濡羽(二)

[ 心奥の誓詞 ]

 彼の公子が兄上に拾われたと知った時、酷く安心したのを覚えている。
 それがにっくき霄太師の命であろうがどうでも良かった。
 あの時ばかりは何も言う気はなかった。
 むしろ感謝に近い念を抱いていたかもしれない。
 行方不明であった彼を保護したのが紅家なら、彼に会いに行くのは容易い。
 そして、紅家ならば彼を利用しようとはしない―――させないから。
(だから後は、あいつが生きている事を自分で確認できれば、それで)
 そんな風に思えたのは、彼を見るまでだった。
 絶望に息を呑む―――そんな体験は、後にも先にもあの時だけだ。
(知っていたのに。王家の確執、憎悪、醜いまでの、殺意を)
 ギリ、と唇を噛み締めた。
 流罪になったと知って、けれど死ぬ訳ではない、今まで傷付いてきた分の長い療養だと思えば良いと。
 あの子どもを目にかけていた先王の事だ、死なせはしないだろうと。
 そう高を括っていたのが悪かった。
 後から向かわせた『影』の報告に氷を背中に当てられた思いをした事を、まだ鮮明に覚えている。
 忘れもしない。
 血塗られた雪。
 大量に積まれた兇手の骸。
 死体としても生体としても、彼は其処には居なかった。
 行方を掴めぬまま半年が無為に過ぎ、焦慮を抱えていた時に届いた報せに浮いた心は、けれど直ぐさま深い奈落に突き落とされた。
 彼は、『生きていればそれで良い』と思っていた心を痛ませるに充分な傷を負っていた。
(その時固く誓った心は、恐らく兄上も知らない)


  秘匿の裏切


 紫州に在る彩七区の内の一つ、紅区に在る紅家別邸に静蘭は足を向けていた。其処は李絳攸が住居する邸であり、且つ紅黎深が寝食する場所でもある。そしてその日の静蘭の目的は、黎深に会う事だった。
(いや、厳密に言うとそういう訳ではないか…)
 静蘭が好んで会いに行きたいと願い出た訳ではなく、邵可に渡してもらいたい物があると頼まれたから行くのだ。そしてそれは直接渡して来いと言われた訳ではない。使用人に渡して帰るという選択肢が残っている。
(そうしよう…)
 何だかそちらの方が良いような気がするし、邵可も敢えてその選択肢を残してくれたのではないかという気もする。正直に言えば、黎深に会うのは少しばかり気が重い。
(…嫌いでは、ない)
 黎深に対して静蘭は弱冠の引け目があったが、言葉足らずではあるものの彼はその溝を埋めてくれた。そして、ある一点に置いて己とよく似通っている彼を、相手がどうあれ、静蘭は今も好ましく思っている。けれど、感情と気分は一致しない。
(そうではないけれど…)
 その感覚を、どう言えば良いだろう。初めての訪問に緊張でもしているのだろうか。それとも、慎重にならざるを得ない関係だからだろうか。間合いの詰め方に、戸惑っていた。
(……兎に角、渡してとっとと帰ろう)
 邸に居ないかもしれないし、と自身を奮い立たせて歩を進める。何だか、嫌にその日は胸が痞えた。


「お見えになるまで暫くお待ちくださいませ」
 そう言って下がった使用人を少し引きつった笑みで見送り、扉が閉じた所で静蘭は笑みを崩して溜息を吐いた。
 邸に居ないかもしれない―――その考えは見事に裏切られた。静蘭は今日偶々休みだったのだが、普通の官吏は公務に行かねばならない日。だから安心していたのだが、失敗した。一応聞いておくべきかと思い、「黎深様はご在宅ですか」などと聞かなければ…、と静蘭は落ち込む。胸のざわめきが的中してしまった。幼少から培われた危機に対する予感の的中率に喜んで良いのか悪いのか。静蘭は分からないまま、落ちた気持ちを少し立ち直らせて、通された室の腰掛に座りながら思った。
(彼も公休日なのだろうか?)
 しかし吏部にそんな暇があるのだろうかと、静蘭は首を傾げた。元より仕事をしない事で有名な吏部尚書・紅黎深だが、一応官舎に行く事は行っている筈。
(行くだけに留まっているが…)
 有能であるのにも関わらずその才を偶にしか使わないものだから、とばっちりを受けるのは何時も絳攸以下、吏部在籍の官吏達である。不眠不休は当たり前、疲れと眠気を訴えても気絶する事も屍になる事も許されない。鬼のように仕事をこなす事だけが求められる。『悪鬼巣窟の吏部』とは上手く言ったものだと、静蘭は名付け親を褒めてあげたい。
(それにしても、黎深が官吏に、ね)
 出会いの頃には考えもしなかったこの未来。それを言ってしまえば、静蘭が邵可の邸に家人として居る事もあの頃には全く予想していなかった。分からないものだな、と静蘭は笑った。
 流罪に処されそれで終わると思っていた関係が、こうしてまた何の因果か交わった。感謝しなければと、誰に告げるでもなく思う。静蘭が此処でこうして息をしている事、それが偶然でも何でもない事を、静蘭は知っている。何かが裏で守っている事を知った時、静蘭は、…清苑は、純粋に嬉しかった。嬉しかった―――けれども。
(……あぁ、だからこそ、か)
 気付いた事に、笑みが少し硬化した。
(黎深がもし思っているのなら……)
 気を付けなければならぬと自身に言い聞かせた。静蘭と清苑の境界線。曖昧にしてはならないと。
(それは恐らく、黎深と紅家に、良くない方向に働くだろう)
 自分というものを静蘭は常に一歩引いた所から見詰めていた。だからこそ、静蘭が清苑である事と、清苑が静蘭である事、それが同じ事象のようでいてまるきり違う結果を招く事を知っていた。
(そして今、私は静蘭(わたし)であり続けなければならない)
 そう、言い聞かせた時。
「―――――」
 音を聞く。息を吐く。瞳を瞑る。その一瞬で、静蘭は表情を作る。そして。
「お忙しい中、突然申し訳ありません。我が主、紅邵可様の命にてお届け物をお持ち致しました」
 漸く姿を現した旧知の仲に頭を垂れる事など、苦痛ではない。


 黎深が今日に限って公務に赴かなかったのは、偏に静蘭が来ると分かっていたからだった。邵可は何も言ってこなかったが、静蘭には紅家の『影』が付いている。静蘭の来訪はそれによって事前に知れていた。
 朝方出仕しようとする絳攸に「体調が悪いから休む」と理由をつけて居残った黎深の、全く何処も悪くなさそうな顔を見て絳攸は何とも言い難い表情をしたが、結局何も言わずに宮城へと軒を走らせた。
 それから自室で何をするでもなく椅子に深く腰掛けていた黎深は、何かを思案するように目を眇めた。
(静蘭……静蘭、か)
 僅か一文字、嘗てと違う名。それでも似通うそれは、氏にも言える事。まったく上手くつけたものだと黎深は兄とその妻を思う。自分ならばきっと無理だろう。その名と氏を授ける事、そして、笑顔に戻す事も。
(兄上と義姉上だからこそ、成せた事だ)
 見付けた当初、静蘭でも清苑でもなかった彼は、何もかもを手放してただ惰性で生き、緩やかに迫り来る死を待ち望むかのようだった。兄に咎められていた嘗ての名と弟の名を言った所で、それは変わらなかった。
(変わったのは何時だったか)
 自身の無力さと知音に見向きもしない彼に苛立って、黎深は暫く邵可の家に足を運ばなかった。次に訪れたのは、確か邵可から花見の宴に呼ばれたからだったか。兄に呼ばれた嬉しさと義姉が弾く二胡への楽しみ、秀麗と会える歓び。そして、もう一人の存在への、ちょっとした気掛かり。そんなものを抱えて黎深が邵可邸の門を潜れば。
『―――ようこそ、お越しくださいました』
 顔に、声に、所作に、感情が溢れていた。客を迎えるに相応しい、完璧な笑顔と完璧な礼。大半の驚きと微かな感動に思わず扇で口元を覆う。久しく見た彼は、生を諦めた事など感じさせない存在として其処に居た。―――けれど。
『家人の静蘭と申します。お見知り置きくださいませ』
 顔を上げ黎深を見た彼に、黎深は言葉を失った。
(……分かっていた、つもりだ)
 彼はもう清苑(かれ)としては生きられない。その生は隠されなければならない。その死を奨励しなければならない。彼が、生きていく為に。
(分かって、いたのに)
 一方的に嫌っていた相手は、それでも黎深を見てくれた。笑って接してくれた。手を差し伸べてくれた。其処には氏も名も家も関係ない、好意と信頼によってのみ築かれた絆があった。
(なのに)
 一本の境界線が、黎深と静蘭の間に引かれていた。
(新たな名と共に、全てを捨てた)
 捨てざるを得なかったのだと分かっている。それでも裏切りに似たその行為に、黎深は酷く傷付いた。記憶を喪った訳でない事など分かるから、余計に。
「………それでも…」
 知らず漏れた言葉に黎深は苦々しく舌打ちして、その先の言葉を飲み込んだ。それから少し遅れて響いた、扉とを敲く音。聞こえた言葉に、随分と沈思していたようだと扇を鳴らす。
「今行く」
 短く返して黎深は椅子から立ち上がった。これから対する者が誰かを、心に刻みながら。


「お忙しい中、突然申し訳ありません。我が主、紅邵可様の命にてお届け物をお持ち致しました」
 その言葉に、室の温度が確実に二、三度下がったような、薄ら寒い空気が肌に纏わりつく。あぁやっぱり誰かに渡してとっとと帰れば良かった、と後悔するものの、遅い。諦めて顔を上げ、静蘭は自分の隣に置いていた風呂敷に包まれた重箱を差し出した。
「………」
 品定めするかのような黎深の視線。静蘭は咳払いを一つして説明する。
「今朝お嬢様がお作りになったお饅頭です」
 一気に室の温度が戻る。更に言うなら若干先刻よりも温かい。あまりの分かりやすさに静蘭は吹き出しそうになりながらも堪えた。今吹き出せば、元の木阿弥だ。
「後、邵可様からの伝言です。忙しい絳攸殿にも是非分けるように、と」
 一瞬の反発を予想したが、黎深は顔にも雰囲気にもそういった類の感情は出さなかった。ただ、そうか、と言うように頷いた。何時もだったら独り占めしかねない黎深のその様子に邵可の凄さを改めて思い知りながら、静蘭は自分の仕事は終わったとばかりに立とうとした。それを、黎深が制す。
「茶を淹れろ」
「……は?」
「聞こえなかったのか?」
「き、聞こえましたが…」
「では早くやれ」
「……」
 そう言われてしまえば静蘭に拒否権はない。まさかの展開に戸惑いつつも、静蘭は言われた通り茶の用意をし始めた。幸いこの部屋には茶を入れる道具が全て揃っているようだった。茶器一つ、茶葉一つとっても一級品を目にして、静蘭は思わず勘定してしまう。
(うん、一回分で何時も使う茶葉の二ヶ月分くらいの値段)
 公子の時は質の良さは分かっても値段までは分からなかった。紅家に拾ってもらってから大分成長したのではと、静蘭は嬉しくなる。ちゃんと蒸らしてから茶を黎深の所に持っていく。茶器の値段を考えてか、運ぶのも何時も以上に慎重になり、そ、と机に置けた時はほっとした。そして茶器に頃合を見て茶を注げば、良い香りがふわりと漂う。上手く淹れられたようだと満足していた静蘭に、また黎深が唐突に言った。
「茶器が足りんぞ」
「え?」
 静蘭は黎深を見て、次いで座卓を凝視する。どう考えても茶器は一つで良い筈だ。それとも後から誰か来るのだろうか。そんな事をぐるぐる考える静蘭に苛立ったのか、ちっと舌打ちをすると黎深自らが動いた。あっという間にもう一つの茶器が姿を現し、茶が注がれる。そして風呂敷を取り払って重箱を開けた黎深。綺麗に入っている饅頭に感嘆する事一瞬、またもや黎深の一言に静蘭は驚かされた。
「座れ」
 扇で指す場所は、黎深の向かい。其処には黎深が用意した茶がある。そこで漸く、静蘭は何の為に黎深が茶を用意させたのかを理解した。
「え、あ、でも…」
 嬉しいような怖いような、そんな感情が綯い交ぜになる。何しろ黎深の無言の圧力が怖い。
「……失礼します」
 とうとう折れた静蘭は黎深の向かいに座った。そして茶器にそろそろと手を伸ばす。
(どうしてこんな事に…)
 温かいお茶と何かの所為でほっこり温まる体。そして一息吐く静蘭に差し出されたのは。
「食え」
 秀麗が作ったお饅頭。これは、受け取れない。
「い、いえ。これは、黎深様と絳攸殿への贈り物ですから」
 静蘭の分は帰ればちゃんとある。なのに食べる事はできない。
「一つくらいなんだ。受け取った側が食べても良いと言っている。それに何か問題が?」
「な、いです…けど…」
 確かにその論理は罷り通る。それでも受け取る事は憚られた。
(と言うか、今日はやけに絡んでくるな…)
 どうしたんだ、と黎深を見ようと茶器の辺りを彷徨っていた視線を上げた途端、くらり、と頭が重くなる。
(―――…え…?)
 突然、鉛が血管を巡っているかのような頭の重さを感じた。連鎖して様々な症状が出始める。視界が歪む。頭が痛い。体が、重い。知らずに机に手を置いて身体を支えていた。そうしなければ、体が崩れ落ちそうで。
(知ってる。知ってる。これ、は)
 冷や汗が出る。何処で。何時。如何やって。まさ、か。
「……毒か」
 聞こえた声に、はっとする。気付かれた。気付かれては、いけない人に。次いで、此処が黎深の邸だった事を思い出す。でも違う、と静蘭は瞼をきつく閉ざしてその考えを振り払う。黎深ではない―――有り得ない。そしてこの毒は遅効性。猛毒ではなく軽い神経麻痺を起こすだけ。しかも一度服用している。大丈夫、死にはしない。それでもだいぶ、気分が、悪い。
「あの、時か…」
 零す。此処に来る前、路で一人の女の子が静蘭にぶつかってきた。余所見をしていて吃驚したのか、ぶつかった途端子ども特有の大きな瞳をより大きく見開いて静蘭を見上げた。そして礼儀正しく、ごめんなさい、と言った彼女からお詫びにと貰った飴玉。多分それに毒が入っていた。でも、あの少女が犯人じゃない。だって自分も舐めていたのだから。
(あぁ確か、さっき貰った、って)
 あの子どもは大丈夫だろうかと思う。子どもならば尚更辛い。静蘭ならば耐えれば過ぎるが、普通の人間はそうではない。毒に、慣れていないから。どうすれば、と静蘭が考えた時、身近な殺気にぞっとした。
「―――心当たりがあるようだな」
 黎深だった。静かな静かな殺意が、この空間に溢れる。毒の所為でなくその殺気に、静蘭は溺れそうになった。
「何を、しようとして、…おいでですか…」
 それでも震える息で、静蘭は問う。そんな静蘭を表面上至極冷静な表情で黎深は見ていた。青白い顔。噛み締めた唇さえ、白い。何があったのかを問うような愚かな真似を黎深はしなかった。その代わり。
「言え」
 冷え切った声は、どんな感情も映さない。それでも黎深の言う意味、その考えが分かってしまったのは、静蘭と黎深が何処までも近いからか。
 だから静蘭は押し止めようとした。そうしなければあの少女が殺される。黎深はそう言う人間だった。身内を傷付ける者に容赦しない。喩え子どもでも。喩え真実を知らなくても。事実がそれを証明すれば、黎深は簡単に無情な決断を下してしまう。邵可や秀麗だけでなく、静蘭が傷付けられた時だって。
(そんな事を、望んではいないのに)
 守られる事は純粋に嬉しい。しかしだからと言ってそれに甘んじている訳にはいかなかった。だって静蘭が傷付けられても殺されかけても、黎深が動く理由には決してならないから。
(分かってる、癖に…)
 何時だって黎深は繰り返す。思う言葉を、何度繰り返しても。
「止めて、ください…」
「心当たりはと聞いている。それ以外は喋るな」
 キシキシと鳴くのは、紅家の当主だけが持つ事を許される扇。たった一つしかない当主の印を、黎深は折ろうとするかのように力を込めていた。折りたい訳じゃない。それ位の力を持ってしまう程に、怒っているだけで。
「黎深様、お止めください…! そんな愚かな事は―――」   ギシ
 扇が一際大きく鳴いた。
「――――愚か?」
 そして感情を捨てた声が、響く。
「愚かだと、貴様が言うか」
 黒墨の瞳が冷たく燃える。激情がその中を駆け巡る様を目の当たりにして、それでも静蘭は唇を抉じ開ける。
「…えぇ。愚かな、事です」
 聞いて、黎深の口唇が小さく歪む。酷く冷たい笑みに静蘭も何とか笑み返す。それを見て、黎深は気分を害したように笑みを消し眉を顰めた。
「止めて、ください。私は、ただの家人でしか、ありません」
「っ、お前は…ッ」
「喩え邵可様の家人であっても、一介の召使でしかないんです…!」
 黎深の怒声を静蘭の抑えた叫びが遮断した。その言葉に、とうとう黎深が声を荒げた。
「そんな事ではない! お前は自分の価値を分かってないッ! 誰もがお前を忘れた訳じゃない! お前にはまだこうなるだけの価値がある! 狙われ毒を盛られ殺されそうになる程の価値が…!!
 そんな黎深の言葉を。
「――――私の価値は私が一番知っている!!!
 静蘭の言葉が、一閃する。これまで、静蘭として出会ってから一度だって崩さなかった敬語を取っ払い激昂した〈彼〉に、黎深は目を見張り言葉を失った。―――違う。その怒りにではなくその瞳に、黎深は言葉を呑んだのだ。翡翠の瞳が焦りと苛立ちと哀しみで染まっていた。それでも静蘭はまた息を整えて。
「私は、静蘭です。他の誰でもない…」
 そんな人間の為に、貴方の、紅家の力を、使わないでください…――。
(この、馬鹿が…!!
 聞いた言葉に、巫山戯るなとこの愚かな子どもに黎深は言ってやりたかった。邵可の家人。秀麗の兄とも言える存在。元公子―――…。
守らなければと思った訳ではない…ッ)
 何が自分の価値を分かっている、だ。この子どもは真実自分の価値を知らないのだ。王家など知らない。紫の氏も関係ない。その智謀、武勇、そんなもの、どうだって良い。
『私は、静蘭です』
(そんな事、嫌という程知っている)
 大事なのは肝心なのは、何よりも黎深が重きを置いているのは、静蘭(いま)の名前でも、清苑(かつて)の名前でもない。
(そんなことも、お前は――…)
 けれどその先を形にせず、黎深はなんとか怒りを押さえた。そして何事もなかったかのように立ち上がり、静蘭に背を向ける。
「……黎深様」
 殺気を失くした黎深を呼び止めた静蘭は、少しほっとしたように笑ったようで。
「ありがとうございます」
 その言葉を背に受け止めた黎深は振り返りもせずにただ医者を呼ぶと告げ、そのまま静蘭を残して自室へ引き下がった。乱暴に椅子に腰掛けて口を開いた黎深は。
「―――殺せ」
 ただ一言そう言い捨てて、瞳を閉じた。それがどう作用するかなんて、思考を向けるまでもなく分かっている。黎深の言葉を聞いた『影』は音もなく地を駆け、あの子どもに毒を盛った者を探し出し、あの子どもが望まない結果を招くだろう。けれどそれを、紅黎深が許す。
「紅家の力で以って、あいつを…――」
 それが彼の意に沿わない行為だとしても。怒りを向けられ嫌悪され哀しませたとしても。裏切りなど関係ない。心が傷付いた事など瑣末な事だ。大事な事は、黎深が彼をどうしたいか。そしてそれは、疾うの昔に決めている。だから。
「―――…守らせてくれ」
 嘗ての友を。
(喪うのは、もう、たくさんだ)
 愚かな事を言わない代わりに、愚かな事をする覚悟は出来ている。


20090411
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