紫苑

[ 偃月の嘻笑 ]

 小さな闇夜。
 誰も知らない約束。
 動かない揺り篭。
 星座が象る別れの道標(しるべ)
 紫の逡巡。
 陸続と迫る時の硲に。
 夢が、喰われる。


  空漠の八極


 紫白の睫毛が瞬く度、昊に散らばる星に照らされて綺羅綺羅と揺れた。知らず夜に身を浸す彼は、くと(あぎと)を昊に反らせて月を見る。遠く遠くにあるそれを、彼は何処か疎むように凝と見て、けれど不意に飽いたように視線を逸らす。
 次いで見た先は宵にも関わらず絢爛と輝く幾つもの宮。月よりも近く在る筈のそれらを、けれど彼の瞳は遥か彼方に存在する蜃気楼を眺め遣るかのよう。しかしそれもまた彼の視線を繋ぎ止める程の存在ではなかったのか、結局彼は視線を自身の足元に流すとまた風景に溶け込むように静かに瞬きを繰り返し、宵闇に沈もうとした。
 それを留めたのは誰かの跫音。存在を強調するように敢えて響かせていると分かるそれの主は、物陰から姿を表し月に照らされた事で知れた。半白(しらが)霜鬚(しろひげ)、深い知性を宿した双眸、そして厳格に結ばれた口。
 普段飄々と笑う宰相の、霄のこんな顔を知るのは王くらいのもので、旧友も中々に見れたものではない。否、霄も最初からこの顔を晒していた訳ではなかった。何時ものように今までのように、高みの見物を決め込んだ者特有の余裕で見下ろしていた筈だった。―――彼の所為だ。彼が他の者と同じであったなら、霄は仮面を脱ぎ捨てる必要などなかったのに。
「………」
 跫音を聴いただろうに視線を遣る事もなく、立ち止まり反応を伺うように黙したまま凝視する霄を、彼は一つ瞬きの後、最初から無いものとして扱った。ならば其処に横たわるのは無言故の沈黙ではなく、自然に身を任せたただの静寂に過ぎなかった。
 一度阻まれた宵の侵食がそれを機に再開し空間を蝕んでいく。他人の、ましてや宰相の居る前で平然とそんな事をしてみせる彼を、霄は酷く呆れたような、見ようによっては深く憐れむような瞳で見下ろした。
 しかしそれで霄が此処へ来た目的を果たさず帰る理由にはならず、溜息と紛う吐息を零し、霄は薄らと口を開いた。
「主上がお呼びです。疾く参られよ」
 言葉を飾っても無駄な事は既に分かっていたから、自然それらは抜け落ちた。綺麗に装飾を削ぎ落とされた言葉は酷く簡素で、それでも霄の良く通る声は凛と威厳を持って闇夜に響いた。
 だが幾ら待てども応えは無い。見据える先の彼は依然緩やかな瞬きを繰り返すだけ。見て、今度こそ霄は夜の空気に溜息を堕とした。
「……状況をお分かりか。貴方は既に三度王の招喚を無視しておられる。仔細あるならば言い訳も立ちましょうが、それもなく弁明もない。王はあの性格ですから放って済まされているが、他の臣下はそうも参りません。そろそろ皆痺れを切らしている。貴方は貴方の価値を早急に示さねばなりません。でなくば貴方が此処で生きて行く事は出来ませぬ。…それを貴方は良くご存知の筈だ」
 滔々と淀みのない言葉が底をつく。霄は待った。堪えるように待った。凪いだ心で待った。けれど。
  ぱちり…
 夕暮れ時、棚引く薄紫の雲を思わせる睫毛が翡翠の双眸の上を緩やかに往復した。そこで、知る。彼は彼として其処に在った。ただ瞬いて、霄の声を聴かず、霄の姿を見ず、此処には己一人が居て、他には何者も存在しはしないのだ。彼の中。彼の世界の、中で。
「………ッ」
 凪いでいた心の水面に波紋が生じる、伝播する。その漣の名を知らず、霄は。
「…貴方は……貴方は、何を待ち続けているのですか…」
 清苑様――…。
 躊躇いと共に零された問いも彼の名も、彼には碧落に吹く風のよう。届かず、ただ夜に朽ちた。


 今上陛下が第二子、紫清苑が生まれた日の事を、霄は思いの外鮮明に覚えている。彼は夜明け前に小さな産声を上げた。朝靄が棚引き始めたばかりの、夜の端を残したままの、暁の頃に。
 早速誕生の報告をする霄を前に、父である王はただ「そうか」と書簡に目を通しながら言った。産後で放心したままの母親を他所に、彼女の父、つまりは彼の祖父が喜びに泣いた。玉座に座る孫とその傍らに居るやもしれぬ己を思い描いて。
 反して既に後宮に娶られていた幾人かの女とその関係者、特に第一公子の縁者は殺気立ち、苛立ちと焦燥に身を焼いた。
 純粋に彼の誕生を喜んだのは、誰一人として居なかった。
(成る程、望まれた子ではなかった)
 彼はその後、出産で弱った母親と共に実家に移され、隠されるように育てられた。それは王の子である事を考えれば至極当然の慣習であったが、しかし、些かその期間は長すぎた。普通言葉を発し理解するようになれば、最低限の礼儀作法を叩き込まれて徐々に宮の行事に参加するようになる。年の頃は四五歳が目安だ。だが彼はその歳を過ぎても宮に帰らず、公の場に姿を現す事はなかった。
 訝しんだ官吏等が度々問うても外祖父も親族もそれについて頑なな迄に口を開く事を拒んだ。だがそうした所で問題にならぬ筈がない。宮に戻らない公子に王位継承権は認められぬと廃嫡の話が出始めた頃に彼等は漸く彼を宮に連れてくる事を受諾した。が、それも嬉々としてと言うよりは何処か諦観の色が濃く、秘蔵の孫を披露する祖父の表情とはかけ離れていた。
 疑問の残る中、彼は祖父に手を引かれて父王の前に現れた。既に袴着の頃を過ぎた彼は、しかし子どもの括りで見るには余りにも美しかった。外見は母親の白さと儚さを受け継ぎ、そして清冽さの滲む整った顔は父王の面影が確かにあって、その面持ちは年の割に無邪気さはなく、既に老成した雰囲気を感じさせた。まるで子どもらしくないその姿に、それでも目にした誰もが驚きと感嘆に息を凍らせた。だが。
「何…?」
 額突く岳父を前に、戩華は眉を寄せて顔を顰めた。列席していた官吏達も思いがけない事に言葉を忘れて黙り込む。霄もまた、予想だにしなかった事態に言葉を亡くすしかなかった。
 ―――何も、喋らないのです。
 彼の祖父は先ず端的にそう言った。衆人環視の中、言い難そうに声を吐いた。だがそれだけではないのだと。
「どういう事だ」
 王の声に孕む感情を取り違えてか、驚愕の余り静けさに包まれた周りの空気に呑まれてか、彼の祖父は萎縮し声を震わせた。そこに彼が生まれた時の感動は、微塵も見られない。
「何度医師を変え、診せても同じでした。病気ではない、だが原因が分からない。ただ分かっている事は、この子が全てに関して無関心である事だけです――…」
 彼は一言も喋らなかった。それだけではない。言葉に言葉を返さず、手を引かなければ歩かず、何も見ずに何かに耳を傾ける事もない。筆を取らず剣を佩かず、剰え弦を爪弾く事さえしなかった。
 気付いた時には既に…と苦く言う声には心労が滲み、此処に来る事が苦渋の決断である事を覗わせた。その項垂れる祖父の横で、彼は最初と変わらず涼やかな顔で座っていた。前を向いているようで、その実、翡翠の双眸は何も映してはいなかった。やっとざわめき始めた周囲の戸惑いも祖父の底知れぬ哀しみも、初めて父王に会う感慨すら無く。彼はただ其処に座していた。硝子玉の瞳で、ただ。
「清苑」
 矢庭に、戩華が一声彼の名を呼んだ。途端静まり返る場。全ての視線はただ一点へ。それでも。
「…申し訳ございません、主上」
 沈黙に耐え切れぬようにそれに応えたのは疲れ切った老いた声だった。同時に深々と下げられる頭。その横で矢張り、彼は泰然と前を見ていた。


(彼はその外貌そのままに限りなく白に近く、何処までも無と隣り合わせだった)
 この世界に属さない異邦人のように。だからこそ彼は孤独のまま生きていた。誰にも手を掛けられる事なく、誰と寄り添う事もなく、ただ真白のまま生きていた。未だ玉座を狙っての抗争が表面化していなかったとしても、彼の周りは余りにも閑かだった。誰もが躊躇って彼を見た。母とその父その血族すら困惑を抱いて彼を遠巻きに見るだけだった。
 口が利けぬ、刃を持たぬ。公子という立場を保持するだけのものを持ち合わせぬ。それだけで彼の公子という肩書きを奪い放逐するだけの理由に成り得た。事実その話は持ち上がったものの、しかし戩華がそれを許さなかった。父の言葉で公子で在り続けた清苑。だがこのままでは何れにせよ清苑が玉座に就く日は永劫来ない。競争相手が一人減ったも同じ事。そう考えられてか、兇手の魔の手が彼に伸びる事はなく、彼はただ彼であるが故に安寧の日々に息づいていた。
 もう何も、彼が此処へ来た時以上の困惑は生まれはすまい。時が流れるに連れて徐に彼への認識はそう傾いていった。自然な流れだ。既に彼は脅威ではなく、味方ではなかったが敵でもありえない立ち位置にいた。興味は薄れ、存在は孤立した。
 そんな状態から事が動いたのは、それより数年が経った、ある日の晩の事だった。


 朔の夜だった。月影はなく、遠く微かに星屑の煌きが覗く程度の、黒に塗り潰された宵。無粋な音はなく、焚かれた篝火を遮る怪しげな影もない。異常なしとの声が行き交い、その正しさを裏付けるように夜は静かで何処までも穏やかだった。警護は常と同じに配され、前日の夜と同じく大事ないまま夜明けを待つ。その、筈だった。
「―――――!!
 突如静かな闇夜に悲鳴が劈いた。安寧を揺るがす絶叫と凶行を思わせる騒音。賊か兇手かと直ぐ様警邏の者が音を頼りに辿れば、後宮へと足が向く。そこは鈴蘭の君に宛てがわれた宮であった。
 駆ける足音に斬撃と金切り声が被さって、その凄まじさに惨劇が予想された。近付く毎に腥気(せいき)が鼻を突き、肌に纏わりつくよう。音はまだ続く。一体誰が、誰を。否が応でも緊張が走る。
 もし兇手が王族をとなれば、ただでは済むまい。ましてこれほどの騒ぎになりながら兇手が逃げ果せでもした暁には、今宵の任に当っていた者全ての頸が刎ねられることにもなりかねなかった。
 佩いた刀の柄を持つ指に力が入る。汗が滑る。宮の扉を押し開き、恐怖に身を竦ませる女官達を押し退けて進んだ。そうして。
「如何致され――…ッ」
 ザッ…と彼等が閨閤へと踏み入れた時には、全てが終わっていた。否。終わった、ところだった。
「あ…ッ、…あぁ…!」
 悲鳴にも成り得ぬ、呼気に紛れた短い叫声。吐き出したのは、褥から床に崩れ落ちていた鈴蘭の君。胸を抑え、髪を疎らに顔に垂らしながら、悲痛な面持ちで恐怖を殺していた。
 駆け寄るのが正しいのだろう。外傷は見えぬが医師を呼び落ち着かせるのが最善なのだろう。そうと知りながら、それでも、誰一人として鈴蘭の君に手を差し伸べる者はいなかった。不敬にも立ち尽くしたまま、身動きが取れないでいた。
「……これ、は…」
 一つ。其処は聞こえた声と音を裏切らず、凄惨、の極みであった。幾つも屍が床に積まれ、血潮が今もその躰から吹き出し滴っている。正確に的確に、首を一突き、されていた。豪奢な室内は飛び散った血で汚れ、血の臭いに満たされて悲惨。むっとする熱気と臭気、底冷えするような死の形。相反する温度に胸が悪くなる。足が震える。腰を抜かしそうになる。留めたのは、一つの、影。それが二つ目の、理由。
「…何故…貴方様が…」
 小さな、人。事切れた屍に傅かれるようにして立つ彼は、齢にして十を迎えたばかりの筈。細く、稚い麗姿。しかも一度として持った筈のない剣を手にしていた。剣は柄も鍔も白刃全てが血に塗れ、彼自身も血を被り、白の手を赤く染め、睡蓮の髪も斑に紅を混じらせていた。
 彼が兇手をたった一人で斬った事は明白だった。だが脳がその事実を拒もうとする。有り得ないと視覚からの情報を間違いだと認識しようとする。
 それでも、彼なのだ。解らぬ筈がない、知らぬ筈もない。息を呑み佇む輩に一瞥すら遣らず、息も乱さず泰然として立つ彼を。静を形にしたような、動を切り捨てたような彼を、どうしたって見間違える事はない。だが梔子の公子、滄海の一粟、雪の中の白鷺と影で揶揄された彼が、何故。
「―――…清苑、様…」
 誰かが零した掠れた声。呼ばれた彼は、それでも暫し居る世界を異にしたように誰も視界に入れず立っていた。鈴蘭の君の荒げた息が静寂を侵す。引き攣った衛兵の緊張が空間を侵す。
 それに、耐え切れなくなったよう。瞬き以外、ぴくりとさえ動かなかった彼が、(かんばせ)に苛立ちに似た不快感を滲ませた。その事にも鋭く息を呑んで見守っていた衛士達に、遂に彼が口開く。
「…何をしている」
 それは、雪が溶けたような声だった。耳朶に触れた瞬間、片端からほろりと空気に綻んでいく。水面に堕ちた雪華のように。陽光に焦がされた雪片のように。冷えて、冷たい。それが耳に届き、次いで肌を粟立たせる。知らず身を竦ませた男達を気遣う事なく、彼は言う。
「母上を、医師の所へ」
 命じるでもなく、ただ零された声。だが王命の如く彼等には響いた。声の裏側に潜む闇が、稜威が、彼の父に、現国王に酷似していた。無視できぬ程、聞き間違えそうな程に。
 幼い容姿など関係ない。これまでの彼など問題にもならない。其処にいるのは、確かに王族であり王位継承権を持つ彩雲国が第二公子、紫清苑に他ならなかった。
 自然、膝が崩折れた。額突き、叩頭の礼をとる。その場に居る全員が許しを請うように、彼の視線に耐えるように顔を伏せた。彼は感慨もなくそれを見て、微かに、息を吐く。
「…一つ、言っておく」
 その声にそろりと面を上げて、少し。―――すらり。抜き身の剣が、空気を撫でるように凪いだ。それはゆっくりとしているようでいて、瞬き一つの間。視線で追う。だが躱せない。彼の目が向く。静か。翡翠の双眸は冴え冴えとして、凍った冬空に等しい。しかしその寒宵を写し取ってさえ、その瞳は美しかった。宝玉を思わせる煌めきに呼吸が止まる。時間が止まったようにも思えた。
 そんな幻想の中、白刃を首筋に当てられて漸く己の命が彼の手中にある事に思い至って、兵を率いる衛士長は戦いた。感嘆の息が喉元で凍る。表情は強張り、弱者の醜状を晒して彼を仰ぎ見た。彼は憐情を傾けない。同情の切れ端すら見せないまま。
「二度とこの様な無様な失態を犯してくれるな。この様な些事に私の手を煩わせるな。その時は、衛士長、貴様の頸はないものと思え」
 く…、と刃先を頸に押し付ける。食い込み、血が流れる。涙を模したそれは、とろりと垂れて首元と鎧を汚した。彼が力を込めずとも、衛士長の躰の震えで刃は遠慮なく肌の中へと誘い込まれる。
「っ、は…!」
 漸う捻り出された声に、彼は表情をそのままに剣を退けた。す…と彼が瞼を閉じたのを皮切りに、ぎこちなく空気が、人が動き出す。鈴蘭の君が連れ出され、物言わぬ人形(ひとがた)は運び出された。後は彼をと、一人の衛士が室内に戻り声をかける。
「清苑様…只今湯浴みの準備を…」
 言いかけた所で、気付く。
「清苑様…?」
 彼はもう、何処にもいなかった。


 宮を出る。人が集まる音がする。煩わしいと、清苑は足を禁苑の奥へと向けた。血にぐしょりと濡れた服を引き摺り、剣を其処らに放り出す。奥へ奥へと歩を進める。もう誰にも会いたくない。静かな夜を生きたい。動かない日々を生きたかった。危険から程遠く、辛うじて安寧と言える日常を求めていた。だから父も母も親族も家臣も、自分を除く全てを謀ったのに。
(愚図め…)
 兇手の侵入に気付かなかった愚か者。灯りに安穏として群がるなど、羽虫にも劣る。影は闇にこそ紛れる。何故それを分からない。兇手が態々日の下に現れてくれるとでも思ったのか。此処に居ると大袈裟に音を立ててくれるとでも思ったのか。
 清苑は最初から賊が忍び込んだ事に気付いていた。そしてぎりぎりまで待った。己の母の寝所まで来なければ見過ごす心算だった。そうでなければ剣を翳すことはなかった。それまでの無害な(ぎたい)を破ることは決してなかった。
(……馬鹿なことを)
 鞘から、刀身を抜いてしまった。それはこれ迄の自分の在り方に反するのと同義で、そしてもう二度と収める事は適わない事を意味した。傍観者でいた筈の、無関係でいられた筈の自分が、争乱に巻き込まれる。忌避していた。肩書きと共に生きるだけで死と隣り合わせを強いられる此処で、穏やかに過ごす為に清苑は持ちうる才全てをひた隠しにしてきた。
 思った通り、彼は〈ない者〉として扱われた。それで良い。それで良かった。排除され蔑まれようと、それでこの王宮で無事に生きていられれば、それで彼の目論見は達成できたと言って良い。
(だと言うのに…)
 旨くいかない、と心の裡に零す。まさか、今になって母が狙われるとは。兇手は真っ直ぐ彼女の宮を目指していた。行き先を間違えて、等と言う事はないだろう。確実に誰かが彼女を殺そうと差し向けたのだ。若しくは自分を炙り出す為か。気付かれたのか? 一体何時、誰に…――。
 考え考えの逍遥は、そこで途切れた。清苑の歩みを阻む者がいたからだ。霄、だった。
「…清苑様」
 闇に紛れて立つ翁の、何処か疲れた声音と表情に、清苑は音を出さず喉で笑った。口元は冷笑に彩られた。今此処で、彼に会うか。
(動き始めたのか…)
 思えば、口端に浮かべられた憫笑は消え失せた。全きを期していた。その心算で居た自分は、知らぬ間に誰の手に落ちたのだろう。…何れにせよ停滞していた全てが軒並み動き出した。止められない。明日から、等と悠長な事は言っていられないだろう。剣に手をかけた瞬間から、自分はただ名ばかりの紫清苑から王位継承権を持つ紫清苑へと認識を改められた。これから自分を見る目は掌を返すように変わる。それは畏怖か、憎悪か、期待か。どれにしても、まったく望んでやしなかったのに。
「霄太師」
 佇む霄は呼び掛けに気怠げな視線を遣るだけで応えた。清苑は一度目を伏せたかと思うとまた開き、そうして霄を凝と見て。
「私は待ってなどいなかった」
 それは嘗て霄が問うたものの答えだった。返されるとは思わなかった。況ましてや、今、この時に。驚きのまま清苑様と名を紡ごうとした霄は、けれど清苑がまたその桜唇を微かに開いたのを見て押し黙る。耳を澄ませば。
「何も、この日も……永劫、来なければ良かったのに…」
 言って、彼は笑った。悲しげではなかった。後悔の色も見えなかった。それは余りにも穏やかだった。穏やかで、静かで、ほんの少し、淋しげな。霄は清苑を呼んだ。唇だけが名をなぞった。声は終ぞ出なかった。その霄から清苑は視線を外して零す。
「攻撃は最大の防御、か。…成る程、その通りのようだ」
 頷きは緩やかに、返されて視線は月へ。その横顔は、全てを拒絶するように美しい。
「……これから、如何なさいますか」
 問う霄。聞く清苑。沈黙は、僅か。
「玉座を、獲りに行く」
 静かな宣誓は彼が生まれた日と同じ昊の下で孵った。夜の切れ端が散逸する、太陽が目覚めたばかりの。薄く輝く、朝焼けの中で。


20111013-20120824
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