた。もう此処一ヶ月以上も。その間、柚梨が休んだ日はない。喩え公休日であろうとも。
(そろそろ、)
 休ませるべきだ、とそれまで思考を巡らせながら動かしていた筆を置いた所で、廊下を駆ける足音が聞こえた。外していた仮面を鳳珠がさっと装着した後に一人の官吏が飛び込んで来て。
「―――…!」
 鳳珠は自分の決断が遅かった事を知った。


 気付いていた。最近柚梨の顔色が悪い事。ふらついた足元。頭痛を耐えるかのような、仕草を。知っていて、何も言わなかった訳じゃない。何度も言った。乞うように。願うように。休んでくれと。その度に大丈夫と柚梨は嘘を吐く。そして、言うんだ。
『私以上の仕事をしている貴方が休まないのに、私が休めますか』
 あまりそう言う面を見せないが、柚梨も侍郎である事に誇りを持った官吏だった。そして、尚書と侍郎という階級の前に、鳳珠自身と人間的に対等でありたいと思っている節があった。
 それは鳳珠にとって本当に嬉しい事だった。鳳珠を鳳珠として見てくれる柚梨は、何時からか鳳珠の大切な人になっていた。恐らく出会ったその時から、柚梨は鳳珠にとって掛け替えのない人で。だから、言ったのに。願ったのに。
『大丈夫ですよ、鳳珠』
 何時だって、そう、笑って。欲しいのは、そんな言葉ではなかったのに。だからと言って鳳珠自身が休む訳にもいかなくて。気功を習得している自分と比べるなと言っても、仮眠だけでもと言う願いも、聞き入れられなかった。大丈夫と繰り返す、その自分の顔を見てみろと言わなかった自分が悪いのだ。
 鳳珠は何時もそうだった。対人関係に慎重になりすぎて、仕事の時のように冷静に処理できなかった。後で悔やむ事になると、分かっていたのに。
(柚梨、柚梨…っ)
 あぁ、耳元でざわめく風の音が鬱陶しい。嫌に騒ぐ心音が邪魔だ。五月蝿い。聞きたいのは、これじゃない。
(聞きたいのは。見たい、のは)
 一つの扉。其処に、駆け込んだ。
「―――柚梨ッ…」
 少し首を巡らせて視界に入った、長椅子に寝かされたその姿。
(柚梨――…)
 あぁ、やっぱり。何が何でも休ませるべきだった。それこそ、気功の技を使ってでも。こんな事になるのなら。
『け、景侍郎が、書翰を担当官吏に渡された途端に……っ!』
 それだけを聞いて、鳳珠は此処へ飛んできた。その先を聞かなくても、何があったか分かっていた。予測できた事だからこそ、鳳珠は許せなかった。自分が。…柚梨が。
「だから何度も言ったんだ…!」
 机案と脇に置かれた多量の書翰、気絶する柚梨と見守る鳳珠しかいない部屋に、悲痛と言える叫びが響く。休んで欲しいという願いは、優しいその笑みの前に霧消した。受け取ってはもらえなかった。片手で足りぬ程、懇願したのに。
「柚梨…っ…」
 深い深い眠りの海を揺蕩う柚梨に、この声は聞こえない。
(…それで、良い…)
 休んでくれ。少しでも、長く。そう願う鳳珠にの耳に届いた、音。
「鳳珠」
 聞きたい声とは違ったその声の持ち主は、この室の持ち主。黎深が、扇を手に立っていた。
「君も大概、やる事が遅いな」
「…黎深」
 何の色もない黎深の声音に、鳳珠は睨み付けるしかない。そんな事、自分が一番分かっている。そう言いたげな鳳珠を、黎深は鼻で笑った。
「聞き入れてもらえないのなら、君が無理矢理にでも、最悪尚書という立場を利用してでも休ませれば良かったんだ」
「……」
 柚梨の事を考えれば、そうすべきだったのは鳳珠だって分かっていた。分かって、いたけれど…。
「どうせ、我を通せば嫌われるとでも考えたんだろう?」
 唇を噛む鳳珠に、黎深は馬鹿がと短く吐き捨てた。
「―――――だから零れ落ちていく」
 え…?、と鳳珠は黎深に向いた。視線は何処か遠くを見ている。顰められた眉は、何を想ってか。
(何を…、いや…、誰、を……――?)
 けれど鳳珠の考えは、パチン、と閉じられた扇の音に四散する。
「後は君次第だよ、鳳珠」
 嫌われる事を恐れて、何もしないのか?
 踵を返した黎深の背が、そう語り掛けた気がした。


 衣擦れの音。湯が沸く音。慎重に運ばれる、足音。そしてこれは。
(柑橘系の、香り……)
 それに誘われて、柚梨は重たい瞼を開けた。差し込む光に驚いて僅かに瞑るものの、瞬かせれば徐々に慣れていく。そして、完全に目を開いた。見えた天井から視線を外し、くぃ、と首を曲げれば、自分が居る場所が何処かに気が付いた。
「……戸部…?」
 可笑しい。自分は吏部に行った筈なのに。と言うか、何故体を横たえているのだろう。頭の中で次々に出てくる疑問を押さえて、取り敢えず柚梨はちゃんと座る事にした。
「よぃ、しょ」
 ちょっと伸びをすれば、背筋が伸びて気持ち良い。すっきりした気持ちで前を向けば、仮面の尚書が向かいの椅子に座っていた。
「鳳珠」
 呼び掛けに何も言わない鳳珠の纏う雰囲気に、柚梨は彼が怒っている事を察した。そしてその原因が自分である事も。
「……もしかしなくても、私、倒れてしまったみたいですね」
 記憶の断絶。眠った後のような爽快さ。そして鳳珠の機嫌。
「ごめんなさい」
 素直に、言えた。自分に非がある事を柚梨は分かっていた。体調管理を怠った事。そして、様々な言い訳をして鳳珠の心配を無視してきた事も。大丈夫だからと柚梨が繰り返す毎に、鳳珠は哀しげに視線を揺らしていた。分かっていた。それでも鳳珠一人にあれだけの量の仕事を任せるなんて、とても言えなくて。けれど一度だって柚梨はそんな事を言わなかった。鳳珠の為、なんて言葉は、更に鳳珠を苦しめる。
「以後、気を付けます」
 言った柚梨を鳳珠はじっと観察するように見て、小さく、息を吐いた。
「……私も、悪かった」
 まさかそんな事を言われるとは思わなくて柚梨は慌てた。鳳珠が謝る事なんて、ない筈なのに。
「柚梨の性格を考えれば、何を言っても最後までやると言って聞かない事は分かっていたんだ」
 だから、と鳳珠は言う。
「休め、とは、言わない。…でもこれからは、忙しくなっても、休憩は絶対にとろうと思う」
 それで随分変わる筈だ、と鳳珠は言った。俯いた鳳珠の視線の先を辿れば、湯気の出ている茶器。微かに香るそれは、柚子のそれ。柚梨は、笑った。
「―――はい」
 嬉しかった。柚梨の気持ちを慮ってくれた事。どうすれば、それに沿うように出来るかを考えてくれた事。そして。
「鳳珠」
「……なんだ」
 腰を浮かせて手を伸ばす。探し当てた紐の端を引っ張って、柚梨は鳳珠から仮面を奪い去った。露になる、鳳珠の素顔。
「…………………心配、した」
 ポツリと零された言葉の、何と頼りない事。それが嬉しかった。鳳珠が柚梨を心配して、綺麗な涙を零してくれた事が、柚梨にとって何よりも。
「ありがとうございます、鳳珠」
 柚梨が今までで一番優しく笑う。それを待っていたかのように、柚子茶の香りがふわりと夏風に攫われた。


20090418
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