濡羽(四)

[ 孤塁の覚醒 ]

 少年は何も喋らなかった。
 言葉がある事も分からない。
 そんな風に、声を出そうともしなかった。
 そして世界を拒絶するように、瞳は何も映そうとはしなくて。
 何をする事も拒んで、ただ、其処に居た。
 その状況から少し動いたのは、円月の夜の事。
 邵可が様子を見ようと少年の居る室に入った時。
 上体を起こして月に視線を向けていた少年が、邵可を、見た。
 何も映さなかった瞳に、邵可を。
 驚いて、邵可は立ち竦む。
 それを気にせず、荒れた薄い唇が、動いて。
「……名を、何と言う」
 掠れた声。
 細い声。
 けれど冷たく、そして屈する事のない、声。
 あぁ彼に良く似た、その声音。
 思わず邵可は膝を折る。
「紅、邵可と、申します」
 彼を彼として扱う事が危険すぎる事は分かっていた。
 それでも、そうして礼を崩す事が出来なくて。
 そして顔を上げた邵可は、はっと息を呑んだ。
 儚く淡い、一瞬の後には消えてしまいそうな微笑。
 此処に来て初めての、そんな少年の笑みに。
 そして。
「紅邵可」
 莞爾として笑う少年の瞳から溢れる、雫に。
「―――恨むぞ」
 その、言葉に。


  黒狼の功罪


 家族が、茶器が、食器が、寝具が、衣類が、食事が、呼ぶ声が、三人分から四人分へと変わって、どれくらいが経っただろう。そして、人が変わって三人へと戻って、どれくらいが…。
 時たま邵可はそういった家の変化に思考を沈ませる。そんな穏やかで平和と言える時間に自分が身を浸している事に驚かなくなって久しい。一人の女性(ひと)を愛した時が一番の驚きだったのだから、それも仕方ない事かもしれない。
「兄上」
 そう思いに耽りながらもしっかりと把握していた気配の呼び掛けに、邵可はゆっくりと振り返った。府庫の扉を潜り近付いてくる吏部尚書の姿に、微かに苦笑する。
「黎深。今は公務中の筈だけど…」
 何度も繰り返したその言葉に、黎深は何度も返した言葉を吐く。
「私が態々するような仕事はありませんね」
 絳攸で充分です。
 それが実は養い子自慢だと知っている邵可は、そうかい、と言って黎深の懶惰(サボり)を黙認する事にした。そうして邵可の前の椅子に座り、ちらちらと何か言いたげに視線を寄越す黎深に、邵可は思わず笑みを零した。何時までも兄に対しては素直に感情を吐露する弟を、邵可はひっそりと愛していた。その愛情をちらりとでも見せれば調子に乗るので隠し続けてはいるけれど。
「お茶でも飲むかい? 黎深」
「は、はい!」
 望む言葉をやれば、望んだ反応が返って来る。それに深く笑んだ事を、意地悪な邵可は背を向けたので黎深が知る事は何時までもない。
(変わらないね)
 そう心中呟いて、けれどふと否定する。
(…逆に、変わったのか)
 あぁそうだ。変わったんだ。私も、黎深も。
(手に入れて、喪って)
 手に入れて変わった心は、それを喪っても元には戻らない。それが良い事なのか悪い事なのか、邵可には分からなかった。
(私は彼女を。黎深は、彼を)
 湯を沸かしながら邵可はちらりと黎深を見た。見られているとは気付いていない黎深は、窓の外に視線を固定している。何かを探すようなその横顔は、無に近い。
(傷はまだ、癒えてない)
 何年経っても傷は傷のままだった。失くしたものの存在が、黎深の中で大き過ぎた。それは邵可もだったけれど、邵可にはまだ遺された者が居た。黎深には、何もなかった。
(…仕方のない事だ)
 彼は最初から最後まで黎深に何も残さなかった。ただ形の無いものばかりを与え続けて、だから黎深と彼との繋がりを証明するものは何もない。
(だからこそ、まだ紅家は在り続けている)
 あの時御史台に彼との繋がりが露見していれば、紅家の存続はなかった。とっくの昔に紅家全員が土の下に体を横たえていた事だろう。黎深の傷を引き換えに紅家が生きている。皮肉な事だと目を瞑り、本当に彼は何処まで見通していたのだろうと嘆息した。
(紅家だけじゃない、藍家もだ)
 三つ子が彼に執着していた事は、彼等から直に聞いて知っていた。けれど彼等もまた健在だ。未だに絶対的な権力をその手に握っている。あぁだからこそ、邵可はやり切れない。
(彼は多分、玉座を巡って争うには優しすぎたんだ)
 彼の罪がこうして誰にも及んでない事が、何よりの証拠だった。そうして漸く邵可は昔の黎深の言葉を理解した。
『……あの子どもは、優しすぎるんです』
 言われた時には良く分からなかった。邵可は噂の彼しか知らなかったから。だけどこうして思い返せば彼の姿が見えてきて、それが真実である事を知る。だからその優しさの為に黎深が傷付いても、邵可は彼に感謝するしかない。
(彼のお蔭で、今の黎深が、秀麗が、私が、在るから)
 それは酷く身勝手な事かもしれないけれど、と心の痛みを殺す邵可の耳に、突然声が飛び込んだ。
「―――あ、兄上っ」
 ん?、と視線を上げた邵可は、けれどそれが自分に向けられたものでも、そして発言者が自分の弟でもなく、我らが主上だと知って顔を引きつらせた。というか、黎深の顔を見て。
(怖っ!)
 初めて弟に恐怖を抱いたかもしれない、と汗を流す邵可。
(な、何で? 主上の声が聞こえたから? 主上が此処に居るから? ははっ、自分だって此処に居るのに、って理屈は通らないね、黎深だしね。って言うか主上がってそれってまさか)
 邵可も何だかイマイチよく分からなくなってきたが、兎に角黎深が酷く苛立っている事は理解出来た。そんな府庫の中の状況などいざ知らず、府庫の外でもう一人の声がそれに応える。その声に黎深の睫毛が僅かに震えたのを、邵可は見逃さなかった。
「なんですか、主上」
 若干冷たい言葉は、恐らく兄と呼んだ事への諫め。少し怯んだ気配はしたものの、彼の弟は果敢にも言い返した。
「だ、大丈夫です! この時間帯にこんな場所にいる暇な人間はいません!」
(うわ…っ!)
 思わず邵可は心の中で声をあげた。一瞬鳴りを潜めた黎深の怒りが大火のように燃え上がる。肌を刺す程増したその怒りは相当のもの。居る事を知らないとは言え、なんて事を言うんだ主上。そんな心を彼等が知る筈もない。
「……それでも、だよ」
 そう言いつつ兄へと切り替えた彼は、小さく笑ったようだった。
「それに、お前も公務中の筈だが?」
(あ、同じ事言ってる)
 邵可は妙な親近感を抱きながら、そっと湧きかけた湯を火から遠離た。今音を立てては折角の兄弟で居られる時間が水泡に帰す。けれどそれを守る為にはもう一つ気にしなければならなかったが。
(……?)
 邵可は首を傾げた。黎深の表情から雰囲気から、怒りがすっと引いていくのに気が付いて。それを今問う訳にもいかず、邵可はただ口を閉ざして外の会話に耳を傾けた。
「や、休み時間、です…」
 情けなく消えた語尾が、その言葉の真偽を暴く。それでも彼が怒る事はなかった。
「そうか」
 ただそう言って、優しく笑んだのだろう。途端弾かれたように、はいっ、と嬉しそうに言った劉輝の声が、それを伝えた。けれど、次ぐ呼び掛けの声が、僅かに上ずる。
「あ、の、…兄上」
「ん?」
 春風が通り抜ける音。その中に紛れそうな、細い、声。
「――……鈴蘭を、見に行きませんか?」
 その瞬間、全ての音が凪いだ気がした。
(それ、は――…)
 邵可が、黎深が、彼が、鋭く息を呑む気配。
(鈴蘭)
 その言葉は彼の心に酷く響く。どんな、意味でも。
(…主上)
 だからこそ、邵可は瞑目した。
(それを言うのに、どれだけの勇気をつぎ込んだのだろう)
 兄の表情に、思う事はあるだろう。それでも、彼は。
「今年も綺麗に咲いたんです! いっぱい! だ、だからっ…」
 見に、行きませんか…?
 意気込んだ声は消えそうな声へと変わった。そうして生まれた痛い程の沈黙は、けれど風が紛らわせてくれて。暫くしてそれに応えた彼の声は。
「……連れて行ってくれるか?」
 優しい、春の日差しのような声。その声に、その言葉に、酷く安堵したのだろう。はい、と応える声が、僅かに滲む。
 そして仲良く消えた二人分の足音を、府庫の中の邵可と黎深は最後まで聞いていた。
「…黎深」
 完全に気配が消えた後、呼び掛けた邵可を黎深はゆっくりと見返した。その表情に邵可はおやと驚いた。黎深は何かを隠すように表情を取り繕っていた。それは、黎深の機嫌が良い時の癖。気付かれたと知って、黎深は今度こそ、笑った。
「………安心、しました」
 表情は見られなかった。声だけで判断するしかないけれど。
「この場所で、笑えるようになったんですね」
 溜息を零すような言葉に、邵可も微笑する。
「そうだね」
 彼がこの場所を仕事場として選んだのは、もう何年も前の話だ。最初、邵可は心配だった。黎深はそれ以上に心配した。けれど存在が周りに知れる事もなく、彼は上手く立ち回った。だから安心していたのに…。それから少し経ってからの事だ。偶々彼が仕事をしている様を遠くから見た邵可は、ぎくりと肩を震わせた。あまりにも、彼の表情がなさ過ぎて。
(まるで、薄氷のような)
 止めれば良かったと、その後何度も後悔した。宮城(ここ)が彼にとって治りきらない傷である事など、良く分かっていたのに。それを黎深に気付かれて、やっぱりだと怒り辞めさようと息巻く黎深を、邵可は慌てて説き伏せた。此処に戻ってきたのは彼の意思だった。自分で決めて、自分で選んだ。その道を、邵可は歩ませてやりたくて。そうして最近やっと、彼は此処でも笑う事が出来るようになった。
「……あの洟垂れ小僧がそうさせるのだと思うのは、癪ですがね」
 でもきっとそれが正解なのだろうと邵可は思う。彼が此処で心を開いたのは、後にも先にも劉輝だけだろう。彼が生きる理由。それは何時までも、彼の弟に在る。
(……では…)
 ふと、思った。
(彼が、死ぬ理由は…?)
 ぞっとした。肌が粟立つ。慌ててそんな筈はないと己の考えを打ち消した。なんて事を考えるんだと自分を叱咤して、邵可は温くなってしまった湯をもう一度火にかけた。
「兄上」
 そんな邵可の背の向こう側に居る黎深の呼び声。振り返れば、浮かべられた微笑。何かを慈しむようなそれは、邵可でも見た事のないもので。
「あいつを拾ってくださって、ありがとうございました」
 知らず、邵可は息を呑んだ。それに視線を下げた黎深は気付かず、言葉を繋げた。
「…兄上と義姉上のお陰で、あいつは普通に笑えるようになりました」
 心を隠す為に浮かべた笑みに慣れすぎて、本当の笑顔を忘れてかけていた彼。黎深と一緒に居てもその癖が抜ける事はなかった。片手で足りる程しか、彼の真実を垣間見ていない。諦めていた。傷付いた彼を見た時、もう無理かと。けれどまた微笑みかけてくれた。それは嘗ての彼とは違ったけれど、…それでも、良い。偽りの笑顔でなく、無理矢理浮かべた笑みでもない。ただふと出た微笑。
「今度こそ、自由に」
 そう言う黎深の優しい笑み。邵可は何も言わず、そっと唇を結んだ。笑みもせず、ただ、言葉を殺す為に。その笑みを、壊さぬように。


 思い出す。冬の終わり。虚ろな瞳。傷付いた心と身体。満月の闇。零された笑み。流された涙。怨嗟の言の葉。
(あの一時、彼は私を憎んでいた)
 けれどそれは夜が明ければ何もなかったかのように隠された。その一夜がなかったように彼は依然として彼等を意識しようとはしなかったし、ただ其処に居るだけの存在となった。菜を差し出しても食べようとせず、水さえも口にしない。睡眠だってとらず衰弱していった彼。諦めたくなかった。救った命が消えてしまうのは嫌だった。何より、弟が執着した初めての人。死なせる訳にはいかなかった。それでも彼は彼等の厚意を決して受け取ろうとはしなくて。
 それにとうとう癇癪を起こしたのは薔薇姫だった。滅多に怒鳴る事も怒る事もしなくなっていた彼女が、たった一度だけ、声を荒げた。
『はよ食べや! これは命令じゃ!』
 怒った訳ではなく、このままでは死んでしまうと焦りが高じた一言。それは、酷く効果を発揮した。
『……………めい、れい……?』
 そのたった一言に、彼は反応した。そして、薔薇姫を見る。
『…?』
 どうしたのじゃ、と怒鳴った事もあってか彼女らしくもなくおろおろする薔薇姫に、彼は口を開いた。
『めいれい、なら……』
 手を、伸ばす。いくら言っても見向きもしなかったそれに。そして。
『………おいしい…』
 一口だけ口に運んで、そう言った。顔は変わらない。口調もそのまま。それでも、彼は確かに食べ物を口にした。そうそれは、とても喜ばしい事の筈なのに。
『………』
『………』
 邵可も薔薇姫も、見合って悲しく眉を下ろす。それから何度か試した。そしてそれは、邵可と薔薇姫の考えを裏付けるだけに終わった。
(彼は誰かに命令されてでしか動かなかった)
 与えられた名を名乗る事も。邵可達の傍にいる事も。食事を摂る事も。寝る事も。全て。
 たった一つ拒絶したのは、彼等の家族になる事だった。いくら邵可や薔薇姫が言おうとも、懇願しても、最悪は命令しても、彼はそれだけは拒絶した。ならば、と提示したのが『家人になる事』だった。家人は召使いという意味と家族という意味を併せ持つ。騙されてくれる事を期待した。真意に気付いてくれればと。けれど、彼は。
『……分かりました、旦那様、奥様』
 その言葉を聞いて、邵可と薔薇姫はまた悲しくなった。彼は、決して彼等の家族であろうとはしなかった。
(…あぁそれを)
 吐息が、揺れる。
(黎深に、知られたくなくて)
 あの時引き結んだ唇。
(自分達でも無理だったのだと)
 それは、自分の罪を隠す為。


 風が通る。一人きりになってしまった府庫の中。それが去った後に、ぽつりと邵可は呟いた。
「…私では、駄目だったんだよ」
 他の誰なら良かったのか。邵可には分からない。それでもただ分かるのは。
「私が迎えに行くべきでは、…なかった」
 瞑った目蓋の裏。ずっと忘れられないあの日の少年(かれ)が、其処に居た。


20090507
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