桜(三)

[ 争覇の傷痍 ]

 心の片隅に、何時からか燻っていたもの。
 触れたくなかった。
 そっとして置きたかった。
 微温湯に浸かっているような幸せを。
 ただ享受していたかったのに。
 茶太保はそれを許してはくれなかった。
 誰よりも真っ直ぐで、誰よりも高潔だった、茶太保。
 彼が欲に溺れたとは思わない。
 彼の目的は、王家ではなかった。
 覇権の奪取などでは。
(……相変わらず厳しいな、貴方は)
 他人(ひと)に、己に、誰よりも。
 それが貴方だと知りながら、それでも傷付けずにはいられなかった。
 刃を向けずには、いられなかった。
(間違いではなかったと、思ってる)
 どちらも等しく己の信ずる道を選んだだけだ。
 ならばそれに間違いなどない。
 けれど。
(気付きたく、なかったのに…)
 零れる息は、小さく震える。
 あぁこの心地はあの時に酷く似ている。
 あの日、あの子の背を見送った、あの時に。
(―――……  )
 昊を見上げる。
 視界が滲む。
 射す陽光が、…眩しすぎて。


  老叟(ろうそう)の心意


 秀麗が後宮を去り、静蘭が羽林軍から元の部署へと戻って数週が経った。あの色々な事があったひと月を思えば、穏やかと形容できる日々。けれどその安穏さに、静蘭は慣れないで居た。
(……茶太保)
 その原因である彼の名を心の中で呼び、その姿を思い浮かべる。次いで彼を見た最後を思った。彼の死因が、自分が放った小刀であるとは考えていなかった。普通の状態であるならば可能性はあったかもしれない。けれど、薬の混じった香を嗅がされ本来の力を出せず、そして急所からも外れたその創傷(きず)が死に繋がるとは、到底思えない。
(誰かがあの後に彼を殺した)
 そう気付いて、けれど静蘭はその事を誰にも言わなかった。綺麗に隠されてしまった死因を今更言い立ててどうなると思ったし、それ以上に気にすべき事があったから。
「どうかされましたかな?」
 微かな音と共に現れた霄のすっとぼけた言葉に、一瞬で清苑へとなった彼は笑った。その感情を全て取り払った笑みを貼り付けた横顔に、霄は僅かに眉を上げるも言及はしなかった。ただ知らない振りをして、言葉を続ける。
「何か思い悩むような事が」
 もう二人は立場を繕うような事はしなかった。後宮の奥にひっそりと建つこの離宮を知る者は少なく、そして訪れる者は更に少ない。嘗ては四人居た。少し前に三人に減った。そして今度は二人になった。そんな場所で立場を気にする事の意味は微塵もない。猿芝居をする趣味は、清苑にはなかった。
「霄」
 たった一言の呼び掛け。それにぴくりと霄は反応した。清苑の声は普段揺れる事はない。凪いだ風のように静かで、波立つ事を知らない水面のように透明な声。感情の起伏のないそれは冷たく聞こえるけれど、本当はそうでない事を、一体どれだけの人間が知っているだろう。誰にも心情を悟らせないだけの事なのだと。
「私は間違った事をしたとは思ってない」
 鴛洵の親友である霄。霄の親友である鴛洵。誰が知らなくても互いが認め合わなくても。清苑は、知っていた。だからこそ言わねばならないと此処に来た。喩え霄が全てを知っていても。
「…そうでしょうな」
 少しの後返された言葉には怒りも皮肉も何もない。ただ漠然とした感想だけだ。それこそが逆に珍しいと清苑は霄に視線を遣る。霄は気付いて、微かに笑った。
「鴛洵も、きっとそう思っている事でしょう」
 あぁきっとそうだろう、と清苑は視線を霄から引き剥がし、ずっと見ていた楼閣の下へとやった。少しの宮城と、それから紫州の町並み。見えるその全ては、平和と呼べるものだった。先王が、霄が、宋が、鴛洵が、成した事。そんな彼等は、清苑がどうにかできる程弱くない。 弱くは、なかった。そう考えて、清苑はまた笑った。
(あぁ、後何人、私は彼等を殺すだろう)
 父が死んだ。鴛洵が死んだ。では後の二人は。
(私の所為で、死ぬだろうか)
 殺しても死にそうにないが、それでも死ぬ時は死ぬだろう。それが自分の所為でない事を清苑は祈った。多分、初めて。祈りなんて不確かなものに、縋った。
「清苑様」
 霄の呼び声にふと我に返る。外していた視線を向けると、霄は探るように清苑を見ていた。首を傾げるだけでどうしたと問えば、霄は小さく溜息を吐いて答えた。
「……王になるお心算は、本当にないのですね?」
 疑問系の言葉。けれど何処か諦めた口調。気付いて、清苑は微苦笑した。今此処で聞くその意味。確信してしまえば、言うべき言葉はするりと零れた。
「気付いていたんだろう?」
 問われて、霄は静かに唇を引き結ぶ。それが、答えだった。それに僅かに笑みを深めて。
「……私も、気付いてしまった」
 清苑は瞳を閉じた。痛みを、堪えるように。
(気付いてしまえば、もう、戻れない)
 本当は知っていた。此処に戻ってきたその時から。霄に、宋に、会う前から。自分の存在の危うさに。
(ただ、知らない振りをしていた)
 けれどもう、知らなかった事に出来なくて。知らない振りをして思い描いた未来が少しずつ姿を変えていく。それはきっと道を歩む程に大きな変化となっていくのだろう。そして最後、未来はすっかり姿を変える。
(その未来に、私は―――……)
 その先を呟く前に清苑は瞳を開いた。途端変わった雰囲気に、霄は息を呑む。そして唇を噛んだ。分かって、しまった。清苑の言葉の先。清苑の、決意を。
「―――だから」
 あぁ、と霄は嘆息する。その決意が覆らない事を知って。そしてその横顔が想起させる人を、想って。
(貴方は―――貴方も)
「頼むよ、あの子を」
(そうして、私に託していかれるのですね)
「この国を」
先王(あの方)と同じように)
「…………私の気が変わらなければ、で宜しければ」
(貴方の父と、同じように)
「それで、良い」
(私に託して―――――逝かれるのですね)
 綺麗に顔を綻ばせた清苑。霄はそれを忘れまいとするかのように、黙祷するように。瞳を、閉じた。


 単身敵陣に乗り込み、剣を彼の喉許に突き付けた。迷いはなかった。何も。清苑は、欠片も迷っては居なかったのに。
(……?)
 鴛洵と視線を交わした時、清苑はその瞳が優しい事に気が付いた。謀反を起こしたとは思えない程、感情的に言葉を吐いたと思えない程、理性的で優しかった。けれどそれが何よりの厳しさだったと思い知る。
『貴方はご自分をご存知の筈だ』
 そう語り掛けられているのだと分かった瞬間、清苑はくらりと眩暈がしたような気がした。それは香の所為ばかりでは、決して、なかった。
(茶太保…!)
 理解した。何もかも。鴛洵の心。謀反の意。清苑の罪。気付かない訳には、いかなかった。
『貴方が居れば、また繰り返される』
 思い出されるのは、自身が流罪になった時。八年前の悪夢。そして、―――今。
『また、繰り返されるお心算ですか?』
(――――違う!)
 声に出して言いたかった。けれど喉は引き攣っただけで、声を出すには至らなかった。だから心の中でただ叫ぶ。
(違う。私はそんな心算で戻ってきた訳では――…!)
 ないんだと、最後まで心の中でも言う事は出来なかった。否定出来ない事に清苑の瞳が揺れた。初めて、迷った。本当はずっと、気付いていた。
(――――紫清苑(わたし)と言う存在が、そうさせる)
 知ってる。知ってる。本当はずっと知っていた。けれどどうやって悔やめば良い。過去の自分の愚かしさ。怜悧さを野心を武勇を隠す事も出来ず、全てが中途半端で。喩えその始まりに誰もが知らぬ自分の心があったとして、そんなことは微塵も関係ない。気付けば自分の為に玉座を目指すしか手は残っていなかった。味方は確かに居た。けれど敵はそれ以上で。そして最後は誰も残らなかった。
(残すことが、できなかったから――…)
 それでも今の劉輝と過去の清苑を比べれば、どちらが王として相応しいと判断されるか、分からない訳がない。
(茶太保)
 泣き笑いに近い表情。それを鴛洵に向けて呟いた。
(貴方は何処まで優しく、…厳しいのか)
 鴛洵は何も語らず、ただ笑んだ。


 茶太保の叛逆。それは誰を想って。何を、想って。
(全ては知らない)
 それでもその中に自身が含まれていた事に気付いてしまった。
(…玉座は一つしかない)
 その玉座(いす)に座るのは劉輝だ。そしてそうなるよう策も巡らせた。けれど。
(自分の存在が、それを妨げるかもしれない)
 清苑がどう思おうと、周りが清苑を放っては置かない。
(茶太保の今回の行為は、まさしくそれ)
 王位争いに、違いなかった。
(私が居る限り、きっとまた……)
 吐息を一つ漏らして、劉輝、と心の中で最愛の弟に呼び掛ける。
(―――許せ)
 劉輝と清苑。何方も存在している限り、何方も傷付く。
(その道しか選べないのなら)
 迷いは、なかった。
(私はまた、お前を置いていく)
 多分それは、遠い未来の話ではない。


20090505
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