桜(一)

[ 剣戟の隘路 ]

 交わる剣。
 流派の違う双剣は、風をも切り裂く音を奏でる。
 一人は武を誇るように剣を振るい。
 一人は舞を踊るように剣で受ける。
 対蹠の流儀。
 それで良かった。
 同じである必要など何処にも無い。
 違うからこそ、二人は互いに剣を交える。
 誇りも悔しさも感嘆すらもその一撃に込めて。
 迷わず踏み込み剣を振り下ろす。
 そうして傷付く事など何でもない。
 あるのはただ奇妙な高揚。
 甲高い音を立てて交差すれば、間近に見える翡翠の瞳。
 子どもとは思えぬ鋭利さと強さを併せ持ったそれ。
 その瞳がこの国の未来を見据えるのだと、思っていた。


  秋水の軌跡


 聞こえた素振りの音。その音源に誰が居るか咄嗟に分からない程に、彼は此処から遠ざかって久しかった。そして気付いた後も素直に喜べなかったのは、隣に居た存在の所為。その事を知ってる筈なのに。
『―――ちょうどいい。相手をしろ』
 素知らぬ振りでそんな事を言う。向けられた剣先と、楽しむような瞳。思わず動揺が顔に出た。
『え―――わ、私―――ですか!?
 全くの予定外だった。会うにしても、こんな筈ではなかった。少なくとも横にこの男が居る状況では。それどころか。
『……かの公子も、さっきのおぬしのように、わしを宋将軍と呼んだものだ』
 思わぬ爆弾を投下してさっさと立ち去っていった。その後の何とも言えない空気と言ったら。
「まったく、とんだ事をしてくれたな」
 そんな数日前の此処での出来事を思い出し、彼は舌打ちしかねない声音で零しながら、丁度現れた人影に鋭い視線を向けた。
「―――宋将軍」
 静蘭から清苑へと変わった彼の機嫌に、近付いてきた宋はばつが悪そうに頬を掻いた。
「……余計な世話だったか?」
 すまん、と素直に謝られては、清苑も溜息を吐くしかない。
「…まぁ、彼も薄々気付いていたようだし」
 それでも彼に確信を持たせるには早いような気がした。近衛に入る事はつまりあの男に近付く事だ。直に手合わせもし、そして二度と忘れられないような敗北を与えてしまった自分を、彼が忘れているとは思って居なかった。覚悟はしていたが、それにしても…。それに、と射抜くような視線を宋に向ける。
「私と久々に手合わせしたかったんだろう」
 疑問系ですらないそれは、宋を苦笑させるに充分だった。
「何だ、気付いてたか」
「当たり前だ。本当に貴方と言う人は……」
 清苑に剣の稽古をつけていたのは宋ではない。だから清苑と宋の剣の太刀筋は違う流派で、昔は良く剣の練習と称してはどちらの流派が強いのかを競っていた。勿論そこには体格、経験、力の差があって、清苑が勝つ事は殆どなかったけれど。
「変わらないな、宋」
 声に混じるのは、さっきとはまるで違う、懐かしさと密やかな笑い。その言葉に、宋はふいと視線を逸らした。
「…お前は変わったな」
 敢えて名前は言わなかった。宋にとっては何方も彼だったけれど、その分け目は酷く曖昧だ。そう、まるで、彼の剣の様に。
「……太刀筋、変えてしまったのか?」
 宋の剣筋を剛と言うのなら、清苑のそれは柔。力に任せて叩き潰す宋とは違い、清苑は舞うように受け流し薙ぎ払う。王家に相応しく流麗なその剣の軌跡が、宋は好きだった。けれどこの前のそれは全く違った。剛と柔が混ざったような剣筋は、けれど剛の方が幾分か勝っていた。僅かに宋の剣筋を垣間見て嬉しく思うものの、もうあの軌跡を見れないのは、矢張り寂しい。
「……そんな顔をするな」
 清苑は、笑った。
「貴方が言ったように、幼い頃に習った剣の型は中々消えない。いくら誤魔化してみた所で、気を抜くと直ぐに元に戻ってしまうものだよ」
「じゃあ…」
「……捨てようと、何度も思ったが」
 その剣筋を知っている者はもう小数になってしまった。とは言っても、完全に居なくなった訳ではない。だからこそ、その剣筋を僅かでも覗かせてしまったら、宋のように彼のように、直ぐに気付かれる可能性は充分にある。それは、清苑の、静蘭の、何かが奪われる事と直結していた。それでも清苑は。
「捨て切れなかった」
 その危険を冒しても、守りたかったのかもしれない。王家との繋がりを。清苑はふと振り返り、王宮を見詰める。その瞳が、僅かに懐かしむように細められた。
「……此処には、嫌な思い出が沢山だ」
 豪奢な王宮、贅沢な食べ物、高価な装身具。そんなものは、殺意と憎悪に溢れたこの場所では何の価値もなかった。何の価値も、何の意味も、清苑はそれらに見出さなかった。
「でも、離したくないと思えるものも、幾らかはあったから」
 この広い宮城の中で、それは本当に微々たる数だった。誰かから与えられた物で離したくないと思えた物は、干將くらい。それ以外は清苑が自ら見付け出し選び出した。泣いてばかりで褥に臥していた母も。庭院の木陰で泣いていた弟も。稽古場で素振りをしていた宋も。禁苑の一角の塔で物思いに耽っていた霄も。誰よりも厳しく誰よりも優しかった鴛洵も。そして、彼も。
「私は貪欲で、愚かだから」
 きっと剣筋を変える事など、清苑ほどの使い手ならば無理をすれば出来る筈なのだ。それでもしなかった。まだ死ねないのに、自分からその危険を冒してる。愚行だ、真実に。けれどそれでも良いと、清苑は思ってしまったから。
「宋将軍」
 嘗て呼び掛けられた時と比べて弱冠低い声。けれど、その凛とした響きが変わる事はない。それを感じながら「なんだ」と問うように視線を清苑の方へと向ける。清苑は宋を見詰め返して。
「王家の流派を受け継いだ者で生きているのは、もう私だけだ」
 習った者は尽く死んでいった。死に免れた清苑も、最早王家は名乗れない。王家唯一の生き残りの劉輝はこの型を知らない。知っているのは、宋の太刀筋だけ。
「だから」
 見上げる翡翠の瞳にも、宋は嘗ての公子の姿を重ねた。死んでいった他の公子にはなかった、劉輝ですらも劣る、その強さ。変わらない、筈なのに。僅かな違和感が宋の心を掠めて気付く。以前にはなかった何かしらの覚悟を、その瞳は秘めていた。けれどその違和感は次の言葉に掻き消えた。
「これからの王家の流派は、貴方が守っていって欲しい」
(―――…それ、は)
「これからは貴方が、王家の子ども達に剣を教えていけば良い」
 誰も居ないなら清苑自らが手ずから教えれば良い事だ。その選択肢がありながら、そんな事を言う。つまりその言葉は、清苑が王になる可能性への否定だった。
(……何処かで、知っていた)
 還って来た事を知っていた。それでも現れないまま時は過ぎて。やっと会いに来たと思えば、これか。
(王にならないと)
 会わない時の中で、多分こうなる事を、宋は気付いていた。
「…………分かった」
 それでも思う事を口にはせず、宋はただゆっくりと頷いた。それに清苑は艶やかに笑う。
「貴方は物分りが良いな」
 誰と比べてそうなのか思い当たって、宋は止めてくれと眉を顰めた。
「…霄か」
「あぁ」
 思い出して、清苑はくすりと笑う。
「劉輝の嫁候補を推薦した時の霄の顔は、見物だったよ」
 企んだ笑みしか見た事の無いような彼の、驚いた後の残念そうな顔。そうさせたのが自分だと思うと、嬉しい。けれど反面、何だか酷い事をしたような気になって。
「……霄にそんな顔をされるくらいには、私は期待されていたんだろうか」
 そっと零されたその言葉に、宋は何も返さなかった。けれど宋は知っている。霄の思い描く彩雲国の未来に、清苑が居た事を。彼が戻ってくるその時を、劉輝と共に待って居た事も。
 言う事は容易かった。それでも言わないのは、その事実がどうにも作用しない事を宋は無意識に知っていたから。
「………お前が決めたんだろうが」
 地面を向いてしまった清苑の頭を、宋は思いの外優しく撫でた。
「儂にもお前が何を考えているのかなんて分からん」
 優しく優しく、その禁色の髪を。
「それでも、やらねばならないのだろう?」
 触っていた為に分かった、小さく上下した頭。肯定だと知れた。
「なら霄がどう思おうが、儂の気持ちがどうとか、気にするな」
 そう言ってしまう事に躊躇いがなかった訳ではない。清苑を待っていたのは霄だけではない。宋だって待っていた。そして清苑が流罪になった時歯噛みして殺した感情を、宋は今でも覚えている。それでも清苑の背中を押したのは、霄と宋の想いの違い。霄は清苑を王として欲しがった。宋は清苑が居ればそれで良かった。ただ、その違いだけ。
「―――……そうだな…」
 そして聞こえた声に、もう弱さはない。それを感じてそっと掌を退ければ、上を向いて宋を見た清苑。優しく笑った。
「私が迷えば、貴方の気遣いが無駄になる」
 言い切った清苑に、それも気付いていたのかと、宋は苦い顔になる。
「……藍家が一人でも王に侍れば、心強いからな」
 渋々認める言葉に、清苑は笑みを深めた。宋が態々彼の居る前で清苑の存在を口にした理由。今のままでは藍家が王家に侍る事はない。何より彼は清苑自身に拘っている。劉輝の傍に居る可能性は、極めて低かった。
 だからこそ宋は清苑の存在を匂わせた。恐らくそれは覿面に作用する。藍家が動くかもしれない。
「―――そうなれば、良いな」
 今は清苑が切欠でも構わない。それでも何時か、彼は劉輝自身に仕える事を決めるだろう。清苑でなく劉輝を選ぶ日が来るだろう。それは奨励すべき事で、そしてそうでなければならなかった。
「劉輝が、王に」
 願うように祈るように愛おしむように、清苑はその言葉を口にした。そして。
「宋」
 謳うように、名を呼んで。
「頼むよ」
 昔と変わらぬ美しい顔で、清苑は微笑んだ。


 それから数刻の後、すっかり夜へと様変わりした昊の下。宋と、そして霄は、楼閣の最上階に居た。
「…そうか、あの方がそんな事を」
 清苑との遣り取りを聞いた霄は何かを思って嘆息した。それが何か、宋には分かっていた。清苑と話す間、ずっと胸にあった違和感。霄、と宋は呼びかける。
「何故あいつは、劉輝に重荷を背負わせてでも自分が玉座に就くのを避けるんだ?」
 不可能ではない筈だ。劉輝の今の状況。清苑の過去の功績。それを鑑みれば、玉座に就く事は決して不可能ではないのに。
(まして劉輝に玉座など)
 宋も霄から聞いていた。霄がいきなり言い出した『現国王に嫁を』という案が、実は清苑の考えである事を。それを聞いて宋は驚愕した。昔の彼を考えれば在り得ない事だった。誰よりも劉輝を愛し、誰からも劉輝を守ってきた彼が、どうして玉座を押し付けるような事をする。玉座がどういうものか、恐らく一番知っている筈の彼が。
「……さぁな…」
 宋の疑問に、霄は目を細めてそう零す。小さなそれは風に紛れた。
「―――遅れたか?」
 そして聞こえた声に、二人は咄嗟に表情を繕った。彼はまだ何も知らないのだ。
「おぉ、茶の」
「まだ酒は飲んでねぇぞ」
 そう言って迎える二人の雰囲気に何かを感じて、けれど鴛洵は何も言わず空いている椅子に座って酒瓶を傾けた。それぞれに行き渡った所で杯を手にした鴛洵は、何かに気付いた風にふと昊を見上げ、眦に笑い皺を作った。
「今宵は望月だったか」
 言われて、気付かなかったと二人も昊を見上げた。ぽっかりと白い大きな穴が開いたような昊。言葉に出来ないざわめきが、二人の心を掠めた。


20090503
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