濡羽(三)

[ 紅涙の軌跡 ]

 彼は一度、大切な者を守れなかった。
 唯一と言っては語弊があるものの、それでも彼が認識している中で最も大事であった人を危険な道へと歩ませた。
 それは己の無力さ故。
 当時とても幼かった彼は、けれど皮肉な程賢くて。
 幼いながらに其れが痛い程分かってしまったから。
 彼は嘆いた。
 力のない己を憎んだ。
 憎んで憎んで、そして静かに誓った。
(守ってやる。大切な誰かを、今度こそ)
 けれどその誓いは果たされなかった。
 彼はまた大切な者を守りきれずに喪った。
 その時彼を苛んだのは、憎しみではなく絶望だった。
 それでも打ち臥し続けず立ち上がれたのは、その大切な者が何を望んだかを知ったからだ。
 そして彼はまた誓う。
(次はない。もう二度と喪わない。守り抜く。―――何をしても)
 何をしても。
 自分がどうなろうとも。
 そう、決めたのに。
『―――様、流刑地に到着される直前、行方不明に…』
 『影』の報告に、心が凍る。
 彼はまた、自分が無力である事を知った。
 また大切な者を守れず喪った事を知った。
 今度は憎しみも絶望も、彼を責め苛む事はなかった。
 …いや確かに、憎しみも絶望も、彼の心に育っていた。
 ただ彼はその存在を感じられない程、心を失いかけていた。
 しかしその事に誰もが気付かなかった。
 家人も、彼の弟も、彼の大切な彼女も。
 誰も、…誰も。
 それを隠すのに、彼はあまりにも長けていた。
 彼の兄に引けを取らないくらいに。
 哀しい程にその仮面は完璧で、絶対だった。
 だから。
 彼の兄しか知らないのだ。
 あの日の夜。
 彼がどんな言葉を吐き。
 どんな経緯で心を決め。
 どんな想いで、静かに、頷いたのか。
 誰もが、知らないのだ。
 彼が自分の家の当主になると決めた日に。
 少しというには言葉が足りない程、哀しみに濡れた夜があった事を。


  世襲の梗概(こうがい)


 実の弟により邸を追い出され、これ幸いにと家族と紫州に上ったのは数ヶ月前の事だ。そして今数ヶ月ぶりに追い出された邸に訪れた邵可は、微かに眉を顰めて門前で立ち尽くす。
 普段は人の動きが感じられる邸が、異様な程に静かだった。百人近く抱えている召使いが何時も忙しなく動いている筈なのに。広大な邸に誰も居ないのではと錯覚させるように、静かだった。
(こんなにも静かなのは、大叔母様が亡くなった時以来か)
 けれどそれは悲しみの為の沈黙であって、このような底知れぬ恐怖を堪える沈黙ではなかった筈だ。そう。あの時も今も、紅家は大叔母が亡くなった本当の理由を知らないままで居る。
(まぁ、黎深がかぁなり無茶言って我が道突っ切ってるみたいだし)
 百合の手紙を読んだ所、彼らしく非常で非情な手を尽くして紅家を壊しに掛かっているらしい。当然召使い達もその事を知っているのだろう。この静けさは、今黎深に触れれば火傷では済まず、自分の家族、それどころか一族郎党全てが殺されてしまうのではと恐れているからなのだろうか。
 それは黎深に限らず紅家という大器で見た場合でもありそうな事だと苦笑したその裏で、邵可は重い重い息を吐く。
(…それが出来るなら、安心しても良いかな)
 もうあれから月は幾つも通り過ぎた。忘れるには不十分で、霞むには十分な時が。けれどそれは理由にはならなかった。時間は決して最高の治療法ではない。それは邵可自身が嫌と言う程知っている。それでも。
(そうであって欲しいね)
 自分らしくないと分かってもその願いは消えない。矢張りどんな弟であっても可愛いらしいな、と心の中に零した時。
「―――邵兄上!!
 何してるんですか何時までもそんな所で全く何時も通り役に立たない人ですね――…。
 邵可の姿を認めて怒鳴りながら近付いてくる今一人の弟、玖琅に邵可は思わず微苦笑する。それを見咎めて玖琅は邵可を睨め付けた。
「笑い事じゃないんですよ」
「分かってるよ」
 兄達よりも断然当主らしく育った紅家第一の玖琅は、邵可の笑みをそう捉えたらしい。変わらないね、とその事で更に笑みを深くしながら、疲労の色が濃い玖琅に重ねて黎深を思う。玖琅をこれ程までに疲れさせる事が出来るのだ。大丈夫。きっと、…大丈夫。
(黎深は何時も通り、元気な暴君で居るだろう)
 それを裏付けるかのように、玖琅は声を落ち着かせて邵可の瞳を真っ直ぐに射抜いて言う。
「黎兄上を即刻鎮めてください」
 もうこれ以上は紅家も紅州も保ちません。
「これくらいは役に立ってください。邵兄上」
 大真面目に言い切った玖琅に苦笑は自然と微笑に変わる。事が大きければ大きい程、大丈夫だと思えた。安堵の為に、軽口が口を突いて出る。
「全く、相変わらずだね。君達は」
 それを聞いて苦い色を増した表情を作った玖琅を通り過ぎて、漸く邵可は門を潜る。
 兄弟の気性も、力関係も。まるで幼い頃と変わりない。黎深が怒って、玖琅が迷惑して、そして邵可が黎深を宥める。そんな兄弟関係が今になっても続くとは。しょうがないな、なんて。その時まで邵可はのんびりと構えていたのに。


 黎深、這入るよ。
 そう言って返事も待たず黎深の個室へと足を踏み入れた邵可は、一歩進んで立ち止まった。意識的にでなく、それは無意識に。邵可はそれ以上進む事を放棄した。
 邵可が居るにも拘らず、黎深の重く静かな怒りは変わらず其処に満ちていた。兄上大好きな兄上至上主義者の黎深と言えども邵可に怒りを持つ事だってある。今回怒りを邵可に向けるのは筋の通った事でなくても。
 けれど邵可はそれに徒行を諦めた訳ではない。そうでは、なくて。知らずにじわりと汗が引いていく。喉が上下する。手を握る。この寒気は一体何だと自問する自分にさえ気付けずに。
「黎深」
 呼び掛ける事に、時間を要した。その呼び掛けも何処か痞えを残した言い方で。邵可はじっと彼を見る。窓の外を見詰め、決して邵可の方へ振り返らない黎深を。纏う雰囲気が、どう考えても玖琅や百合から聞いた彼ではない、黎深を。
「…黎深」
 部屋に這入ってから二度目の呼び掛けにも、黎深は何も返さなかった。邵可は身震いした。黎深の感情を読み取れない。部屋に満ちる怒気さえ霧散して、今はない。それが酷く恐ろしくて。
(黎深…)
 それ以上声を出して良いものか迷った。近付く為の一歩を踏み出す事も。自分が此処に居る理由を果たす事も。今の黎深に、当主と言う単語を発する事すら躊躇った。その一語で、黎深がどうにかなってしまいそうで。
(……どうにかなってしまいそう?)
 何を馬鹿なと邵可は笑おうとした。黎深は弱くない。何処も何処も、弱くない。だからそんな一語を恐れる必要も心配もない筈だ。そのたった一語が黎深をどう変えると言うのだろう。変わる筈もない。そうだ。彼は未だに兄の手を煩わせ弟に苦労を押し付ける。子どもの頃と何一つ変わらない。
 だから大丈夫だと笑おうとして、けれどそれは僅かに頬の筋肉を動かしただけで沈黙した。笑えなかった。その理由を知っている。知っていて、邵可は知らない振りをした。そして一つだけ溜息を吐く。
(…埒が明かない)
 色々考えるから進まない。双方が傷付かないようにしようとするから言えない。なら考えるな。傷付かず話せないなら傷付いても話す事を選べば良い。停滞している時ではないのだ。紅家も黎深も、邵可も。何時かは必ず向き合うべき事実なのだから。そう思って邵可はそっと心を決める。そして。
「黎深」
 穏やかさと優しさを打算的にその声に混ぜて、邵可は強張る喉を抉じ開け、黎深に言った。
「当主に、なりなさい」
 黎深を当主に。それは黎深の傍若無人、徹頭徹尾自己中心的性格を鑑みても変わる事のない、紅家、紅州の願いだった。弟に才の劣る長兄よりも、兄に才の劣る末弟よりも、最悪の性格性質性癖を持つ紅家随一の天つ才と謳われる紅黎深を、我が一族一州の主に。
 それが幾許かの虚偽を含んだ願いだと知りながらも邵可はそれで良いと思っていたし、玖琅はその虚偽を知らずともそれで良いと思っていた。
 そもそも今はまだ邵可は動けない。玖琅にその責務を押し付けるにしても、彼は決して動きはしまい。一番下である事を自覚し自戒し、兄に付き従う姿勢を崩さない彼は。だから玖琅は父の遺言通り生前の言葉の通り、黎深を選んだのだ。自分を排除した当主候補の中で、誰が当主に相応しいかを考えて、自分が一番相応しい事など知りもせず、黎深の居ぬ間に当主に据えるという誰もが恐れ考えぬ事を実行したのだ。
 そしてその決断は間違いでなかったと邵可は思う。後少し父が死ぬのが遅ければ邵可が当主になるという道もあったかもしれない。けれどその道を考えた所で仕方ない。意味がない。父は死んだ。次の当主を即刻決めなければ。
 だから邵可は黎深に言う。自分はこの言葉を伝える為に来たのだと、自分自身で噛み締めるように。
「次期当主は、君だよ」
 その言葉に、反応は先刻と同様ないものかと思われた。しかし。
「――…何の為に、です?」
 空ろな響きを伴った声が耳朶を擽る。それは黎深の反応を予想していた邵可すらぞっとさせるのに十分だった。誰の声だと問いたかった。信じたくなかった。それが、黎深の声などとは。それでも紛れもなくその声で語るのは、黎深以外の何者でもない。
「黎深…」
 呼び掛けに答えるようにゆっくりと振り向き、そして見据えられたその瞳も、酷く空虚。それに気付かぬように、黎深は滔々と言葉を重ねる。
「何の為に、当主になれと仰るのですか」
 怒気も非難も哀切も、その声にはなく顔にもない。何も、ない。けれどどうしてか、酷く酷く、切なくて。黎深と、最早呼ぶ事すら出来ず唇を震わせた邵可を見て見ずに、黎深は酷く平坦な声を出す。カタカタと震える手を知らずして、「兄上」と黎深は邵可を呼び、心の声を零した。
「忠誠を誓うと決めた者が、玉座にも、宮城にも、居ないのに…?」
 その言葉に邵可の喉はひくりと鳴って息を凍らせ、言葉を毀してただ喘いだ。
(求めるものは其処にない)
(ならば何になる)
(当主の座に就きどうなると)
(そんな権力を持ち得た所で、あいつが帰って来る訳でも、ないのに)
 その黎深の心が分かるから、尚。
「…教えてください、兄上」
 黎深は問う。
「教えて、ください」
 邵可に縋るように。
「求める事も願う事も叶わぬのなら」
 何もない虚ろな目から。
「何の為に、私が、当主に…――」
 涙を、流して。
(………分かっていた事だ)
 語る言葉を失って口を噤んでいた邵可は、震える息をそっと吐く。黎深から流れる雫から目を離さず、ただ、静かに。
(こうなる事は、…分かり切っていた)
 彼の流罪をどう肯定的に捉えようとした所で、黎深の心に負った傷が癒される筈もない。そんな言い訳で庇える程、黎深の彼への想いは、弱くない。
(ただ、押し込めていただけ)
 出て来ぬように、尋常ならざる気力を使って虚勢を張って。けれどそれが当主問題により崩れてしまった。呆気なく、成す術もなく、どうしようもなく。一年近く精一杯保っていた均衡が、崩されてしまった。
(当主は一族の長)
 そして紅家が彩七家であるとなれば、こうなる事は必然だったと言って良い。
(……当主は王家に近いのだ)
 政の順列でなく家の序列で見た場合、紅家は藍家と共に紫家に次ぐ。そして行事事ともなれば宮城に当主が赴くのが通例だ。もし黎深が当主になったなら。
(黎深が、宮城に赴く事になる)
 宮城―――それは最早彼の姿を見る事が叶わぬ場所。
(だから、黎深は…)
 握り締める拳は、痛みを感じぬ程に邵可の肌に食い込んでいた。滑るそれが汗でない事なんて知っている。それで良い。それでも足りないくらいだ。忘れていた訳じゃない。ちらりと此処を出る時に浮かんだ筈だ。黎深の事。こうなる事は。それでも大丈夫だろうと。何を、―――無責任に。
(黎深が痛みを飼い殺している事を、この家の者は誰一人として知らなかったのに)
 邵可だけだった。黎深と彼の交友を知る者は。黎深がどれ程悲しみ嘆き怒り、けれどそれをやっとの思いで殺した事も。何の為に彼が黎深を突き放そうとし、黎深の手を最後の最後で離したのかを、ちゃんと分かったから。だから大丈夫だと嘯き、ぎこちない笑みを浮かべて今まで耐えてきたのだと。その事を、邵可だけが知っていたのに。
(ごめんね、黎深)
 自分は黎深を傷付ける事しか出来ないのだろうか。幼い頃もそして今も。黎深が結局は許してくれる事を良い事に、どれ程深く自分は彼を傷付け続けてきただろう。傷付けて、行くのだろう。
(それを知る事は出来ないし、だからこそ、私は傷付け続けるのだろう)
 罪悪感を抱きながら、容赦なく。これまでも。これからもだ。
(…ならば、せめて)
 躊躇いは一瞬だった。邵可は、決意した。
「……黎深」
 呼び掛けに黎深は応えなかった。ただゆっくりと瞬きをするのを見ながら、邵可は。
「私は、彼を迎えに行ったよ」
 言うべきでない事。聞くべきでない事。言ってはいけない事。聞いてはいけない事。それでも言わねば後悔する。聞かねば後悔する。自分も、黎深も。だから邵可は口を閉ざさない。黎深の視線が揺らぎ、唇が戦慄いたのを見ながら。
「少し前、霄太師から要請があった」
 す、と息を吸う。それは躊躇いを殺す為ではない。背負う為だ。言う事で、隠す真実の痛みを。その覚悟を、背負う為に。
「元第二公子を拾いに行けと」
 邵可は決意した。黎深に伝える事を決意した。嫌われる事を決意した。恨まれる事を、決意した。黎深に。…――彼に。
「彼は今、紫州に在る私の邸に居る」
 だから黎深。
「自分の為に、君は当主になりなさい」
 彼は今、紅家の手の中に。ならその次はどうするか。卑怯である事は重々承知だ。その言葉で黎深はもう逃げられない。当主という地位から逃げられない。逃げる事はつまり、彼から一切の手を引く事を意味する。それでも、だから、邵可は。
「――――当主(きみ)は彼を、どうしたい?」
 その言葉を最後に、沈黙が室に満ちる。邵可が踏み込んだ時と同じで違う沈黙の中、それが今は暗い黎深の道に射す光になる事を願いながら、黎深の見開かれた意思の灯った瞳から最後の涙が零れ落ちたのを見ながら、けれど邵可は陋劣(ろうれつ)にも口を噤んだ。何時ものように何も言わなかった。言わなくても良い事だと、決して思ってはいなかったのに。
(それでもまだ…今は、まだ)
 許せとは言わない―――言えない。今度こそ恨まれても良い。憎まれても良い。でもどうか。
(知らないままで、居て欲しい)
 彼はもう、君の知る彼ではないのだと。


20100704
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