卯の花(一)

[ 禁苑の澪標(みおつくし) ]

 闇の連続が止まらない。
 終わりのない夜がずっと続いていた。
 その中で子どもは立ち尽くす。
 自分が其処に居る意味も理由も知らないままに。
 受け入れる事も、拒んで。
 小さな貝殻のような唇が何かを呼ぶように動いても、声は何処にも届かず反響すらしない。
 その事に、子どもが気付いた風はない。
 無心に何かを、誰かを呼び続けて、しかし得られない返答に終ぞ唇を咬んだ。
 瞳には涙が浮かぶ。
 それでも、その唇を解き涙を奪ってくれる誰かは現れず。
 夜が続いていた。
 闇が覆っていた。
『    』
 呟かれた名に。
 返る声はない。


  寒空の哀史


 移ろう事を急かすように、若しくは呼び止めるように、風が一陣吹いた。
 清苑はそれを背に受けて振り返る。その先には何もない。ただ木々が心許なく揺れ、色を失った葉が淋しく地面に身を横たえる様が見えただけ。望むものもなければ、清苑が願うものもない。僅かに目を伏せれば、睫が影を作って顔を暗くする。
(……そろそろだ)
 心の内に呟けば、応えるように風が鳴る。
(終わるのは夢)
 冷たさを背後に隠した風が、清苑の首筋を撫でた。
(ならば始まるのは……)
 清苑はただ、昊を見上げた。
(  )
 それは冬が始まった日の事。そして、最後の日の事だった。


 目を覚ましたのは朝も遅くの事だった。何故、と考えて、劉輝は身を起こして暫し頭を悩ませた。けれど理由が全く分からない。
 首を傾げて眼に入った窓へと近付く。季節はもう既に秋を超え、冬の差し掛かりに来ていた。段々色を失っていく外の景色に少しだけ哀しくなり、劉輝は僅かに瞳を潤ませた。
(…なくなっていく)
 呟きは心の中に零れて、そして溢れていった。命を落とす訳でなく、ただ冬を乗り切る為の自衛の手段だと分かって尚、劉輝にとって色をなくしていく様はただ淋しくその瞳に映っていた。劉輝にとってその感覚、その状態は、余りにも己の身に近すぎたから。
(存在が、どんどんなくなって…)
 疎まれた子。愛される事を知らず、己の存在に疑問を持つ程黙殺された。偶に相手にされる時は常に暴力と抱擁を交わす事と等しくて、覚えている限り、彼の母親の瞳は何時だって憎悪の炎で燃えていた。真正面から見るのが辛い程、それは激しく。
(……あぁだから)
 きゅう、と劉輝の胸が小さく痛んだ。と同時に、見詰める先の木の枝から、また一つ風に攫われて葉が散って。
(思ったんだ…)
 散るまで保たないと。己の心はそれ程強くはないから。それならいっそ。
(自ら散ってしまえば良いと、…思ったんだ)
 静かなその決意は、けれど実行されるには至らなかった。その経緯を思い出し、劉輝の口元に微笑が広がった。淡く淡く、ただ、幸せそうに。
(兄上)
 誰にも言っていない宝物の名を呟くように劉輝は呼び、その名に身を寄せるように瞳を閉じた。
(春が終わり、青葉が萌える頃に泣く私を見付けてくださった)
 奇跡だったと思う。何故あの場所に清苑が居たかを劉輝が知るのはその暫く後だが、偶然にも出会い、少しではあるものの言葉を交わし、そしてその上で手を差し伸べてくれた事。その全てが、劉輝にとって人生を変える程の転機だった。あの出来事がなければ、恐らく今、此処に劉輝は居ない。
(清苑、兄上)
 劉輝にとって五人いる内の二番目の兄。けれど唯一の兄と言っても、過言ではなかった。劉輝は母から愛を与えられず、それと同じように、半分だけ同じ血の通う兄達からも好意とは真に反対の感情しかぶつけられなかった。生まれてからそうだった。これからもそうなのだと思っていた。
(兄上は、その未来を変えてくださった)
 清苑はそんな事など知らないだろう。知らなくて良い。態々言おうとも思わない。劉輝が抱くこの感激とも感謝ともつかない心持ちを理解して欲しい訳ではない。劉輝が願う事はただ一つ。たった、一つだけ。
(どうかどうか、このままで)
 劉輝に詳しい事は分からない。国政がどうだとか、勉強の意義とか、公子が六人居る意味だとか。それが恐らく清苑を煩わせているのだろうと薄々感じながら、劉輝は清苑がそれらを知らないままで良いと言うその言葉だけを享受して、自分と居る時には優しく笑ってくれる兄と共に居る時間が永遠に続けば良いのにと、そう願っていた。
(何度季節が巡っても、兄上が傍に居てくださればそれで)
 ならば冬を淋しく思う暇などないだろう。雪の美しさに感嘆し、落ち葉は春に向けての下準備、木枯らしの音を季節の移ろいの証だと思えるかもしれない。そうなれば良い。いやきっと、そうなるから。
(あぁ、兄上に、会いたい)
 冬を想い、窓の外を見て哀しく軋んだ心。思い出して、劉輝はそれらを和らげてくれる兄の元へと思い立つ。さぁ行こうと窓に背を向けた、その瞬間。
 野分が窓を殴打した。
 壊されるのではないかと思う程の暴風。辛うじて木に身を寄せていた茶色の葉が無理矢理命を絶たれ、その突風に流されていく。荒れ狂うそれに、力の弱まった木々達は抗う術を持たない。
(……ざわざわ、する)
 劉輝はそれを見て顔を歪めた。痛みとはまた違う感覚。寂しさと空虚が混じったような不思議なそれは、劉輝を戸惑わせて迷わせる。
(何だろう)
 何が其処まで自分の心を掻き乱すのか。分からなくて立ち竦む。けれどそれも、風が弱まれば徐に消え。
(……兄上に、会おう)
 再度呟いて、劉輝は窓に背を向けた。振り返らずに扉へと向かう。まだ小さな手が握り拳を作り、顔が強張っていた事。そして先程の疾風に夢の断片が頭の片隅に浮かんだ事。それらを綺麗に見逃して。劉輝は室から出て行った。
  パタリ
 扉が閉じた。風が、止んだ。


 外に出れば世界中が動きを止めたかのように静かで、劉輝は不安を覚えながら数歩頼りなげに足を運んだ。と、不意に気付く。庭院に一人、見知らぬ男が立っていた。
 劉輝は首を傾げ、彼を見付けた瞬間に足をつけたその場で立ったまま動かなくなった。知らない奴には近付くなと言う清苑の教えをきっちり守ったのだ。
 男は劉輝をじっと見詰めて数瞬、不意に表情を和らげた。厳格な顔が、少しばかり親しみやすくなった。
「紫劉輝様でいらっしゃいますか」
 元来人に対し警戒心というものを抱かない劉輝は、その優しげな顔と自分を知っているという二点で、あっさりとその場を動くと男に近付きにこりと笑った。
「はい。初めまして、私が彩雲国国王が第六公子、紫劉輝と申します」
 そう挨拶をすれば、その男は何処かの省の長官で、旺季と言うのだと教えてくれた。確かその役職は清苑から聞いた事があったような気がしたから、劉輝はただよろしくお願いしますと当たり障りのない事を言って自己紹介を締め括った。
「それで、あの、何かご用でしょうか」
 しかし良く良く考えてみれば、役人と言われるような人間と会った事は今までになく、劉輝は突然の旺季の登場にどう対処して良いのか全く分からなかった。兄が居ればとても心強いのだが、その兄は今此処に居ない。だから困ったようにそう問うしかなくて。けれど旺季は気に障った風もなく、あっさりと答えた。
「清苑様が今日此方にいらっしゃると聞いて伺ったのですが」
「清苑兄上が、ですか」
「えぇ」
 今日兄が此処に来ると、一体誰から聞いたのだろう。一切の躊躇なく言い切った旺季に、劉輝はふと疑問に思う。
 劉輝は兄が此処に来る事は別段隠している訳ではないし、清苑も隠している風はないが、それでも彼等の関係は秘密と言えるもので、大っぴらに触れ回っている訳ではない。誰がそんな事を知っているのだろう。劉輝ですら、何時兄が来るかなんて知りもしないのに。
 兄が誰かに言ったのだろうか。それが旺季に伝わったのだろうか。ならばその誰かとは誰か。
 それはとても大事な疑問だと思うのに、最終的には何が何だか分からなくなって、劉輝は考えるのを止め曖昧に微笑んで旺季へ言葉を返した。
「え、えぇ。何れいらっしゃると思います」
 多分、という言葉は心の中で付け足した。旺季は表面上は何ら疑問を抱いた感じは見せず、ならばいらっしゃる迄待ちましょうと言った。
「お待ちになるのですか? お忙しいのでは…」
 何時来るか分からない兄を、もしかしたら来ないかも知れない兄を待つのかと、劉輝は驚いた顔で旺季を見たが、当の旺季は平然として頷いた。
「長官と言っても仕事がなければ暇なのです。今日の私の仕事は、清苑様にお会いする事ですから」
「兄上に?」
「えぇ。大事な用件でお話をさせて頂こうと思いまして」
 兄が優秀である事を知っている劉輝は、それが清苑の重要な仕事についての話なのだと解釈した。長官という職業を詳しくは知らないが、それでも長と言うのだから偉いのだろう。そんな人が清苑に直に会いに来る。それだけ凄いお話なのだと、劉輝は自分の事のように喜んだ。更に旺季は言葉を続けて。
「その間、私が劉輝様のお相手をお務めいたしましょう」
「相手?」
「つまり、劉輝様のなさりたい事を、この旺季も一緒にさせて頂くと言う事です」
 聞いて、劉輝の唇が戦慄いた。辛うじて噛み締めて、笑む。初めてだった。兄以外の人が、自分と一緒に遊んでくれると言う。嬉しかった。嬉しかった。だからただ純粋に、劉輝は奇跡と呼ぶに差し支えないその言葉を信じた。


 話をした。劉輝が話して、旺季が聞いて。その役割分担は明確で、だからこそそれは会話とは到底呼べない代物だった。それでも旺季は不満を漏らさず聞いてくれたから、劉輝は安心して言葉を紡いでいった。その大半は劉輝の自慢の兄の事で、とても優しい事、何も知らぬ自分に一から学を教えてくれた事、宝剣である莫邪をくれた事、何時も守ってくれてる事、兄のお陰で自分が生きている事。そんな事を、劉輝は一生懸命話した。誰かに知っていて欲しかった。自分の存在は、清苑の存在なくしては確立しないのだと。
「兄上は、私が王宮で生きる為の目印なのです」
 劉輝が宮から出て目指す場所。其処には何時だって彼の姿が在る。この冷たい王宮の中、安らぎと優しさと温もりを与えてくれた人。多分生まれて初めて、何の利潤も考えず、劉輝を愛してくれた人。
(―――清苑兄上)
 まだ幼く語彙の少ない劉輝では、ただ綺麗だとしか形容出来ないのが悔しい程の容姿。一見冷たい双眸は、けれど笑えば優しさが灯り、ひんやりとした双手は体温の高い劉輝にはとても心地良かった。何より、夜の昊の静けさと朝の陽だまりの温かさを持つ声が、大好きで。
「兄上が居てくれるからこそ…私は今此処に居る」
 兄の傍に居れば、自分が存在している事を信じられた。兄と共に遊べば、何かで傷を作っても笑っていられた。兄と一緒に居られれば、ただそれだけで良い。
「…劉輝様は、清苑様がお好きですか」
 旺季は静かに問うた。劉輝は唇を開く。そして零される言葉を、劉輝は一つしか知らない。
「大好きです」
 劉輝の世界、それは真実彼から始まった。泣く事と寂しさを抱える事しか知らなかった少年は、今ではそれを過去のものとして静観できる程成長した。あの頃の自分はもう居ない。今の自分には願いがある。掛け替えのない存在が居る。それらを手放したくないと、生きる覚悟も出来ている。
「清苑様もきっと、劉輝様をとても大切に思われているでしょう」
 旺季の言葉に、劉輝は素直に笑んだ。そうであったら良いと思う。ずっとずっと、そうであったなら。でも何故か、そう言って眼を細めた旺季が哀しそうで。それでも。
「…さぁ、何をいたしましょうか、劉輝様」
 何でもない振りをして、旺季がそう言うから。劉輝は聞きたい言葉を呑み込んだ。ぎこちなく笑って、したい事を挙げ連ねていく。そうすれば、旺季がその一つ一つに生真面目に頷くから、その様子が何だか可笑しくて。劉輝の口元に自然と笑みが浮かぶ。それは鈴蘭の絵を描けば深まり、旺季がお手玉の数を増やしていく頃には笑声へと変わった。それを遮ったのは。
「旺長官!?
 聞こえた声に、劉輝は直ぐさま振り返る。清苑が其処に立っていた。劉輝は顔を輝かせて笑みを刻み、兄上と呼びながら近付こうかと思って、けれど、止めた。清苑は劉輝を見ては居なかった。劉輝の傍らに居る、旺季を凝と見ていて。
(兄上…?)
 それは何時かの、清苑が花を簪の如く髪に挿していた時見せた表情に似ていると気が付いた。ぴきり、と何かが毀れる音を聞いた気がした。風の音だと、劉輝は思い込もうとした。


(…今日、か)
 清苑は旺季を一瞬見て思った。覚悟していたからなのか、その実感はあまりない。次に手に掴むものを見た。干將は既にこの手にない。旺季に渡してしまった。今手にしているのは、剣の代わりに弟だった。
(重いな…)
 剣を重いと思った事などなかった。人の命を奪う道具にしては、あれは残酷な程軽すぎる。あぁだから、重いのだろうか。この子は。この小さな、命は。
「遊んでもらってよかったな」
 無垢な顔で笑う劉輝は何も知らない。当たり前だ。何も言っては居ない。教えては居ないのだ。
(何も…何も)
 それで良かったのか。今更悔いても遅いというのに、そんな事を思った。自分は余りにも劉輝に教えずに来た。知らなくて良いと嘯いた。それは確かに、劉輝の為なのだけれど。
「劉輝、これから冬は寒くなるから、風邪を引かないように――…」
 こんな事、本来ならば母親が気にすべき事で、小さな子に言い聞かせるものではない。なのにこの子にはもう母は居ない。居たとしても、劉輝を気に掛けたとは思えない。それでも他の者が居たのなら良かったのに。誰も居ない。居なくなる。
(唯一会いに来ていた、私も)
 その言葉で、一気に数瞬先にある別れが現実になるのだと実感した。この重みを手放さねばならぬのだと悟った。だから、思わず言ってしまったのだろうか。
「今日でさよならだよ、劉輝」
 …言うつもりなど、欠片もなかった。これも劉輝が知らなくて良い事だった。なのに、零れて、しまった。それは静閑とした空間に波及した。その沈黙を破ったのは、弟の無邪気な、声。
「……また、そうやって兄上は嘘を吐かれる…」
 騙されません!、と唇を尖らせて言う幼い弟。そして。
「劉輝も成長するのです」
 胸を張った、愛おしい、子。清苑は笑った。子どものように、笑った。泣きたくなる程、この子どもが愛しいと思った。
「ふふ、分かってしまったか?」
 悪戯を見破られたかのように言い、榛色の髪をそっと撫でてやれば、やっぱり、と劉輝は嬉しそうに笑った。
「清苑兄上の事なら、劉輝は何でも分かるのです!」
 得意げにそう言う弟を、兄は優しく抱き締めた。それに出会えた感謝と別れを惜しむ気持ちが込められた事に、劉輝はずっと気付かないまま生きるだろう。それで良い。それで。
「清苑様、そろそろお時間です」
 一瞬の無音を縫って挟まれた刻を区切る声。逆らわず清苑はそっと劉輝を離す。劉輝は最初に出会った時とは違い、笑って清苑を見上げた。
「行ってらっしゃいませ、兄上。おつとめ頑張ってきてください」
 そう言って千切れんばかりに手を振るから、清苑も劉輝に振り返す。それを見てにっこりと笑い、とてとてと走り去っていく小さな背中を、清苑は静かに見詰めていた。胸にある、少しの寂寥と微かな痛みの存在を、確かに感じながら。
(…振り向けば良いと思うのは、きっと罪だ。けれどもし、あの子が振り返ってまた、笑ってくれれば…)
 思うものの、それは当然聞き入れられる事はなく、劉輝は清苑に背を向けたまま自身が住む宮へと姿を消した。見届けて、清苑は小さく、嘲笑った。
(―――嘘だ、そんなの)
 喩え振り返ったとしても、もうそれをしない事など選択出来ない。そんな選択肢はもう疾うの昔に切り捨てたのだ。そう考えながら。
(…もし、振り返ってくれたのなら)
 思って、しまう。
(今度こそ優しい嘘をあげるから)
 こんな時こそ、痛む心を無視しなければならないのに。思い通りにいかない。痛みはただ其処に在り続けて。
(…ねぇ、劉輝)
 心の呼び掛けに応えるのは、冷たい風の波。揺れる梢の音。冬の、啼き声。
(劉輝…)
 小さな弟の声も姿も、最早自分の五感では捉えられない。


「清苑様」
 旺季の呼び掛けに、宮を凝視していた清苑は些かの躊躇いもなく振り返った。心を切り替える。感情を捨てる。一呼吸前の出来事一切を忘却する。それは長年の癖で、反射のようなものだ。それに、覚悟など疾うに出来ていた。これは予定調和の中の一つの順路。ただそれだけだ。進む事に何の不満もない。進む先が地獄であっても、清苑は感傷も感慨も覚えない。
 そう思考しながら旺季に近付いた清苑は、ふと彼の顔を見て思い出す。それはそのまま清苑の口を突いて出た。
「勝敗は?」
 言われた言葉に、旺季が僅かに眉を顰める。その疑問の表れた顔に清苑は。
「以前私に賭けていると仰っていただろう?」
 だからこの場合、貴方は勝ったのか負けたのかを知りたくて。
 そう気丈に旺季に問うた清苑。凝と見詰めても、視線が揺れる事はなかった。それはまるで、自分の敗北が構築される過程を、もうずっと前から見ていたような静けさに似ていた。しかし、有り得ない、と旺季はその考えを振り払う。そして、答えた。
「貴方が知る必要のない事です」
 素っ気無く、それは空気を震わせて清苑へと届く。それに気分を害したような素振りを、清苑は一切見せなかった。その代わり、と言うように、小さく笑んで。
「そうか」
 笑みには歓びも哀しみも、何もない。伽藍堂(がらんどう)の微笑。それは凄艶にも勝る、幽艶な。
 旺季はさっと何かが肌を奔った感覚を得て、けれどそれを握った拳で遣り過ごす。清苑は気付いた風もなく泰然として其処に佇んでいた。けれど不意に、顔を逸らして蒼く広がる昊を見た。
「…………」
 その横顔には、もう何の表情も浮かばない。静かで、静か。ただ、それだけ。
(…何を、想う?)
 同じように昊を見る事なく清苑を見続ける旺季は彼にそう問いたくて、けれど打ち消すように一つだけ瞬きをした。仕方ない事だ。もう何も変わらない。だからきっと、清苑が何かを想う訳もないだろうと。苦笑が滲む程、言い聞かせた。
 そんな旺季を知ってか知らずにか、清苑は蒼穹を見上げながら、昊から最初に零れた雨音のような声で呟いた。
「…定め、という奴なのだろう」
 諦観と嘲弄。声に含有され混じり合ったそれらは、無表情と酷く相反していて不均衡。それを、旺季は静かに聞き、見守った。
「ならば私は、その天の配剤とやらに身を任せるか」
 天の配剤―――なんと貴方らしくない言葉か。旺季はそう思って、けれど言わずに心に仕舞った。代わりに苦笑に似た笑みを湛えて、そっと言葉を紡ぎ出す。
「……貴方は、王に相応しくなかった」
 分かっていた事だ。誰よりも賢く、誰よりも強い彼は、傍目から見ればきっと誰より王に相応しい公子に映っただろう。けれどそれは、あまりにも彼の内面を無視した評価だった。
「王位を継げば、貴方はきっと今の王のようになるでしょう」
 期待を裏切らない強さを纏いながら、弱さを晒せる人間を失い続ける。他人を自分を殺して殺して殺し尽くして。そしてそれこそが望んでいた事だと、嘘を、吐くのだろう。
「…そんな王はもう見飽きました」
 だからこれで良いのです、と旺季は言った。
「貴方に王になってもらっては困るのですよ。そんな王は、二度は要らない」
 泡沫の如く、淡く澄んだ拒絶の言葉。清苑は昊から旺季に視線を移す。感情を忘れた貌。けれど翡翠の瞳だけが、酷く優しく。
「済まない」
 迷惑を掛けた。それも、要らぬ迷惑を。
 言った清苑に、旺季は首を振ってその言葉を薙ぐ。
「これが、私の職務ですから」
 謀反など、言えばそこら中に転がっている石のように存在する。作られた偽よりも遥かに多く存在する真。けれど、王も旺季も、その中で清苑を選んだのだ。幾百の石から、たった一つの玉を。なのに。
「―――感謝する」
 そう、言われて。
「――――」
 旺季は動きを封じられた。視線だけが清苑の動きをなぞって伝える。清苑が、優美に微笑した事を。そして旺季の脇を通り過ぎる小さな子ども。もう何もかもを奪われる事が決まった至高の人。彼の人の去り行く後姿を見詰め、息を、吐く。言葉が、漏れた。
「貴方は何時から背を向けていたのですか」
 その言葉に、歩みが、止まった。二度と己の言葉など届かないかと思っただけに、旺季は不謹慎にも笑いそうになった。思わぬ所で得た真実に、どうして良いか、分からなくなりそうで。
「貴方は何時から…」
 それでももう、時間がない。恐らく最後だ。これを逃せば、もう。だから、旺季は。
「何時から、…決意していたのですか」
 詰るようだと、認めたくはない。それでも言葉に滲む感情はまさしくそれで。自分らしくないと舌打ちすら出来ず、そして歩みを止めた清苑もそれを揶揄する事なく、風が凪ぐように旺季へと振り返った。翡翠の瞳は、ただ、静か。
「…貴方の問いは、諸刃の剣だな」
 零された言葉。その意味を知るのはきっと、零した清苑と、零された旺季。その両者のみで。清苑はひっそりと笑った。旺季はくちりと唇を噛み締めた。それを見遣りながら、清苑は優しい声で言葉を織った。
「黙秘だ。貴方にそれを知る必要はないし、私がそれを言う必要もない」
 言って、いや、と清苑は己の言葉を打ち消した。
「必要と言うよりは、権利が、ない」
 それだけだよと。そう言って清苑は。
「…戯れ言だ。忘れろ」
 それ以上の言葉は要らないと、公子の顔を取り戻し、身を翻した。旺季の言葉を待たずに、今度こそ、振り返らずに。
 共に行く事が彼の職務であったけれど、そうするのは躊躇われた。凛と伸ばされた背中は何者をも拒絶していた。だからこそ旺季はその場に立ち尽くして。
 徐々に遠離る姿。呼べども、二度と彼は振り返るまい。二度と会う事もないだろう。会ったとしても、その彼は、恐らく。旺季はそれを知りながら。
「……はい」
 恭しく、深く深く礼をした。風が残った気配を攫うまで、ずっと。そして次に面を上げた時、其処には最初から誰も居なかったかのように静まりかえっていて。
(あぁ全く…)
 呟いて、清苑がそうしたように、旺季も昊を見上げた。冬の昊は寒々として、人間を拒むように凛として其処に在る。その中に紫を見付けて、旺季は零した。
「……貴方は熟々、甘いな」
 それは冬の風に似て、ひっそりと、淋しく。


 夢を見た。悪い夢だ。
『……兄上?』
 ねぇ。
『清苑兄上?』
 ねぇ。
『何処ですか?』
 あにうえ。
『何処、ですか?』
 せいえん、あにうえ。
『劉輝は、此処です』
 わたしはここにいます。
『劉輝は、此処、に…』
 わたし、は。
『―……兄上』
 ね、ぇ。
『嘘…でしょう…?』
 あにうえ。
『嘘だって、仰ったじゃないですか』
 せいえんあにうえ。
『うそ、だって…――』
 わたしの、あにうえ。
『―――…さよなら、なんて』
「うそ」


 夢を見た。怖い夢。暫く醒めそうもない、悪夢を。


20100506
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