濡羽(五)

[ 紫黒の乙夜 ]

 鳥が鳴き、朝日が顔を覗かせ薄緋が見えるまでのその間。
 それは僅かな希望と絶望の狭間に似ている。
 それを見るのは怖かった。
 でも、見なくても、怖くて。
 結局視線を庇の外へと向ける。
 そうすればほら、と笑みを零した。
 そうして変わらず覗く太陽に安堵したのも束の間。
 僅かな違和感が体を襲った。


  名鏡の在処


 宮城の中なのかも怪しい暗い室。蝋燭の灯りだけが頼りの中、彼はひっそりと震える息を吐き出した。
(駄目だ…)
 心の中で呟いて諦めたように手を広げれば、ころんと筆が机の上を転がった。元の場所へと辿れば、何か紙に書いてある。けれどそれはお世辞にも綺麗とは呼べず、乱れた筆跡だけを残していた。筆を放した手を見遣った彼に映る、自身の手。もう一方の手で支えても、それは力なく項垂れた。
(力が、…全く入らない……)
 更に言うなら、実は視界もまともではなかった。全てがぶれて見えていた。彼は自嘲する。何て事だ。何たる失態。自分らしくもないと、彼は冷静に批評した。そうして顔を歪めた彼は、次いで小さく息を吐く。そこに混じるのは、小さな心配。
(ちゃんと、伝えてくれただろうか…)
 せめて、安心していてほしいから。
 その言葉を付け足した彼は、ずる、と床に滑り落ちた。手と同様、座っているだけの脚力も、なかった。
「情け、ない……」
 はは、と乾いた笑い声を立てた彼は、つ、と瞳を閉じる。もう疲れた、とぼやく。もう寝たい、と嘯く。熱を持った息が邪魔だと思いながら、彼は意識を手放していく。
「―――……もう、良い…」
 最後の意地を放棄して、彼の世界は暗転した。


 秀麗が外朝で忙しいからだろう、最近は殆ど顔を見せなかった楸瑛が久々に邵可邸へと足を運んでいた途中、ふと見た事のある顔と鉢合わせた。
「「あ」」
 両者共に上げた声は同じではあったが、二人の顔はまったく違っていた。一人はおやおやとでも言いたげな笑みを浮かべ、もう一方はげっとでも言いたげに顔を引き攣らせた。言わずもがな楸瑛と、そして蘇芳だった。
「これは、タンタン君。君も邵可様の家に行くのかい?」
「……えぇ、まぁ」
 タンタン君って何故この人が…、などと思いながら蘇芳は顔を背けた。紅家に行きたい…と言うか行かねばならないのは本当なのだが、蘇芳は楸瑛を見た瞬間踵を返したくなった衝動を押し堪えていた。
 楸瑛と蘇芳に確執はない。それ程の付き合いもない。共通点は「秀麗とタケノコ家人」、それだけだ。
(それだけ、の、筈なんだけどなー…)
 その二人を知っていると言うだけで、傍に居るだけで、蘇芳には想像もつかない人脈へと広がって行き、そして事態は蘇芳が怠惰な生活を続けていれば決して経験しなくても良かった事態にまで発展する事になる。本音を言えば、蘇芳は権力を持った貴族が苦手だった。
(なーのに、結構相手はオレを面白がったりするんだよなー)
 それは秀麗と共に居るからだろうが、蘇芳にその要因があるのも本人無自覚だが確かだった。
(ま、どうせ行かなきゃいけないし?)
 帰らなかった理由は其処にある。別に楸瑛に背中を見せて逃げるのが格好悪いとでも情けないとでも思っている訳ではない。必要があればそうする事だって選択する。と言うか、本能的にそうしてしまう。けれど今、蘇芳には必要も、そしてそれを選択するという選択肢がなかった。
(……殺される…)
 思い出しぞっと身を竦めた蘇芳を、楸瑛が不思議そうに見る。
「どうしたんだい? タンタン君」
「あ、イエ。何でもないデス」
 若干強張って平坦な返事に首を傾げるものの、楸瑛は「では行こうか」と歩みだす。それに蘇芳は小さく息を吐いて追いかけた。其処でふと今度は蘇芳が首を傾げる。
「すいません。一つ聞いて良いですか?」
 足を止めた楸瑛は首だけで振り返る。良いよ、という返事を聞いて、蘇芳は言った。
「どうして軒じゃないんですか?」
 貴族の移動手段の大抵は軒だ。道を徒歩で行く事は宮城くらいでしかないだろう。なのにどうして、と聞く蘇芳に、楸瑛は事も無げに笑った。
「あぁ。月が綺麗だったからだよ」
 それを見ながら歩くと言うのもありかな、と思ってね。
 なるほど、と蘇芳は頷いた。確かに珍しい程の真っ白で真ん丸な月が空に在った。それを見て、蘇芳は静かに嘆息する。
(あいつ、みたいだ)
 思い返して、蘇芳は先に進んだ楸瑛の背を目指した。並ぶ二人が月に同じような感想を抱いていた事は蘇芳が口に出して言わなかった所為で、楸瑛も蘇芳も、知る事はなかった。


 二人の出会いより一刻ばかり前。黎深の邸に鳳珠と悠舜が揃って酒を呑んでいた。招かれた訳でもなくただ無理矢理連れて来られただけだが、何時もの事なので二人は問題にしなかった。大概こういう場合は黎深が珍しく同期と飲みたいと言う我侭からの行動で、そしてその口にしない我侭を二人は空気を吸うように分かっていた。溜息を吐き苦笑しても、帰りたいとは言わなかった。
 黎深の邵可と秀麗への心配、鳳珠の使えない官吏に対する愚痴と景侍郎への賞賛、悠舜の妻へのさり気ない惚気と庭院に咲く花の話。そんな話題を経て酒も進んだ頃、鳳珠が一瞬の沈黙を縫って言葉を挟みこんだ。
「ところで黎深。彼の様子はどうだ?」
 彼、という抽象的な単語にも関わらず、黎深も悠舜も、誰を指すか瞬時に理解した。短く鼻を鳴らして黎深はどうでも良さそうに言う。
「何の報告もない」
 ただそれだけ言って口を噤む黎深に、悠舜と鳳珠は呆れ顔だ。
「それだけ、ですか?」
「『影』まで付けておいて…」
 二人の非難にも似た言葉に、黎深は尚更面白くなさそうに顔を歪めて。
「何もないと報告を受けているからそう言ったまでだ。だいたいお前達もあいつも、『影』を侍らせる事に何故そこ迄口煩いんだ? 『影』を付けてやっている事を感謝されこそすれ、咎められる覚えはない」
 小さいどころか大きく、しかも聞こえるように吐かれた溜息は、悠舜と鳳珠二人のもの。分かってない…、と二人して視線を交わし、何とか苦笑して悠舜が口を開いた。
「あのですね、黎深」
「なんだ?」
「彼は自分に紅家が関わっている事を良しとしていませんね?」
「あぁ」
 あっさり頷いた黎深に、悠舜は頭を抱えたくなった。良しとしていないと分かっていながら『影』を付ければ、それは感謝を通り越して咎めたくなるのは普通ではないだろうか。まるで矛盾した言い分に、頭痛がする。
 それでも、と悠舜は咎める言葉を飲み込んだ。黎深が彼に執着する理由を、悠舜はちらりとだけではあるものの知っているから。
「…それでも、貴方は彼を守り続けるのですね」
 黎深は手に持った杯を唇に近付けた所でそう言った悠舜をちらりと見、そして視線を杯に移して短く、あぁ、と呟き酒を呷った。コクリ、と喉が動く。酒に濡れた唇を舐めて黎深は笑った。苦い色を残した笑みだった。
「あいつは変わらず、何も分かっていないがな」
 杯を放るように置き、黎深は扇を広げたり閉じたりを繰り返す。気分が高揚した時の黎深の癖。口にも表情にも出さない分、その行動はより顕著に黎深の気分を映し出す。
「この前、あいつに毒が盛られた事は言ったな?」
 頷いて悠舜と鳳珠は肯定を示す。黎深は、笑みを深めた。その深みは、苦みに何かが混ざった所為。
「……手を出すなと、言われた」
 今は静蘭だから。ただの家人だから。紅家が守るのは可怪しい。紅家の力を使わないでほしい―――懇願にも似たそれは、しかし、到底黎深には受け入れられなかった。
 強くない訳がない。十何年という年月、あの王宮で生きていた彼が。兇手を差し向けられても返り討ちにして、血を被っても生き抜いて。冬の終わりから次の冬の始まりまでの半年間の空白だって、辛い事があったのだろう。それでも、生きて。
(―――けれど)
「…どうして、守らずにいられる」
 今だって後悔している。後少しでも早く『影』を向かわせていたら。先王を当てにしなかったら。あいつを、流罪になどさせなければ。そんな思考してもしょうがない事を、今でも繰り返す。そしてその「もし」を辿って着いた結末のあまりの違いに絶望しそうになる。でも昔にはどうしたって戻れない。だから、黎深は誓ったのだ。
「あいつに何と言われようと、これからは私のやり方であいつを守る」
 黎深の兄だって知らないだろう決意に、悠舜と鳳珠は僅かに瞠目する。そんな二人を無視して、だが、と続く黎深の言葉と共に、扇がパチリと鳴って閉じられた。
「それをあいつは、紅家の意志だと思ってる」
 黎深個人の想いは、当主と言う座によって紅家全体の意志だと思われる。その事を歯痒く思ったのは初めてだと、黎深は心の底から毒突いた。
「どうして、あんなにも自分に疎いのだろうな」
 自分の分かりにくい態度がその原因の一翼を担っている事を差し引いても、王家にも政治にも興味のない黎深が彼の傍に居続けると言う事は彼自身に執着があるからだ。其処には以前の地位も、そして邵可も秀麗すらも関係ない。ただ黎深個人の想いがあるだけなのに。
「……あいつは本当に、守り甲斐のない奴だ」
 黎深はちらりと笑いそう嘯く。それでも守り続けてきた。きっと黎深にとって初めての友を。悠舜と鳳珠よりも先に黎深を認めた、稀有な存在を。
 二人はそっと溜息を吐く。寂しげと言える黎深の笑みに、何を言って良いか分からなくて。そして悠舜が何か言おうと口を開きかけた時、黎深が眼差しを強くして誰かに問いかけた。
「…どうした」
 『影』だろうと二人は咄嗟に気付き口を噤む。そして。
「――…!」
 蒼褪めた黎深に、悠舜と鳳珠は視線を鋭くした。


 楸瑛と蘇芳が邵可邸へと着き、揃って門番のいない玄関を潜れば、邵可がひょっこりと姿を現した。
「これは藍将軍に、…タンタン君、だったかな。どうしました?」
 にこにこ笑って迎えた主人に、楸瑛は完璧な礼と笑顔を向け、蘇芳はぎこちない礼と引きつった笑みを向けた。何処までも対照的な二人である。
「秀麗殿が今日は帰れないからと、邵可様にこれを」
 そう言って楸瑛が差し出したのは、大きな風呂敷に包まれた荷物だった。それは蘇芳が楸瑛を見た時からずっと気になっていたもので、楸瑛に似合わないし、だからこそどうして軒ではないのか聞いたのだが。
(なるほど。ってあの女、藍楸瑛を顎で使ってるよ…)
 蘇芳はげんなりとした顔で溜息を吐いた。と、自分も誰かさんに顎で使われている身だと言う事を思い出して、また溜息が出る。そんな蘇芳を脇に、楸瑛と邵可の会話は続けられた。
「そうですか。態々ありがとうございます」
「いいえ、とんでもない。中は邵可様と静蘭の晩御飯だそうで」
「おや、静蘭もですか」
 言って何処か考える風の邵可に、楸瑛は首を傾げた。
「どうされましたか?」
「あ、いえ。今日は羽林軍で仕事があるので帰れないかも、と言っていたので」
「……羽林軍で?」
 今度は楸瑛が何かを考えるように目を眇めた。話の流れを聞いて、あの、と言い掛けた蘇芳よりも先に楸瑛はまた口を開く。
「本当に静蘭はそう言っていたんですか?」
「えぇ。今朝出仕する前に」
「……」
 ふむ、と楸瑛は頷いて、少しの後表情を和らげた。そんな楸瑛に邵可は不安そうに尋ねる。
「あの、何か…」
「あぁ、最近特にこれといった事件もないので、羽林軍で静蘭がしなければならない仕事はない筈だな、と思いまして。でも、私が全て把握している訳ではないし、何か静蘭にも特別な事情があるのかと」
 聞いて、ほっとしたように邵可は息を吐く。その瞬間を狙ってまた蘇芳が、あの、と言い掛けた、その時。
「……誰か来ましたね」
 遠くに響く馬の蹄と車輪の音を聞いて楸瑛がそちらへ視線を遣る。疾うに気付いていた邵可もそれに倣い、そして訪問者の正体とその人間の焦りを感じ取って眉を顰めた。蘇芳はまたも挫かれた言葉に項垂れながら、その軒の到着を待つしかなかった。
 三人が門の外へと移動すれば、角を曲がって真っ直ぐ此方へ凄い速さで向かって来る軒が見えた。やっと相手を察して楸瑛は一歩下がる。庇うように邵可が一歩前へ出た。そして勢い良く軒は止まり、直後人が飛び出してきた。
「兄上!」
 血相を変えた黎深に、邵可は眼差しを鋭くする。黎深の後ろからは鳳珠と悠舜も出てきた。それに驚愕を覚えたのは楸瑛と蘇芳、危機感を抱いたのは邵可だけだった。
「どうしたんだい、黎深」
 落ち着かせるように邵可は優しく声を掛け、黎深の肩にそっと手を置く。けれどその眼差しの鋭さだけは変わらない。黎深は一呼吸の後、表面上は落ち着きを取り戻した。それでも邵可は、黎深の揺れる瞳に気付いていたけれど。
「あの子どもが、『影』の視界から、消えました」
 あの子ども―――それが誰を指すのか、邵可には分かりすぎる程分かっていた。黎深の心を此処まで動かせる人間は限られていた。そんな中で、〈あの子ども〉。
 邵可は黎深にも聞えないように舌打ちをし、冷静に判断しようと努めた。それと同時に楸瑛も唇を噛んでいた。黎深が彼に『影』を付けていた事は知っている。そして楸瑛は『影』の監視から逃れる事の難しさを知っていた。それは、並大抵の業ではない。
「何処で消えた?」
 ひやりとした邵可らしくない声に黎深を除く人間が身体を強張らせたけれども、邵可は気にしなかった。気にしてやれなかった。邵可も酷く焦っていた。
「仙洞宮の、近くだと…」
(―――よりにもよって…!)
 黎深の言葉に邵可は手を握り締めた。その名が出て物事が首尾良く運んだ例がない。そして邵可にとって仙洞宮は〈あの名〉に最も近い場所だった。まさか縹家が今更彼に手を出すとは思えないが、それでも邵可の怒気と殺気と鋭気は増すばかり。
「ご、ごめんなさい…」
 邵可の逆鱗に触れたのだと、黎深は瞳を伏せた。そんな黎深に邵可は少し気持ちを落ち着ける。感情に流されては見えるものも見えない。今必要なものを見失ってはいけないと自分自身に言い聞かせた。
「顔を上げなさい、黎深。私は怒っていないから」
「……はい」
「よし、良い子だ。さて、『影』はもう動かしているね?」
「全力を尽くさせてます。でも、まだです」
「分かった。私も行こう」
「…、はい」
 邵可が動く事、それを何よりも嫌う筈の黎深の決断に悠舜も鳳珠も驚いて、でも何も言わなかった。一瞬の躊躇い。それが答えだからだ。
「黄家も動かしましょうか」
 『影』を、と申し出る鳳珠に、邵可はやんわりと首を振る。
「いいえ。どうやら数で攻めても今回は無理なようなので、お手間を取らせるだけでしょう」
 そう言われれば、鳳珠にしてやれる事は殆どない。何か、と考える鳳珠に、悠舜が言葉を紡いだ。今此処で思案してもしょうがない。
「兎に角宮城へ向かいましょう」
「そうですね」
 頷く邵可に、あの、と楸瑛が割り込んだ。
「私も行きます」
 夜目にも血の気の引いた楸瑛の顔が痛々しい。その理由を知っている邵可は、頷くしかない。
「分かりました。あ、タンタン君はどうしますか?」
 聞かれて漸く存在を思い出してもらえた事の喜びと、この状況で…と悔やまれる気持ちを持て余す蘇芳。どうしたってこの状況下で注目されるのは心臓に悪い。
「あー、えっと、……俺も、行きます」
 一様に頷き早速用意された軒に乗り込んでいく人影に、蘇芳は幾度目かの溜息を吐いた。自分とは世界の違いすぎる人間の中に独り最早貴族でもない自分。…哀しすぎる。それでも行かない事を選択すれば、視線で殺されそうで。
(あの女だけじゃなく、タケノコ家人も大事にされてんだなー)
 付き合いがあるから助けてあげようか、という中途半端な手の差し伸べ方ではなく、その人間を助けてやりたいという意志による助けの申し出。蘇芳にだって冷徹な吏部尚書の噂は届いていた。その黎深が必死な顔をしている様子に、蘇芳は尚更そう思う。何処か自分には誰もいないという風の彼ばかりを見てきた蘇芳にしてみれば、彼の勘違いを糺したい所だ。
(…ま、何でかそんな権利がないって思ってる節があるからなー…)
 乗り込んだ軒の窓から見える月が、少し夜雲に隠され始めていた。


 意識が夢と現を揺蕩っている。ふわふわとした浮遊感の中、彼は頬にひやりとした何かが宛がわれたのを知った。人の手のようだった。
(な、…に…?)
 声にならない言葉は、心の中にだけ響いたのに。それを、拾い上げる者がいた。
『心地良いか?』
 聞いた事のある声だと、ぼんやりと思う。冷たい響き。なのに、優しくて。
(きもち、い……)
 体中に孕んだ熱が少しだけ取り去られるかのような、不思議な感覚。もう片方の手で髪を梳かれる感触が朧げに分かった。そしてするりと解かれた、髪留め。整えるかのようにまた梳いて、冷たく優しい声の持ち主が小さく笑った気配がした。
『そうか』
 淡々とした響きが耳朶に沁みる。その声を、その人を、きっと自分は知っている気がして。
(だ、れ…?)
 心の中で、彼は呼びかける。力の入らない体を諦めて、重い瞼を開けようとする。少し開いたけれど、視界は不明瞭。つ…、と眦から熱い何かが零れた感触だけが、あって。
『……眠れ』
 低い声。有無を言わせぬ、圧倒的な。反して、そっと優しく視界を奪う掌。
『もう暫くすれば、来るだろう』
 誰が、と聞きたかった。貴方は、と尋ねたかった。けれど思考は逆らう意志を跳ね除けて沈殿していく。
(待って…ま、…って……)
 それが夢に帰着しようとする思考への言葉なのか。存在が希薄になっていく声の主に対する言葉なのか。分からないまま、頑是無い幼子のように手を伸ばす。
(待って、くだ…さ、ぃ……―――   )
 最後に呟いた言葉が、分からない。けれど恐らくそれが彼を引き付けたのだろう。伸ばされた手を掴んだ、冷たい手。
『変わらないな』
 苦笑交じりに言われた言葉が、理解出来ない。あぁ、駄目だ。意識、が……。
『おやすみ、清苑』
 堕ちる前。指先に、熱い口付け。


 宮城に着いた邵可達は脇目も振らず仙洞宮へと向かった。風の音が急かすように耳元で鳴る。邵可は深く呼吸を繰り返す事で焦りを殺した。
「黎深、『影』が最後に静蘭を見たのは?」
「入り口近くだそうです」
 ならば中に入ったのでは、と蘇芳は考えて、あ、と思い出す。仙洞宮は普段鍵がかかっていて、令尹以上の者しか開けられない。なら仙洞宮の外を探そうにも、やはりこの宮に何かある気がしてならない。そんな嫌な存在感が、その宮にはあった。
「羽令尹がいれば…」
 鳳珠の呟きに、沈黙が降りる。既に残業の時刻に入ってる時間帯、彼が残っているようには思えなかった。かと言って力任せに入る事は何があっても許されない。彩八仙の為の宮。其処へ土足で踏みにじろう者は、喩え王であっても許されなかった。仙洞宮とは、そのような場所。
「ではどうする…!」
 黎深が苛立ったように唸る。其処へ。
「―――何をしている」
 落ち着いた、けれど、子どもの声。声のした方へ振り向けば、先日仙洞省の令君に就任したリオウが居た。
「礼は良い。質問に答えてもらおう」
 その姿に一瞬遅れて礼をとろうとした邵可達に、リオウは感情の篭らない声で言う。手短に邵可が理由を話すと、リオウはふむと顎に手を添えた。
「…隠し通路に入ったか」
 ぽつり、と零された一言に、邵可を始め全員が瞠目した。
「隠し通路?」
「あぁ。仙洞宮は仙洞省の管轄。そして仙洞省は王家の婚姻も司る。王家存続の為に、もし王の婚姻相手に何かあっちゃまずいって事で、後宮で有事があった際逃げられるように後宮と仙洞宮は隠し通路で繋がっているんだ。仙洞宮の前で消えたと言う事は確かに仙洞宮に入ったと考えられるが、鍵がなくては入れない事を考えれば、仙洞宮入り口の近くにある隠し通路に身を隠したという方が可能性があるように思うが」
 確かに、と一同は頷き、そして気付く。
「身を隠さなくちゃいけない事があった、…って事?」
 唯一口に出した蘇芳の言葉に、黎深の表情が変わる。瞬き一つの間にリオウへと詰め寄った。
「その通路は何処だ!?
「黎深!」
 悠舜が咄嗟に押し止めるように名を呼ぶが、効果がない事は分かっていた。代わりに邵可がリオウを掴む黎深の腕にそっと手を置いて宥める。
「落ち着きなさい」
 言われて、黎深は渋々リオウから手を離す。黎深の突然の行動にも表情を崩さなかったリオウは、一つだけ溜息を吐いて邵可を見た。
「宥めても、諫めはせず、か」
 だな、と笑った。それに何も返さず邵可は聞く。
「隠し通路は、何処ですか」
 邵可でも知らない路。今此処で知っているのは目の前の少年だけ。
(何としても聞き出す)
 冷たい輝きすら持った邵可の瞳を、リオウの漆黒の瞳が真正面から受け止める。一瞬にも満たない冷たい時間。そしてリオウが踵を返す。
「付いて来い」
 教えてやるよ、とリオウは彼等に構わず歩を進めた。


 換気されていない為か、澱んだ空気。それでも綺麗な通路は逆に気味が悪い。灯りのない中、リオウが持つ一本の蝋燭を頼りに一同が足早にそれに続く。長く暗い通路の先、扉が見えた。
「…この先、か」
 リオウは人の気配を辿れるのか、幾つもあるうちの通路の一つを躊躇いなく進み、分岐点でも迷う事なくただ一つの道を選び取った。邵可でも不可能な芸当だった。
(さすが縹家…)
 苦々しく思うと同時に、僅かな賞賛も交じる。邵可は首を振って今探すべき人間の気配を探り続けた。仙洞宮の外にも中にも血痕らしきものはなかった。隠れる理由があるとすれば、それは毒。ならば早めに見付けなければと気が逸った。リオウが腕に力を込め、扉を開け放つ。薄暗い部屋が目前に広がった。
「……しかし、此処を知ってるとは…」
 感嘆とも苦笑ともつかないリオウの小さな独り言に、リオウの後ろから部屋へと踏み込んだ邵可は鋭く息を吸い込んだ。
(此処は、鈴蘭の君の……)
 後宮と一つに言っても宮はそれぞれ異なる。一人の姫に一つの宮が宛がわれる事も珍しくないからだ。そして此処は劉輝が王になってからは一度も使われていない宮。彼女が流刑に処されるまで過ごしていた、あの宮だった。
「何処です?」
 若干の動揺が邵可の集中力をなくさせる。屈辱にも似た感情を抱きながら邵可はリオウに聞いた。
「此処から二つ目の扉の中」
 淀みなく発せられた言葉に、邵可と黎深、楸瑛が走り出す。鳳珠と蘇芳は上手く歩けない悠舜に付き添った。最初に辿り付いたのは邵可。手加減なく扉を開け、そして、―――…見付けた。
「静蘭っ!!
 褥でなく机案の傍。崩れ落ちたかのような彼を見て助け起こそうとし、けれど邵可はそれが出来ずに固まった。遅れて入ってきた黎深と楸瑛も、何も出来ずに立ち竦む。原因は、彼に掛けられた色鮮やかな衣。
「禁色の、羽織…?」
 馬鹿な、と黎深が呟く。宮は主が居なくなった時点で綺麗に片付けられた筈だ。ならそんな物が此処に偶然ある訳がない。現在それを持ち、被せられる人間は王の劉輝ただ一人だが、その彼がただ羽織を掛けて何処かへ行く事など有り得ない。彼を、置いて。ならば何故、と考える三人の視線の先。
「……!」
 彼の手が、ぴくりと動いた。次いで聞こえた、細く震える吐息の音。まるで生命が吹き込まれたばかりの人形のように、彼はそろりと四肢に力を込めた。腕で床を押して少しずつ上半身を浮かせば、髪留めのない薄紫の髪が背へ肩へと散る。伏せられた長い睫毛を押し上げ覗かせた、静謐な泉水(いずみ)を思わせる翡翠の瞳。
 ゆっくりとしたそれらの動作は、華が時間を掛けて咲く様の如く。完全に面を上げ緩やかに瞬きを繰り返す彼は、彼の人を想起させた。
 肩に掛けられた紫の御衣。結われていない薄紅藤の髪。静かな翡翠の双眸。そして、艶やかな花の(かんばせ)
(――――……まさ、か…)
 言葉を失う彼らの中を少しの間揺れた視線が、黎深で留まった。そして感情のなかった貌に、微笑が花開いて。
「…どうした…? ――――黎深」
 思いがけない言葉。掠れた懐かしい声。その、呼び方。それに、トン、と背中を押されたように、黎深は頼りない足の運びで彼に近付き膝を付くと、彼の両頬を震える両手で包み込んだ。そして、呼ぶ。
「…………清苑…?」
 躊躇いがちな呼び掛けに返された、零れ落ちそうな笑み。滅多に見せなかった、彼、だけの。
「何か…、あったか…?」
 その言葉、その声音、その笑みに、あぁ清苑だと、黎深は確信した。何時だって彼は己よりも誰かを優先した。自分の苦しみを押し殺しても、誰かの苦しみに心を砕いた。黎深の両頬に、思わず微笑が刻まれる。
「相変わらず…お前は馬鹿だな」
 万感の想いが、其処にある。
「その言葉は私が口にするものだ」
 宛がう両手から感じる体温の高さ。吐息に交じる熱。潤んだ瞳に、瞬けば溢れる雫。何でもない振りをして最悪の体調。最初の邂逅と何も変わらない。あの時も彼は黎深を欺こうとした。分からない筈は、ないのに。
 その事を思い出してか、心配そうな黎深の声音が可笑しかったのか、彼は口端を上げた。そして、耐えるように伏せられた瞳。途端、自分を保っていられなくて。
「すま、な…―――」
 言葉が途切れた瞬間、彼は黎深へと倒れこんだ。


 声が、聞こえる。叫びに似た声。それが、自分の名を呼んでいる。
(れい…しん……)
 済まないと言いたかった。心配をかけた事。何時も気を使わせる事。想いを、受け取ってやれない事。
(駄目なんだ…)
 私では駄目だよ。お前と一緒に居てやれない。絶対に後悔させてしまうから。哀しませてしまうから。迷惑を掛けてしまうから。――…あぁ何よりも。
(お前の友で、在り続けられないから)
 済まない、黎深。これが恐らく最初で最後だ。友としての、紫清苑であるのは。
(今の私は……清苑ではない)
 清苑で、いられない。だから。
(黎深……済まない)
 そして流れた、一片の雫。


「清苑…っ!」
 しっかと彼を抱きとめた黎深は、傍らに立つ邵可を見上げた。何をして良いか分からない、子どもの顔。邵可はそれを受けて頷いた。
「何にしても此処では何も出来ない。府庫に運ぼう」
「わ、分かりました」
 そのまま運び出そうとする黎深を留めて、邵可は彼が羽織っていた衣を取る。事情を知っている者だけが集まっている訳ではない。勘の鋭い蘇芳が見れば知られてしまう可能性だってある。そして縹家のリオウも居るのだ。既に知られているかもしれないが、それでも隠しておいた方が良い。邵可は薄絹で出来たそれを綺麗に折り畳んで服の袷の中に隠した。
「行きましょう。藍将軍」
 黎深を手で押して促し、邵可は楸瑛に声を掛けた。けれど楸瑛は動かない。見れば何かを耐えるように唇を噛み締めていた。
「藍将軍?」
「っ…あ、はい」
 二度目の呼び掛けに楸瑛は漸くはっと顔を上げ、返事をした。首を傾げる邵可に首を振って、楸瑛は黎深の後を追う。戸惑いながらも邵可もそれに続いた。
「静蘭殿!」
 黎深に抱えられた彼に、悠舜はほっとした表情で近付いた。その脇に居る鳳珠も蘇芳も何処か安堵した雰囲気で、けれど熱に浮かされている彼に痛ましさを覚えた。
「府庫に運びます。陶老師はいらっしゃらないでしょうから、何方か主治医を呼んで頂ければ…」
「分かりました」
 私が呼びましょう、と鳳珠が素早く踵を返し、元来た路へと引き返した。黎深は慎重に壊れ物を抱くように彼を運ぶ。それを心配そうに見ながら、蘇芳は溜息を吐いた。それは安心した為だけではなさそうで。
(どーしよ…)
 引くに引けぬ展開に身を投じたと思えば、言うに言えない展開が待っていた。言わなくてもトンデモナイ事になるが、今言っても同じ事…いや、断然悪い方へ傾くだろう。人数と僅かな情を考慮して、蘇芳は口を噤む事を決めた。
 邵可の呼ぶ声に自分だけ遅れている事を知り歩き出した蘇芳は、リオウが自分を見ているのに気が付いた。何かを知ろうというように凝と見詰め、そして唐突にリオウは意地の悪い笑みを浮かべた。
「…賢明、だな」
 それがつい先刻の心に秘めた決断の事だと思い当たり、蘇芳は冷や汗をかく。そう言えば、この小さい(なり)で此奴は不思議に包まれたあの仙洞省の令君だと思い出した。
 言われた言葉を思い返して、久々に自分の勘の良さを褒めてやりたい。すっと肩の力を抜く。
「だってなー、今更ただの風邪だって、言いにくしなー」
 通路に入った直後のその言葉は、嫌に、響いた。途端片手程も居る人数の足音が綺麗に消える。蘇芳は冷たい空気を感じ取って、一歩下がった。
「え…?」
 馬鹿が…、と隣で呟くリオウ。そこで漸く蘇芳は自分の失言と運の悪さに気が付いた。泣きそうになる。
(いっつも一言多いって注意されてんのに…!)
 まさかこんな逃げ道のない所で、しかも逃げさせてもらえないような人達に囲まれてなんて事を言った自分。
(うわ、俺、ほんと馬鹿!)
 カサリ、と何かが擦れる音がする。それは多分、沓と地面が擦れる音、もしくは衣擦れ。近付いてくる。
「タンタン君…どういう、事かな?」
 邵可の優しい声。優しい声がこれ程怖いなんて知りたくなかった蘇芳だった。その声に見合う笑みも、怖い。あのタケノコ家人も顔負けだ。
「あ、あの…」
 何も言えずに扉まで追い詰められた蘇芳の目に涙が滲む。怖い怖い怖い。ちょっと前の自分を本気で殺したい。そう思いながらも近付く邵可を止めれる訳はなくて。
「後で、ちょっと、一緒にお話ししましょうか」
 当然拒否など出来る訳がなかった。


 府庫の中。邵可は、昼頃偶然会った彼から風邪である事を伏せて今日は帰宅できない旨を伝えて欲しいと頼まれた事、それを言おうとしたら尽く出鼻を挫かれた事、言うに言えなくなった事を蘇芳から聞き出した。確かに何度か何かを言おうとしていたなと思い出し、邵可はちょっと蘇芳に申し訳なく思った。当の蘇芳は恐怖に身体を縮こまらせている。
「ちゃんと話を聞いてあげれば良かったね」
「あ、イエ…」
 そんな会話の傍で、楸瑛と黎深、悠舜とリオウがそれぞれの場所に立ったり座ったりしていた。けれど一様に一点から視線を外さない。見詰める先は、仮眠室への扉。今、鳳珠の連れて来た医師が彼を診ていた。傍には鳳珠も付いている。それにしても、と悠舜が溜息を吐いた。
「どうして静蘭殿は態々あんな所に…しかも『影』から姿を消してまで」
 其処までする必要があったのだろうか。幼少期の暮らしを考えれば、確かに「たかが風邪、されど風邪」だ。風邪になれば大の男だって行動が制限される。体が思うように動かない。視界もぶれるし力も入らない。格好の餌食だ。
(でも、今は……)
 そう考える自分が甘いのだろうか、と悠舜は考える。彼が彼である事は今までも、そしてこれからも変わらない。背負うものも、変わりはしない。だからなのかと思考する悠舜の耳に、蘇芳の言葉が届いた。
「……心配させたくなかったから、だと思いますけど」
 それには一同が驚いた。その中で、蘇芳は邵可に視線を向ける。
「あいつ言ってたんですよ。自分が今居させてもらってる家では、怪我よりも病を恐れてるって」
 その言葉に、邵可と黎深が反応する。蘇芳は言葉を続けた。
「自分が帰れば、二人のどちらかに風邪を移してしまうかもしれない。……それは、嫌だって」
 邵可は思い出す。以前秀麗が風邪をひいた時の自分の動揺。ただ怖かった。病は簡単に大事な人の命を攫っていく。だから彼女がそうであったように、秀麗もまたそうなるのではと。あの時あんな姿を見せなかったら彼は今回一人で耐える事はなかったのに。そう後悔する邵可は面を伏せた。自分が情けない。
「……それにしても、よりによって行く場所がどーして彼処なんだろ。っていうかなんであいつあんな所知ってたんだ?」
 独り言っぽい独り言を零した蘇芳に、リオウを除いた一同が肩を震わせた。自省していた邵可が咄嗟に笑みを引き寄せ話を逸らそうとした時、仮眠室への扉が開いて鳳珠とその医師が出てきた。
「…落ち着いた」
 微かな沈黙の後の鳳珠の第一声に、各所から小さな安堵の溜息が溢れる。自身も安心したように笑って、蘇芳は府庫の窓から昊を見上げた。少しばかり移動した月は、完璧な円を描いて存在を誇るように輝いていた。


 それから幾つかの夜を経て、黎深は邵可に会いに来た。聞きたい事が、あった。
「兄上」
「うん」
「覚えて、ないのですね?」
 直球の質問に、答えを用意していた邵可も僅かにたじろぐ。それでも意を決して口を開いた。
「…うん。どうやらあの日の殆どの記憶がないらしい」
 嘘は多少あるだろう。けれど、紫の衣、そして黎深への言葉。それらは綺麗な程抜け落ちていた。
「……そう、ですか…」
「黎深…」
 視線を落とす弟に、邵可は何と言って良いか分からない。そんな兄に、黎深は笑って。
「大丈夫です。…夢だったのだと、思う事にします」
 熱に浮かされた彼が見せた夢。焦がれていた。それでも醒めてしまえば、何と残酷な。けれど黎深は笑う。
「私は、公子であるあいつが好きだった訳では、ないですから」
 彼ほど禁色の似合う人間はいないだろう。完成された言葉。洗練された挙措。気品は恐らく誰にも負けはしない。その彼が喩え襤褸(ボロ)を纏ったとしても、彼は彼で在り続けるだけだ。それを黎深は、嫌と言う程、知っていた。
「何も変わってないんです。あいつは、…あいつのままで」
 それでも其処に幾許かの強がりがある事に気付いてしまう邵可は、優しく黎深を撫でてあげた。黎深は、泣きそうな顔で、笑った。


20090411
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