紅紫(九)

[ 紅藍の大憂 ]

 春の陽気に似た暖かさに誘われて、黎深は室から庭院へと降り立った。
 ふわりと新芽の花や草の匂いが風と共に薫る。
 それに四季の流れを確かに感じながら、ふと足を止めて大きな池へと視線を遣った。
 其処にはまだ氷が張っていた。
 徐々に迫り来る春の訪いの故か、所々亀裂の入ったそれ。
 僅かでも重みを加えてやれば易く落ちるか、と黎深は徒に思う。
 しかし当然、思うだけで実行する気はさらさらない。
 そう。
 ただ、思っただけであったのに。
  ――――パ キ リ
 僅かな音。
 微かな、綻びの音。
 なのにそれは、その一瞬、全ての音に勝って黎深の耳に届いた。
 そして危なげに池の表面を覆っていた銀盤が、泉水(みず)に落ちる。
 静かに。
 緩やかに。
 水の中へと、姿を消して。
 透明なそれは、数瞬の内に見えなくなった。
 それは冬から春への移り変わりの様にも。
 何かの暗示にも、思えた。
(………嫌な、感じだ)
 黎深はその様子を凝と見たままそう思う。
 胸が騒めく。
 それが何かも分からぬまま、黎深は晴れた昊を見上げて。
「もう、春か」
 冬が終わった。
 最後の春が、始まろうとしていた。


  晴曇の臨界


 黎深の一日は、意外にものんびりしたものである。未だ出仕していなければ、紅家の家業に興味がある訳でもない。紅本家の子息であると言うだけで、別段重職にも就いていない。そしてこの年になるまでに身に付けるべき教養など疾うの昔に習得し終えていたならば、暇を持て余してもしょうがないというもの。更に言えば黎深には暇を共有するような友は居なかった。たった一人を除いては。しかしその友から連絡が来なくなって久しい。優に一ヶ月が過ぎていた。
「清苑め…」
 恨むような声を出して、黎深は視線だけは紙面を彷徨っていた書を乱暴に床へと放った。開いたは良いが内容など全く頭に入ってこなかった。そんな状態が、もう数週間程前から続いていた。
「また勝手にあの森へ行ってやろうか」
 苛立つ心のままそう零すが、即座に黎深はその考えを彼方へ放る。黎深の冷静な心がそれはならぬと戒めた。それを清苑はきっと喜ばない。一度目の違約も、咎めはしなかったものの、清苑が喜んだ筈はなかった。
 だからこそ清苑は黎深の存在を無いものとしたのだろう。黎深の存在に気付きながら、寝た振りなどしたのだろう…、と其処まで考える内に、黎深を纏う雰囲気が刺々しいものから憂えるものへと変わっていく。
(そうまでして、あいつは何の、…誰の目を欺こうとしているのか)
 黎深は思う。清苑の奇妙なまでの貴族への敬遠。自分の能力に酔っている訳ではない。己ならば誰ぞの力を借りなくとも、などと清苑が思っている事は決してない。清苑は賢い。しかしそれでもまだ、経験を積んだ官吏等と王として渡り合うに遜色ないとは言えないのだ。
 賢いが故に、清苑もそれは分かっている筈だ。清苑には経験が足りない。味方が足りない。今の状態では王になれはしても、王になってからの不安が残る。
 なのに清苑は黎深を求めない。紅家を手に入れようとはしない。藍家にしても同じ事。それは、自分の首を絞めているようなものなのに。
「……お前は、一体何を望んでいるんだ…」
 一度あの谷で清苑に問うた事を、黎深はそっと溜息を零すように吐いた。あの時返された答え。それは的確ではあったが、しかしその反面、漠然としすぎていた。
『―――――貴方が、私に望んでいる事を』
 黎深が清苑に望む事。それは、清苑の存在そのものだ。紫氏の有無、あらゆる事に秀でた天分、艶麗な容貌など一切関係なく、けれどそれを引っくるめた上での清苑という人間。愚かしさと優しさを持つ、ありのままの清苑を、黎深は望んでいた。
 だから清苑の望む事はありのままの黎深という事になる。紅家の柵の外に置いた存在としての黎深個人を、清苑は求めているのだと。それは嬉しい事だった。名ばかりを求める者が居る中で、そんな存在は稀少だった。偶然には手に入れ難い。ましてやそれが公子であるならば、更に。
(けれど…)
 そうして零された声は、思う事とは反対に苦痛の色を伴った。僅かに伏せられた瞳が、躊躇うように揺れる。
「……それだけでは、駄目だ」
 紅姓を排除した黎深では。
「それだけでは、―――足りない」
 黎深という存在は、それだけで価値あるものだった。紅家随一の天つ才。藍家の三つ子に優るとも劣らぬその天稟に、本来紅家など関係ない。
 しかしそれは学を基準に見た場合の価値だった。政を基準に見て考えれば、その才は家の格式に劣ってしまう。政治は頭脳だけで動いている訳ではない。属する家の権威がどれ程で、それをどれだけ操れるかで価値が決まる事もある。
 だから黎深は嘆くような声を出した。王を目指す清苑に必要なのは、明らかに後者の価値を持つ者だからだ。
「……清苑」
 嬉しいと思った。心から。清苑が黎深の望みを知る事。その望みを知った上で、清苑も同様に望んでくれた事を。けれどそれでは駄目なのだ。今のままでは黎深は清苑の力になれない、護れない。喩え何かがその身に降り懸かったとしても。黎深は傍に在れないから。
(あぁ、だから)
 書を手放した手を黎深は強く強く握りしめた。想いの、そして願いの強さと同じ位に。そうして吐かれた言葉は、黎深の願いを裏切るもの。
「………求めろ、清苑」
 ただの黎深ではなく、紅を冠する私を。紅家の権力の根幹に生き、育ってきた、この、紅黎深を。
(それが喩え私が願い、…お前が望むものでなくとも)
 必要な事なのだ。どうしても、願いを殺しても。そうでもしなければ黎深は清苑を護れない。王になる子ども。その傍に控えるには、護るには、この身は臣下でなくてはならないから。
(友で、居られずとも)
 それでも良い。仕様がないと、諦めるから。
「紅家を手に入れたいと、……願ってくれ…」
 血を吐くようなその言葉。そう伝えたい。伝えなければならないのに。清苑からの連絡は一向に来ないまま。此方から行く事もままならず、時が無為に過ぎる。焦りが募る。その間に、何かが動いていそうで。
「清苑」
 乞うように名を呼ぶ。それに応えるものは何一つない。風は何も言わず、何かの存在を感じる事もない。
 黎深は一人だった。焦燥を抱えたまま、一人だった。


 そんな陰鬱とした心を持て余している黎深に客が来たのは、その日の昼も過ぎた頃だった。黎深に客など滅多に無く、だから黎深は召使いから聞いた時は少しばかり驚いて、そしてその客人の名を聞いた瞬間、嫌悪に顔が歪んだ。しかし追い返せと怒気に塗れた言葉を吐こうとした時には、既に遅く。
「久しぶりだな、黎深」
 その声は一つきり。しかし室の主に断りもなく連なって室に入ってきた客は、三人居た。同じ顔に同じ笑みを浮かべ同じような姿をした三人の人間。その姿を捉えた黎深の顔が更に忌々しげに歪む。それを平然と受けたのは、藍家の三つ子だった。
「………何の用だ」
 獣が唸るかのような低い声。視線は彼等を見るのも嫌だという気持ちを如実に表すように背けられ、客に椅子を勧めもしない。三つ子はそれを黎深と同じように歪んだ笑みを浮かべながら見て、勝手知ったる、とでも言うように空いてる腰掛けに座ってゆく。黎深は見て見ぬ振りをした。それを、三つ子の一人が密やかに笑って指摘する。
「大人しいな、黎深。出て行けとでも言うかと思えば」
 言えるものなら既に言っている。黎深は馬鹿にするなとその一人を睨むかのように虚空を睥睨して口を開く。黙ったままで何も分かってないと取られるくらいなら、嫌でも口を開いて答えを言う方がまだ良い。嫌いな者に蔑まれる事ほど、腹立たしい事はなかった。
「兄上が許可したのなら私が口を挟む事じゃない」
 藍家の者が紅家の敷地内に。有り得ない事ではない。それを禁止する規則はないのだから。だが前例などなかった。紅家と藍家はその家の性質故に競い合う事が多い。敵とも言える家に、誰が行こうと思えるか。例外は藍家に赴いた事のある邵可くらいなもの。なら当然歓迎される訳もなく、来ても門前払いされるのが落ちだ。
 それでも黎深の自室まで来たという事は、誰かが許可したからに外ならない。藍家の三つ子を家に入れようとする者と入れられる者を考えれば、兄の邵可しか居ないのは直ぐに分かる事だ。そして黎深に邵可の意向に沿わぬ事をする気はなかった。喩えそれがどれ程気に入らない相手を迎える事であっても。
「お前のそう言う所は、可愛げがあるんだけどね」
 そう評したまた別の三つ子の一人の言に眉を思いっきり顰めるだけで黎深は返事をし、黙ったまま促すでもなく言葉を待った。大人しく、ただ、静かに。
 何となく気付いていたからだ。三つ子の様子の微かな強張り。此処へ来なければならない理由。三つ子と、そして黎深が会って話をしなくてはならない事柄。若しくは―――人の、事を。
「…邵可様から、何か聞いてるか」
 僅かな無言の時を経て、三つ子の一人がそう小さく聞いた。その何かが誰に関する事かを正しく理解した上で、黎深は首を横に振る。邵可は滅多な事では仕事に関して口を開かない。だから黎深には今宮城がどのような状態かも、『影』から伝え聞くくらいの情報しかない。
 その返答に「そうか」と何処か嘆息混じりの言葉を吐いた三つ子。そして次に零された言葉は。
「藍家は、手を引く」
 『影』からの情報に、なかった、もの。
「――――」
 それは、つまり。
「……清苑を…選ばぬと…?」
 逸らしていた視線が、自然と三つ子に向いた。動かぬ彼等の冴え冴えとした貌にその言葉が正しい事を知る。瞠目した黎深の呼気が、微かに震えた。それが歓喜である筈がない。ある筈が、なかった。
「―――何故だ!」
 鋭い声が飛ぶ。その声に、そして視線に、苛立ちが籠もる。焦りが滲む。睨み付ける黎深の瞳は、嘗て無い程に、厳しい。
「何故、今になって…!!
 宮廷では様々の思惑が動いている。それは常にある事。だが第六妾妃が身罷ってからその動きは段々と顕著になりつつあった。何かを支える為に張り巡らせてあった弦が、一本一本切られていくような感覚。宮城に居ない黎深でさえもそう感じるのだ。参内している三つ子ならば黎深以上にひしひしと感じ取っているだろう。
 そんな今、下手に動く訳にはいかない。紅藍両家のその一挙手一投足は、必ずこれから先に影響する。それは清苑にとって有利にも、そして不利にも成り得るのだ。だからこそ黎深は動こうにも動けないし、三つ子等は清苑の傍を離れてはいけない状態だった。なのに、何故。
(それは、清苑を見捨てた事と同義だ)
 何と言う事を、と黎深は心の中で悲鳴に似た声を上げた。あってはならなかった事だ。藍家が清苑を選ばないなど。考えた事すらなかったのに。
(何がそうさせた)
 気に食わない藍家の三つ子。その彼等の執着を知っていた。自分と同じように、清苑を求めた事を。だって黎深は知っていた。
(此奴等も、私と、同じだった)
 同じなのだ、三つ子と黎深は。清苑と黎深が似ているように。三つ子と清苑が似ているように。
 なのに黎深が清苑を求めたように三つ子と手を取り合わなかったのは、彼等の場合、似ているなんてものではなかったからだ。その身に宿した才も、思考も、孤独も、そして優しさを持たぬ所も。瓜二つだった。真に同じだった。
 だから彼等は嫌悪し合った。優しさという一点のみ異なる清苑を求めた。当然それを許容した訳ではない。それでもそれについて黙っていたのは、清苑に必要な人脈であったからだった。
(なのに何故、こうなる…!)
 言葉でなく視線で三つ子を責める黎深に、三つ子はそっと言葉を零した。
「…清苑が、決めた事」
 ぽつり、と零された声。それは冬の昊に清澄と閃く月に似て、静か。
「清苑が、我等に求めた事だ」
 もう会わぬ、我等を従えぬと…。
 憤る黎深とは反対に、三つ子は何処までも落ち着いていた。心までは分からない。それでも表面上は落ち着き払っていて、声にもそれ以上の感情が交じる事はなかった。ただ平淡としていて、それ故に何処か哀しい。
「だからと言って…!」
 そう感じながらも、黎深は燻る怒りに任せて言葉を紡ごうとした。それを止めたのは、三つ子の静かな笑みだった。
「…お前には、分からぬだろうよ」
 その笑みに滲む想いは、深い深い哀しみと、そして言いしれぬ口惜しさ。
「……我等は、選ばれなかった」
 そんな想いを持ちながら、それでも笑わずには居られない。
「目を掛けたのは、傍に居たいと思ったのは、絶対にお前よりも先だったのに」
 笑わなければ、何かを堪える事が出来なかった。
「彼は我等に会おうとすらしてくださらなかった」
 笑わなければ、きっと三つ子は黎深に対して心の裡を残らず吐いただろう。
「……なぁ、黎深」
 けれど責めるべきは黎深ではないと分かっているから。本当なら清苑に言うべきだと分かっているから。三つ子は、だから笑むしかない。そうして心の裡を隠すしか。しかし最後に。
「お前が当然と受け止めていた逢瀬は、我等にはなかったんだよ」
 恨み言のように、零してしまった。悔やもうにももう遅い。黎深は一瞬口を開きかけて、直ぐに閉ざした。その紅い唇は、噛み締められて白くなった。


 外に出る。日差しは暖かく、風は優しい。それを身に受けて、三つ子の内の一人が言う。
「さぁ、どうなるかな」
 笑みを浮かべて言うものの、その微笑にはまだひっそりとした哀しみがある。それを知りながら、誰も指摘する事はない。指摘する事はつまり、己の心情を言い当てる事に等しい。それは今、少しだけ酷な事だった。
「取り敢えず、黎深はこれで動かざるを得まい」
「藍家が手を引くとあってはな」
 その事に何故だと叫んだ紅家の麒麟児。対極の三つ子と同じで、片割れの紫の彼に似た黎深。苛立ちと微かな絶望を垣間見せた黎深に、幾許かの同情が胸に沸く。
「…少し、口が過ぎたか」
 三つ子の一人、雪がぽつりとそう零す。言うつもりなどなかった。本当に。黎深に、確かに非はないのだから。
(……悪いな、黎深)
 それでも。それくらいに。
(―――我等は彼を喪いたくはなかったんだよ)
 まだ諦めきれなかった。清苑の心を知って尚、まだその心を変えられるものなら変えたいと願った。しかし清苑の決意が固い事も分かっている。このように黎深を嗾けた所で、どうにかなるとは思えない。だから、そう。これはただの悪足掻きだ。諦めの悪い、子どものような。
(これは一体誰の為になるだろう)
 清苑が描く未来を変えたい自分達の為か。それとも、独りきりになってしまう清苑の為になるだろうか。
(あぁ若しくは、黎深の、為か)
 誰の為にもならないのなら、いっその事それでも良い。それに案外それが正しいのかもしれない。態々紅家に出向いた理由は、ただ黎深が哀れだったのかもと今になって思う。
 黎深と三つ子では清苑を見てきた年数が、傍に居た年数が明らかに違った。三つ子には分かる事も黎深には分からない。それが余りにも哀れだと、そう思って余計な世話を焼きに来たのかもしれない。けれどその根底には彼への想いがある事を、三つ子は痛い程知っていた。
(…清苑)
 許せ、と言った彼。雪、と呼んでくれた彼。思い出して、雪は薄らと祈るように瞳を閉じる。
(……あれを最後にしたくない)
 我が儘だと分かってる。変えられないだろう事も、…分かっている。それでも、だ。
(貴方を独りきりに、させたくない)
 それは余りにも寂しすぎるではないか。貴方が何故誰の手も取らないのかを知っている私達にとって、貴方の姿は余りにも寂しく、痛々しい。そんな貴方をどうして独りきりにしておける。私達を選ばぬと言うのならそれでも良い。黎深でも、構わないから。
(悪足掻きだってしてみせる…少しでも、可能性があるのなら)
 だから――…、と心に何かを零そうとした雪は、ふと昊を見上げた。その頬に、一粒の雫が落ちてくる。
「…春雨、か」
 何時の間にか昊は僅かに曇り、太陽を隠していた。なのに零れる雨粒が暖かく、だから動く気になれなくて。じっと佇んで雨を受ける。じわじわと藍の衣が色を深める。暗く暗く、変わっていく。
(まるで誰ぞの心のようだな)
 それが自分なのか他の二人なのか、それとも黎深なのか、彼なのか。決めず雪は微かに笑む。そう考える自分が、何だか可笑しくて。
「帰ろう」
 他の二人に声を掛けて歩き出す。雨が僅かに強くなる。それでもゆっくりと三人は歩いた。振り返らず、もう二度と立ち止まらずに。
「………」
 その後ろ姿を黎深は室の中から見ていた。彼等の姿が消えるまでを見送って、細く吐き出した溜息は誰にも聞かれる事なく空気に紛れて消えた。それを丁度狙ったかのように。
『…黎深様』
 静々とした召使いの声を扉越しに聞いた。直感で、黎深はもたらされたものが何であるかを悟った。言葉もなく乱暴に扉を開き、突然の事に驚愕する召使いの持つ書翰を奪い取る。
「―――――」
 果たしてそれは、ずっと待ちわびていた清苑からの連絡だった。


20100125
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