紅紫(六)

[ 白眉の正鵠 ]

 蒼天を背に、雪白の鳥が優雅に飛ぶ。
 その軌跡を眺めながら、ふと、考えた。
(あとどれくらい、あの鳥は飛べるだろう)
 寿命でなく。
 体力的に、精神的に。
(あの鳥は、あとどれくらい、昊に在れるのだろう)
 そう考える傍ら。
 ずっと飛んでいて欲しいと願ってしまうのは。
 何故なのだろう。
(あぁ、なのに)
 何時か何時か何時か。
 地に堕ちてしまうだろうと思ってしまうのは。
 何故、なのだろう。


  淋漓(りんり)の瀑布


 月もなく星もなく、その日は真実、闇に埋もれそうな寂寞の夜だった。けれど街では変わらず光に満ちた屋店や妓楼が盛り上がりを見せていたし、住宅地でもぽつりぽつりと家の灯火が洩れ出ており、中からささやかな話し声やら笑い声やらが零れていた。
 其処から少し離れた所に、灯りは点いているものの活気などからは程遠い場所、宮城が今宵と同様の静けさで地に横たわっていた。
 その宮城の一室、府庫で、邵可は茶を飲み、黎深はぼんやりと昊を眺めていた。彼等に会話がない事は意外に珍しく、何より黎深が邵可の相手をしないというのはそれ以上に珍しかった。何かと邵可に構って欲しがる黎深は矢張り人の子で、そして弟だった。
 なのに今日はふとそれを止めてしまったかのように喋らない。そんな黎深の様子を心配したのか不審に思ったのか、邵可が何度目かの言葉を繰り返した。
「黎深、まだ帰らないのかい?」
 その言葉から暫くして黎深が久々に見せた反応は。
「………八回目」
「は?」
 速攻で疑問を表した邵可に、黎深はバッと下から睨み上げるように視線を遣って。
「兄上が私が此処に来てから帰れと言った回数です!」
 何だ、そういう事か、と邵可は若干どうでも良いその回数に安堵の溜息を吐いた。けれど黎深はそう思っていないのだろう、噛み付きはしなかったものの、不満げな顔をした。
「三回目までは気の所為かと思いましたが、五回目以降はちょっとした意地悪かと思いましたよ」
 八回言っても意地悪度的にちょっとなんだ、とか、四回目は何て思ったんだろう、とか思った邵可だが、それは伏せて誤魔化すように笑う。そんな邵可に黎深は僅かに心配そうな顔をした。何故そんな顔を、と問うより先に、黎深の口が開いて。
「…兄上、今日はどうしたんですか?」
「何が?」
 漠然とした問い。それに対する問い返しを、何時も通りに出来た筈だ。声の調子も、高さも、抑揚も。何もかも、普段通りだったのに。
「緊張、してませんか?」
 それは勘のようなものだった。邵可の感情の機微は酷く曖昧で、黎深でさえも明確には捉えられなかった。それでも今日の兄の様子が可笑しい事だけは、分かるから。
「何か気になる事でも?」
 真っ直ぐ邵可を見詰める黎深。その弟の視線を受け止めながら、邵可は笑った。兄に関しては盲目である筈の黎深がそんな事を言うのが可笑しくて。どうしようかと迷って。どうしてだろうと悩んで。何故分かったのだろうと、悔やんで。
(それを知る事は、黎深を酷く傷付けるのに)
 帰ってほしかった。その八の数字の中で。
(今日は、何が何でも)
 だから何度も言ったのに。けれどもうどうしたって黎深は帰らないだろう。全てを知るまで。全てを見るまで。全てを聞くまで。…だったら。
「……黎深」
 教える事が良い事かなんて分からない。
「はい」
 それでも。
「―――行こうか」
 何時かはきっと知る事だ。それが偶々今日であっただけの、話で。


 静まり返る外朝は、もう官吏がいない事を告げていた。黎深が邵可に会いに来たのは宵もとっくに過ぎた頃で、それから一刻以上もの時間を府庫で過ごしていれば当然時間は夜も半ばに差し掛かり、昊は墨を流したように暗かった。
 更に月影も星影もない今夜、足元は全く見えない。それでも灯りを持たず普段よりも早く歩けるのは、彼等が彼等であるが故に受けた教育の賜物だった。
「兄上、何処まで…」
 と聞きかけた黎深を、邵可が制する。
「静かに」
 夜と同じ色をした声に、黎深は邵可が自身の職務を全うしているのに気が付いて眉を顰めた。格好は何時もと変わらないが、今の邵可は紅邵可でなく黒狼として存在していた。その為に黎深の雰囲気に剣呑さが生じた事に気付いた邵可は、けれど何も言わず歩き続ける。
 邵可が風の狼に属したのは到底自分の意思からは程遠かったが、それでも選んだのは邵可自身。そしてその選択は強ち間違いではなかったと信じている。だから何度黎深を悲しませようと、その事実は欠片も変わらない。変えるつもりも、ない。
(我侭でごめんね)
 背後でむくれる黎深に、そっと心の中で呟いた。
(それでも、お前達を守りたかったんだよ)
 納得してはくれないだろう。黎深は兄上が辛い思いをするなら死んだ方がましだと言い切るだろうし、玖琅は何も言わず、ただ悲しそうにそう決断した兄を見るだけだろう。
 二人の弟は何故か、約束を破り、嘘ばかり吐き、意地悪な、そんなどうしようもない兄を好いてくれた。彼等が弟で幸せだったと、邵可は心の底から思う。
 そう感謝しながらも、邵可が風の狼を辞める事はなかった。辞めていたらきっと何かが変わっただろう。例えば、そう。
(今日は、来なかったかもしれない)
 そう自嘲した時、漸く邵可は足を止めた。黎深も続いて立ち止まる。そして。
「……兄上」
 その呼び掛けは、立ち止まった理由を問うものではなく、何かに気付いた為だ。邵可はその正体を知っていた。彼方から微かに聞こえる音を奏でる正体。其処に居る人間の正体。其処で何が行われているかの、正体を。
「兄上」
 再度の呼び掛け。何かの正体に気付き、震える声。それが怒りか驚きかは分からず。
「あいつは、何を、しているんですか?」
 邵可は卑怯にも、聞こえなかった振りをした。


 暗夜の中動く人間の数は、両手では足りない。一人と、そして後一人居れば足りるだろうと思われる数の人間を相手取るのは、たった一人の小さな人間。影としか形容しようのない兇手。子どもとしか形容できない人影。
 彼等が何をしているかなど、考えなくとも分かる。響く金属音は剣と暗器が交わる音。飛ぶ火花がその苛烈さを物語る。そして流れる血腥い臭い。鳴る草原は、果たして足が擦れているだけなのか。
(その、中で)
 倒れていく。一人一人また一人。操り人形が糸を切られて崩れ堕ちるように、火花で煌く剣が命の糸を断ち切って。
(お前は、何をしている)
 それが子どもの仕業だと知れるのは、まだ戦いが終わってないからだ。ただそれだけが、子どもの生存を知れる術。
(何を…)
 動きたかった。出来る事なら、彼処からあいつを引き摺り出して何をしてるんだと問い詰めたい。けれど動けなかった。その惨劇に臆した訳じゃない。その殺気に怯んだ訳じゃない。ただ其処にあいつがいる事が信じられなくて。夢を見ているようだと、そう、思えて。
(お前は…――)
 闇に熔け切らない白貌は、彼の人物が何者であるかを曝していた。けれど殺気に冷たく熱く光る翡翠の双玉は、黎深が見た事のないもので。
(―――……清苑)
 血を纏い重くなった御衣すら投げる事で武器にして、血塗れる事を恐れず、剣を振り翳し振り下ろす。その一閃の軌跡が漸く顔を出した月に照らされたのを見た瞬間。
「――――」
 黎深は。
「……兄上…」
 触れ合う程に近い兄の衣を引く。そしてちらりとも振り返らない邵可に、懇願した。
「止めてください」
 鳴る干戈(かんか)。散る飛炎。臥す敵勢。何よりも――――そうさせる、清苑、自身を。
「止めさせてください、兄上!」
 悲鳴のような黎深の声。邵可は小さく唇を噛む。あぁこういう時だ、と思うのだ。自分が、彼女と出会って変わったと感じるのは。
「……出来ないよ」
 そう答える事に、痛みが付き纏うなんて。嘗ての自分なら有り得なかった事だと自嘲する。
「何故ですか…!?」
 分からない。分からない。ねぇどうして――…。子どもみたいにそう尋ねる黎深に、邵可は相変わらず振り向かない。その代わり。
「…ねぇ、黎深」
 不思議に思った事はないかい?、と、邵可は小さい黎深に御伽噺を聞かせた時と同じ声で、滔々と語る。
「あの小さな子どもが人を殺す事に長けていると言う事を、君は不思議に思った事はないかい? 当然、公子は一流の師から武術を習う。それは確かに最終的には殺人の術へと変わる訳だけど、決して訓練で人を殺したりはしない。そんな機会は与えられない。そして技術はあっても経験がなければ、それはただ本を読んだ知識程度の価値しかない。ならば何故、あの公子は殺人に長けているのか。天性と努力で培った剣の技量もあるだろうけれど、結局は経験が豊富だからだ。では何故、彼は経験が豊富なのか、その解は?」
 邵可の意図をはかりきれないまま、黎深は直ぐさま答えようとした。
「それは―――」
 そして黎深は、愕然とした。答えは当然のように黎深の中に鎮座していて、けれどどうして、ならばどうして、―――今までちらりとも気付かなかったのだろう。
「……誰も、あいつを守らないから…」
 だから、自分で自分を守るしか、なくて……。
 その答えが、酷く奇妙である事に。
(……な、ぜ…?)
 そうだ。何故、何故兄は此処に居る。此処で、あいつが戦っているのを見物して居る。羽林軍の誰が守らなくとも、黒狼とも在ろう者が、何故、守らない。王の子どもを。王族を。公子を。
(最有力の、王位継承者を)
 それでなくとも殺されては困る筈だ。今の所、清苑を凌ぐ者が公子の中に居るとは到底思えない。そんな清苑が、もし死んだら。
(国は、どうなる)
 そんな想像は酷く容易く出来るのに。
(なのに)
 黎深の中に、絶望が生まれた。
(誰も―――守らなかったのか?)
 あの子どもを。あの小さな、十を少し過ぎただけの子どもが、あれ程までの剣術を身に付けるまで。血に濡れる事を躊躇わず、肉を断つ感触をその身に刻んで、死と隣り合わせの戦いを日常と思い込むまで。放って置いたのか。顔を、させて。
(何故…!?)
 黎深が呆然としている間にも、金属音、擦過音、殺傷音が響き、誰かが死んでいく。あぁ後少しかな、と邵可は考えながら口を開いた。
「そう、誰も守らないからだ―――守るなと、言われているからだよ」
「ッ、どうして…!」
 一瞬の、間。
「―――魅せ場なんだよ」
 不自然に冷静なその言葉と共に斬撃が人と空気を切る音がした。黎深は思わず邵可から目を話してそちらを見る。音の鳴った方向へ、彼の元へと視線を走らせて。その黎深の背に邵可が呟く。聞こえるか否かの、微量の声で。
「彼が、彼の価値を証明する為の、…ね」
 その言葉を理解するよりも先に、黎深はそっと息を吐いた。殺陣が終わった。立ったままの小さな影に勝者が清苑だと知る。ただその安堵と、けれど立ち竦んだままの清苑への不安が鬩ぎ合う。
(清苑)
 そう呼び掛けた瞬間、漸く厚い雲から全身を現した月の光に曝された、彼。俯いた顔にかかる髪が表情を悟らせない。けれどその惨状は、隠しようが、なくて。
(…赤、紅、―――…アカ)
 髪に、衣に、剣に。乾き始めたそれは、既に黒く変色しかかっていた。
「……清、苑…」
 その中で月夜の悲劇が終幕した。全てを殺し尽くし血を被った、小さな生存者一名を遺して。


 全てが終わった後、邵可は言った。
『受け入れなさい、黎深』
 静かに、静かに。
『あれが彼の世界だ。王家の世界だ。我々とは相容れぬものであるし、理解すべき事でもない』
 闇に紛れるその声で。
『気付いていたかい? あの場に私達だけでなく、他の家の『影』が居た事を』
 みんなが彼を見ていたんだ。彼がどう動き、どう考え、どう処理するか。
『王に相応しいかを、選定する為に』
 それは決して慣習ではないと邵可は言う。ただあの子が特別だっただけだと。殺戮の覇王の異名を持つ父を持ち、優秀すぎる頭脳を持ち、誇るに値する剣技を持つ彼は、ただただ例外的過ぎたのだと。
『彼は全てを理解し受け入れた上で、その世界に立っている』
 誰の助力も期待出来ない、孤独の世界に。
『それを受け入れられなければ、先刻の事は忘れなさい』
 そう言った邵可は、最後まで黎深を見なかった。それを黎深は責めなかった。清苑を助けなかった事も、責めなかった。それは真実に、邵可の所為ではなかったから。
(けれど……けれど、兄上)
 あの夜を受け入れられはしないだろう。忘れられもしない。振り払った剣から滴る血を。血の、剣の、軌跡を。そして。その一瞬に見た、清苑の。
(―――あの時の兄上と、同じ、顔)
 玉環を殺し、琵琶を爪弾いた時の、邵可と。だから黎深は止めたのだ。邵可に止めて欲しいと縋った。何かに絶望したようなあんな顔を、もう二度と見たくはなかったのに。
(それを、どうして忘れろと)
 それに…、と黎深は唇を噛む。見付けてしまった。昨夜の惨劇など欠片も感じさせずに在るその場で佇む、小さな人影を。そして。
「         」
 彼の姿を見付け、建物の陰に隠れた黎深の耳に届く、風に消されそうな歌声。彼が口遊み流れるその旋律の意味に、黎深は気付いてしまったから。
(これは―――……弔歌)
 虚空を見詰め、何かを、祈って。黎深の存在を知らずに。まるであの日の兄と同じように。清苑は歌い続ける。
(死んでいった者を、想う、歌を)
 闇の中で、そして顔も隠していた奴等。どんな生き方をし、どんな想いで武器を取り、どんな事を思って死んだのか。何と呼ばれていたのか。何も知らない、兇手の為に。
(……ねぇ、兄上)
 こいつは、こういう奴なんです。残忍になろうとして、なりきれない。殺して殺して殺し尽くして。でも決して、それに慣れる事はないんです。弟を守る為に毒を喰らい、自分を殺しに来た名も知らぬ誰かの為に手向けの歌を歌う。
(そんなお前が、どうして、血に塗れた世界に立っているのだろう)
 生まれた家が、生んだ親が、生まれ付きの才能が、そうさせるのだろうか。
(…………違うな)
 きっと理由は、そうじゃない。
(お前は、…――)
 耳を擽る歌。それを聴きながら、黎深は空気に溶かすような声で小さく呟く。
「……損な性格だな…清苑」
 そして目蓋をそっと閉じ、昨日の夜に似た暗闇の中で思う。
(お前は、優しすぎるから)
 昊に消える歌声は、まだ、止まない。


20090728
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